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⊙.....♪ 藤山一郞

藤山一郞 프로필

작성자柳 덕인|작성시간12.05.30|조회수221 목록 댓글 0

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藤山一郞(1911-1993)

日本橋生まれの生粹の江戶っ子。慶應普通部では岡本太郞と同窓であっ
니혼바시 태생의 순수한 에돗꼬.게이오- 보통부에서는 오까모또 다로-와 동창 이었다

た。東京音樂學校在學中の
도-꾜- 음악 학교 재학중이던

昭和6年、家計のあまりの苦しさを見かねて、アルバイトとして「酒は淚か
소화 6 년 집안이 너무나 가난한것을 보지 못해서 알바이트로 술은 눈물인가

溜息か」「丘を越えて」 などを吹きこむが、
탄식인가. 언덕을 넘어서 등을 취입 했는데

これが予想に反して大ヒット。「酒は淚か溜息か」は當
이게 예상 밖으로 대 힛트. 술은 눈물인가 탄식인가는

時の蓄音機の國內普及台數の四倍のセ-ルスを出したというから、
당시의 축음기 보급 대수의 4 배의 판매가 됐다니

今に換算したらさしずめ億單位の枚
지금으로 환산하면 아마도 억 단위의

數のレベルの氣の遠くなる
매수 정도의 정신이 아찔할것

ような話である。昔のレコ-ドはすりきれたら音が出なくなるので、

같은 얘기이다. 옛날의 레코-드는 달으면 소리가 안나오니까

カフェ- などが一度に數枚買い付けたためだと言われている。
카페 같은데서는 한번에 여러장식 사재기를 했다고 한다. 

藤山一郞という芸名は當時、華嚴の瀧への投身自殺で、自殺ブ-ムの主役で 
후지야마 이찌로-란 예명은 당시 화엄의 폭포에 투신 자살로 자살 부-ㅁ의 주역 

あった帝大生、藤村操にちなんだもの。しかし歌手デビュ-前の惡友であっ
였던 제국대학생 후지무라 미사오에 연유 한것. 그러나 가수 데뷰 전의

た藤村一郞から貰ったとも
허물없는 친구 후지무라 이찌로-에서 얻었다고도

され、どちらも藤山自身が言っている話なので正確なところは定かではない。 
하고, 어느것이나 후지야마 자신이 말하고 있는것이기 때문에 정확한건 아니다.


やがて、あまりの反響のすごさで、わざわざ變名まで使って吹きこんだ、
이윽고 너무나 반향이 지나쳐 일부러 변명까지 써서 취입을 했다.

このアルバイトが學校に
이 알바이트가 학교에

知られて、停學處分となる。同時期に吹きこんだ「影を慕いて」も爆發的なヒットとなり、 
알려져 정학 처분 되다. 같은 시기에 취입한 가게오 시다이떼도 폭발적인 힛트가 되어

歌手藤山一郞の名は、作曲家古賀政男の名と共に全國區になった。8年、音
가수 후지야마 이찌로-의 이름은 작곡가 고가마사오의 이름과 더불어 전국구가 됐다.

樂學校卒業後はビクタ-に
소화 8 년 음악학교 졸업후는 빅타- 에

在籍したが、11年、古賀政男のたっての賴みでテイチクと契約。戰前最大の
재적 했으나 11 년 고가마사오가 굳이 부탁 하기에 데이찌꾸와 계약. 전전 최대의

セ-ルスとも稱される
세일 이라고도 일컬어 짐.

「東京ラプソディ-」「男の純情」「靑い背廣で」などの大ヒットを連發した。 
도-꾜- 랩소디- 사나이 순정 파-란 신사복 등등의 대 힛트를 연발 했다.

やがて古賀のコロムビア復歸に合わせる形で、藤山自身も再度コロムビアに戾った。
이윽고 고가의 콜롬비아 복귀와 맞추는 꼴로 후지야마 자신도 재차 콜롬비아에 돌아 갔다.

戰中は南方戰線を
전시중에는 남방 전선을

慰問してまわり、敗戰を外地で迎える。21年に復員したが、當時の藤山一郞
위문하고 돌아다녔고 패전을 외지에서 맞었다. 21 년에 복원 했으나 당시의

のネ-ムバリュ-は正に
후지야마 이찌로-의 네임 배류-는 가히

別格扱いであった。24年「靑い山脈」が大ヒット。映畵主題歌だったのだが、
별격 취급 였었지만 24 년 푸른 산맥 이 대 힛트, 영화주제가 였었는데

監督の今井正はこの曲が
감독인 이마이 다다시(마사)는 이 곡이

氣に入らず、作曲家の服部良一と長きに渡る絶交狀態に入ったという話がある。 
마음에 들지 않아.작곡가인 핫도리 료-이찌와 오랜동안 절교 상태 였었다는 얘기가 있다

さらに被爆體驗記を書いた永井隆博士に捧げる形の「長崎の鐘」も大ヒット。
더욱 피폭체험기를 쓴 나가이 박사에 바치는 형식의 나가사끼의 종, 도 대 힛트 

流行歌を「コジキ節」と蔑視したサトウハチロ-が初めて本氣で書いた作詞で、
유행가를 거지 가락 이라고 멸시하던 사또-하찌로-가 처음으로 정성드려 쓴 작사로, 

永井博士は
나가이 박사는

この曲の流行の直後、被爆の後遺症で死を遂げた。29年にはNHK囑託となる。
이 곡의 유행 직후 피폭의 후유증으로 사망 했다. 29 년에는 NHK 촉탁이 됐다.

以後、死ぬまで
이후 죽을때 까지

紅白に指揮者として連續出場。28年の紅白の大トリでは時間がおして

고-하꾸 우따갓셍의 지휘자로서 연속 출장. 28 년의 고-하꾸의 큰 새로 시간에 밀려

「丘は花ざかり」をワンコ-ラス
「언덕은 꽃이 만발」 을 한 코-러스

しか歌えなかったという話もある。47年に紫綬褒章、58年に勳三等瑞寶章、
밖에 노래 할수 없었다는 얘기도 있다.47 년에 자수보장. 58 년에 훈삼등서보장.

