第3篇 真の愛
第1章 真の愛の根源
第4節 真の愛の力
1 世の中で最も速い作用は、愛の作用です。世の中で最も速度が速いのは電波ではありません。最も速くて、最も驚くほど飛ぶことができる力をもっているのが 愛です。この地の果てと、あの地の果てにいる人同士が、お互いに愛するようになると、その地の果てを越えて引き寄せます。愛は、そのような力をもっていま す。ですから、今日、宗教を中心として、「愛を求めなさい。愛の神様の近くにいなさい。心情をもちなさい。祈りなさい」と言うのは、どういうことでしょう か。愛の世界に接することによって、神様のすべての愛の作用に同伴できるというのです。同伴という言葉は、一緒に参与できるということです。
2 東西南北、四方に拡大できる関係をもっているのが愛です。そのように見るとき、前後、左右、上下の関係が、愛を中心として理想的に組み合わさって循環運 動をするのです。それは、宇宙が循環運動をするからです。宇宙が回れば、その中にあるものは、どれほど嫌っても、歩調を合わせて回らなければなりません。 それでは、それは何を中心として回るのでしょうか。その中心が軸なのですが、その軸は永遠に変わらないのです。お金も変わり、知識も変わり、権力も変わり ます。人情までも変わる時代に、永遠不変の軸になるものとはいったい何でしょうか。ただ一つ変わらないものが、正に父母と子女の関係です。動物世界を見て も同じです。父母が子女を愛すること、それだけは永遠だというのです。
真の愛は授受作用の力
3 人が存在するためには、自分の体から、まず授受の過程を経なければなりません。男性と女性も、相対的要件を備えて、お互いに授受してこそ存在できるので す。もし、男性は女性が必要ないと言い、女性は男性が必要ないと言うなら、百年もたたないうちに、世界はすべて滅んでしまうでしょう。人が存在するために は、つまり授受するためには、相対を必要とするので、今まで男性と女性は、お互いに愛し合って家庭をつくってきたのです。 ですから、愛というものは、授受の作用を起こさせる力なのです。それは、男性と女姓が授受する作用の力です。したがって、愛という力の母体が生じるために は、授受する作用がなければならず、そのためには、男性と女性が絶対的に必要です。すなわち相対要件が必要なのです。
4 物質は力で成り立っています。しかし、力はそれ自体だけでは生じません。相対的基準が成立しなければ、授受作用をしないので、力が出てきません。皆さん の体から発生する力も、四肢五体で授受して出てくるのです。授受作用に比例して力が出てくるのです。力がある前に、まず授受作用がなければなりません。授 受作用をしようとすれば、どのようにならなければならないのでしょうか。一人では絶対に授受作用はできません。したがって、授受作用をするために絶対的に 必要なのが相対です。これは、すべての存在様相の絶対的な要件です。相対がなければ、授受することができません。
5 愛は、愛すれば愛するほど、もっと大きいもので補われます。滅ぷのではなく、興隆するのです。愛なくして興隆する道理はありません。また、愛なくしては 永生もありません。ですから、イエス様は、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のい ましめである」(マタイ二二・三七、三八)と話されたのです。これは、絶対的に守らなければならない戒めです。愛の関係と、愛の道理においてのみ興隆する のです。
6 真の愛は、度数の限界線と生命までも超えて投入するようになるとき、力が何千万倍も発動するようになります。真の愛を投入して、滅ぶという道理はありま せん。真の愛を十くらい投入すれば、それが何倍も増加して出ていくのです。真の愛の力は、作動すれば作動するほどどんどん大きくなっていくので、世界を抱 き、宇宙を抱き、神様まで抱きかかえる運動が起きるのです。
7 真の愛には消耗がありません。動けば動くほど大きくなります。力学では、入力が出力より大きいですが、愛の世界では、入力より出力が大きいのです。です から、愛がすべてのものの核なのです。それで、相対に供給しても余るのが真の愛です。供給して不足するということがありません。真の愛は、相対になるその すべてに分けてあげても余るので、運動をすればするほど大きくなっていくのです。
8 真の愛の関係では、入力よりも出力が大きくなるのです。ですから、歴史の聖人たちは、その時代に迫害されて消えていったのですが、彼らは入力よりも出力 が大きくなる真の愛を投入し、また投入し、さらに投入しました。神様もそのようにしたので、宇宙創造が可能でした。投入すれば大きくなります。大きく、大 きく、大きく、もっと大きくなるのです。投入する心情圏があれば、生命の存在基台は、永遠に残るのです。
