世界経典 Ⅱ
第2部 罪と救援
第6章 悪、罪、そして人間の堕落
1)人間の堕落
アブラハム系統での信仰では、人間が神様と一つになっていく初期段階で堕落したと教えており、それと類似した信仰が世界の至る所で発見される。キリスト教は、人間の堕落を原罪という教理に連結させている。
原罪はアダムとエバが犯した罪として全人類に遺伝され、神様と人間の永遠の断絶を意味するのだが、それはただキリストだけが治癒することができると言う。
一方、イスラームでは、アダムの罪はアダムにだけ該当するものとして、アダムは、神様に従順にすることによって、全人類と共に許された位置に戻ることができると言う。堕落によってサタンが生じたのであり、少数だけが耐えるべき試練を、すべての人間が経るようになったと言う。最後に、ユダヤ教では、このような信仰が混合されていることを発見できる。この部門で論じた章句は、アダムとエバの堕落によってこの世に呪いが生じたことを確認している。それは個人の責任を強調し、人間始祖の罪に対する私達の責任を否定するほかの章句と均衡がとれている。
人間の堕落は、宇宙の純粋な根源と現在の苦痛に満ちた状態から現れる矛盾を物語る。次には、宗教が成立し得る論理的諸要件である。1) 神様は唯一の創造者である。2) 創造目的は善である。3) 悪は実在し、創造目的と背馳する。このような論理は、キリスト教、イスラーム、そしてユダヤ教で主張している。
仏教にはこのような創造の教理がなく、物質を根本とみなし、同時に自己実現のために克服すべき制約とみなすヒンドゥー教も、やはりこのような教理がない。それにもかかわらず、このような諸宗教は、悪の業報の根源を説明するために、恩寵から抜け出した最初の堕落に関する教理をもっている。
聖書とクルアーン(コーラン)の章句は、人間の堕落を象徴的に説明しており、多様な解釈が可能である、サタン、ルーシェル、またはイブリースなど、様々な名前で呼ばれる蛇は、たびたび不適切な性行為を暗示するものとして説明されるが、アダムとエバが神様の命令に従順にしないよう、そそのかす。
文鮮明先生は、人間の堕落は不道徳な性行為だったと直接的に指摘しながら、堕落は神様の真の愛に対する人間の純粋性に害悪を及ぼしたと教える。悪の根源を性的犯罪だと説明したり、暗示したりするのは、ギリシャ神話、仏教、神道、そしてアフリカの伝統にも現れている。
1. アダムとエバの犯罪
―宗教経典―
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づぐり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私骨の骨、私の肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「私達は園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたが私と共いるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」
女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に、お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕
させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
創世記2.15 ~ 3.24 (キリスト教)
われはなんじらをつくり、それから形態を与え、それからわれは、天使たちに向かって、「アダムに叩頭(こうとう)せよ」と告げた。それで悪魔(イブリース)のほかはみな叩頭したが、かれは叩頭者のうちに加わらなかった。かれは仰せられた「われがなんじに命じたとき、どうして叩頭しなかったのか」と。
かれは「私はかれよりもすぐれております」と、申し上げた。あなたは、私を火からおつくりになりましたが、かれをどろでつくられました」。
かれは仰せられた、「ここから下がれ、なんじはここで高慢であるべきではない。立ち去れ、なんじはまことに卑しむべき者である」。かれは「かれらがよみがえされる日まで、私を猶予して下さい」と、申し上げた。かれは仰せられた「なんじは猶予される者である」。
かれは申し上げた「あなたは私を惑わされたから、私は、あなたの直き道の上で、かれらに向かってすわり込み」、「それで私は、かれらを前から、また後ろからも、右てからも左てからも襲いましょう。あなたはかれらの多くの者が、お慈悲に対し感謝するのをご覧にならぬでしょう」。
かれは仰せられた、「恥辱をこうむり追われて、ここから出て行け。およそかれらのうちなんじらに従う者があれば、なんじらの衆で、われは地獄を満たすであろう」。
アダムよ、なんじとなんじの妻は楽園に住み、随所でなんじらの好むものを食べよ、ただ不義者のたぐいとならぬために、この木に近づいてはならぬ。その後悪魔(サタン)はかれらにささやき、隠された、恥ずかしいところを、かれらにもらそうとして、「おまえたちの主が、この木に近づくことを禁じたまえるは、おまえたちを、天使または永生の者になさらないためであると言った。
そしてかれは、かれら両人に誓って言った、「わしはおまえたちの心からの忠告者である」。こうしてかれは両人を欺いて堕落させ、かれらがこの木を味わうと、その恥ずかしいところが、かれらにあらわになり、園の木の葉でその身をおおい始めた。