平成4年、國民榮譽賞を
헤이세이 4 년, 국민영예상을

受賞。7年には從四位が贈られた。最晩年まで懷メロ歌手としてテレビ番組
수상, 7 년에는 종4위가 증여 됐다. 만년까지 그리운 메로디 가수 로서TV

などで健在ぶりを示して
프로그램 에서 건재함을 과시 하고

いたが、5年、家で就寢した直後、背中の痛みを訴え、そのまま不歸の人となった。
있었으나 5 년 집에서 취침한 직후 등의 통증을 호소 하다가 그대로 불귀의 객이 됐다

前日にロ-タリ-クラブの例會に參加、その前の日にはゴルフ場をまわるなどしていた
전날에도 로-타리- 클럽의 예회에 참석, 그 전날에는 골프장을 돌기도 했었다. 

美空ひばり登場以前の歌謠界を席卷した、文字通りのビッグネ-ムである。
미소라히바리 등장 이전의 가요계를 석권한 문자 그대로 빅 네임 이다.

自動車狂としても知られ、戰後の一時期は自ら外車ショップを經營した事もあった。 
자동차 광 으로서도 알려져 전후 한때는 스스로 외제차 판매상을 경영한적도 있었다.


代表曲
 
昭和6年   酒は淚か溜息か、丘を越えて
昭和7年   影を慕いて
昭和8年   僕の靑春
昭和11年   東京ラプソディ-、東京娘、男の純情
昭和12年   靑い背廣で、靑春日記
昭和14年   懷しのボレロ
昭和15年   空の勇士、なつかしの歌聲(二葉あき子)、燃ゆる大空(霧島昇)
昭和22年   夢淡き東京
昭和24年   靑い山脈(奈良光枝)、長崎の鐘
昭和25年   山のかなたに
昭和27年   丘は花ざかり

 

 

 

 

藤山一郎

提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤山一郎
藤山一郎.jpg
基本情報
出生名 増永丈夫
別名 ピンちゃん
出生 1911年4月8日
学歴 東京音楽学校
出身地 東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町
(現・東京都中央区日本橋蛎殻町
死没 1993年8月21日(満82歳没)
職業 歌手・声楽家・作曲家・指揮者
活動期間 1930年1993年
レーベル ビクター
テイチク
コロムビア
日本放送協会
  

藤山 一郎(ふじやま いちろう、1911年4月8日 - 1993年8月21日)は、日本歌手声楽家作曲家指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシックの声楽家。バリトン歌手として活躍。東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。慶應義塾幼稚舎卒業、慶應義塾普通部卒業。東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『青い山脈』『長崎の鐘』など多数のヒット曲を歌った。理論・楽典に忠実に歌うということから正格歌手と評され、日本語の明瞭度の高さは楷書の歌と評された。その一方で作曲家・指揮者としても活躍した。1992年、スポーツ選手以外では初めて存命中に国民栄誉賞を受賞した[† 1]参議院議員加納時男は甥。

目次

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人物歴 [編集]

幼少期・少年時代 [編集]

藤山一郎は1911年4月8日東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)に、同区日本橋長谷川町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)のモスリン問屋・近江屋の三男(5人兄弟の末っ子)として生まれた。父の信三郎は近江屋の番頭で、母のゆうは店主の養女であった[1][2]。幼少期の藤山は、家業が順調であった上、母のゆうが株式投資の収益で日本橋区一帯に借家を建て多額の家賃収入を得ていたことから、経済的に大変恵まれた環境にあった[3]

藤山は幼少期から音楽家としての資質を育むのに適した環境の下で育った。母のゆうは子供にピアノを習わせる教育方針を持っており、藤山も幼少期からピアノを習った。さらに通っていた幼稚園[† 2]が終わると親戚の作曲家・山田源一郎(藤山の姉・恒子の夫は山田の甥)が創立した日本女子音楽学校(現・日本音楽学校)に足繁く通い、賛美歌を歌ったりピアノの弾き方、楽譜の読み方を教わった[4][5][6]。また、家族に連れられて隅田川を往復する蒸気船に乗って浅草に遊びに行き、物売りの口上や下町の歯切れの良い発音を耳にした。藤山曰く、後年発音の歯切れの良さが評価されたことには幼少期に浅草で経験したことの影響があった[7][8]

1918年春、慶應義塾幼稚舎に入学。この時期の藤山は楽譜を読みこなせるようになっており、学内外で童謡の公演に出演した。幼稚舎の音楽教師・江沢清太郎の紹介で童謡歌手となり、『春の野』(江沢清太郎作曲)など4曲をレコードに吹込んだこともある。ただし江沢は「童謡歌手は大成しない」という考えの持ち主で、その勧めにより在学中の一時期は歌をやめ、楽典・楽譜を読みピアノ・ヴァイオリンを修練することに専念した[9][10][11]。学業成績を見ると、唱歌が6年間通して10点中9点以上でその他の教科もすべて7以上であった[12]1924年春に慶應義塾普通部に進学した藤山は、同校の音楽教師を務めていた弘田龍太郎東京音楽学校助教授)にピアノを習い課外授業に参加するなど[† 3][† 4]音楽に励む傍ら、ラグビー部に入部して運動にも打ち込んだ。3・4年時には全日本中等ラグビー大会で優勝を経験している。この時期の藤山の学業成績を見ると、音楽と体育以外は悪く、卒業時の学内順位は52人中51人であった[† 5][13][14]。慶應普通部在籍時の1927年、慶應の応援歌『若き血』がつくられたとき、早慶戦に向けて普通部に在学中の藤山が学生の歌唱指導にあたった。藤山は上級生でも歌えない者はしごいたため、早慶戦が終わった後、普通部の5年生に呼び出され、脅され殴られた。それ以来、藤山と『若き血』の付き合いは長い[15]

慶應義塾在籍中、藤山は福澤諭吉が説いた奉仕の精神を身につけた。このことは後にロータリークラブボーイスカウトに協力し、福祉施設に慰問を行うことに繋がった[16]

東京音楽学校時代 [編集]

東京芸術大学は東京音楽学校の後身にあたる。(画像は上野キャンパス)

慶應義塾普通部を卒業後の1929年4月、当時日本で唯一の官立の音楽専門学校であった東京音楽学校予科声楽部(現・東京藝術大学音楽部)に入学。当時は「歌舞音曲は婦女子のもの」という風潮が強く、声楽部に入学した学生の中で男は藤山一人であった。入学試験の口頭試問で音楽をやる理由を問われた藤山は「オペラ歌手を目指します」と答えた[17]

