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文鮮明先生御言選集 20080102 - 第二十五回「愛勝日」の御言 1

작성자대태양/김현수|작성시간20.12.14|조회수44 목록 댓글 0

第二十五回「愛勝日」の御言

天一国八(二〇〇八)年一月二日、韓国・天正宮博物館

 

   堕落の血統に縛られた世界

 一言、話してください。(「大丈夫です。お父様が話してください。」)さあ、苦労されたお母様に一度拍手をして……。(拍手)

 地上に天地父母という名前を残すことができ、そのような土台の上にわたしたちが生きていたということは、それこそ天宙史的な記録です。

 今まで統一教会の教会員たちは、宗教圏内の囲いから抜け出せずに、そこに囲まれて生きてきました。その過去の習慣的なすべてのものを清算できなかったこの事実を、今日、どのようにして清算するのかという重要な起点に来ています。

 わたしたちが語っていることが事実か、事実でないか、ということが、一つのなぞのようになっています。

 皆さんはどのように結論を下しますか? (「事実です。」)事実。それでは、堕落したアダムとエバが堕落する前にしていた動きをすべて見ることができ、それを推し量ることのできる自分になっていますか?

 そのアダムとエバが堕落して、今まで蕩減復帰歴史を経てきましたが、霊界において、周辺にいる地獄に連結されたあらゆる人たちを見てみれば、自分の責任がどれほど重要であったかということを考えたでしょうか、考えなかったでしょうか?

 現在、自分が身を置いている所は、周りを見れば、神様が理想とされた天上に咲く創造の花のような本郷の世界ではありません。想像もできない自由と平和理想の圏内から永遠に離別した場に立ち、自分自身が天の前に自ら「何々だ。」と自分を立てることのできない堕落の血統で縛られたこの世界版図を、どのようにして救い、取り消すことができるのかという問題を考えれば、どうなるでしょうか? 考える余地がなく、それと同時に悲惨であるというのです。

 そのような歴史の背後に神様がいたという事実に対して、「すべてなぞであり、うそのような話であり、空想的で幻想のような話だ。」と言っても通じません。「その背後に何かがある。」と言うことができるようになったとすれば、それは象徴にも、形象にも、幻想にもなりますが、根源までも否定してしまい、根源自体までも、その枠組みを忘れてしまうエバの立場が、恨の恨だというのです。何か希望がありうるでしょうか?

 もし希望の心を持ったとすれば、その希望の場で、自分たちの立場がどれほど悲惨かという事実……。

 皆さん、今日、統一教会員たちがよく言う言葉に「真の愛」があります。真の愛をもって摂理のみ旨を成し遂げることに、自信を持った人もたくさんいました。現在の立場より徐々によいことが開門すればどうか分かりませんが、もろもろの自信を持ったとしても、だんだんと困難な門が四方を取り囲み、一次、二次、三次と高い城壁に取り囲まれ、わたししか残っていないという環境に追い込まれるようになるとき、その自信を中心として、そこで希望を持つことができるだろうかというのです。

 アダムとエバの堕落によって、恨の恨であり、嘆息の嘆息であり、怨恨の宿る、地獄の底よりもっと冷淡な悲しい所で過ごし始めたではなかったかということを、皆さんは考えてください。

 神様の胸の中で、人類の先祖が堕落することによって包囲されたその環境的苦痛の雲の中で、だれがわたしを、だれがわたしたちを、だれが神様を迎えるのでしょうか? 神様の本郷の地があり、歴史においてそれを代わりに相続できる子女がいたでしょうか? いなかったというのです。夢にも出てきません。

 皆さんたちは今、祝福を受けた家庭であると言って、自分勝手に「わたしたちの家庭が福を受けなければならず、わたしたちの息子が……」と自己中心に考えています。それでは成就しません。自分を中心として、いくらきょうを愛し、いくら価値を表そうとしても、堕落の結果を解決することができない天と、堕落の根本を解決することができない霊界の実相の前に、その皆さんが取る態度が何パーセントくらい歓迎されるかというのです。百パーセントのうちで何パーセントですか?

