アブラハム家庭を通じた神様の摂理と教訓
神様がアブラハムを呼ばれ、「カルデヤのウルを離れるように」と言われたとき、アブラハムは天の呼びかけにこたえて、そこを出発しました。故郷を捨てて出発したのです。どうしてでしょうか。そこは、アブラハムが暮らすべき世の中ではなかったからです。この世は恨まれるべき世の中であり、呪われるべき世の中です。いくら愛する父母と親戚が住んでいる地であったとしても、その地は天の人が住む地ではないので、神様はアブラハムを孤独な荒野に追い出されました。「カルデヤのウルを離れなさい」と命令されたのです。
アブラハムは、今日私たちが聞いている内容を知らない立場で、この罪悪の世の中をけ飛ばして無条件に出発しました。神様に祭物を捧げるときも、内容も知らずに祭物を捧げました。「イサクを殺しなさい」と言われたときも、その命令の意味も知らずに無条件に従ったのです。このように知らない立場で天のみ旨を奉ってきたのが、私たちの先祖たちの歴史なのです。責任を負った人々は、知らないながらも天を敬い、重要視してきました。これを知っている家庭は、多くはありませんでした。
アブラハムからイサクを過ぎてヤコブ時代に来て、ヤコブが十二人の息子を連れてラバンの家からカナンに戻ってきた目的とは何でしょうか。その一代に天の家庭の基盤をつくるためでした。天の祝福を恋しがり、自分の兄をだますことまでしたヤコブでしたが、彼の息子、娘たちはこのような父を分かってあげることができませんでした。彼らは、ヤコブが愛するヨセフとベニヤミンをねたみ、嫉妬しました。それが起源となり、動機となり、条件となって、イスラエル十二支派のうち、十支派の側と二支派の側に分かれるようになったのです。
このように、歴史路程で天を敬う責任者は天のみ旨が貴いことを知り、み旨に従ってきましたが、その責任者を理解してあげるべき家族が理解できないことにより、天の歴史を台無しにしてしまったのです。
アダムとエバとその子女を復帰するための神様のみ旨をアダムの息子が裏切るとは、また、ノアを通じて成し遂げようとしていたみ旨を彼の息子ハムが裏切るとは、そして、ヤコブを通じて成し遂げようとしていたみ旨をヤコブの息子が裏切るとは、思いもしなかったというのです。ですから、サタン世界にいる者たちが裏切り、理解できないのは当然であるといえます。しかし、天に従う指導者のもとに、あるいは父母のもとにいる子女たちが従うことができなかったので、築いてきた先祖の功績が蹂躙されてきたのです。
怨讐は、どこにいるでしょうか。家の門の外にいるのではありません。それでイエス様は、「あなた方の家族が怨讐である」と言われました。そのみ言は、「信じることができない者、裏切る者、天と関係ないところで行動する者が怨讐である」という意味です。
神様は、知らずに従うノア、アブラハム、ヤコブと同じ先祖たちを率いてこられました。天は何も知らない者たちを立てて、切なる事情を分かってくれることを願われました。どうしてこのような先祖たちを指導者として立てられたのでしょうか。知らないながら従っていたとしても、天はみ旨の前に裏切るときには彼らを打ちました。許すすべがありませんでした。
モーセとイスラエル民族を中心とした摂理
ヤコブ時代を過ぎ、モーセ時代でも同様でした。モーセを立てておいて、彼を将来イスラエルの指導者として立てようとなさった天の心情を、モーセ自身も知らなかったのです。怨讐のパロ宮中に送り豪華絢爛な環境の中で育つようにした、その理由を知らなかったというのです。
しかし、民族の精神を失わなかったモーセは、自分の前に豪華絢爛な栄光が幾重にも重なれば重なるほど、そこが自分の生きる世界ではないという信念が積み重なっていきました。アブラハムもそのような信念のもとで天の前に立ち、ノアもそうであり、ヤコブもそうでした。モーセもそのような立場であったというのです。どんなに豪華絢爛なパロ宮中であったとしても、怨讐の宮中だという思いが、鉄石のように堅かったのです。
四十年の生涯をパロ宮中で過ごしたモーセは、一日たりとも幸福な日はありませんでした。自らの民族が悲嘆の中にあることを見つめながら、たとえ死に追われ、恐怖が増し加わったとしても、民族を救いたいと思って同情するあまり、民族のために死のうという心情が先んじたので、イスラエル民族の中に飛び込んでいったのです。
このようなモーセの志操を、誰が知っていましたか。イスラエル民族を愛する心をもったモーセであることを、その当時のイスラエル民族の中では誰も知らなかったのです。もしその時、イスラエル民族がそのような堅い志をもって天を擁護し、選民を救おうという心情をもっているモーセと一つになっていたなら、天の摂理は延長することはなかったでしょう。
しかし、モーセがイスラエル民族の前に現れ、新しい信念のみ言、新しい趣旨を語っているとき、裏切りにふけっていたイスラエル民族でした。この群れが互いに戦うのを見つめるとき、モーセの義侠心は燃えたのです。「互いに団結して、怨讐と戦うべき立場であるのに、同族間でお互いに戦うとは」と。それを見た彼の心情は無念だったのです。民族愛に燃えているただ中にあって、怨讐の国のエジプト人と同族のイスラエル人が戦うのを見たモーセは、エジプト人をその場で殴り殺しました。