藤山は予科声楽科で30人中15番の成績を修め、本科に進学した[18]。藤山は1931年2月に「学友演奏会」(績優秀者による演奏会。土曜演奏会とも)に出演し、歌劇『ファウウト』より「此の手を取り手よ」、歌劇『リゴレット』より「美しの乙女よ」の四重唱にバリトンで独唱[19]するなど順風満帆の学生生活を送っていたが、音楽学校生活進学後間もなく世界恐慌の煽りを受けた昭和恐慌の影響で実家のモスリン問屋の経営が傾き、3万8000円の借金を抱え廃業した[20]。藤山は家計を助けようと写譜のアルバイトを始めたが収入が少なく、レコードの吹込みの仕事を始めるようになった。これは校外演奏を禁止した学則58条に違反する行為であった[† 6]ため、「藤山一郎」の変名を用いることにした。名前の由来は、上野のパン屋・「永藤」の息子で親友・永藤秀雄(慶応商工)の名を使って藤永にし、一郎と続け、「藤永一郎」としたが、本名である増永の「永」が入ることで正体がばれることを恐れ「永」を「山」にして、「富士山」なら日本一でいこうと芸名を藤山一郎にした。この変名はわずか5分のうちに生まれた[† 7][† 8][21][22]

藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹込んだ[23]。代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。この曲の吹込みで藤山は、声量を抑え美しい共鳴の響きをいかし、声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法を用い、電気吹込み時代のマイクロフォンの特性を効果的に生かした歌唱によって[24][25][26]憂鬱さとモダニズムが同居する世相を反映させようとする古賀の意図を実現させた[27]。同じく1931年に発売された古賀作曲の『丘を越えて』もヒットした。『丘を越えて』はクルーン唱法ではなく、「マイクから相当離れた位置で、メリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーに、声量を落とさないで、しかも溢れさせないように歌う」歌唱表現で、古賀メロディーの青春を高らかに歌いあげている。『丘を越えて』のヒットによって藤山と古賀はスターダムにのし上がった。[28]

歌のヒットと同時に藤山一郎という歌手への注目が巷間で高まり、世間の関心が集まるようにもなった。藤山は学校関係者に歌を聴かれて正体が発覚することを恐れ、アルバイト料が売上に関係なく1曲あたり15円ときめられていたことからレコードが売れないよう願ってさえいた。古賀と関係の深かった明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にゲスト出演した藤山は舞台の袖から姿を隠して歌い、観客が不満を訴える騒ぎとなったこともある。そんな中、東京音楽学校宛に「藤山一郎とは御校の増永丈夫である」という内容の投書が届き、学校当局は藤山を問い質した。藤山は「先生は作曲をするなどして学校の外で金を稼いでいるのに、生徒が学費のために内職するのを責めるのは不公平だ」と反発したためあわや退学処分ということになった。しかしハイバリトンの声楽家として藤山を評価していたクラウス・プリングスハイムが退学に反対し、慶應義塾普通部時代から藤山をよく知る弘田龍太郎・大塚淳梁田貞も学業成績の優秀さやアルバイトで得た収入をすべて母親に渡していることを理由に擁護に回った結果、今後のレコード吹込み禁止と停学1か月の処分に落ち着いた。しかも、その1か月は学校の冬休みにあたり、実質的な処分は科されなかった。なお、この時藤山はまだ吹込みを行っていなかった『影を慕いて』を既に吹込み済みであるとして学校にリストを提出し、発行を可能にした。停学が解除されると藤山はレコードの吹込みをやめ、学業に専念した[29][30]

1932年、藤山は東京音楽学校奏楽堂で上演された学校オペラ『デア・ヤーザーガーDer Jasager(「はい」と言う者)』(クルト・ワイル作曲)の主役(テナーの少年役)を好演し(東京音楽学校は「風紀」を理由に舞台上演のオペラを禁止していたが、この上演のみ例外で舞台上演された)、日比谷公会堂でクラウス・プリングスハイムの指揮でワーグナーのオペラ『ローエングリン』のソリストを務めている。ヴーハーペーニッヒ、マリアトールら外国人歌手と伍してのバリトン独唱は期待のホープとして注目された[31]

ビクターに入社 [編集]

1933年3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業した。『週刊音楽新聞』は卒業演奏におけるオペラ『道化師』のアリア・『歌劇密猟者より』の独唱を取り上げ、東京音楽学校始まって以来の声楽家になるのではないか評した[32]。 藤山はレコード歌手になって実家の借金を返済したいという思いが強く、卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となった。ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた[33][34]。『酒は涙か溜息か』などのヒット曲がコロムビアから発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2%のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めた[35]。だが、1933年3月、コロムビアから発売された『ローエングリン』には、藤山が本名増永丈夫で独唱者に名前を連ねている。尚、藤山一郎のビクター入社の経緯については、菊池清麿が、藤山のビクター入社は安藤兵部が獲得に動いたこと、当時ビクターには、橋本国彦、徳山璉、四家文子ら東京音楽学校の先輩らが専属にいて、クラシックと大衆音楽の両立がしやすい雰囲気があったことを指摘している。[36]

入社2年目までの藤山は東京音楽学校に研究科生として在籍してヴーハー・ペー二ッヒの指導を受けており、作曲・編曲・吹き込みなどを行う傍ら学校やにペー二ッヒの自宅にも通った[37][38]。1933年4月には読売新聞社主催の新人演奏会に東京音楽学校代表として出演し、同年6月18日には東京音楽学校の定期演奏会(日比谷公会堂)に出演している。クラウス・プリングスハイム指揮ベートーヴェンの『第九』をバリトン独唱。この時期の藤山は様々なジャンルの歌を歌っている。公演をみると1933年10月に日比谷公会堂で「藤山一郎・増永丈夫の会」を催し、藤山一郎としてジャズ流行歌を、増永丈夫としてクラシックを歌い、美しい響きで声量豊かに独唱する増永丈夫とマクロフォンを効果的に利用したテナー藤山一郎を演じ分け、双方の分野の音楽的魅力を披露した[39]。レコードをみると、流行歌以外にクラシックリヒャルト・ワーグナーロベルト・シューマン)やジャズのレコードも出している[40]