 神様が今まで……。神様はアダムとエバをつくりましたが、アダムとエバを愛しましたか、愛していませんか? 愛していてやめましたか、愛しましたか、愛そうとしましたか? 愛そうとすることもできず、希望も持つことのできない立場にいたのです。

 アダムとエバは堕落しましたが、もし十六歳になって、男性なら男性、女性なら女性として、このふたりが(神様を中心として)関係を結んで結婚していれば、(神様を中心とする)息子、娘を生んでいました。そのような立場で、未来の人類の先祖となるこのふたりの夫婦が、自分の実体自体で一つになるのです。縦的な天の国と横的な地上の国が一つになり、創造理想完結の出発が始まるというその瞬間を、神様がどれほど心中で思慕し、欽慕したことでしょうか。

 このようなことを考えるとき、皆さんが結婚し、ふたりが息子、娘を生んで暮らしているその心情的環境圏内は、神様が哀切な思いを抱き、愛の夢の中で描いていたものです。

 その幻想的な理想に浸りたいと思っていた神様の愛に対して、そこに何パーセント達することができる愛を持った主人の位置に立つ夫婦になっているのかということです。問題が大きいのです。


   神様が立たれた悲しい位置

 男性が男性としての権勢を振るえない人を何と言いますか? (「鼓子(生殖器が不完全な男性)です。」)男性は男性なのですが、女性が一人もいなければ、その男性が鼓子になるでしょうか、男性としての希望を持つことのできる男性になるでしょうか?

 男性としての満点の気迫をすべて持った鼓子に、愛する女性がいて、その相手が原則的基準にいれば、皇后になることもでき、たった一人の天上と宇宙の母にもなれる、そのような価値ある存在だとすれば、その女性のことを考えるとき、その鼓子は、愛を慕うその心を忘れてしまうことができるでしょうか? その心がよみがえって膨らんでいったでしょうか、小さくなったでしょうか? 膨らんでいったでしょうか、小さくなったでしょうか? (「小さくなっていきました。」)

 それでは、この宇宙の中の人間世界において、帝王を中心として鼓子になった人の中には、自分が願ってそのように生きる人もいるかもしれませんが、そのような考えもなく、夢も見ず、永遠に鼓子の王の位置に立っている人がだれかというと、わたしたちが侍っている神様であったということを、皆さんは知らなければなりません。

 堕落の歴史を受け継ぎ、万代の歴史に子孫を残す歴史的実績を見渡すとき、鼓子の位置を守ってきた人は、一人もいないということになります。ここに座っている人はみな看板をつけて、「わたしこそ、先生が天国に入っていくときに侍って行かなければならない。」と考えているでしょう?

 神様は、女性を考えて、抑えがたい思いを持ったでしょうか、そのようなことも思わずに、ただ女性をつくらなければならないと思ったでしょうか? どちらですか?

 忠臣、聖人、聖子。孝子まで下りていくと、孝子、忠臣、聖人、聖子の名を持った人たちが、男性なら男性として、女性なら女性として、永遠に鼓子の立場に立ち、忠臣になろうという人、あるいは孝子になろうという人、烈女になろうという人が、歴史時代にいたでしょうか、いなかったでしょうか? そのようになれない人たちが、愛の道を求めていくとして、村々を、世の中を、天地を汚したその環境は、どれほど分厚いほこりが積まれているかというのです。

 エデンの園に、孝子にならない……。孝子として歩くことができず、神様と一体となって父子の関係を誇ることができず、永遠にそれを正すことができない……。

 一体圏の一つの結実体自体として、光なら光を見詰め、うれしければうれしい香りを醸し出すことができる、そのような立場にいるべき堕落していない本然の男性と女性がいることができたのかということです。汚れた所で、淫乱のほこりが積み上げられ、そこでもろくでもないものになり、それ(生殖器)を主管できず、それに引っ張り回されながら、あらゆる悪の行動を引き起こした罪状がどれほど多いでしょうか? 考えてみてください。