9 作用する世界が、永遠に循環できるように刺激的な力を補充でき、消耗する力を補強し加重する力をもっているのが、真の愛です。ですから、真の愛のみが永 存できるのです。人間にとって最も貴いものは生命と愛です。生命は愛によって生じます。ですから、生命をもった人は愛に従っていくようになっているので す。
10 真の愛が宇宙に存続できる生命の源泉だというとき、この宇宙のために低気圧的な立場で与えて、与えて、もっと与えれば、絶対的低気圧の方向から、宇宙 は「私」を中心に立てるか、上に上がるようにします。中央の中心になるか、頂上に上がっていくのです。真の愛とは、どのようなものでしょうか。完全に投入 し、投入して永遠の零点まで行くようになるときには、宇宙がプラスするというのです。 ですから、その立場に行くようになると、神様が発動していくのです。投入して忘れ、投入して忘れるほど、私を押してくれます。私を押してくれて何度も投入 してみると、中央に押し上げられるのです。中央になってさらに投入すれば、地に深く入り込むのではなく、上がっていきます。膨らんでいくのです。中央で何 度も運動をするので、丸くなっていくのです。それで、運動する宇宙は球形になっています。
11 愛の相対は永遠なので、永遠にその相対が出てくるときまで投入します。また、相対をもったものも、無限に投入しようとします。自分の根本まで入ってい くようになっているのです。神様はそれほど無限なので、その愛の世界で運動するすべてのペアは、永遠性をもっています。ですから、無限で絶対的な神様の愛 の対象になれば、永生するのです。
12 神様の愛は、ために生きる愛、ために生きようとだけする愛です。神様が何度も与えざるを得ず、真の愛も何度も与えざるを得ず、お互いが与え合って回っ ていきます。神様の愛は、そのようなものです。神様が何度も与えようとされるので、この愛の本質も、何度も与えようとして回るというのです。 宇宙はどこから始まったかというとき、回るところから始まったというのです。存在するすべてのものは、回るようになっているというのが本質です。どのよう なものが永遠に行くのでしょうか。永遠に与えようというもの、永遠の愛を中心として永遠に与えようとする、その愛が永遠に回るのです。与える力と受ける力 が一つになって、何度も与えようとするので、拡大が起きるのです。そのような原則の力があるので、宇宙は生成することができたというのです。
13 愛は、回るための潤滑作用と軌道(修正)作用をします。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も、動かすためには油を注がなければなりません。私 たちが運動するのにも油を差します。潤滑作用がなければなりません。何でも、運動しようとするには潤滑作用がなければなりません。最高の喜びの潤滑作用は 愛しかありません。それは、根が永遠の神様なので、なくなりません。作用すれば作用するほど発展するようになっています。
真の愛の力は無限大
14 真の愛は、宇宙を包括しても余り、宇宙を通しても余り、宇宙と和合しても余ります。それは、生命の原動力であり、運動の原動力であり、すべてのものの 原動力です。そのような愛があるところで、初めて生命の価値があるのです。そのような愛から理想的なものも出てきます。「ははは」と笑っても、それが理想 的なのです。わんわん泣いても、愛のために泣くのなら、それは理想的に泣いているという言葉が出てくるのです。それで、人は悲しいときにも涙が出て、うれ しいときにも涙が出るのです。ですから、地獄でも、どこでも幸福を感じる力があるとすれば、その一つの力は、ただ全体のために生きようとする力です。
15 不足なものを補充し、不完全なものを補充し、欠如したものを完結させようと、補充するのが愛の力です。その愛は真の愛です。その愛の内容は、全体的な ものと個体的なものが異なりません。結果の世界から原因の世界に帰ってくるためには、補強される力の発露がなければなりません。その力の発露が、結果的な 人間において衝撃的な力、再び戻すことができる刺激的な力です。
16 皆さんが創造の偉業を相続すれば、真の愛の権限をもつのです。創造の偉業を相続することによって、すべてのものよりも強い真の愛を相続できるのです。 真の愛をもてば、できないことがなく、成就されないことがありません。怨讐も愛することができるのです。真の愛の力は、闘いや強制ではなく、自然屈伏させ るのです。ですから、これ以上に強い力はないというのです。