そのとき主は、かれらに呼びかけて仰せられた、「われはこの木を、なんじらに禁じたではないか、また悪魔(サタン)は、なんじらの公然の敵だと、告げなかったか」。かれら両人は「主よ、私達は、自らあやまちを犯しました。もしあなたのお許しと慈悲にあずかれないならば、私達はきっと失敗者のたぐいになってしまいます」と、申し上げた。
かれは仰せられた「なんじらは降りて行け、なんじらは互いに他の敵であろう。なんじらには地上に住所と、一期限に対する給養があろう」。かれは仰せられた「そこでなんじらは生活し、そこでなんじらは死に、またそこから復活のために引き出されるであろう」。
アダムの子らよ、われは、恥ずかしいところをおおい、また飾るために衣装をなんじらに授けた。だが篤信の衣装、それこそ最も優れたものである。これは神のしるしである、おそらくかれらはさとされるであろう。
アダムの子らよ、悪魔がかつてなんじらの祖先に、その恥ずかしいところを知らせるため、無知の衣を奪い、楽園から追われたように、なんじらはかれに惑わされてはならぬ。悪魔およびかれの一味は、なんじらがかれらを見ない所から、なんじらを見ている。まことにわれは悪魔たちを不信心な者の保護者とした。
クルアーン7.11 ~ 27(イスラーム)
私がアダムのように自分の罪を隠し、咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。もしあるというなら……。
ヨブ記31.33 (キリスト教)
なぜ聖書には「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(創世記3.21)という聖句が、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創世記2.25)という聖句のすぐあとに続かなかったのか。これはあなたに、邪悪な存在がアダムの内外を誘惑したことが罪だということを教えてくれる。なぜなら、(蛇は)アダムとエバが本来的に約婚した関係であることを知ってエバに対して淫欲を抱いた。
ミドラシュ、創世記ラッパー18.6 (ユダヤ教)
蛇がエバについていって言った。「女性の霊は北の方から出てきた。ゆえに私は素早く彼女を誘惑するだろう」。そうだとすれば、どのように誘惑したのか。蛇はエバと性的関係を結んだのである。
バヒルの書199 (ユダヤ教)
そのとき、邪悪な蛇が深思、熟考したことは何だったか。蛇はこのように考えた。「私が行ってアダムを殺し、彼の妻を奪おう。そして私が世の王になろう」。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン(ユダヤ教)
私達の最初の先祖は時を待たなかった。時になる前に婚姻しようとした欲望で、神のみ意の時を待つことができずに罪を犯したのである。
アレクサンドリアのクレメンスストロマテイス3.14.94(キリスト教)
墜落の夢は、飛行の夢の場合よりもいっそうしばしば不安を伴う。女性の場合、この種の夢の解釈は簡単である。なぜなら墜落の夢は、性的誘惑への屈服を表現し変えたところの落下の象徴的利用をほとんど例外なしに採用しているからである。われわれはまだ落下夢の幼児的源泉を十分に汲みつくしてはいない。
ジークムント・フロイト夢判断
―み言選集―
人類の堕落が木の実を取って食べた結果であり得るでしょうか。アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落してしまいました。
蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って(時ならぬ時に善悪を知る木の実を取って食べる)肉的な堕落をしてしまったのです。
本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことまでも顧みないで犯し得る可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。
人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が人間の中で出発しながら、定着する幸福な儀式でなければなりません。
ところが、彼らは下半身を覆い、木の後ろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。
堕落したアダムとエバの子孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪をもつようになりました。人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも、堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しているのです。
(277-200、1996.4.16)
善悪の果は果実ではあり得ません。それが何の果実だというのですか。果実を中心として、億千万世の人類が呻吟するのですか。このように破綻の場であり、争いと闘争の路程で呻吟する現象を引き起こす果実を、神様がなぜつくったのですか。
これは今、レバレンド・ムーンが語った愛の内容を中心とする果実の結果だったという事実が、何よりも理論的な道に近いのです。それで、愛は、善の愛と悪の愛が生じたのです。善悪の果は、その愛の果実です。
