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証言

先駆者たちの証言_02 - 日本伝道日記 - 崔奉春宣教師(西川勝先生)

작성자대태양/김현수|작성시간21.10.30|조회수292 목록 댓글 0

日本伝道日記(抄)

崔奉春宣教師(西川勝先生)

一九二五年陰暦四月七日 韓国・釜山で誕生
一九五六年四月十日 入教
一九五八年七月 日本宣教に出発
一九六一年五月十五日 三十六双



 一九五八年(昭和三十三年)

 五月二十七日

 私は日本伝道を決意して大先生に申し上げ、お許しを受けて釜山教会の二階で二、三の御言を賜わった。先生が「この教会に来て、何の疑いもなかったのか」とお尋ねになった時、私は「別にありませんでした」と答え、先生は「何事も最後まで信じて耐え忍べ」とおっしゃった。

 私はその御言を深く心に留めて、先生がソウル教会の劉孝元先生宛に書かれたお手紙をもって、ソウル行きとなった。私は出発を前にして、四日間の断食を決行した。主様は大邱に行かれ、私はソウルに行くので同じ汽車に乗った。汽車が大邱に到着してお別れし、二十九日に大田教会で先生にお逢いする約束をした。

 私が日本に伝道に行くことを打ち明けたのは、教会では劉先生だけである。中傷の多い社会であるので、サタンの耳に入って邪魔があってはと思って細心の注意をした。人間的な考えとしては、私が日本に伝道に行く事を公表して、皆に知ってもらって送ってもらいたいような気分である。

 夜、宋道彬兄の所に留まり日本伝道の事を話して、すでに船の準備もできているので、今月末に釜山に行くことを告げ、来月早々出発すると告げた。

 話を一年前に、私がこの原理を聞く前に戻せば、去年四月頃、私が初めてこの原理を聞いて驚き、感銘して早速心に浮かび上がった思いは、この御言を日本に伝えたいということであった。私の思いは走馬燈の如く走り、早速、劉先生に「私はこの御言を日本に伝えたいと思います」と告げ、劉先生から「貴方にはその使命があります」と言われて、より思いを固くした。それから常に準備をして、すぐに出発しようとしたが未だ時が到らず今日に及んだのである。


 五月二十八日

 私は一人、劉先生に呼ばれて二階の池承道さんの部屋に導かれた。劉先生は、私が主様からもってきた手紙の内容を明かして、私の信仰問題をテストした。劉先生が「一つの問題をかけて主様を信じることができるか」と言った時、さすがに私も返事に困った。難しい問題である。

 私は答えた。私の答えは私の心から出た答えでない、思いもよらない答えであった。その答えが主様を絶対信じる答えであったので劉先生も喜び、私に秘密の全てを明かして、「これで主様を全く信じることのできる真の弟子だ」と言って「主様に早くお逢いして報告申し上げなさい」と喜ばれた。私も知らない間に、難問題にパスしたので嬉しかった。

 夜、鄭長老にも話して励ましてもらい、宋道彬兄の家に行き最後の夜を過ごし、私は三位基台の編成を宋道彬兄と田耕善兄と結ぶことを約束して、大田で主様にお逢いする約束があったので、二十九日朝、ソウル駅で鄭長老、宋基柱氏、光栄さんに送られて出発した。淋しい別れである。


 五月二十九日

 大田には予定より遅れて到着した。主様が教会の者を遣して、私に待つように言われたが帰ったので、私は崔昌林兄と基錫兄の三人で主様を訪ねて甲寺に行った。

 甲寺に着いたのは夜遅くであった。山中静かな所で奇麗な別荘である。表に出て弟子達と共に夕涼みしていらっしゃる主様とお逢いして、劉先生が主様宛に書いた手紙をお渡しした。早速、月の明かりで手紙をお読みになり、私は嬉しかった。何故なら、必ずお喜びになるに違いないと思ったからである。

 夕涼みを終えて別荘に帰り、ソウルの食口の光栄さんの贈物を開けて食べた。今夜が主様との最後の夜かと思うと、お傍で眠りたかった。主様も何も言われず、私も黙ってみんなの前で平静を装った。


