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文鮮明先生御言選集 19580209 - 神の選民である選ばれたイスラエルになれ(2)

작성자대태양/김현수|작성시간16.02.14|조회수89 목록 댓글 0

神の選民である選ばれたイスラエルになれ(2)


   試験と試練の意味

 こうして再びモ-セを代身する指導者、ヨシュアとカレブを立て、二世たちを率いてカナンの地に入ったのでした。イスラエル民族はカナンの地に入ったなら聖殿理念を実現して、聖殿と一つにならねばなりませんでした。ところがこのような立場に立てなかったので、イスラエル民族は倒れてしまったのです。このように御言を中心として一つになれない民族は、時が来る前に必ず神から見捨てられるのです。

 アダムとエバが全被造万物の主人公になれなかったので、この被造万物は御言を中心に六段階期間を通して創造されたので、万物復帰の民族的な峠を越えて、世界的な峠を越える時にも必ず六数の過程を歩んで、神の御言を立てるか立てないかという試験、即ち天使長の代身、アダムを攻撃する事が起こるのです。

 それでイエス降臨六世紀前に、イスラエル民族は旧約の御言をよく守るか、守らないかという試験を受けたのです。即ち、天はイスラエル民族がみ旨を世界的に伝播しなければならない時に至るや、民族を打ったのです。これがイスラエル民族が、バビロンに捕囚になる期間なのです。それで過去に神に背反したこの民族が、再び御言に背反するか、背反しないかという重大なる岐路に立ったのでした。

 天に背反した民族ですから、天を代身してこの民族が新しい六数の出発の峠を越えるときには、サタンの攻撃と打撃を許さざるを得なかったのです。それでバビロンをしてイスラエル民族を占領させる時があったのです。

 この時、イスラエル民族はどのようにしなければならなかったのか? 神がくだされた御言を抱え、モ-セが荒野をさまよっても神の為に、民族を愛したその心情を抱き、怨讐の国であるバビロンに行って最後まで闘って、この御言を死守しなければなりませんでした。このような民族になるべきなのに、そうはならなかったイスラエル民族は壊れてしまったのです。

 旧約聖書を中心に、第二次民族的な御言の基準を復帰しなければならない歴史的な路程に立つイスラエル民族が、神の選民である気概を抱いていったなら、たとえバビロンに捕囚になったとしても、モ-セのような新しい指導者が出て、彼らを率いて行ったのです。 ところが六世紀が過ぎた後に、どんな形態が起こったでしょうか? 意味があってヤコブがエサウの直系を無視し、モ-セが選ばれたイスラエル民族を無視したように、イエスが地上に来られ、意味あってエサウの立場にあったイスラエル民族、エサウ的な御言である旧約を無視していかれるとき、歓迎しなければならなエサウの立場にあったイスラエル民族が、イエスを歓迎しなかったので、世界的な死亡圏を形成してしまったことを、皆さんが知らねばなりません。

 それではこのイスラエル民族はどんな型なのか。エデンの園でアダムとエバを試みた、天使長型と似ているのです。そして今から五〇〇年前には、新約聖書を打つということがありました。即ち、人本主義思想を中心とする文芸復興によって、今日のキリスト教を中心とする封建社会が、根本的に崩壊してしまったのです。

 法王庁の主権が壊され、フランスの攻撃によってアビニヨンの捕虜期間を経なければならない運命があったのですが、これは何でしょうか? 復帰路程において、こんなイスラエル民族を代身する第二イスラエル民族が、イエス当時に形成されねばならないのに、第二イスラエル民族を代身した新しい使命を背負うキリスト教が、使命を果たさなかったので、キリスト教を世界的に打つことがあったのです。これは皆さんは原理を通して、よく知っています。

 ここにおいて、法王は天のまえに悔い改めなければならず、神が立てた気概の心を抱いて、終わりの日までこのようなみ旨を継承して、今日に至らなければなりません。それでは終わりの日に至って、どのようにしなければならないのか。その時に残る既成の御言と既成の教団は、エサウの立場であり、イスラエル民族の立場に立っているということを、彼らが知らねばならないのです。