17 聖書に、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ17・33)とあります。このような逆説的な論理をな ぜつくったのでしょうか。悪の世界と善の世界は方向が違うので、不可避な結論による論理なのです。これは、逆説的な論理ですが、神様の側から見れば、定説 的な論理です。このような逆説的な環境を打開し、定説的な論理である真の愛の道を求めていく飛躍の運勢に乗らなければ、私たちに解放はあり得ません。飛躍 できる力は、武力でもなく、経済力でもなく、政治力でもなく、知識の力でもありません。ただ、愛の力しかありません。これだけが永遠不変な、正道の近道な のです。
18 愛は、生活と歴史から取り除くことができず、実際の内容を動かしている実体です。そして、社会制度や、すべてのものを動かす内的力の母体です。ですか ら、教育をする時にも国を愛することを教えます。兄弟愛、父母愛、夫婦愛、世界的な博愛、すべてに愛が入っています。これは、何を意味しているのでしょう か。人類の生活圏や歴史過程を経ながら、愛を求めていかなければ、歴史を連結できる伝統の内容をつくり得ないというのです。
19 真の愛の力は偉大です。どれほど堅くても溶かすのです。この拳よりも恐ろしいものです。どれほど遠く広くても、さっと瞬間的に占領します。壊れないも のはないというのです。真の愛は、怨讐までも溶かします。それで、愛を中心とした世界の主人になろうとします。これが人間の最高の希望峰です。
20 真の愛の心をたたくと、体は自動的に響くようになっていて、真の愛で完成した男性と女性になれば、神様が自動的に現れるようになります。その作用は、 愛のほかにはありません。そのような作用を現すのが真の愛です。真の愛とは、いったい何なのでしょうか。真の愛は、縦横を連結し、上下、左右、前後を結ぶ ことができます。ですから、愛は、上では天を結ぶことができ、下では地を結ぶことができ、横では右側を結び、左側を結ぶことができるのです。したがって、 前後、左右、上下を結べる力は、愛なのです。
21 人間世界において、蜜蜂が食べる蜜のような味がするものとは何でしょうか。真の愛の味です。それは、堕落した世界に生きている男性と女性の愛ではあり ません。その愛に接すれば、すべてのものが統一されます。目も一ヵ所に統囲されます。すべての細胞が固くなって一カ所に集まり、一塊になって転がっていく というのです。愛は、そのような力をもっています。無数にある細胞が、一カ所に集まって丸くなるというのです。丸くなって愛の道に転がっていくのです。転 がっていく時には、「私」というものがあるのかないのか分かりません。
22 漢方の五味子の味は、万病に効く根源になります。五味子は、薬剤としてたくさん使われています。五味子の五種類の味が合わさって薬になります。愛は、 薬の中の薬なので、苦い昧もあり、塩辛い味もあり、甘い味もあり、辛い味もあり、渋い味もあります。愛の味が五味子の味のようだというのです。それで、食 べ物の中で最もおいしい食べ物が、五味子を入れて作った食べ物なのです。そのような食べ物は、薬になる食べ物であり、人類が望む食べ物であることは間違い ありません。
23 養蜂の季節になると、蜜を取り出す機械で蜜を取り出します。蜂が蜜を貯蔵する所は穴がぼこぼこと開いています。蜂が冬を過ごすために貯蔵しておいた蜜 を、人間がすべて取り出して砂糖水を与えます。砂糖水を補ってあげて冬を過ごさせます。そのように砂糖水だけを飲んでいた蜂が、春になって蜜の味を味わう ようになると、正気を保てないほど夢中になります。春に花が咲けば、蜂は花を飛び回りますが、花の中に入っている蜜を見れば、蜜を食べようとお尻を上に押 し上げて、頭を下に突っ込んでいます。それをピンセットでつまんで引っ張っても出てきません。力いっぱい引っ張ってお尻が抜けるほどになっても、口を離し ません。その蜜の味がどれほど強いのでしょうか。 蜜の味がそうであるなら、愛の味はどうでしょうか。愛の味と蜜の味のどちらがもっと良いですか。神様は、何の味を最も好まれるでしょうか。神様が匂いを嗅 ぐなら、どのような匂いを最も好まれるでしょうか。聞くなら、何を聞くのを好まれ、感じるなら何を感じるのを好まれるでしょうか。神様が好まれるものは愛 しかありません。神様の五感を集中させることができ、喜びを充満させることができるものがあるなら、それは愛しかないのです。
24 愛の光は青いですか。赤いですか。愛の光は、どのような光でしょうか。五色の光です。味も、五味子と同じように五種類の味です。五色の光なので、どれ ほどきらびやかでしょうか。虹の光は七色になっていますが、これらがすべて混ざると考えてみてください。どのような色になりますか。七色の光を合わせると 白光色になります。人間が最も好む色とは、どのような色ですか。神様が創造する時、最も好む色を先につくっておきますか、最も嫌いな色をつくっておきます か。最も好きな色です。早春に咲く花の色は、どのような色ですか。紫色です。紫色は赤い色も入っていて、桃色も入っていて、すべて入っています。ですか ら、高尚なものは、すべて紫の光です。霊界に行ってみると、最も良い光が紫色なのです。
