本当に正しく知りましょう。聖書と新天地
この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。
また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため
「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」と仰せられた
イエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたものです。
神様が新約聖書に約束された
新しい国、新しい民族、そして新しい聖殿と新しい牧者と神学校
神様と一つとなられた(ヨハ10:30)イエス様は、旧約の預言を成し遂げられ、また成し遂げられる新約を約束された。この新約は主の再臨の時の事である。
新約に約束された新しい国(啓21章)と新しい民族(啓7、14章)があり、新しい牧者(啓2-3章、啓12章)がいて、新しい聖殿(啓15章)があり、神学校(啓14:1、3)がある。ここで御座と四つの生き物と長老たちの前で学ぶ新しい歌は、収穫された初穂たちである十二支派の十四万四千人だけが学ぶことができ、ここ以外では学ぶことができない。
こことはどこか、この歌を知っているのか? そして、彼らを見たのか?
ここには約束の(啓2-3章)新しい牧者がいて、新しい聖殿(証しの幕屋聖殿、啓15章)がある。彼らが証しする御言葉は啓示録の事件である。啓示録成就の出来事は永遠の福音(啓14:6)となる。
これは神様がアブラハムと約束された事をモーセ(とヨシュア)の時全て成し遂げられたように、旧約の預言者たちに約束された事をイエス様の初臨の時、全て成し遂げられたように(ヨハ19:30)、新約の啓示録に約束された事も主の再臨の時である今日、全て成し遂げられる(啓21:6)。
信仰とは、聖書の神様の約束を信じる事であり、神様は約束を成し遂げられるのであり、聖徒は成し遂げられた事を見て信じるのである(ヨハ14:29)。しかし、約束の御言葉がその中にない人は、主が成し遂げて示されたとしてもわからない。御言葉のない者は神様が共におられない者であり、御言葉のある者は神様が共におられる者である。従って、聖徒は御言葉の中に入って、いのちの御言葉と共に生きなければならない(ヨハ1:1-5参考)。
上記した約束の国、民族、聖殿、牧者、神学校は、二千年前イエス様が約束された事を成し遂げた実体である。
これを信じろと言われたのである。それなのに、なぜ信じないのか? この時には、これ以前のものが啓示録21章と啓示録6章のように全て終わり、なくなるのである。これ以前の教団も牧者も教会も教徒たちも終わることになり、教団の名称も教会の名称も自分たちで作った名称であり、牧者も自分たちが任命し、その組織も自分たちが作ったものであり、神様が聖書に約束された組織ではない。また、彼らは恣意的な神学校を立て、彼らの教理を教えたが、神様の聖書とは関係のない神学校であり、教育である。従って、彼らは約束の新しい国でも新しい民族でもない。そして神様の種で生まれていない。それゆえ、収穫されず、印を押されなかった。だから、約束の国十二支派に入れなかったのである。
約束の民族十二支派は、神様の種で生まれたので、神様の国に行き、この十二支派に入れなかった者たちは、約束のものを受けることも、約束を守ることもできなかったので、生まれ変わることなく、地に属したまま地に行く。しかし、神様から生まれた神様の子どもたちは、神様の国、天国に行くのである。これが約束である。新約の約束の民族になる事で、救われる者になる。
以前の天、以前の地から新しい天新しい地に来た者は、神様の種で新しく生まれた神様の子どもたちである。
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