 キリスト教信者に対する神の願い

 ですから神に願いがあるなら、その願いが何でしょうか。堕落することによって失ったこの世界人類を、代身して求めた選民イスラエルを復帰することが、神の願いであることを、皆さんは知らねばなりません。イスラエル民族を復帰されようとする天の摂理のみ旨を、皆さんは知らねばなりません。

 ヤコブを通して、モ-セを通して立てられたイスラエル民族は、二〇〇〇年前にどこへ行ったのか。イスラエル民族とユダヤの国を世界復帰の足場として立て、この足場を中心にして世界的な復帰の電撃戦をやらなければならないイエス・キリストの路程であったのですが、イエスが逝かれることによってイエス様はモ-セのような事情になってしまい、それで今日になるまでキリスト教は荒野時代にあるのです。主人を失ったイスラエル民族と同じように、荒野路程に留まっているということを、皆さんは知らねばなりません。

 それではイエス様は地上に来られて、第二イスラエルを回復して、ヤダヤ民族はイエスを中心に世界的なカナンの地を復帰しなければならないのですが、このような責任を背負ってイエスのまえに立つ、選ばれたイスラエル民族はどこに行ったのか。またユダヤ教はどこに行ったのか。イスラエル民族がなくなり、ユダヤ教団がなくなり、イスラエルの家庭がなくなり、ヤコブやモ-セのような個人的なイスラエルもなくなることによって、哀れなイエスになって死んで逝かれたのです。

 死にたくて死んだのではありません。今日、既成神学者たちは、死ななければならなかったと、誤って認識しているのです。民族と教団のまえに追われ、家庭から追われ十二弟子から背反され、最後には三弟子からまで背反されたので、行くところは死の他になかったのです。

 イエス様が三〇余年の生涯を哀れに死んだことは、神がイエスを送られた目的ではありません。イエス様は神の皇太子であり、独り創造理念を代身することができる天上天下の主人公として送られたのであって、神が愛される独り子イエスが地上に来て苦難を受けたのは、イエスが誤ってそのようになったのではないのです。民族と教団が知らずにそうなったのであり、社会と家庭が知らずに苦難の道を行ったのでした。

 このように、イエスを殺す歴史的な犯罪を犯した我々に、イエスが求めたイスラエルはどこにいるのか! 心から訴えてみなければなりません。またイエスが求めたイスラエル教団はどこにいるのか! 心から祈祷してみなければなりません。イエス様は二〇〇〇年前にこの地上に来られ、イスラエル民族と教団を捜し求めたことを、皆さんが知らねばなりません。

 イエスはこの地上に来られ、選ばれたイスラエルが反対することによって逝かれたのです。それで自身を信じるキリスト教徒を、失われた第一イスラエルを代身する第二イスラエルとして立て、世界に広げてもう一度再収拾されておかれるのです。今が正に、そんな時なのです。

 それで今日世界に広がってイエスを信ずるキリスト教信者たちには、どんな使命があるのか。イエスに背反して十字架で殺すことによって、最初に選ばれたイスラエルを失ったので、これを代身する第二イスラエルを建設すべき路程が、今日のキリスト教徒に残っているのです。

 今日世界に広がっているキリスト教徒たちは、どんな立場に処しているのかといえば、イエスの十二弟子のような人物を中心として、またはイエスの三弟子のような人物を中心として、一つの教派に団結しなければならないのに、こんな条件を失っているキリスト教ですから大変なのです。モ-セのまえに六〇万大衆は、十二支派長と七〇長老を中心にした班形態の組織内において、各々の位置が定まることによって荒野路程を経ていったのですが、今日第二イスラエルにならねばならない使命を背負う世界のキリスト教徒たちは、班列がないでしょう。

 イエスのまえに十二班列を代身して現れた十二使徒と、三弟子が責任を果たさないでイエスが逝かれることによって、全世界キリスト教は世界の代表的な教派を中心に、十二教派の形態をもって結束しなければならない時期が訪れていることを知らねばなりません。 イエスは今、どんな生活をされているのでしょうか? イエス様が天のみ旨をこの地上に成せなかったことにより、ヤコブとモ-セが牧者生活をしたように、今イエスもあの世にいって牧者生活をしているのです。霊界にいって休むことなく、皆さんのために祈祷されているので、これが牧者生活です。