25 男性と女性が抱擁しキスする場面は、平面的な極から愛を求めていく衝突の光が出る場面です。そこに白い光が出れば、色を加えて五色燦然と輝く光をつく らなければなりません。その光が縦的な神様の愛によって混ざるとき、虹の光のような、理想的な燦然とした光明の世界に転換されます。人間の愛の光は、横的 な光で、単純な光です。本然の人間は、混合した光、つまり男性と女性が愛で結合した、完全な光を願うのです。そのときに、縦的な愛が降りてくるのです。虹 のように、天の愛がこの横的な愛に降りてきます。
真の愛は一つにするもの
26 愛の感覚は、一方的ではなく総合的です。 細胞までも、そのような作用をします。「愛に酔う」という言葉があります。ですから、一度酔ってみなさいというのです。酔うようになると、天下に存在する すべてのものを呼べば、返事のないものがありません。流れていく水だけ見ても、千年の間、歌を歌うことができます。そこにおける、甘美なささやきは無窮無 尽です。 このようなことを見るとき、人間の価値は、愛を通して宇宙と和親できる主人格です。これを成し遂げることが人間の行く道です。皆さんの心が神様の愛を占領 する日には、千年、万年歌を歌い、踊りを踊ることができます。その時は、すべてを成し遂げた時なので、ほかに何も必要ではありません。世の中で、それより も貴いものはありません。神様の愛を占領する日には、金銀財宝もすべて必要ないのです。
27 真の愛は、すべてのものをいっぱいに満たします。神様の目に愛が入っていくと、神様が愛に酔うのです。家庭で父親が愛に酔っていると、母親も喜び、息 子、娘も喜び、全体がすべて喜びます。ところが、父親がしかめっ面をしていると、母親も仕方なくしかめっ面になり、息子、娘もしかめっ面になります。ま た、母親が真の愛に酔っていると、父親もその真の愛に溶けてしまいます。息子、娘もその真の愛に溶けてしまいます。息子、娘が真の愛に酔っていると、母親 も溶けて、父親も溶け出します。
28 真の愛は万能です。うまくできないことがありません。自分が理想を描くと、理想を描いた相対が現れます。夫の器量が悪くても、愛するようになれば、不 器量ではなく、ハンサムに見えるのです。愛の中では、不器量なものも、すべて隠れてしまいます。 私たちは、自分の顔を覚えていません。毎日のように鏡を通して自分の顔を見てはいますが、自分の顔を覚えていないのです。写真を見ながら、「あ、私はこん なふうに見えるのだなあ」と思うのであって、鏡を通して顔を見る時には、そのようなことは考えられません。 考え方によれば、不器量な人の中で最も不器量な人のようでもあり、ハンサムな人の中で最もハンサムな人のようでもあります。また、長細いと思っていたの に、丸くも見えます。愛の目で見るようになるときは、自分のようにハンサムな人はいません。目のすぐ近くに何かを持ってきたとき、それが見えますか。適当 に離れていて焦点を合わせて見てこそ、はっきりと見えるのです。ですから、あまりに近いと、感知することができないのです。
29 愛は偉大な力をもっています。作男暮らしをする作男だとしても、主人の娘と愛の関係を結ぶようになるときは、作男にすべてあげなければなりません。愛 は、極めて低い立場から、極めて高い立場に飛躍できるのです。どれほど強い塀や壁でも撃破することができます。どれほど混乱した世の中でも、袖様の愛を体 験して感じる人は、飛躍することができます。 アメリカの大統領が、田舎に住む素朴で、無学で、もっているものもなく、不足なことの多い結婚前の女性と愛の関係を結ぶようになれば、その女性は、その日 から大統領と同じ立場に同参できる権威を賦与されます。 このように、どれほど低い立場にいたとしても、高い立場に瞬間的に跳躍できるのです。今日、人間がどれほど悲惨であったとしても、神様を中心として、「あ なたが父で、私が息子であることに間違いない」という愛の関係を結べば、家の居間を自由に出入りできる特権が賦与されるのです。愛だけがそれを可能にしま す。
30 愛する人に会えば、永遠に花を咲かせたいと思います。爆発したいのです。愛の相対同士が和合するようになれば、爆発を起こします。また、愛は、光明な 力ですべてのものを占領します。その力を凌駕できるものはありません。愛には、そのような爆発作用があるのです。存在という存在は、すべて愛の話さえすれ ば口を開けるのです。すべての細胞が門を開きます。
