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文鮮明先生御言選集 20060223 - 競争と開拓の主人になれ 2

작성자대태양/김현수|작성시간22.11.19|조회수33 목록 댓글 0

   ‘ある’というのはないということを前提にしてする言葉

 上下という言葉を一般が使うようになれば左右、そうか?そのような言葉をする時上下・左右、何だとそうか?「前後です。」前後!‘上下・前後・左右’と言い、‘上下・左右・前後’と言うのか?「‘上下・左右・前後’と言います。」上下・左右・前後!これは父子の関係であり、これは夫婦関係、左右が夫婦だ。‘上下’というようになれば父子の関係は合ったが夫婦関係は何故‘右左’と言わず‘左右’と言ったのかというのだ。

 人間はすべての結論をつける時は体と心が一つになって結論付ければ楽だというのだ。体と心が一つになる場で結論付ければ自分がとどまりたくない。ブーッと浮くのだ。そこで着地がだめだというのだ。そのために上・中・下、その次に何だと?左・右ではない。右・中・左、こうでなければならないというのだ。これは直してしまわなければならない。女が男よりも先だったというのだ。

 人間は堕落したために父子の関係も正しいのであり、兄弟関係も正しいが左右関係は女が男の先になった。本来女が男の前に行けるのか?次に来なければならないのだが、右左にならなければならないが、左右をつくったのは本来の主体でないものと反対になったために左右になったというのだ。だから上・中・下、その次に?女!何だと言わなければならない?上・中・下、右・中・左としなければならない。始まりも女が先だったし終わりの日にも女が先だったために女によってなされたのでなく女によってすべてのものが壊れていくというのだ。

 女が何のために壊れるのか?愛のために!公的な場、永遠に不便な、どこに持って来て置いても場をつかんで留まる場は永遠にした場でなければならないが、留まることができる場の反対の場に持って来て置いたために左右になったというのだ。

 何故?人は生まれる時頭が出て息を吸おうとすればこれを抜け出なければならない。これまでは耐えて‘うんあ!’というのだ。ここを越えて行く時にはすべて防いでしまわなければならない。狭い門なので全て防いでしまって抜け出るので、抜け出れば足で蹴り込むというのだ。蹴りながら‘うんあ!’と言うのだ。蹴りながら息を吐くのか、吸い込むのか?蹴り込めばまた満ちる。フク!フク!倒れるのだ。

 それを考える時人に従って異なりえないし息を吸って出す時は耐えてその次にフウ!吐いて耐えて吸い込まなければならないのだ。だから最高の圧縮になるのだ。最高の膨張になるのだ。その警戒線がある。

 人も剛柔がある?美人がおれば
醜い人がいる。美女醜い男か、美人醜い男か?何故美人だとそうか?美人だと言う言葉がないだろう?あるにはあるが美人を中心に・・・。美人と言う言葉が出るためには美男と言うものを前提としない限り美人が出ない。

 そのために美人1人出たのではないのだ。必ず美人が生じたとすれば美男と言う先有条件がある。上と言う言葉をするためには上だけ持っては先有条件がだめになっている。

 皆さんが今座ったこと、夜になる時にはこれが水平を中心にここに来てこのようにくっついているのだ。そうか?(笑われる)昼には正午定着で反対になっているのだ。正午定着と言うこと、初めて宇宙の中で昼の中で影がなくなれば底と垂直になると言うのだ。正午定着と言うのはそのような考えをしなければならない。

 そのために必ず存在を決定することは、‘ある’と言うことはないと言うことを前提とする言葉だと言うのだ。‘明るい’と言う時には暗い中で光がある所を明るいと言うのだ。一番明るい’と言う時には一番暗いものを認定して一番明るいと言えば言葉がなるのであって、1人は言葉も成立されない。

 皆さんが話すことも相対的関係で言うのであって、自分の思い通り話さない。一度話せば聞かなければ自分はぐるっと戻らなければならない。聞くことを訪ねて行かなければならない。相対がいなければ永遠に訪ね回ってなくなる。訪ね回りながら消耗してエネルギーがなくなるのだ。

 そう、生きると言う女、独身生活をすると言う人は家門を滅ぼす。独身生活は何かと言えば女が嫁に行く時になったが嫁に行くと言うことを否定して行かないと行くと言うことを否定して行かないと言って行かなければ嫁に行く夫が永遠にいないために夫が恋しければ街の女になるのだ。フィーック!(口笛を吹かれる)

 
因縁と関係を無視できない


 ‘良い’と言う時には悪いことを・・・。全部すべて相対的関係だ。‘自由’と言う時一人する言葉ではない。これを知らない、今日の若い奴らが。中世キリスト教の乱暴な圧政を受けて自由を得ると言ったが、自分一人の自由ではない。キリスト教全体を越えて自由にすると言うがそこに個人的な自由はありえない。全体が願う場に和合されうる、思い通り行うことができるのにおいて距離までないのが自由と言う定義を下さなければ。

 こ奴の子供たち、自分個人を中心に、若い奴ら狂人のように‘私のその思い通りすればよい。’と言うが、自分の思い通りすればお母さんのお腹の中にお父さんのお腹の中で精子卵子を分けていることができるのか?話してみなさい。自由と言う言葉もお父さんお母さんの精子と卵子が一つになって始まった。統一されて始まったそこから出発したが、自分の個人的な精子が自由がありえるのか?それは無くなるのだ。卵子も無くなるのだ。

 卵子精子が和合してよいと押してあげれば引いてあげて引いてあげれば押してあげて授受作用すれば丸々しながら転がるのか、のらくらして転がる?それは坂道でもこのようにかかるが、丸々すれば転がって行くのだ。丸であれば‘丸’の一言でもって言葉にならない。‘丸々’すればと言葉
になる。‘来て来て’と言えば無くなるのだ。行けないので永遠にどこに方向無く一人で・・・。これを知らなければならない。話す自体も必ず相対的な関係がある。

 因縁と言うもの、最近因縁を言うが、1人では因縁と言う言葉がない。路傍に行って男と女の服がぶつかる時因縁になる。因縁と言う言葉は一人でする言葉ではない。女が‘私、因縁から出て因縁で生きて因縁で死ぬ。’と言うが、相対がいなければ何という言葉か?因縁は必ず相対がおれば成立される。因縁を通して結果を結ぶことを関係と言うのだ。

 そこで世のすべてのことは関係を持った圏内で住むのだ。兄弟関係、父子の関係、夫婦関係、同族関係、民族関係、師弟関係、どこでも通じるのだ。それを抜いておけば・・・。関係という言葉が必要だ。目の関係鼻の関係口の関係耳の関係がここで‘私は鼻が必要がない。’と言えばよいのか?顔には鼻が必要だし目は?ここを中心に目も対等だ。目鼻が‘やや、我々は口が必要ない。’と言えば大変なのか?‘我々3人が一つになったので耳やめなさい。’と言って耳がやめてみなさい。大変なのだ。

 そのために一人で生きるのではない。多様な因縁と多様な関係世界において多様な方向の統一的な平和をどのように探すのかこれだ。考えてみたか?若い奴ら!‘私の思い通りする。’というが、家庭に入って自分の思い通り、すればそれは追い出されて無くなるのだ。家庭からなくなることを知らなければならない。因縁を無視して関係を無視することは存在の起源がありえないし期待がありえない。このようなことを知らなければならない。

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