ビクター時代の藤山は『燃える御神火』(売上187,500枚)、『僕の青春』(売上100,500枚)[41]などがヒットしたが音楽学校在校中に吹込んだ古賀メロディーほどの大ヒット曲には恵まれなかった。藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」[42][43]と述べている。ビクターのライバルコロムビアでかつて放ったヒットをしのぐことはできなかった。その一方、「官学出身者の厭味なアカデミズムを排し、下品な低俗趣味を避けたいとも考えていた。私はみんなが楽しめる音楽の紹介と、そのプレーヤーとして生きる」という思いのもと、「シューマンを歌う。欧米の名曲や民謡を歌う、そして、もちろん、流行歌も歌う」充実した日々であったと述べている。[44]。菊池清麿はビクターに在籍した3年間が藤山一郎の原点となったと述べている([45]


テイチクへ移籍 [編集]

ビクターとの契約期間は3年で満了を迎えた。ビクターは藤山との再契約に望んだが、当時コロムビアからテイチクに移籍していた古賀政男はテイチクへの移籍を促した。藤山はテイチクのブランドイメージ(創業者が楠木正成に傾倒し、正成の銅像をレーベルマークにしたり正成にちなんだ芸名を歌手につけたりしていた)に抵抗を感じたものの、生家の経済的事情から最終的には古賀と再びコンビを組むことを決意した。念のためビクターとの契約期間満了から1か月を置いてテイチクへ移籍した。契約金は1万円であった(ちなみに、同時期の内閣総理大臣の月給は800円)[46][47][48]

1936年、古賀が作曲した『東京ラプソディー』が販売枚数35万枚のヒットとなった。これにより藤山はB面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金の返済を完了させることができた。PCLによって『東京ラプソディー』を主題歌にした同じタイトルの映画も制作され、藤山が主演した。『東京ラプソディー』と同じく古賀が作曲し1936年に発売された『男の純情』翌年の『青い背広で』『青春日記』もヒットした[49]。藤山はこの時期に歌った印象に残る曲として、『東京ラプソディー』とともに『夜明けの唄』(大阪中央放送局が1936年に企画した、有名な詩人の作品に歌をつける企画。国民歌謡、国民合唱と呼ばれた)を挙げている[50]1937年盧溝橋事件が起こったのをきっかけに国民精神総動員を打ち出した政府は、音楽業界に対し戦意を高揚させる曲の発売を奨励し、ユーモア・恋愛・感傷をテーマとした歌の発売を禁止する指示を出した。テイチクはこの方針に従い、藤山も『忠烈!大和魂』・『国家総動員』・『雪の進軍』・『駆けろ荒鷲』・『最後の血戦』・『歩兵の本領』・『愛国行進曲』・『山内中尉の母』といった戦意高揚のための曲を吹込むようになった[51]

テイチク時代の藤山一郎の人気は凄まじく、ポリドールの東海林太郎と並んで「団菊時代」を形成した[52]。テイチク時代の藤山はバリトンの声楽家というよりはテナー歌手としての流行歌に重点が置かれている。これについて当時、新聞記者だった音楽評論家の上山敬三は、「愛の古巣に帰ろう 男の純情などいう流行歌なんかやめちまえ、声がもったいない、クラシックに帰れ」と提言した[53]

コロムビアへ移籍 [編集]

1939年にテイチクとの契約期間が満了を迎えた。この時期には古賀とテイチクが方針の違いから対立しており、藤山は古賀とともにコロムビアへ移籍した[† 9]。移籍後藤山は『上海夜曲』や服部良一との初のコンビによる『懐かしのボレロ』を吹込みヒットさせた[54]。1940年には古賀作曲の『なつかしの歌声』もヒットしたが、音楽観の違いから、藤山は古賀と距離を置くようになった[55]

声楽家としては1939年に「オール日本新人演奏会10周年記念演奏会」(日比谷公会堂)でヴェルディのアリアをバリトン独唱し[56]1940年マンフレート・グルリット指揮のベートーヴェンの『第九』(NHKラジオ放送)をバリトン独唱しテノールの美しさを持つバリトン増永丈夫の健在ぶりを示した[† 10]。増永丈夫の名義では松尾芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天河」という旅の叙情を主題にした国民歌謡『旅愁』の吹込みを行っている[57]

南方慰問・捕虜生活 [編集]

藤山が慰問に訪れた小スンダ列島周辺

1941年太平洋戦争が開戦した。序盤は日本軍が優勢で、軍は新聞社に対し各地に駐屯する将兵に娯楽を与えるため慰問団の結成を要請した。読売新聞社大日本帝国海軍の要請を受けて南方慰問団を結成すると、藤山はこれに参加した。藤山には音楽の先進国であるヨーロッパへ渡りたいという思いが強く、ヨーロッパ諸国の植民地であった場所へ行けばヨーロッパの文化に触れることができるかもしれないという思いと、祖国の役に立ちたいという思いからこれに加わった[58]。当時日本軍は渡航直前の1943年2月1日にガダルカナル島から撤退するなど、南方で苦戦を強いられていたが、藤山はそうした情報を正確に把握していなかった。藤山は後に、もし戦況を正確に把握できていたら南方慰問には出なかったであろうと述べている[59]

1943年2月、慰問団はボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発。途中で寄港した高雄港では敵の潜水艦による魚雷攻撃を受け(かろうじて命中しなかった)、藤山は初めて戦局が内地で宣伝されているよりもはるかに緊迫したものであることを察知することになった[60][61]。3月にボルネオ島(カリマンタン島)バリクパパンに到着。ボルネオ島のほかスラウェシ島ティモール島など、周辺一帯を慰問に回った。藤山は持ち歌や軍歌の他、地元の民謡[† 11]を歌った。海軍士官が作った詞に曲を付け、歌ったこともある(『サマリンダ小唄』)。藤山は7月に予定されていた慰問を終え、帰国した[62][63]