31 愛する人を捕まえますか、博士の学位のある人を捕まえますか。なぜ真の愛を好むのですか。どれほどお金が多くても、私たちの体と心を一つにする力はあ りません。知識がどれほどあっても、体と心、五官全体を一つの焦点に集めることはできません。目と鼻と耳、すべてのものを一つの焦点に集めることはできま せん。権力も、そのようにすることはできません。 しかし、愛は、そのようにすることができます。ですから、愛から最高の喜びを感じることができるのです。愛によって霊肉の五感の焦点が合います。私たちに は、霊的五感と肉的五感がありますが、この二つの焦点を一つにして爆発的な喜びを享受できるのです。強力な刺激を感じることができます。このすべてのこと を否定して、細胞がすべて一つになることができます。真の愛の力は、霊肉の細胞を一つにできるのです。他のものは、そのようなことができません。真の愛が 最高峰なのです。
32 愛とは、男性と女性を一つにする力です。お互いが完全に愛するということは、彼が私の中にいて、私が彼の中にいることです。あたかも、パウロが霊的な 体験をしたあとに、自分が体の中にいるのか、体の外にいるのか分からないと言つたのと同じです。主体と対象を何で結びますか。一人の男性と一人の女性が、 ただ適当に会って生活するのは、愛ではありません。 愛によって方向が合い、体質と素質が合うのです。一つはブラスであり、一つはマイナスとして完全な相対的関係になり、「私はあなたが死ぬほど必要であっ て、あなたは私が死ぬほど必要だ」と言うことができるのが愛です。このように、完全に結ばれて一つになるときには、二つの人格が合わさって一つの人格をも つので、二人以上の価値を現すことができるようになります。そうすれば、より高い次元の世界を建設できる主人になるのです。
33 体と心が一つになるのは、お金でもできず、知識でもできません。「三つ子の魂百まで」という言葉がありますが、正しい言葉です。習慣性、凝り固まった 堕落性を脱ぐことはどれほど難しいか分かりません。歴史性をもち、世界性をもっています。歴史を踏み越えてしまうことができ、世界を飛び越えることができ る自覚のある人でなければ、それを征服することはできません。 男性と女性は、生理的に異なり、構成の要素と本質が違いますが、愛では一つになるのです。
34 真の愛で和合した体と心の細胞は、共鳴できるようになっています。真の愛でなければ共鳴することができません。共鳴体の音叉は、一方を打てば、同じ振 動数でもう一方も響きます。一緒に響こうとすれば、振動数が同じでなければなりません。同じように、私たちの本性の心と、本性の体が、成熟した立場で神様 の真の愛の心と完全に和合できる環境的条件が合えば、自動的に動くのです。力が作用するというのです。
35 真の愛の共鳴圏に入っていけば、天地がはっきり見えます。お釈迦様が「天上天下唯我独尊」と言ったのはどういうことでしょうか。その共鳴圏の核心に 入っていってみれば、天下がすべて私の手の中に入っていて、神様が私の中にいらっしゃり、天理が私と連結されているので、そのような言葉を言うことができ たのです。真の愛の共鳴圏に入っていけば、信仰は必要ありません。救世主は必要ありません。解放なのです。
36 体と心は、いつ一つになるのでしょうか。縦横が一つになっていれば、天地の大法(法度)によって永遠に体と心が一つになっていたでしょう。私が求める 価値の定着点は、愛するときに生じます。男性が男性として生まれた、その価値を決定し、定着できる立場に立つのは、結婚することによって可能です。ですか ら、結婚しなければ、人に属することもできないのです。愛を知るようになるとき、男性としての完成品となり、女性としての完成品になるのです。愛を中心と して完成するのです。
37 人が求めるものの中で、最も貴いものが愛です。人間は、貴いもの、貴い人、貴い愛を求めて生きていきます。神様は、始まりも終わりもない愛の中心であ り、天地の主管は、一日ではなく、永遠にするのです。貴い万物の中心は人間であり、貴い愛の中心は神様です。神様は、人を求めるために物質を犠牲にし、愛 を求めるために人間を犠牲にしてきました。愛は二人が一つになることです!神様は、そのような愛を人間に与えようとされるのです。愛で結んだ縁のない場所 ではばらばらになりますが、愛を中心とすれば集まってくるのです。
38 すべてのものを和合させることができるものは愛です。昔の士大夫(家柄の高い官吏)の家は、両班(特権的な身分階層)の権勢がどれほど強く、権威意識 がどれほど強かったでしょうか。その伝統的、道義的な生活法度は、どれほど複雑ですか。その環境では、足も思いのままに伸ばすことができないのです。しか し、たとえそのような家に女性がお嫁に行くようになっても、自分の母親、父親を放っておいて、自分の兄弟をすべて捨てて、新郎のところに行こうとするので す。調和の能力を発揮できる原動力が愛の力だというのです。
