平和の母
第二章 私は独り娘としてこの地上に来ました
選民の国、独り娘を迎える民族
人類救済のための神様の摂理が続く中で、六千年の時を経て、私はこの地に来ました。その準備のための路程は、人類の歴史の中でも最も困離で、波乱万丈なものでした。多くの人々が字宙の母、独り娘の顕現を切実に待ちわびてきました。誰もが平和な世界で暮らすことを望んでいるからです。
しかし、平和というものは、誰もが求めていながらも、筒単には手に入らないものです。平和を手にするためには、それに匹敵する犠牲と献身がなければなりません。
神様が独り娘である天の新婦を地上に送るには、まずもって、韓民族の五千年にわたる犠牲と蕩減の民族的準備期間が必要でした。さらに、キリスト教を中心とした信仰と、三代にわたって心情を引き継いだ苦難の家庭的基盤もなければなりませんでした。そのような中で、ようやく平和な世界を成し遂げる平和の母を、この地に迎えることができたのです。
私たちはみな、自分が生まれたことに対して深く感謝しなければなりません。この世に生を享けた人の中で、無意味に生まれた人はいないのです。また、個人の人生は、その人だけのものではありません。一人の人が生まれる背景には、天と地のあらゆるもの、宇宙万象が縦糸と横糸として編み込まれています。全世界の、さらには全宇宙の気運が調和し、凝縮されているのです。
ですから、誰であっても、自分自身を取るに足らないものとして扱ってはなりません。宇宙の聖なる作用によって生まれた貴い存在であることを、心の底から悟るべきなのです。
私が生まれる前、世界は混乱の極致にあり、暗い間に包まれて、希望の光を見いだすことができませんでした。一九三九年の九月に始まった第二次世界大戦は、時とともに激化し、ヨーロッパは真っ赤な血に染まりました。植民地支配にあえいでいたアジアの国々は、さらなる苦しみを味わうことになりました。
一九四〇年に入ると、ヨーロッパのほとんどの国がヒトラーに次々と侵略されていき、ついにはイギリスほか、数カ国が残るばかりとなりました。そのイギリスも、ドイツ空軍の爆撃に戦々恐々とし、 一日として心安まる日がありませんでした。
日本の植民地だった韓半島は、さらに悲惨な状況でした。食べる物、着る物も少なく、生きること自体が苦難の絶頂にありました。第二次世界大戦の終局になると、日本は武器を造るため、韓半島の人々の家を隅々まで探し、鉄でできたものを奪っていきました。甚だしくは、祭器として使っていた真鍮の器までも差し出させたのです。
米が軍糧として徴発され、苦しむこともありました。農民たちは、自らの土地で、自らの手で米を収穫しても、それを自由にすることができないという状況に置かれたのです。民族の魂が込められたハングルは失われ、創氏改名が行われました。 若い男性の中には徴集され、遠い戦地に赴いたり、炭鉱や兵器工場で一日中、労役に従事したりする人もいました。
しかしそのような苦難の中でも、国を取り戻すという決意と希望が芽生えていました。一九四〇年、大韓民国臨時政府が中国の重慶に庁舎を移し、光復軍を創設したのです。そこには、たとえ国を奪われても、それは一時的な苦難にすぎない、すぐに祖国を取り戻すのだ、という固い決意が込められていました。
一方で、世界大戦はその絶頂を迎えていました。ドイツがソビエト連邦の領土に攻め入ることで、一千万人以上が命を落とした悲劇の独ソ戦争が始まり、日本は真珠湾(アメリカ・ハワイ)を奇襲して太平洋戦争を起こしました。アメリカが参戦することで、戦争は世界に拡大していきました。しかし、夜が深まればもう夜明けが近いように、終戦に向けた希望の光が、かすかにですが見え始めていました。
韓国は昔から、天を敬い、平和を愛する白衣民族でした。韓国の歴史には、人生の根本的な徳目である孝と忠、そして烈の精神が息づいています。また韓国は、歴史的に世界の宗教が入ってきて、実を結んでいる所です。キリスト教の歴史は短いにもかかわらず、天は韓国を選民の国として選び、天の摂理を進める独り娘を送る民族として、韓民族を探し立ててくださったのです。
そのような天のみ旨に従って、海外の独立運動団体が一九四一年四月、ハワイのホノルルにあるカリヒのキリスト教学院に集まり、韓族大会を開きました。この大会には北米大韓人国民会、ハワイ大韓人国民会、大朝鮮独立団など九つの団体の代表が参加し、一丸となって祖国光復のために日本軍と戦うことを宣言しました。それは植民地となった祖国の光復を願う、必然的な熱望の表れでした。さらに重要なことは、それが主権を持った国家において、独り娘の摂理を展開できるようにするための準備であったということです。
私が生まれる一年前の一九四二年一月一日運合国の二十六カ国がアメリカのワシントンDCに集まり、 連合国共同宣言に調印しました。その主な内容は、第一に戦争を終わらせること、第二に平和世界をつくることでした。これにより、日本の統治によって植民地国家へと転落した国が独立することができる機運が高まったのです。
祖母の趙元模が一九一九年、当時数えで六歳だった娘の洪順愛を背負って大韓独立万歳を叫んだことも、篤実な信仰を中心として国を愛する基盤の上に、神様に最初に愛される独り娘を誕生させる準備となりました。それから二十三年後の一九四二年、世界はそのさらに一年後に顕現する独り娘を迎えるため、このような苦難の歴史を通過していたのです。