藤山は帰国後すぐに大日本帝国海軍より再度南方慰問の要請を受け、11月にスラウェシ島へ向けて出発した。藤山はヨーロッパの文化にさらに触れ、現地の民謡を採譜したいという気持ちから要請を承諾した。1回目の慰問での扱いは軍属で、藤山はこれに強い不満を覚えていたが、この時は月給1800円の海軍嘱託(奏任官5等・少佐待遇[† 12])としての派遣であった[64][65]。藤山の慰問団はスラウェシ島・ボルネオ島・小スンダ列島バリ島ロンボク島スンバワ島フローレス島スンバ島・ティモール島などを巡った。このうちスンバ島は多数の敵機が飛び交う最前線の島で、慰問に訪れた芸能人は藤山ただ一人であった。なお、小スンダ列島を慰問するにあたり、軽装で着任する要請された藤山は、愛用していたイタリア・ダラッペ社製のアコーディオンをスラウェシ島に置いたまま出発したが、同島に戻ることなく敗戦を迎えたため手放す羽目になった。これ以降藤山はジャワ島スラバヤで購入したドイツ・ホーナー社製のアコーディオンを愛用することになる[66][67]

1945年8月15日、藤山はジャワ島スラバヤをマディウンへ向かい移動する車中で日本の敗戦を知った。藤山は独立を宣言したばかりのインドネシア共和国の捕虜となり、ジャワ島中部・ナウイの刑務所に収容され、その後ソロ川中流部にあるマゲタンの刑務所へ移送された。1946年スカルノの命令によりマラン州プジョンの山村に移動した。そこには三菱財閥が運営していた農園があり、旧大日本帝国海軍の将兵が一帯を「鞍馬村」と名づけて自給自足の生活を送っていた。鞍馬村滞在中、藤山は休日になると海軍の兵士だった森田正四郎とともに各地の収容所を慰問して回った。鞍馬村での生活は数か月で終わりを告げた。太平洋戦争終結直後から行われていた独立戦争においてインドネシアとイギリスとの間に一時的な停戦協定が成立し、日本人捕虜を別の場所へ移送した後、帰国させることになったためである。藤山はリアウ諸島レンパン島に移送された。この島で藤山はイギリス軍の用務員とされ、イギリス軍兵士の慰問をして過ごした。1946年7月15日、藤山は復員輸送艦に改装された航空母艦葛城に乗って帰国の途についた[68][69]

帰国 [編集]

1946年7月25日、葛城は広島県大竹港に到着した。東京の自宅に着いて間もなくNHKがインタビューにやって来るなど、藤山の帰国はニュースとなった。藤山は8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演したのを皮切りに、早速日本での歌手活動を再開させた[70]。昭和22年に入ると、戦前派の歌手たちが本格的に復活の狼煙をあげた[71]。藤山一郎もラジオ歌謡『三日月娘』、『音楽五人男』の主題歌・『夢淡き東京』、日本歌曲としても音楽的評価の高い『白鳥の歌』などをヒットさせた。[72]

藤山は、如己堂で療養生活を送っていた永井隆を見舞ったことがある
映画『青い山脈』の一場面

1949年永井隆の随想を元にした『長崎の鐘』がヒット。この歌を主題歌として映画『長崎の鐘』が制作された。永井隆と藤山の間には交流が生まれ、永井は藤山に以下の短歌(『新しき朝』)を送った。

新しき朝の光のさしそむる 荒野にひびけ長崎の鐘

藤山はこの短歌に曲をつけ、『長崎の鐘』を歌う際に続けて『新しき朝』を歌うようになった。藤山は永井の死から8か月後の1951年1月3日に行われた第1回NHK紅白歌合戦に白組のキャプテンとして出場し、『長崎の鐘』を歌った[73][74]。ちなみに藤山は1951年の第1回から1958年の第8回まで8年連続で出場するなど、歌手として計11回紅白歌合戦に出場している[75]

1949年7月、東宝は石坂洋次郎の小説『青い山脈』を原作にした映画を公開した。この映画の主題歌として同じタイトルの『青い山脈』が作られ、藤山が奈良光枝デュエットで歌った。『青い山脈』は映画・歌ともに大ヒットした。歌は長年にわたって世代を問わず支持され、発売から40年経った1989年にNHKが放映した『昭和の歌・心に残る200』においても第1位となっている[76]。奈良光枝が1977年に死去すると、『青い山脈』は藤山の持ち歌となった[77]

国民的歌手・指揮者として活躍 [編集]

1954年、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べている[78]が、池井優によると、背景には、かねてから藤山がレコード会社の商業主義に対する疑問があり、さらに俳優が脚本を読んだ上で出演を決めるように希望する歌を歌いたいという気持ちもあった[79]。1961年には筑摩書房発行の『世界音楽全集』第13巻声楽(3)においてフォスター歌曲を独唱し、編曲も担当している[80]

1965年、NHKの許可をとって出演した東京12チャンネル制作の『歌謡百年』がヒットした。『歌謡百年』はベテランの歌手が昔懐かしい歌を歌うというコンセプトの番組で、後に『なつかしの歌声』とタイトルを変え、なつかしの名曲ブームを巻き起こした。藤山は、クラシックの香りのするホームソングを主体にしていたが、、1958年以降は紅白歌合戦にも数回を除いて歌手としてではなく指揮者として出演していたが、再び歌手として人気を集めるようになった[81]。なお、紅白歌合戦には1950年の第1回から1992年の第43回まで、歌手または指揮者として毎年出演した[82]

日本歌手協会会長を務める [編集]

1972年10月、初代会長であった東海林太郎の死去に伴い、日本歌手協会会長に就任した。同協会は歌手の立場強化を掲げる任意団体であったが、藤山の会長就任を機に社団法人にすることが議論された。文化庁との折衝の結果、1975年5月に協会は社団法人として認可された。社団法人となった日本歌手協会の立場は強化され、それまで作曲家作詞家にしか支払われなかった著作権収入が著作隣接権として歌手にも支払われるようになった。藤山は1979年5月まで会長を務め、以後は理事を勤めた[83]。藤山の死後、日本歌手協会はNHKと共催で追悼コンサートを開いた[84]

国民栄誉賞を受賞 [編集]

1992年(平成4年)5月28日、藤山は国民栄誉賞を受賞した。受賞理由は、「歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与えた功」、「美しい日本語の普及に貢献」というものであった。