39 愛という言葉自体は、一人では成立しません。これは、必ず相対的関係を結成することが必要です。二人が一つになるのです。一人が上になればもう一人は 下になり、一人が東になればもう一人は西になり、一人が南になればもう一人は北になり、一人が前になればもう一人は後ろになります。どんな場所、どんな環 境でも、自然に合わせることができる能動性をもっているのが愛なのです。
真の愛は調和と平等の母体
40 真の愛を所有するようになると、すべての悲しみと苦痛も、その真の愛の中では喜びに昇華されます。言い換えれば、この宇宙の個人的な権力をもって、知 識をもって、金力をもって主張する以上の、絶対的な権限として残したいのが、人間の本性の欲求である真の愛なのです。 真の愛は、どこから来たのでしょうか。言うまでもなく、宇宙の根本であられる神様の真の愛から来ました。神様もそのような愛を願っているので、そこに由来 しているのです。結婚しようとする男性と女性に聞いてみれば、新婦は、「彼が自分よりも立派であってほしい」と言い、新郎も「新婦が私よりも立派であって ほしい」と考えるというのです。また、父母は、誰でも自分の子女たちが自分よりもっと立派になってほしいと願っています。そのような心は、すべて神様から 来たのです。これは、真の愛を中心として語る言葉です。
41 花の色に、あらゆるまだら模様の色があるのと同じように、愛も根は一つですが、それが現れるときに、相対する作用は、千態万象の作用をします。これが 愛です。悲しい人に対すれば、その人の心は悲しくなり、喜ぶ人に対すれば、その人の心はうれしくなるのです。相対に合わせて現れるのが愛なのです。愛する 妻の表情というものは、夫の背後の暗い背景も、すべて消化することができます。
42 神様は、真の愛の呼吸をします。神様も宇宙に拍子を合わせるので、真の愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。愛には永生があります。すべて、神様を 中心とした一方向です。真の愛は、永遠、絶対、不変の愛です。一度始まれば、永遠に続きます。それが進む時には、波の形や円形になります。波の形で行くも のは横的に連結され、円形は縦的に連結されます。上がっていく時にはだんだん大きくなり、下がっていく時には小さくなります。天の側は大きく、地の側は小 さくなるのです。神様の真の愛は、永遠なものなのです。
43 人間の中で円満な人とは、どのような人でしょうか。女性と毎日のようにけんかする人が円満な人ですか。円満な人は、東側に向かっても、西側に向かって もぶつかりません。頂上を押せば、へこんで他の所が出てくるとしても、自分自体は変わりません。宇宙は丸い形をしています。太陽も丸い形です。すべてのも のが丸いのです。 丸いものは、何を中心としているのでしょうか。自分一人では丸くなることはできません。相対的関係があってこそ丸くなることができます。このような関係的 実体、関係的領域を集約させる一つの存在物として登場する世界は、円形圏を基盤とするようになっています。ここで、この円形をつくる母体が、調和の母体 が、愛の作用なのです。
44 人は、愛に酔って生きなければなりません。愛に酔って生きる人が幸福な人です。芸術家は、芸術に酔って生きます。文学をする人は、自分が構想する本を 書くとか、ある名作に酔って生きます。そのような人は、幸福な人です。ですから、人間の四肢五体は、立体的な神様の理想的な愛に酔って生きなければなら ず、その方だけについていかなければなりません。
45 愛は、個人の心にも通じ、家庭の真ん中でも通じ、民族の真ん中でも通じ、どこでも主流として進むのです。流れていっても、すべてが歓迎です。それを塞 ぐ道はありません。すべて、愛の力に従って関係が結ばれるように造られたのです。ですから、愛の綱に従って宇宙と呼吸して生きた人は、神様の宮殿に行っ て、思いどおりに門を開いて入っていくことができます。そこにも、神様に侍る至聖所がありますが、その至聖所に行って「神様!」と言えば、神様が「おお、 お前が来たのだな!」と言うのです。
46 平等という言葉は、愛を取ってしまえば、取るに足らないものです。愛を中心として平等なのです。愛を中心としない平等はありません。それでは、幸福と は何でしょうか。幸福は、愛の端にある一つの実です。幸福は、愛の後ろ側だ、愛の前側だ、愛の頂上だ、愛の足場だという言葉は、すべて正しい言葉です。愛 は一つであり、丸いので、すべて正しいというのです。愛なくして幸福がありますか。女性がどれほど美人でも、等しい愛の内容をもった男性がいてこそ、調和 があるのです。
47 真の愛を中心とする圏内では、どのような差別もありません。水や空気と同じです。愛の力は、水や空気と同じように、いつでも水平をつくるのです。水も いつも水平をつくり、空気も、高気圧が低気圧に流れていって、いつでも水平をつくるというのです。愛も同じです。愛は、すべてのものを平準化します。真の 父母を中心として一つの文化、アダム文化世界が出発します。個人から始まって、永遠に霊界まで連結されます。