   精誠を尽くして幸福な舞台に連結

 このような話をすれば……。天国に入って行き、天総官興進も、わたしが祝福してあげましたが、ここに来たいと思っても、思いどおりに来ることはできないのです。天総官としての使命が残っています。真の父母をサタン世界から解放してさしあげなければならず、真の父母と協力して、神様を解放してさしあげなければならない立場に立っているのに、「わたしは何々が慕わしく、わたしは、自分を中心として何々が必要だから、それを先にしよう。」と考えることができるそのような余力や、そのような環境与件が、鳥の尾ほどもあると思いますか? どうですか? 郭錠煥氏? (「はい。」)ありえません。

 この汚れた世界を一度に火で燃やして飛ばしてしまうことができれば……、しかし、それはできません。アブラハムのときに、神様がそのようにされていたでしょう。淫乱が乱行しているその環境に入って行き、神様の夢が残るものがないとして、国でも何でもすべて……。夢の中で描き、求めようとする、その余念も残すことのできないこの天地ではないか、というのです。

 文総裁が出てきて祝福し……。最近も、アベルUN完成と言いましたが、「アベルUN完成」と言えば、アベルUNがすぐにアベルUNになりますか? アベルUNが定着するためには、神様の理想を中心として、神様がこの世界を一つの一族として、一つの国として、一つの中心核の国として立てることができなければなりません。それを考えることもできない神様の前に、地上天国や楽園になるでしょうか? 楽園にならなければ、地獄世界にでもなるでしょうか? 天上世界に行って数千年間、神様に侍り、悲しい環境から抜け出すことのできる解放の日を億千万世、祈祷したとしても、その祈祷が神様自体において成し遂げられるまでは、いくら祈祷しても祈祷が無効になります。成し遂げることはできません。

 文総裁が、いくらアベルUNをつくってすべて成し遂げたと言っても、わたしの精誠の内容よりも、皆さんの精誠がもっと深く、高くあってこそ、天上世界と地上世界に、より幸福になることができる舞台が連結されるのです。(精誠が)小さくなれば縮小され、どんどん縮小、縮小すれば、なくなってしまうのです。分かりますか? (「はい。」)

 皆さんの妻なら妻自体が、エデンの園で堕落したエバの体の延長体だったのです。皆さんの母、祖母、娘、すべてが堕落した実体のエバとして、神様の愛を拒否し、蹴飛ばしてほかのことをし、横道にそれてなくなりうる存在になってはいけません。なくなりうる存在を生かすことができるようにするには、どのようにしなければなりませんか? 神様が何か身ぶり手ぶりをされるので、その神様についていったからといって、神様のみ旨が成し遂げられますか? 身ぶり手ぶりをした背後で、数千にも分かれた系列をすべて探査してみれば、根になりうる核というものは二つではありません。絶対的に一つです。

 ごく小さなものでも、絶対的な一つの基準を中心として愛の園をつくり、その園を育て、愛を受けることができなかった恨の人類が、愛の湖から飛び立ち、天上に飛躍しながら、雲に乗って自由に活動できる勝利の覇権者になることができ、神様的な王者になることができると考えているのかということです。そのようにできないではないですか?

 現在において、その事実が不可能だというときは、どうするつもりですか? 未来の問題ではありません。直面した今日の問題です。この現実的問題です。

 皆さんが天国に入って行き、天上世界のどこどこに行って暮らそうと決定すれば、そこに越えていって暮らすことのできる環境を、皆さんの環境でつくることができるのかできないのかというのです。老いて死ぬことのできる姿なのかということです。深刻な問題です。


   愛の根を下ろすことができなかった神様

 皆さん、男性は何ですか? 神様は、中和的であると同時に、格においては男性格主体であるというのですが、神様は男性と同じであり、男性に似ているとすれば、女性はどうですか? 女性も神様に似なければならないのではないでしょうか? 神様に似なければなりません。

 それでは、その男性とその女性にとって、初愛というのは何を中心とするものであり、何を中心として愛という言葉が出てくるのでしょうか? 男性の根本と女性の根本が連結されなければ、初愛や神様が願う真の愛というものはどこにも現れることはできません。