その時、イスラエル民族全体がモーセ側となり、一つとなって団結したとするなら、神様の摂理はその時始まっていたでしょう。四十年の延長はなかったでしょう。民族を同伴して行くべきモーセは、民族の裏切りによりミデヤン荒野四十年という延長の道を歩まなければなりませんでした。パロ宮中での苦難に遭いながらもイスラエル民族を奪い荒野に率いていくモーセと、彼に従っていくイスラエル民族は、みなかわいそうな人々でした。
今は主権や価値、社会的背景がいかなるものであるかを知ることが目的ではなく、環境や社会をどのように築いていくかということも目的ではありません。神様の願われることを知ることが目的です。
では、神様が願われる所、神様が願われる地がどこにありますか。イスラエル民族が団結して「神様が願われる所とはどこですか」と尋ね、モーセのあとに従って死を恐れずカナンの地に走っていったとすれば、彼らは荒野で倒れることはなかったでしょう。神様のみ旨を知らず、導かれるままについてくるモーセを見つめる天は、一瞬たりとも休むこともなく、たとえモーセが寝入っている瞬間であっても、気をもみながら民族を見つめたのです。
どのようになるか分からない立場にモーセを追い込んで導びいてきた天の心情も耐え難いものでしたが、耐え難い立場にいるモーセをイスラエル民族が分かってくれない、そのことがもっと悔しいことでした。それゆえその民族は、審判を受けるしかなかったというのです。審判はこのような場面で行われるのです。こうして、モーセはみ旨を成すことができず、彼の後継者がカナン復帰のみ旨を成し遂げたのです。
イエス様を中心とした神様の摂理と福音の中心内容
モーセもそうでしたが、イエス様の時代を回想してみると、イエス様は何ゆえにこの地に来られたのでしょうか。
四千年の歴史路程に生きて逝った信仰の先祖たちは、何も知らない中で神様を信じてきて、何も知らない中で天を願いとしてついてきましたが、イエス様はかわいそうなイスラエル選民の前に天の心情を通告するために、追い込まれながらも率いてこられた方なのです。この四千年間、天は悔しくもうらめしい心情を抱きながら、何も知らないイスラエル民族の前にメシヤが来ると、その準備をさせてこられました。
彼(メシヤ)が来る日になれば天の心情を知ることができると、神様の内的心情を予告させたので、イスラエル民族は知らないうちにメシヤを願うようになっていました。ところが、そのような民族がメシヤを否定しました。もし、メシヤを願わなかったイスラエル民族であったなら、審判を受けることはなかったでしょう。
天はイスラエル民族に、何も知らない彼らを導びかれた苦衷をさらけ出して、「私は誰であり、お前たちは誰である」という事情を分かち合いたかったのです。その事情を分かち合うために四千年ぶりに天が送られたメシヤが、イエス様だったというのです。イエス様によって歴史が明らかにされ、イエス様によって心情が明らかにされ、イエス様によって新しい世界が展開されていたなら、どうなったでしょうか。もしその時、イスラエル民族がイエス様の前に帰依して、イエス様が死ねば共に死に、生きるならば共に生きることのできる団結した民族となっていたとするなら、この世界は原子爆弾による恐怖であえぐ世の中にはならなかったでしょう。
イエス様はこの地に、何をもって来られましたか。新しい宣布をするために、み言をもって来られました。新しい宣布の内容は「私はあなた方の父である」ということです。さらには「あなた方は私の民だ」ということです。イエス様は、このような宣布の内容をもって来られました。さらには「良い」という名詞をすべて許すために来られました。罪人であった人間が神様の民になることができ、罪人であった人間が神様の息子、娘となることができ、罪人であった人間が神様の新婦になることができ、罪人であった人間が神様を身代わりすることができるということ以上に良い知らせはないでしょう。イエス様がもってこられた福音の中心内容は、このことだったのです。
イエス様は、四千年間、恨を抱き悲しんでこられた神様のやるせないその心情を宣布するために来られたのです。しかし、イエス様は追い込まれました。草の生えているベツサイダの野原に五千人の群れを集めて、食べる物がなく神様の前に哀願の祈りを捧げるイエス様となりました。準備した聖殿は数多くありましたが、そこが安息の場となることはなく、身の置き所のなかったイエス様でした。
公演が催される宮殿の祭壇で、神様を呼びながら議論しなければならなかったイエス様が、オリーブ山の裏手の谷間で訴える境遇になるとは、これはどういうことでしょうか。四千年間準備したエルサレム聖殿は、誰のためのものだったのでしょうか。神様の事情を通告し、心情の因縁を宣布する、その主人公を迎えるために準備したエルサレム聖殿でした。
