霊界シリーズ ー その50 ー
【 霊界から釈迦のメッセージ 】
12、生老病死と修道の転換
レポーターはイ・サンホン氏 2000.11.17
「人間はこの世に生まれて、病んで死に、老いて死ぬ」ということが、極めて平凡な道理であると、地上の人間は考えていることでしょう。しかし、よくよく考えてみると、それはあまりにも無価値なことです。多くの生命の中で、この世に一度生を受けるという因縁は、あまりにも大切で尊貴なものです。ところが、生まれて、病気になって死に、老いて死ぬとするならば、「なぜ生まれるのか」という根本的な疑問が生じざるを得ません。
私、釈迦の苦悩は正にそこにありました。そのような平凡な道理が、私をとても悩ませたのです。私が宮廷の中で豊かな生活をしている間は、宮廷の外の事情を知ることもなく、人間の生に関して悩む余裕もありませんでした。しかし、徐々に物事の分別がつき、成人になりかけた頃、宮廷の外の世界が気に掛かるようになってきました。王の息子として生まれた釈迦が、民の事情も知らずに、どうして王座を受け継ぐことができるでしょうか。人間の惨憺たる現実を目撃した時、目から火が出るような戦慄が走りました。それ以来、私の心は耐え難いほど痛み続けました。
特に、この世に唯一無二なものとして生まれた人間が、惨めに死んでいく姿を見るとき、私の心は筆舌に尽くしがたいほど痛みました。それが人間の現実であるということを感じて以来、私は多くの時間を瞑想と苦悩に費やしました。その当時、私が神様に仕える修道者に会っていたならば、私の悟りの方向は変わっていたことでしょう。
しかし、当時のインドには、貧困と病気に苦しむ人々があまりにも多かったため、神様に関する問題よりも、人間の苦痛を解決するということが至急の問題でした。その当時は、時々刻々と変化する環境と事情によって、人間の本能が様々な次元で異なって現れました。人間は貧困や病にさいなまれると、何かに頼ろうとする欲望が生じるものです。昔も今も、そのような欲望は、常に人間の本性の中に潜在しています。そのため、自らの願いを叶えるために敬拝したり祈ったりする慣習がいろいろな場所に生まれたのです。しかし、当時の人間は、宇宙の根源者、絶対者である神様を求めることに力を注ぎませんでした。限られた社会的環境の中で、神様を求める人間の本能的な発露が、比較的低級なかたちで現れたのです。すなわち、当時の人間は、神様を求めるよりも、人間の現実的惨状をいかに解決するか、ということに関心を抱いていたのです。それゆえ、その時代に私の歩んだ道は、すべての人々の前に崇拝の的となったようです。
私は宮廷の中で、ありとあらゆる富裕栄華を経験していましたが、一般人たちは、常に惨めな現実に浸って生きていました。それゆえ、彼らは悲惨な現実自体が人生であると思って生きていました。彼らは自らの現実的な生そのものが、あまりにもつらいものだったので、「人生」について考える余裕すらありませんでした。しかし私は、それとは相反して、宮廷の中でありとあらゆる富裕栄華を享受していました。私は、一般人の悲惨な現実を目撃したとき「人生」について悩み、考えざるを得ませんでした。
修道生活を始めた釈迦は、一般人たちの崇拝の的となりましたが、そんな釈迦にも修道生活の苦痛から脱け出したいという思いがよぎらなかったでしょうか。あまりにもつらくて厳しい修道の道でした。「修道の道」というのは、後世の人が名づけた、とても格調高い表現です。当時の私の生活は、文字どおり、泥沼にはまったような生活でした。
しかし、私の生涯がなぜあんなにつらく、苦しかったのか、私は悟ることができませんでした。この国(霊界)に来て「統一原理」を聞き、神様を見いだして以来、自分自身の修道生活というものが、ある程度分かってきました。しかし、私が悟ったことは、あまりにも恥ずかしい限りです。今こちらで考えてみると、一人の人間が「人間の生の意味」を悟るなどということは、極めて驕慢で傲慢なこととしか言いようがありません。人間を主管している、人間よりも次元の高い神様が存在しているという事実など、みじんも考えることができませんでした。私は自分自身が自ら悟れば仏陀になれると考えていましたが、それは神様の前に頭を上げられぬほど恥ずかしいものです。私も神様の子女ですが、神様は私の生涯を御覧になり、どれほど心を痛められたでしょうか。