 それでは、男性が、天の初愛を花咲かせることができる、その本性的、本質的愛の根をその心に持っていますか? 女性も、そのような位置の本心を持っていますか? 堕落する前のアダムとエバの位置と、堕落して数千年たったこの位置と、どれほどの差がありますか? アダムとエバの位置が今の自分よりも高いとすれば、その高い位置にいたアダムとエバを追い出した神様の心情的愛の基準は、どれほど高かったのかというのです。

 わたしが尋ね求めていく愛の道が本当の愛の道ですか? その愛が要求する家を持って天国に入って行くことができるのかということです。千年がたち、千年間で神様が変わったのなら、わたしも変わらなければならず、男性が変われば自分も変わらなければならず、女性が変われば自分も変わらなければならないのです。統一教会に入ってきたときの最初のしみわたる心情と、今日、皆さんの先生に対する心情基準、神様に対する心情基準とを比べたとき、どのくらい発展した結果を持ち、自分がその主人の位置に堂々と立ち、千年万年、何も奪っていくことはできないと保障される、そのような姿になっているのか、これが問題なのです。皆さん、それを知らなければなりません。

 今でも、悪の環境ゆえに、いくらでも堕落しえます。一人でいるのなら簡単です。一人でいれば、自分自体に引っ張られなければよいのですが、ここで自分を根として幹ができ、枝が伸び、芽まで出て実がふさふさと数千数万にもなっています。それを一度に切ってしまうとき、その全体が切られてしまう男性と女性であるというのです。そのとき、悲しい悲運の声を出しますか、出しませんか?「いやあ、素晴らしい! このようにできる場があることを願っていたが、素晴らしい!」と言うことができますか?

 皆さんが下ろさなければならない愛の根は、そのように簡単なものではありません。神様が今まで根を下ろすことができなかったのです。「原理」から見るとき、下ろしましたか、下ろせていませんか?

 神様の心の中で、人類の先祖が堕落したという観念や意識を持たないでしょうか、忘れてしまったでしょうか? 意識すれば、そのような思いが出てこないでしょうか? 今からまたエデンの園で新しく出発して幸福な家庭をつくろうとするとき、これが永遠にわたしと共に一体となって残ることができると考えるでしょうか?

 では、これを防御するために努力をしてみなければならないでしょうか、考えるだけでもしてみなければならないでしょうか? 努力するのがよいですか、考えるのがよいですか? 努力するとしても、皆さん自身が鼓子になれば、それ(生殖器)をえぐり取ることができますか? 女性なら女性の器官は、自分のものではありません。男性のものです。ですから、その相対に尋ねてから、えぐらなければならないのですが、尋ねて「そうしなさい。」と言うことができ、鼓子にすることができる人がいますか? いないのです。神様しかいないのに、自分よりも低い僕の天使長を呼んでそれを願うでしょうか? できないとすれば、億万年も鼓子になった神様の悲しい環境の与件をだれが解放してあげるのですか?

 尹晶老氏。自信がありますか? 梁昌植氏? (「はい。」)自信がありますか? (「ありません。」)

 わたしが話していることは、このようなことです。一秒も離れて暮らせないほど幸福な夫婦になったとしても、別れて二十年、三十年がたち、初老になってから愛する妻や子供に会ったとき、その喜びはどれほどの衝撃を与えるでしょうか。そのようなとき、神様を求めなければなりませんか、自分の父を求めなければなりませんか、自分の夫を求めなければなりませんか、息子を求めなければなりませんか? 露骨な話をすればどれですか? 父を求めて合格した者になるでしょうか? 自分の夫を求めて合格した者になるでしょうか? 夫とふたりで愛することも、神様の目と神様の体全体の前には反射的な衝撃なのであって、これは歓喜する衝撃ではありません。

 だれを呼びますか? そのような場において、神様の生殖器に火がついて飛び出し、愛そうとするようになっていますか? ふたりが命を懸けて死ぬ瞬間のような爆発的な愛を感じるとしても、神様は、その愛の道に同参できないというのです。深刻な問題です。