48 愛をもてば、男性と女性は対等になり、愛をもてば、いくら息子が大統領だとしても、その息子と母親は対等になるのです。愛をもったところでは、すべて 平等になる内容があります。夫は、外でいくら歩き回っても、家に帰るときには、「私は愛する妻の家に帰る。愛する妻の懐に帰る」と思い、妻は、「愛する夫 よ、私の懐に帰ってきてください」と思わなければなりません。それが平和であり、平等です。ここで夫と妻が一つになるのです。夫は、妻の懐に帰ることを願 い、妻は、夫が懐に帰ってきて一つになることを願うのです。そこには、低いものもなく、高いものもなく一つです。
49 私たち人間は平等だと言うとき、それはどのような平等のことを意味するのでしょうか。本性による愛を受けるときに、本性的に平等圏をもっているという ことです。何の平等かといえば、愛を中心としての平等です。愛を中心として、最高の平等圏が決定されます。人に最も重要なものが愛です。神様に最も重要な ものが愛なので、愛の平等さえできれば終わりです。それで、すべて成し遂げることができるのです。
50 宇宙と授受しようとすれば、愛をもたなければなりません。愛でなければ永遠に授受することはできません。「愛は温和で謙遜だ」と言ったのも、永遠に、 完全に運動するためなのです。抵抗なく運動するための一つの方法です。温和で、謙遜で、犠牲になれば、どこでも通じます。どこでも抵抗なく行くのです。こ れは、犠牲ではありません。抵抗なく作用するための一つの秘法は、ために生きて、犠牲になり、奉仕することなのです。
51 愛は国境を超越します。神様の真の愛には、国境がありません。五色人種(あらゆる人種)を超越するのです。黒人、白人、黄色人種を差別しません。愛は 偉大なのです。愛の流れにおいて環境を意に介さず流れていけば、環境がかえって同化されるのであり、反発するのではありません。そのようにできる思想的な 内容を備えてこそ、神様が喜ばれるのです。
真の愛は平和と幸福の源泉
52 神様の愛の圏を通るようになれば、春の日の香りが漂う花から、香りという香りをすべて嗅いで酔いしれた気分と同じようになります。また、春の季節の芝 生に座っているとき、綿のようなもくもくした雲から、形容することができないほどの何かを感じる気分と同じようになるのです。そこでは細胞が踊ります。で すから、神様の愛は、生命力をもったあらゆる存在の力の源泉であり、幸福の源泉です。喜楽や平和、人生が願うものの絶対的な要件であり、信仰の絶対的な要 素になります。
53 男性と女性は愛を中心として、絶対的に一つにならなければなりません。一つになれば、どのようになるのでしょうか。争うのではありません。愛の調和を 形成しなければなりません。そうすれば、そこに幸福が宿り、平和が花咲き、永遠の天国が広がるのです。そこから永遠の世界が訪れてくるようになっていま す。 愛を花咲かせなければなりません。愛は万国の幸福の拠点です。ですから、真の愛の世界を編成するようになるときには、万事が保障されるのです。
54 人類始祖の初愛の結合は、神様御自身の愛の完成でもあるので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歓喜と祝福の中に酔う、幸福な祝宴の連続でなけ ればなりません。神様の愛と生命と血統が、人間の中でその始原となるものを形成しながら定着する、幸福な儀式でなければなりません。
55 愛の主体が満ちれば、すべてのものが満ちるのです。愛がいっぱいに満ちてこそ、すべてのものが満ちるので、無限に与えることができ、真実に与えること ができるのです。そこで授受することは、理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は、距離を超越します。愛がどれほど速いかといえば、光もついていく ことができません。一番速いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満ちるのも愛です。居眠りしていた女性も、本当に愛す る相対が現れると、花が咲いたようになります。愛だけがそのようにすることができます。その愛は、どのような愛でしょうか。宇宙の主人になる愛、宇宙の中 心になる愛、宇宙の源泉になる愛である、真の愛です。
56 一時的な目的を中心とした統一は、誰も願いません。統一されたとしても、永遠であることを願うのです。それでは、永遠を中心として一つになる、その要 素とは何でしょうか。愛だというのです。愛は、統一するにおいての基盤です。それは、永遠に追求していくことができる幸福の基台になるのです。愛がなけれ ば幸福はありません。愛がなければ平和はありません。愛がなければすべてのものが衝突しますが、愛が充満するようになるときには、すべてのものが和合する ようになるのです。