池井優によると、受賞を決定づけたのは1992年3月にNHKが放送したテレビ番組『幾多の丘を越えて - 藤山一郎・80歳、青春の歌声』である[† 13]。この番組を見た衆議院議員島村宜伸が当時自由民主党幹事長であった綿貫民輔に国民栄誉賞授与の話を持ちかけたことで政府が検討に入ることになった。また、NHKのアナウンサー出身の参議院議員でかつて古賀政男の国民栄誉賞受賞に尽力した高橋圭三福田赳夫を通じて政府に働きかけを行った[85]

藤山は娘を通じて受賞を打診され、受託した。当初授賞式は4月25日に予定されたがこの時藤山は坐骨神経痛を患い入院中で、退院後の5月28日に延期された。受賞式会場の首相官邸に車椅子に乗って現れた藤山は中に入ると車椅子から降りて杖をついて歩き、東京音楽学校時代の恩師クラウス・プリングスハイムの指揮で声楽家増永丈夫として日比谷公会堂で独唱したベートーヴェンの『歓喜の歌』を伴奏なしで歌った。数十年ぶりクラシック音楽の増永丈夫と大衆音楽の藤山一郎を披露した。なお、スポーツ選手を除く国民栄誉賞受賞者の中では最初の存命中の受賞となった[86]。1996年に上野恩賜公園内に設置された「日本スポーツ文化賞栄誉広場」には国民栄誉賞受賞者の手形が展示されており、藤山のものもある[87]

なお藤山は国民栄誉賞以外にも勲三等瑞宝章(1982年春)、紫綬褒章(1973年)、日本赤十字社特別有功章(1952年)、NHK放送文化賞(1958年)、社会教育功労章(1959年)、日本レコード大賞特別賞(1964年)などを受賞(章)している[88][89]

死去 [編集]

「藤山一郎作曲ルーム」があるNHK放送博物館

1993年8月21日、急性心不全のため死去。同年8月14日放送の「第25回思い出のメロディー」(NHK)が最後のメディア出演となった。死後、その功績から従四位に叙せられた。菊池清麿は藤山の生涯について、「芸術家としての人生が約束されながら、大衆音楽の世界で人気を博し国民栄誉賞を受賞するという稀有な人生だった」と評している[90]

藤山の遺品は遺族からNHKに寄贈され、NHK放送博物館の「藤山一郎作曲ルーム」に展示されている。NHK以外にも、与野市の市歌「与野市民歌」を歌唱した縁で与野市にも遺族から遺品が寄贈され、与野市図書館(現・さいたま市立与野図書館)に展示されている。

年表 [編集]

  • 1911年4月8日、東京都日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)に生まれる。
  • 1929年4月、東京音楽学校予科声楽部に入学。
  • 1931年7月、藤山一郎として音楽学校在校中、コロムビアからデビュー。
  • 1933年3月、東京音楽学校本科声楽部を卒業、ビクターの専属歌手となる。
  • 1936年、テイチクの専属歌手となる。
  • 1939年、コロムビアの専属歌手となる。
  • 1940年4月、結婚。
  • 1943年2月-7月、南方への慰問団に参加。
  • 同年11月-1945年8月、再び南方への慰問団に参加。
  • 1945年8月-1946年7月、インドネシアで捕虜生活を送る。
  • 1946年7月25日、帰国。
  • 1952年、日本赤十字社特別有功章を受賞。
  • 1954年、コロムビア専属をやめ、NHKの嘱託になる。
  • 1958年、NHK放送文化賞を受賞。
  • 1959年、社会教育功労章を授章。
  • 1973年、紫綬褒章を受章。
  • 1974年、日本レコード大賞特別賞を受賞。
  • 1982年、春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。
  • 1992年5月28日、国民栄誉賞を受賞。
  • 1993年8月21日、死去。

社会活動 [編集]

前述のように藤山は、慶應義塾在籍中に福沢諭吉が説いた奉仕の精神の影響から、1950年代半ばから様々な社会活動を行うようになった[91]

ボーイスカウト [編集]

藤山は奉仕を重んじるボーイスカウトの精神に共鳴し、ボーイスカウト日本連盟の参与を務めた。1971年第13回世界ジャンボリーが日本(静岡県富士宮市)で開かれた際にはテーマソング『明るい道を』の作曲を行った。1988年にスカウトソングを収録したカセットテープが制作された際には録音に立ち会い、自ら連盟歌『花はかおるよ』など7曲を歌った 。1992年、永年にわたる功績を称えられ、連盟から最高功労章である「きじ章」を贈呈された。藤山の葬儀の際にはボーイスカウトのブレザーときじ章を身につけた写真が遺影に選ばれた[92]

ロータリークラブ [編集]

1958年6月、藤山はロータリークラブ(東京西ロータリークラブ)に入会した。藤山は会員として精力的に活動し、例会に欠席したことがなかった。死の前日の1992年8月19日にも杖を持ち車椅子に乗って出席を果たしている。会の運営にも熱心で、1986年から1987年まで東京西ロータリークラブの会長を務めた。『東京西ロータリークラブの歌』をはじめ、ロータリークラブにまつわる歌の作曲や会員への歌唱指導も行った[93][94]

人物像・エピソード [編集]

  • 藤山は幼少期から短気で手が早かった。この性格が原因で前述のように幼稚園を転入させられたほか、慶應義塾普通部時代には3週間寄宿舎暮らしを命じられたことがある。この時寂しさの余り身につけた編み物は藤山の特技の一つとなった。晩年になっても藤山の気性の激しさは変わらず、タクシーの運転手と喧嘩をし、血だらけでスタジオにやってきたこともある[95]
  • 藤山は車好きとして知られ、幼いころから自動車に親しんで育った。小学生4、5年生の頃には生家のモスリン問屋にあった配達用の貨物自動車の車庫入れをし、オートバイの運転もマスターした。東京音楽学校在学中に自動車の運転免許を取得。流行歌手となってからも舞台への移動の際は自ら自動車を運転することが多かった。運転マナーは良好で、優良運転者として1972年に緑十字交通栄誉賞銅賞、1982年に緑十字交通栄誉賞銀賞を受賞している。ただし他人の運転マナーにも厳しく、割り込みをした車を怒鳴りつけることもあった。所有車は終戦直後に乗ったダットサンを除き、すべて輸入車であった[96]。なお、藤山は1949年7月に肝臓膿瘍(肝臓に膿が発生する病気)にかかり入院生活を送ったことがあるが、この時将来に不安を覚えた藤山は妻を社長にして「ミッキー・モータース」という洗車・整備・給油の店を副業としてオープンさせている[97][98]
  • 藤山が音楽を学んだ頃は楽譜は貴重で、学生は図書館から借りて写譜するのが常であった。そのため藤山は楽譜を乱暴に扱う者に対し非常に厳しかった[99]