   神様の愛を求める道

 それでは、神様は、男性が必要ですか、女性が必要ですか? 女性としては、神様が男性ならば、男性も必要でしょう。

 例えば、神様がお一人でいるのですが、数億千万の女性たちが裸になり、その女性たちが、互いに美しさを誇り、香水の香りなどで化粧したとします。その中におぼれて、「わたしは、そこで一日でも暮らすことができればよい。」と思われたでしょうか、思われなかったでしょうか? 「ええい! この汚れた者たち!」と言って、つばを吐くよりも、刃物があれば切ってつぼに入れて飛ばしてしまいたい思いが先だっただろうかというのです。

 アダムとエバを失ってしまったその神様の心に、それ以上の衝撃を与えることのできる愛の出発が、人間世界において、堕落した子孫の世界で現れることを願うのは、「原理」まで否定することです。そうであるにもかかわらず、一人でいれば「孤独だ。」と言って、妻と息子、娘を訪ねていくと言い、息子、娘がいなくて泣いたりわめいたりする、このような人が多いのです。

 そのような環境で暮らしながらいつまで継続し、いつ一度にきれいにこれが清算されるのかということです。清算される秘法は簡単です。人が八十年を生きるのなら、八十一年まで勝手に使うなというのです。それは何の話か分かりますか? 八十年生きるとすれば、いくらふたりに衝動が起き、愛したいと思っても、会わない立場で思慕することもなく、「それは、わたしと永遠に関係ない。」と考えながら八十一年を過ごせば、神様が訪ねてきて慰労してくださるかもしれません。アダムとエバはそれほど途方もない事件を起こしたというのです。

 統一教会に“よくない霊的病”があります。先生を中心として、女性たちが皆慕うのです。おばあさんまでそうです。(先生が)自分の直接の孫の位置に生まれたとしても、おばあさんまでそうだというのです。母親までそうです。双子で生まれた姉も、妹もそうなのです。

 では、宗教で修養の最高の方法、神様の愛の道を求める最高の修練方法は何でしょうか? 情欲を克服することです。情欲の克服です。

 女性たちは、先生がハンサムでもないのに、やたらに先生を好みます。(先生が)前に行けば、後ろに行ってでも上着をつかもうと、このようにするのです。そこで(先生は)自分勝手に行動することはできません。そのような環境で、エバ(女性)をだれのように考えるのかというと、自分の妹のように考え、堕落していない妹のように考えるのです。堕落していない妹のように考えて、堕落したそのような衝撃を、その妹を通して感じようとしても永遠に感じることがないということです。

 神様が、堕落のわなにひっかかり、数千万年を鼓子の頭の立場に立ち、その女性たちを訪ね求めてきたという事実です。どれほど慕ったでしょうか? 慕ったということを知った人がいたとしても、思いどおりにそれを埋めることはできません。原理原則に立脚しなければなりません。初愛でなければなりません。初愛です。人類の世界になかった初愛です。

 それでは、堕落したアダムとエバを追い出しましたが、それ以降に繁殖して子女を生み、その子孫たちの中で、初愛の痕跡を見いだすことができますか? それ以上にならなければなりません。あなたたちは、今までふたりで暮らし、息子、娘を生んで暮らしてきましたが、今そのことを考えて再び整備すべき時が来ました。始祖が、女性なら女性として、天の国の男性と初愛を結んだのかというのです。

 アダムもそうです。初愛の同伴者になったのか、堕落した愛の同伴者になったのかというと、初愛ではありませんでした。そこには、違法の愛が生じたので、良心の呵責を受け、垂直にならなければならないのに、曲がったこのような環境与件に衝撃を受け、その環境圏内をいまだに抜け出したことがありません。そのような過去の歴史時代が継続しているこの時代において、堕落したアダムとエバの何千万倍の福を受けることができる天の祝福が準備されているとすれば、その祝福を神様が与えたいと思うでしょうか、隠したいと思うでしょうか?

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