57 愛とは、神様が願う標準を前提として語る言葉です。心と心の境界線を打破し、一つに結束させる麹のようなもの、つまり原因であり、動機であり、母体と なるのが愛なのです。この愛は、小さいなら極めて小さいものであり、大きいなら極めて大きいものです。愛する人同士は、目を一度まばたきしただけでも、天 地がひっくり返るように感じられ、また愛する人が一度にっこりと笑う表情をしただけでも、天地が出たり入ったりするのを感じるようになります。鋭敏ならそ れほど鋭敏であり、小さいならそれほど小さく、大きいならそれほど大きく、見えるなら見え、見えないなら見えないのです。その境界線を壊すことができるも のは愛しかありません。
58 数多くの境界線がありますが、この境界線をすべて打破できる、一つの中心ポイントとは何でしょうか。世の中では、お金のために境界線を打破します。知 識のために境界線を打破されることもあり、また権力のために境界線を打破されることもあります。それを打破されたとしても、打破されたその国にもまた境界 線が必要になります。ですから、知識も制限されたものであり、お金も権力も制限されたものです。この上下、前後、左右、過去から未来まで、東洋と西洋を中 心として人類全体の境界線を克服できる一つのポイントが、真の愛です。これが真の愛の力です。これさえあれば、父親と母親の頭の上に踏んで上がってもよい というのです。愛を中心としては通じないところがありません。これは、この世界にも通じることができます。真の愛は、世界までも管理して、主管できるので す。
59 真の愛というものは、常に秩序を守って余りあるものです。それができる絶対的なものです。息子が父親と母親の立場を侵犯することはできず、息子と嫁の 立場を父母が侵犯することはできません。それは絶対的です。お互いが完全な秩序を維持できる立場で、愛が起こらなければなりません。愛は無秩序なものでは ありません。真の愛には、必ず前後関係、上下関係、左右関係がすべてあるのです。それは境界線ではなく秩序だというのです。
60 愛の目で世の中を見るようになれば、飛んでいく鳥を見ても、「ああ、あの鳥はなぜピーチク、バーチク鳴くのだろうか。ああ、愛する相対を慕っているの だなあ」と思うようになります。そこから詩が詠まれ、文学作品が出てきます。そこでは人生や生活の歴史的事情が反復し、再現するというのです。普通の人 は、流れていく水が、ただ地形に従って曲がりくねって流れ、岩があればぶつかって水しぶきを出しながら流れていくとだけ見ています。しかし、それが愛を中 心として流れていくことを知れば、千年を経ても残る詩が詠まれ、小説が作られるのです。ですから、愛の息吹も、愛の手も、愛の歌声も、愛の言葉もすべて良 いのです。
61 愛を通して人間世界に幸福が始まります。人間自身が成し遂げようとする完成や理想実現は、愛の基準を離れてはあり得ません。宇宙万物は、愛を基礎とし て生きていきます。万物は、神様の愛を中心として始まりました。被造世界の中心である人間は、より一層愛を中心として出発したというのです。愛から出発 し、愛によって成熟した基準を通し、愛を通して社会生活をし、愛を完成して霊界に帰っていくようになっているのです。
62 世の中のすべてのものは、一度与えれば、なくなってしまいます。しかし、愛は、与えれば与えるほど、さらにたくさん帰ってきます。ですから、愛を好む のです。愛には、いつも与えることができ、満たすことができるので、いつもうれしく、楽しむことができる内容があります。お金がどれほど良いといっても、 与えてしまえばなくなり、権力がどれほど良いといっても、使えぱ擦り減るのです。知識も限界線があります。しかし、愛は与えれば与えるほど、無限に通ずる ようになるのです。
63 永生は、何から始まるのでしょうか。神様の愛です。その愛は、神様のお金でも権力でも知識でもありません。「わたしは道であり、真理であり、命であ る。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われたイエス様のみ言には、一つ抜けています。それが最も重 要な「愛」です。「私は道であり、真理であり、命であり、愛である」としなければならないのに、「愛」が抜けました。これを、これから聖書に載せなければ なりません。このようなことを言えば、無知な人々は、「なんと不敬な者か」と考えるでしょう。しかし、神様に尋ねてみると、「そのとおりだ」と言われるで しょう。このように見るとき、神様は、愛を好まれるのです。愛の中でも、真の愛を好まれます。これは理論的です。盲目的ではありません。