歌唱論・歌手観 [編集]

藤山はプロの歌手にとって重要なのは正式に声楽を習い基本的な発生を習得し、基本に忠実でしっかりとした発声により歌詞を明瞭に歌うことであり、技巧を凝らすのはその先の話であると述べている[100]

後輩歌手では伊藤久男近江俊郎岡本敦郎布施明尾崎紀世彦由紀さおり芹洋子倍賞千恵子アイ・ジョージなどを「ただクルーンするだけでなく、シングも出来る両刀使いだから」と言う理由で評価していた[101]

代表曲 [編集]

  • 『キャンプ小唄』1931年(昭和6年)
  • 丘を越えて』1931年(昭和6年)
  • 酒は涙か溜息か』1931年(昭和6年)
  • 影を慕いて1932年(昭和7年)
  • 『僕の青春』1933年(昭和8年)
  • 『燃える御神火』1933年(昭和8年)
  • 『蒼い月』1934年(昭和9年)
  • 『古戦場の秋』1934年(昭和9年)
  • 『恋の花束』1935年(昭和10年)
  • 『谷間の小屋』1935年(昭和10年)
  • 『永遠の誓い』1935年(昭和10年)
  • 『夜風』1936年(昭和10年)
  • 東京ラプソディ1936年(昭和11年)
  • 『東京娘』1936年(昭和11年)
  • 男の純情1936年(昭和11年)
  • 『回想譜』1936年(昭和11年)
  • 青い背広で1937年(昭和12年)
  • 『青春日記』1937年(昭和12年)
  • 『白虎隊』1937年(昭和12年)
  • 愛国行進曲』1937年(昭和12年)
  • 『山内中尉の母』1937年(昭和12年)
  • 『上海夜曲』1939年(昭和14年)
  • 『懐しのボレロ』1939年(昭和14年)
  • 『なつかしの歌声』1940年(昭和15年)
  • 紀元二千六百年』1940年(昭和15年)共唱 松平晃、伊藤久男、霧島昇、松原操、二葉あき子、渡辺はま子、香取みほ子
  • 『春よいづこ』1940年(昭和15年)共唱 二葉あき子
  • 空の勇士』1940年(昭和15年)共唱 霧島昇、松原操、二葉あき子、渡辺はま子
  • 燃ゆる大空』1940年(昭和15年)共唱 霧島昇
  • 興亜行進曲』1940年(昭和15年)共唱 伊藤久男、二葉あき子
  • 出せ一億の底力1941年(昭和16年)二葉あき子
  • 『崑崙越えて』1941年(昭和16年)
  • 海の進軍』1941年(昭和16年)共唱 伊藤久男、二葉あき子
  • 大東亜決戦の歌』1942年(昭和17年)
  • 翼の凱歌』1942年(昭和17年)共唱 霧島昇
  • 『青い牧場』1943年(昭和18年)
  • 決戦の大空へ』1943年(昭和18年)
  • 『銀座セレナーデ』1946年(昭和21年)
  • 『三日月娘』1947年(昭和22年)
  • 『白鳥の歌』1947年(昭和22年)
  • 『夢淡き東京』1947年(昭和22年)
  • 『浅草の唄』1947年(昭和22年)
  • 青い山脈1949年(昭和24年)共唱 奈良光枝
  • 長崎の鐘』1949年(昭和24年)
  • 『花の素顔』1949年(昭和24年)共唱 安藤まり子
  • 『山のかなたに』1950年(昭和25年)
  • 『ニコライの鐘』1951年(昭和26年)
  • 『長崎の雨』1951年(昭和26年)
  • 丘は花ざかり1952年(昭和27年)
  • 『ブンガワン・ソロ』
  • ラジオ体操の歌』1956年 作曲を担当

主な作曲作品 [編集]

関連書籍 [編集]

自伝 [編集]

評伝 [編集]

  • 池井優『藤山一郎とその時代』新潮社、1997年(ISBN 4104179019
  • 菊池清麿『藤山一郎 歌唱の精神』春秋社、1996年(ISBN 4393934350 C0073)

ラジオ番組 [編集]

  • 『愉快な仲間』 - 民間情報教育局が主導して制作された、アメリカの『ビング・クロスビー・ショー』のコピー番組(NHK)。森繁久彌との共演[102]

コマーシャル [編集]

関連項目 [編集]

脚注 [編集]

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注釈 [編集]

  1. ^ 他に非スポーツ選手が存命中に受賞した例は俳優の森光子のみである
  2. ^ 藤山ははじめ近所の東華幼稚園に入園したが、腕白な振る舞いが原因で間もなく大塚東京女子師範学校付属幼稚園に転入させられた。
  3. ^ この時期に藤山が師事した音楽家にはこの他、梁田貞声楽)・大塚淳バイオリン)がいる。
  4. ^ 慶應とつながりがあった弘田との縁がきっかけとなって、後に東京音楽大学在学中の1930年、『慶應幼稚舎の歌』『普通部の歌』の吹込みを行っている。
  5. ^ ちなみに最下位は岡本太郎で、岡本は後に藤山に対し、「増永はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレは殆ど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と言ったといわれている。
  6. ^ かつて佐藤千夜子が学則58条違反により退学処分を受けたことがあった。
  7. ^ 藤山一郎以外にも花房俊夫・井上静雄・南一郎・藤村二郎・田垣宣文・藤井龍男などの変名を用いた。
  8. ^ 日光華厳の滝に身を投げた一高生にちなんで藤村操という名前も考えたが、文学青年の名前は似合わないと却下された。
  9. ^ 藤山はビクターへ復帰することも画策したが、結実しなかった。
  10. ^ 1940年4月14日付『読売新聞』には、グルリットのピアノで独唱者・木下保・増永丈夫・関種子・竹本光江らが歌っている写真が掲載されている。
  11. ^ ちなみに民謡『ブンガワンソロ』は帰国後藤山のレパートリーに加えられ、日本で流行歌となった。
  12. ^ 滞在中、藤山の待遇は中佐待遇に格上げされた。
  13. ^ 番組用に藤山は、NHKのラジオ局のスタジオで持ち歌と自らが作曲した『ラジオ体操の歌』の計24曲を録音した。