しかしそれは、イエス様の前でなくなってしまいました。安らかな場で天のあらゆる事情を宣布しなければならないイエス様が、ゲッセマネの園だとは何という話でしょうか。そこまでは良いとしましょう。その後には、十字架の道、ゴルゴタの道まで行かれたのです。
彼は、「信じる者がいないか」と思って、ユダヤの民を探しました。信じる者を探し、信じてくれる者を探し、分かってくれる者を探しましたが、信じる者も探し出せず、信じてくれる者も探し出せず、分かってくれる者も探し出すことはできませんでした。さらには、愛する者を探しましたが、それもまた探し出すことができず、イエス様はやむを得ず十字架を背負って、この地で追放されるわびしい立場となったのです。
無念な天の心情を宣布するために来られたイエス様、天が約束なさった天的な恵みを与えるために来られたイエス様、選んだイスラエル、苦労したイスラエル、無念だったイスラエルのあらゆる願いを成就させ、世界を前にして誇ることのできる祭司長国家を成すために来られたイエス様を追い出したがゆえに、イスラエル民族は惨めな道を歩んだのです。
イエス様がこの地に来られた目的
では、来られたイエス様はいかなる方でしょうか。彼は、無形の父に代わる実体の父でした。彼は、私たちの父です。死んでも私たちの父、生きていても私たちの父です。生涯を捧げて侍るべき父であり、永生の国でも侍るべき父なのです。
ところが、その父は息子、娘に会って一度として「息子よ」と呼んでみることもできず、一度として「娘よ」と呼んだこともないまま、息子から追われ、娘から追われて、のちには槍で刺され死んでいきました。悲痛なことの中で、これ以上悲痛なことがどこにあるでしょうか。
それゆえ、イエス様はこの地に来られ「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)と語られました。これは、父として子女に話すべき言葉を語ることができなかったということであり、新郎として新婦に話すことができなかったということであり、王の王として語りたいことを語ることができなかったという意味なのです。その当時の、ローマの法に引っ掛からない程度の話しかできなかったのです。それは、イエス様が本当に話したかったことではありませんでした。
怨讐の地でイエス様が自分の心情をすべてさらけ出していたなら、すぐに許されなくなっていたでしょう。そのような状況でした。サタンが主管するこの世界においては、反動分子であり、反逆者となっていたでしょう。それゆえ、天は極めて小さいけれども、そういう事情を事前に伝えることのできる一つの国家形態を備えて、そのような言葉を語らなければならないイエス様を送られたのです。
祭司長と律法学者、イスラエル民族全部が一つに団結して、イエス様がどのようなみ言を語られても、一言も漏らさずに実践したとするなら、イエス様のみ言を中心とした理想世界が始まったことでしょう。しかし、イエス様はそういう環境に立つことができませんでした。祭司長と律法学者は、行く所、行く所でイエス様の怨讐となりました。そのような局面であったがゆえにイエス様は、「私が誰であり、あなた方は誰である」という話もできずに逝かれるしかなかったのです。それゆえ、どれほど不幸なことであったかというのです。
天は四千年間苦労された神様の事情を知らせるために、事情を語りながら手に手を取って「お父様!」、「私の息子、娘よ!」と言うことができる一日を見るためにイエス様を送られましたが、送ったことが恨となったまま、キリスト教二千年の歴史をつづってきました。
今日、堕落した人間たちの中において善を見つめ良心が指向する方向に従っていこうとする人々は、「神様がいらっしゃるならば、神様、あなたの事情を知ることができますように」と求めなければなりません。先祖たちが孤独な道を行き、死の道を行き、血を流す道をいとわず行ったのはどうしてでしょうか。神様の事情が恋しかったからなのです。
神様の事情を知ったならば、次には何をすべきでしょうか。神様の心情を知らなければならないのです。父子の心情を知らなければならないのです。それを知ってこそ、神様が私の父であり、私は父の息子、娘となることができます。天地が崩れるというようなことがあったとしても、これだけは変わらないのです。これが解決されてこそ初めて、願われたその基準が立てられるのです。その瞬間に天地は、逆転していたのが正常に回転することができるようになるというのです。そのようになり得る時が、終わりの日です。
このように、何も知らない人類と先祖たちを指導してこられたことが、神様の悲しみです。神様は、そのことが分かる人が出てくることを待っていらっしゃったのです。そうしてイエス様が、それを知り、それを知らせるために来られました。来られて新しい宣布をなさらなければなりませんでした。何を宣布されるのでしょうか。天国建設の青写真を宣布なさったことでしょう。人間が失ったエデンの園をサタンが所有しているので、そのサタンを打ちのめし新しい本然の園を建設することができる、という内容を宣布なさったことでしょう。その宣布文が聖書には出ていません。みな消してしまいました。それゆえ二千年の歴史路程は、彷徨の歴史であったのです。