 ですから何をされたのでしょうか。イエス様は今までの二〇〇〇年の歴史路程で、イエスを信じていった人々、即ちイスラエルになることができる人々を集めて、霊界において失った第二イスラエル型を造っておくことが楽園なのです。イエスを殺した第一イスラエルを失うことによって、蕩減復帰原則によってイエスのまえに捜し求めてきた使徒たちを集め、イエスが復活した後に霊的に第一イスラエルを復帰した型が、今日の楽園世界なのです。


 地上天国の主人公の資格

 楽園世界はどのようになっているのか? 楽園世界に行った霊人たちも、第一イスラエルの祝福を受けてイエスを歓迎する足場を地上に立てるべき条件があるので、天上のすべての霊人たちは地上に再臨して、現在生きているクリスチャンたちを第二イスラエルの祝福を代身する立場に立てて、彼らと一つになって、第一イスラエルがイエスに反対したことを蕩減復帰するために活動しなければならない運命にあるのです。これを皆さんは知らねばなりません。ところが今日のキリスト教徒は、これを知らないのです。

 今日終わりの日は、いかなる時でしょうか? 旧約の御言を信じていたユダヤ民族を、異邦民族が打ったように、新約の御言を信じているキリスト教徒を打つ時があるのです。それで人本主義思想を中心に、唯物思想がキリスト教を打っているのです。このように新約の御言を信じるキリスト教が打たれている中で、御言を抱えて出る一つの教派が現れねばならないのですが、この教派は改革教派なのです。

 ところでモ-セ路程において、幕屋を祭る時代が過ぎ、聖殿を祭るべき時に民族が結束して闘うべき試練が残っていたことを、ユダヤ民族は知らなかったのです。そして聖殿を祭る時代から、実体聖殿を完成しなければならない時代に変わる時も、宇宙的な闘いがなければならないのです。この闘いを防ぐことはできないので、今日この闘いが世界的に起こったのです。

 終わりの日においても同じように皆さんは今、実体聖殿を持たねばならないのです。そして実体聖殿を成した次には、何をすべきか。地上天国を建設しなければなりません。

 人間は堕落することによって、御言を失いました。それで新・旧約御言がでて、人間を善なる方向へと導き、今新しい御言がでて、その御言と一つになる人々を実体的に復帰させるのです。封建主義時代は、神のみを主とする時代でした。ところが宗教改革が起こって、この宗教改革によって神のみを主とするのではなく、人間と結合している神として考えたのです。人間がこのような過程を経ていったのですが、今実体聖殿を復帰する時代に入ったのです。

 それではここにおいて、皆さんはどうすべきかといえば、新約を中心とするこの時に、これから世界的に成約の理念が現れる時、皆さんが世界を抱くことができる主人公にならねばならず、イエスの代身存在にならねばなりません。地上天国の主人公になるには、実体聖殿が成った後に、環境的な主人公にならねばなりません。こんな存在になるには、理念的な革命過程を越えなければならないのです。

 それではこの過程は、どのような型によって成されるのか。歴史は蒔かれた通り、または植えられた通りに刈り入れるのであり、今日世界的な終末時代においても、既成観念に属している信仰者たちと、既成主義の御言を持つ者たちは全部、天を背反する立場に立つのです。彼らが誰かといえば、天使長のような立場にある者たちなのです。エデンの園で天使長がアダムとエバを誘惑したように、終わりの日の時代において、天使長のような霊的な教団が現れ、神のみ旨に対して反対する時が不可避なように現れるのです。

 神様はこのような原則を通して、復帰摂理をされるということを感じるとき、終わりの日に面している我々は、どうすれば選民であるイスラエル民族になることができるのか。覚悟をしなければなりません。皆さんは、どんな人間にならねばならないのか? 皆さんはヤコブの後継者にならねばなりません。二〇余年の人生を経て、ヤボク川の岸で闘ったヤコブの代身者にならねばならず、荒野路程においてイスラエル民族を抱えて哀願して歩んで行ったモ-セを、あるいは世界人類を代表するイスラエルの国に対して、ゲッセマネの園で祈祷したイエスを、代身することができる人間にならなければなりません。


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