本当に正しく知りましょう。聖書と新天地
この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。
また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため
「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」と仰せられた
イエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたものです。
イエス様は、啓2-3章に七回も勝利しなさいと言われた。啓6章2節を見たところ、白い馬に乗った者が勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。また、啓12章を見たところ、太陽を着た女から生まれた子とその兄弟たちが竜の群れと戦って勝利した。この時から、神様の国と救いと力があるようになった。彼らは、命の限り竜の群れと戦い、イエス様の血と証しする言葉で勝利した。この勝利者たちがいる所が、啓15章の証しの幕屋聖殿であり、神様は、勝利者たちと共におられる。それゆえ、万国がここに来て伏し拝むと言った(啓15:2-5参考)。
啓1章1,2,3節を見たところ、神様とイエス様は、すぐに起るはずのことを成し遂げるため、御使いをヨハネに遣わして指示された。ヨハネは、神様の御言葉と自分の見たことをすべて証しした。啓示録には、彼以外の他の人に証ししろとは言わなかった(啓22:8,16参考)。
ユダ書17-19節に、終わりの時に背教して党派をつくる事件があると言った。この預言通り新天地でも党派をつくる事件があった。啓20章には審判の時、自分の行いに従って本に記録された通り審判を受けると言われた。
最近、新天地が押収捜索と拘束を受けることがあった。しかし、まことの信仰人が、どうして罪を犯すだろうか?罪人たちが罪をなすりつけたのであった。イエス様も、パウロも、罪なしに罪をかぶったのであった。判事も、検事も、聖書の法で見ればすべて罪人である。その証拠は、彼らも、結局、死ぬということである。死ぬこと自体が、罪によるものである(ロマ5:12、6:23参考)。
初臨の時、イエス様は、人々の罪を一人で負って行かれた。それゆえ、人々が悔い改めることで、彼らの罪が赦された。聖書の歴史を見たところ、時代ごとに背教の事件、滅亡の事件、救いの事件があった。聖書の背教、滅亡、救いの事件は、啓示録の成就の時、最後に終わる。今日、啓示録が成し遂げられた。選民の背教の事件(啓2-3章、啓13章)と滅亡者(竜の群れ)の侵入によって選民が滅亡された事件があった(啓6章)。そして、太陽を着た女から生まれた子とその兄弟たちが竜の群れと戦って勝利した後、神様の救いと国があるようになった(啓12章)。この国が神様の新しい国と新しい民族である新しい天、新しい地、すなわち、新天地であり、ここが救いの住まいである。ここに神様と天国が臨まれる。ここ以外は、審判されてなくなる。これを見て信じなさいと言われたのである。新天地は、啓示録通り、加減なく創造された。確認してみなさい。