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じょんから節の由来

작성자柳 덕인|작성시간10.01.07|조회수569 목록 댓글 0

津軽じょんから節の由来
 じょんから節は上川原節ともいわれ、津軽民謡の三大節(じょんから節、よさ
れ節、津軽小原節)の一つである。
 その由来をたずねると、今から四百三年前の慶長二年(一五九七年)二月二十日
より浅石城主十一代の千徳安芸之助政保が、西根賀田の城主大浦為信の大軍に攻
められ、十日間にあたって悪戦苦闘を続けたが、多勢に無勢のため遂いに、二十
八日の早朝、城後にまわった敵将森岡金吾、木村越後等の一隊に火をかけられ、
城主政保は近侍十五名と共に討死し家中五百余軒、農家八百軒の浅石城は仁治元
年(一二四〇年)千徳伊予守行重以来十一代、約三百五十余年間、東の山根に繁
栄した千徳家は減亡し、浅石文化も落城と共に焼失した。
 この落城の哀話として「じょんから節」が発祥したと伝えられている。
 当時、浅石城下には天台宗の神宗寺外に真言宗の高賀山大善院、法華宗の妙経
寺等があり、その一坊として辻堂があった。
現在上浅瀬石の田圃の中に大きな一本杉があるが、そこが辻堂の跡と伝えられ
石名坂道への別れ道になっていた。
 慶長二年二月二十八日の早朝に役僧の常椽(じょうえん)和尚は、前夜の戦況
より味方の不利を察知したが、主家の必勝を祈願し、神仏の加護を信じて熱祷を
捧げて、時の経つのも忘れていた。
夜明けと同時に大浦勢は喚声を挙げて辻堂にも乱入し、手当り次第に仏像をこわ
し、墓をあばく乱暴を働いた。
常椽和尚は覚悟をきめて山伏姿となり薙刀を突き立て「汝等犬ざむらいめ!!こ
こは千徳家累代の墓所なるに、仏像をこわし、墓をあばく人非人ども。人は死す
とも霊魂は不滅なり。仏を恐れぬ畜生共の子々孫々まで祟りあらん」と、先祖代
々の位牌を背負い、群がらる軍勢に薙刀を揮い、 一方に血路を開いて東の山恨を
さして逃げのびた。
 ところが途中で浅石城を振向いた時には本城は火炎に包まれ、市街も城内も阿
鼻叫喚の巷と化している状況を察した。
追いすがる敵勢を斬り倒し、孤軍奮闘したが、遂いに捕えられそうになったの
で、白岩の断崖の頂上から浅瀬石川の濁流に飛込んでその一生を終った。
 数年後の夏に村の子供等が川原で砂遊びをしていると、砂の中から変り果てた
常椽和尚の屍体があらわれた。子供等の騒ぎに村人が駆けつけ、相談の結果、そ
の場所に墓を作り、手厚く葬って、常椽の墓と名ずけたので、この辺一帯を常椽
川原(じょうえんかわら)と称した。
それから毎年お盆になると村人はこの墓所に集って供養をなし、千徳家全盛時代の
昔を偲び、城主をはじめ先祖代々の霊を慰める盆踊りを行った。
これが「じょんから節」である。


 その頃、津軽家は重臣を遺わして村人を監視すると同時に浅石城を破壊し、市
街地を開拓させたので、落人達は武器を土中に埋めて農業に従事するようになっ
たが、村人等は厳重な取締りの下に農作業をしながらも、音を偲ぶ唄を吟んだよ
うである。
 じょんから節は「くどき節」の一種であつて、当時の歌詞はいつの間にか伝わ
らず、時代と共に変化し、替歌となり、その調子も変って現在の観光的な歌詞と
なり、三味線.大鼓の伴奏となって一般に普及されるようになった。
 昭和二十九年に浅瀬石と石名坂の間を流れる浅瀬石川に橋か架けられ「じょん
から橋」上川原橋と命名されたが「じょんかわら」の地名にちなんだ事は、まこ
とに意義深いことてぁる。
 昭和二十九年九月一日に東京都日本橋にある三越デパートに於いて新市紹介、
民謡大会に当地出身の民謡新人、成田春代が出演の際に次の歌詞が歌われて好評
を博した。
 また「上川原橋」の渡初式にも披露されて「じょんから節」の由来が明らかに
なった。  

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