当時私は、善と悪の根源、罪の根源について悟ることができませんでした。そして、なぜ人間が生老病死の道であえぎながら、生きては死んでいくのかを悟ることができませんでした。エデンの園の人間始祖の過ちによって、人類歴史が誤った方向に進んだという事実、そして(その後の)人間が原罪をもって生まれた結果として、貧困と病で苦しむしかない惨めな現実になったという事実を、私は察することすらできなかったのです。
私が仏教徒に誤った教えを伝えた結果、仏教徒の生活はいまだに固陋な信仰を身につけたままですが、どうすれば、数多くの仏教徒たちの生命を救いの道へと、正しく導くことができるのでしょうか。私は胸が裂けるほど神様に申し訳なさを感じながら、仏教徒の救いのために苦闘しています。このような事実を考えると、苦しくて、とても耐え難いです。何の信仰ももたずに、やりたい放題に振る舞った人が地獄へ行くのは当然ですが、正しい道を行くためにあらゆる厳しい難関を克服し、浄土、極楽を望みながらつらい修道の道を選んだ多くの弟子が、永生の極楽世界(天国)ではなく、楽園の下層霊界に安着する姿を目の当たりにするとき、釈迦の心情はいかばかりであるか考えてみてほしいと思います。
霊的交信をしてくれる、キム・ヨンスン女史の手と腕の苦痛は続いています。そして、罪なきその女性の前に、どれほど哀訴したことでしょう。「仏教徒を助けてくれ、仏教徒の復帰のために祈祷してくれ」と。しかし、どうしてそれが一朝一夕になされるでしょうか。地上の現実は、時間的、空間的に制約され、社会的、文化的環境に制約されているがゆえに、私のこのような心境を、うまく伝えにくい実情に置かれています。仏教徒の皆さん、このような耐え難い私の苦痛をどうしたら良いのでしょうか。仏教徒の皆さんに、その方法を教えて下さい。ある面においては、皆さん自身が、私をこのような苦痛から開放する鍵を握っているのではないでしょうか。
新しい歴史が始まることを遥かに待ちわびてきましたが、いまだに待ち続けなければならないのでしょうか。今、私は肉体を失ってここにいますが、肉身をもって生活していた時よりも、こちらで直面した苦痛の方が、より一層深刻です。
実際、私、釈迦は、罪人にはなりたくありませんでした。愛する仏教徒たちがいくら苦行を積んだとしても、釈迦が望んだ基準とは異なる、この程度の安息の場しか得られない霊界の現実を理解し、なにとぞ許してほしいと思います。仏教徒の皆さん、この無能な釈迦を許していただきたい。
しかし仏教徒の皆さん、死後に極楽世界(天国)に来ることを望むならば、今の周囲の事情に執着することなく、無慈悲に方向を改めて転換してください!そうして、皆さんの信仰の道において、神様を求めて仕えるならば、ここ極楽世界(天国)に直接来ることができるでしょう。このような釈迦の切なる願いを実践に移すならば、皆さんは永遠なる極楽世界に来ることができます。皆さんは釈迦のこのような願いを、単なるメッセージとして聞き流してはなりません。これは皆さんの人生において、たぐいなき最も重大なメッセージとなることでしょう。これに関する詳細な内容については「統一原理」を学べば、正しく知ることができます。「統一原理」は人生の正しい教科書です。これこそ、皆さんが崇拝してきた釈迦はもちろんのこと、もろもろの仏教徒を開放することのできる、唯一の指針です。なにとぞ皆さんの歩んだ道を急転換して、神様に仕えてください。これが釈迦の頼みであり願いです。
イ・サンホン(1914‐1996) Rev. Moon の弟子
地上でメッセージを受けたのはキム・ヨンスン女史