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文鮮明先生御言選集 20060214 - 本然の道とカイン世界克復 1

작성자대태양/김현수|작성시간22.08.27|조회수23 목록 댓글 0

本然の道とカイン世界克復

2006年2月14日(火)、漢南国際研修院。
このみ言葉は朝の訓読会の時されたものである。

(敬拝)(信俊様中心に)拍手!マンセー!ウインク!(笑い、拍手)挨拶をした。「今日は西部から麻浦、本部、鐘路、恩平、西大門このような所から来ましたし、平和大使5人が鐘をアボニムに御生誕の時準備して捧げようと持って来ましたが、そのときお捧げできず今あちらの外にあります。そして平和大使がアボニムに絵を一幅捧げなさいと言う啓示がおりて持ってきたと言います。その啓示が恐ろしいのだ。(笑い)さ、そうか、訓読会しなさい。

「日本の青年たちが・・・。」日本の青年たち、韓国僑胞の青年たち、何人来た?「36人です。」36人?「はい。」手を挙げてみなさい。修練よく終わったのか?「はい。」新しい決心をしたのか?「はい。」日本の言葉はすべてよくする?(笑い)韓国人か、日本人か?「韓国人です。」日本人になってもよい、何。さ!

劉正玉(ユ・ジョンオク)来なかった?劉正玉!「来ませんでした。」来るようになっているが。昨日11時以後に到着すると言って朝に来ると言ったが。郭会長はいつ来ると?「明日の午後です。」そうか?「ヨルダンを取りやめて明日の午後です。」さ、我々の訓読会をしよう。(『天聖経』 ‘人間の生と霊魂の世界’ 編 ‘第1章
  

良心は神様よりも、師よりも、父母よりも先にある

『・・・・・・サタンは遠い所にいるのではありません。自分と共に連結されています。自分というのは天国と地獄の境界になるのです。自分に地獄があり自分に天国があります。良心は天国、地獄は肉身です。良心は主体であるにもかかわらず堕落したために・・・。愛によって良心が愛と一つになって完全な霊的地的、地上天国天上天国の永遠なプラスの立場に立たなければならないのです。』

霊的な地的か?霊的な地的だ。霊的地的であって、知的ではない。天と地!そうだ。

『・・・・・・すべての人間は各々自身の中に最も貴重な師を一生涯われわれを初めから終わりまで維持しています。にもかかわらずその師を間違って待遇し踏みにじって乱用します。その師がまさに人間の良心です。我々の良心は常に我々自身に助けになるように言葉をし、真の愛と連結させてあげようとします。父母のように我々の良心は我々をして善で非利己的な人になれと促し、神様のみ旨に従って行動するように導いてくれます。』

良心は神様より先立っているのだ。その次に良心は師よりも先っており、良心は父母よりも先立っているのだ。創造する前から神様の前にあった体と心が一つになったのだ。だから本来良心は、神様も育ってきたと言うのだ。神様も良心を中心に体を育てて来たのだ。だから良心が神様よりも、出生する前から良心があり、学ぶ前からあり、その次に主人になる前から主人になったのだ。

そのために良心は体が間違うようになればいくら夜中であっても‘この野郎、するな。’と言うのだ。悪いことをしようとすればすでに良心の呵責を受けると言うこと!死んだ神様が生きて来て、死んだ師が生きて来て、死んだ父母が生きて来るのだ。だから良心が願う通りせざるを得ないのだ。これを知らなかった。

それでは堕落する前にも神様の良心と体が争ったのか?いいや。今もどこの誰が神様は良心と体が争うと言えないのだ。争わない神様の息子娘になれなかったために争うのだ。根源がすべて異なったのだ。簡単な原理であるが、聖人賢哲もこれを解決できなかったのだ。

先生もこの問題にぶつかってどれほどおこがましかったかわからない。そこで宇宙主管を願う前に?「自我主管を完成しなさい。」それだ。こ奴の体が宇宙の怨讐であり、大宇宙の根本の神様自体から、学ぶことができる知識から、その次に王の場以上になるのだ。これは簡単なことだ。

皆さんが祈祷をするとか何をするようになれば必ずこの体が中心に極反対の存在が来て主人になっているのだ。目を開けて見れば体に美人が来てくっついて首を抱いて口を合わせようとする。堕落した体は百発百中そこに動いて行くのだ。それまで克服しなければならない。どこまで行かなければならないのか?神様の息子娘であれば体心が争う根源に行かなければならない。それが情欲と一致がなっている。情欲を克服しなければならない。分かるか?

男たちが天使長の体に間違いないと言うのだ。朝によく食べてよく気を付けて着て、出るようになればその目には他のものが見えない。どこであれ美しい女の人がおれば目が女の人に行くのだ。雑種の種、どうか?今もそうだろう?「はい。」それを無くさなければならないのだ。

40日になる日には霊的に実験をする。実験するのだ。その場には、体と争う場には神様が現れることができない。神様は父母の父母であり、師の師であり、主人の主人であるが主人が異なっているのだ。体に愛の紐を植えておいた。アダムエバが大きくなっていくが16歳以後から成年21歳の峠を超えなければならない時その時になれば成熟して男女が体と心が一つになることと同様に教えてあげる必要がない。自分の相対になりえるし、自分の主体になることを自動的にわかる。合わないのはわかる。嫌なのだ。

いくら正面に対してもすでに角度が異なるのだ。角度が異なるために上がれば必ずサタンは下に来ているのだ。下に来ているがそのままいない。必ず黒いのでなければ赤いのだ。それでは唯物論と言うのが何か?根本を全部すべてひっくり返して否定してしまうのだ。

簡単なことであるが、これを根本的に幼稚園から教えてあげればと言うことであり、体心が一つになることを知るようになれば不幸になりえないし、師に反対できないし、その国の主人に反対されえない。自動的に動くのだ。そこに行くようになっているのだ。そう、教育が必要ない。良心が教育しようと宣布した世界の文教部長官がいるのか?いない。‘良心的’だと言うことは驚くべき言葉だ。あんたが良心的であればこれだ。

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