出典 [編集]

  1. ^ 池井1997、12-14頁。
  2. ^ 私の履歴書、174頁。
  3. ^ 池井1997、13・15頁。
  4. ^ 池井1997、14-15頁。
  5. ^ 私の履歴書、176-177頁。
  6. ^ 藤山1986、24-26頁。
  7. ^ 池井1997、15頁。
  8. ^ 藤山1986、22頁。
  9. ^ 池井1997、22-24頁。
  10. ^ 藤山1986、30-32・38-39頁。
  11. ^ 私の履歴書、177-178・181頁。
  12. ^ 池井1997、28頁。
  13. ^ 池井1997、33-35頁。
  14. ^ 藤山1986、39-42頁。
  15. ^ 菊池1996、43-46頁。
  16. ^ 池井1997、36頁。
  17. ^ 池井1997、39-41頁。
  18. ^ 池井1997、44-45頁。
  19. ^ 『東京藝術大学百演奏会編』、115頁。
  20. ^ 私の履歴書、186頁。
  21. ^ 池井1997、49-51頁。
  22. ^ 藤山1986、48-54頁。
  23. ^ 藤山1986、55頁。
  24. ^ 菊池1996、79頁-82頁。
  25. ^ 菊池2008、33-36頁。
  26. ^ 「SPレコード歌謡産業発達史」『メディア史研究14』、メディア史研究会編、2003年、91-93頁。
  27. ^ 池井1997、55-57頁。
  28. ^ 藤山1985、82頁。
  29. ^ 池井1997、63-69頁。
  30. ^ 藤山1986、57-62頁。
  31. ^ 『東京芸術大学百年史』演奏会編 第二巻。
  32. ^ 『週刊音楽新聞』1933年3月26日付。
  33. ^ 池井1997、73-74頁。
  34. ^ 藤山1986、62-64頁。
  35. ^ 池井1997、73-74頁。
  36. ^ 菊池1996、113-115頁。
  37. ^ 池井1997、75頁。
  38. ^ 藤山1986、47頁。
  39. ^ 菊池1996、127頁。
  40. ^ 池井1997、72・74-75頁。
  41. ^ 「売上実数ヨリ見タル流行歌「レコード」の変遷ヨリ」昭和13年2月末調査
  42. ^ 私の履歴書、194-196頁。
  43. ^ 藤山1986、67頁。
  44. ^ 藤山1986、67~68頁。
  45. ^ 菊池1996、134-135頁。
  46. ^ 池井1997、75・81-83頁。
  47. ^ 藤山1986、69-71頁。
  48. ^ 私の履歴書、196-197頁。
  49. ^ 池井1997、87-94頁。
  50. ^ 池井1997、91頁。
  51. ^ 池井1997、95-97頁。
  52. ^ 菊池2008、57-61頁。
  53. ^ 上山敬三『日本の流行歌』(早川書房)、88頁。
  54. ^ 菊池1996、163頁。
  55. ^ 池井1997、102-103頁。
  56. ^ 『読売新聞』1939年4月28日付。
  57. ^ 「音楽で見る戦後史2 美しき日本の歌-ラジオ歌謡」『季刊音楽文化の創造』49号、財団法人音楽文化創造、2008年7月、36頁-37頁。
  58. ^ 池井1997、116頁。
  59. ^ 藤山1986、102頁。
  60. ^ 池井1997、117-118頁。
  61. ^ 藤山1986、104-107頁。
  62. ^ 池井1997、119-122頁。
  63. ^ 藤山1986、109-129・132頁。
  64. ^ 池井1997、123。
  65. ^ 藤山1986、133-135頁。
  66. ^ 池井1997、123-129頁。
  67. ^ 藤山1986、154-208頁。
  68. ^ 池井1997、130-145頁。
  69. ^ 私の履歴書、221-225頁。
  70. ^ 池井1997、147-149頁。
  71. ^ 菊池2008、112頁。
  72. ^ 藤山1986、230頁。
  73. ^ 池井1997、153-168頁。
  74. ^ 藤山1986、233-234・241-243頁。
  75. ^ 池井1997、190-193頁。
  76. ^ 池井1997、171-180頁。
  77. ^ 池井1997、178頁。
  78. ^ 藤山1986、245-246頁。
  79. ^ 池井1997、188-189・200-203頁。
  80. ^ 藤山1985、10頁。
  81. ^ 池井1997、204-206頁。
  82. ^ 池井1997、193頁。
  83. ^ 池井1997、206-208頁。
  84. ^ 池井1997、208-210頁。
  85. ^ 池井1997、241-242頁。
  86. ^ 池井1997、241-244頁。
  87. ^ 池井1997、239-241頁。
  88. ^ 藤山1986、246-247頁。
  89. ^ 私の履歴書、235頁。
  90. ^ 菊池2008、287頁。
  91. ^ 池井1997、213頁。
  92. ^ 池井1997、213-217頁。
  93. ^ 池井1997、219-213頁。
  94. ^ 東京西ロータリークラブのホームページ
  95. ^ 池井1997、33-34頁。
  96. ^ 池井1997、228-238頁。
  97. ^ 藤山1986、235-240頁。
  98. ^ 私の履歴書、232頁。
  99. ^ 池井1997、44頁。
  100. ^ 私の履歴書、169-171頁。
  101. ^ 私の履歴書、238頁。
  102. ^ 池井1997、194-200頁。
  103. ^ 池井1997、210-211頁・35-36頁。
  104. ^ 池井1997、18-19頁・35-36頁。
  105. ^ 藤山1986、45頁。
  106. ^ 池井1997、40頁。
  107. ^ 藤山1986、45頁。
  108. ^ 安部幸明『現代日本の作曲家5 安部幸明』音楽の世界社、14頁。
  109. ^ 池井1997、91-93頁。
  110. ^ 私の履歴書、199頁。

参考文献 [編集]

先代:
東海林太郎
日本歌手協会会長
(在位:1973年4月-1979年4月)
次代:
ディック・ミネ


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