(128-87、1983.6.5)
創世記2章25 節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(創3・7)。
もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性だからである。
しかし、彼らは、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったために、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。
ヨブ記31 章33 節には、「私がもし(アダムのごとく)人々の前に私のとがをおおい、私の悪事を胸の中に隠したことがあるなら」と記録されている。そうしてアダムは、堕落したのち、その下部を隠したのであった。この事実はとりもなおさず、アダムが覆ったその下部が科となったということを物語っている。
それでは、アダムの下部がなぜ科となったのであろうか。それは、いうまでもなく、アダムがその下部で罪を犯したからである。人間が堕落する以前の世界において、死ぬということを明確に知っていながら、しかも、それを乗り越えることのできる行動とは、いったい何であったのだかうか。それは、愛以外の何ものでもない。
「生めよ、ふえよ」(創1・/28)と言われた神の創造目的は、愛によってのみ完成することができるのである。したがって、神の創造目的を中心として見るとき、愛は最も貴い、そして最も聖なるものであったのである。
しかし、それにもかかわらず、人間は歴史的に愛の行動を、何か卑しいもののように見なしてきたというのも、それが、堕落の原因となっているからである。ここにおいて我々は、人間もまた、淫乱によって堕落したという事実を知ることができる。
原理講論、堕落論1.3.2
被造世界は、そもそも、神の愛の主管を受けるように創造されている。したがって、愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となるのである。それゆえに、この愛をより多く受ける存在であればあるほど、より一層美しく見えるのである。
ゆえに神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。
このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創3・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。
愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受けるように創造された原理によって(創3・7)エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。
すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心を受けたのであり、第二には、自分が本来対すべき創造本然の夫婦としての相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのでぎる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになったのである。
当時、エバは未完成期にいたのであった。したがって、そのときの彼女自体は、既に完成期にあった天使長に比べて、知恵が成熟していなかったために、彼女は天使長からその知恵を受けるようになったのである。
原理講論ご堕落論2.2.1
エバが天使長に強奪されたとき、その心はどうだったでしょうか。良心の呵責を受け、嫌だと思いながら天使長の誘惑に引き込まれていったのです。すべての細胞が喜び、花が早春を願うように愛さなければならなかったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てたところで顔をゆがめて愛したのです。
(33-330、1970.8.23)
神様にとってエバは未来の夫人でした。なぜかというど、アダムは神様と一体であり、すなわち神様御自身だからです。ですから、神様は自分の夫人をサタンに侵犯されたのです。
(22-208、1969.2.4)
このとき、不倫なる貞操関係によって天使長と一体となったエバは、アダムに対して、天使長の立場に立つようになった。したがって、神が愛するアダムは、エバの目には非常に美しく見えたのである。
また、今やエバは、アダムを通してしか神の前に出ることのできない立場にあったから、エバにとってアダムは、再び神の前に戻る望みを託し得る唯一の希望の対象であった。
だからこそエバは自分を誘惑した天使長と同じ立場で、アダムを誘惑したのである。アダムがルーシェルと同じ立場に立っていたエバと相対基準を造成し、授受作用をすることによって生じた非原理的な愛の力は、アダムをして、創造本然の位置より離脱せしめ、ついに彼らは肉的に不倫なる性関係を結ぶに至ったのである。
アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。
エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである。
原理講論、堕落論2.2.2