 五月三十日

 朝起きると主様がいらっしゃらない。私は早くお逢いして、朝の列車で出発しなければならないと思い、主様を訪ねて山に入った。主様がいらっしゃった。二人きりで、あまり話し合わなかった。最後にお祈りして下さった。共に部屋に帰り、朝食を済ませて、私は崔昌林兄にお願いして最後の写真を撮り、別れを告げた。

 暖かい良い天気であった。草木は青々として、私は一人、喜び勇む心で道を下りだした。歩いては後を振り返り、主様と別れを惜しみ、また喜びと希望と決意で去った。急いで汽車に乗るつもりだったが、バスがパンクして時間が遅れたが、最後の一秒で動きつつある汽車に間に合って、出発の危機一髪は信仰によって打ち勝った。

 夕方釜山に着いたが、私は日本に伝道に行く事を秘密にして、誰にも知られたくなかったので釜山教会にも行かず、家にも帰らず、友達の楽喜氏の家に泊まった。


 六月一日

 ソウルに発つ前に出航を約束した金錫根船長と一日に太白喫茶店で逢う約束であったので、私は彼と会って、日本出航について討議をして別れた。

 出航の手筈が全て整っている予定であったが、彼は何も準備していない。外面、真面目な人であったので、私は心を落ち着けて他に頼まず、彼と共に日本に行く事を決めて話を進めお金も渡したが、後で彼の約束が嘘であることが判り、悩んだ。しかし、計画を変更することでお金も損するし、また日程も遅れるので辛抱して彼に従った。明日、明日と出航が延びて遅れるので私はたまらなかった。

 ソウルからは電報があり、「上京せよ、中止せよ」との命令である。ああ私は死にたい。あれほど誓って決心して出発したのに、今更、私はどうして帰京できるか。それより死んだ方がましな気持ちである。私は手紙と電報を打って、もう二、三日お待ち下さいと出航を早めた。

 命令は主様からであり、私がいかなる者なれば、この命令を守らないでおられようか。しかし、といって一度決心して出た私は帰れない。私は自分でも判断のつかない岐路に立たされた。しかし、私は一度自分の誓ったことをいかなる立場においても全うする決心をした。たとえ死んでも、誓いを果たすため、日本民族、世界民族の救いのためであると信じて決断した。

 船が出航するといってから、四十日以上が過ぎてしまった。私は焦りのために、心も体も削られるような日々である。出航もできず韓国にいて、何故帰京しないのかという命令に心が刺され、辛い日々であった。船が来るというので、小さい島で徹夜して待ってみた。外面は貿易船で、船員手帳で正式の形をとるが、実際は密航船である。厳重な官憲の目を逃れて乗船の準備をしたが、できなかった。


 七月十五日

 船が来た。食料を買い込んで、夜、遂に出航した。外の乗客との待ち合わせがあるので、十六日、一旦停泊して、夜再び待ち合わせて、夜中一時頃出航した。ようやく望みがかなって、日本に向けて出航である。厳重な官憲の目を通り抜けてここまで来たが、李ライン(当時の李承晩大統領が定めた軍事境界線)を越すまで、まだ問題である。

 勿論私は絶対なる信仰があるので大丈夫とは思うが、人間としての知恵の責任分担があるし、また周囲の者が非協力的であるので、天は如何に摂理なさるか。ここまで来て官憲に捕らわれれば、全ては水泡に帰するのである。私は船長に聞いた。李ライン突破まで、あと何時間かかるか。五時間位とのことで、その五時間を一日千秋の思いで待って、東の方が明るくなりだした頃、無事李ラインを突破した。今度は、再び日本の官憲の領域に入ったのである。一難去ってまた一難である。


 七月十七日

 待ちに待った日本の対馬が大きく眼前に開けている。とにかく一つの思いは去った。それは韓国を出て日本に来たので、天に対する弁解が立つようになったのである。

 昨夜は、誰が誰だか判らなかったが、朝になってみれば多勢の人で女も子供もいた。これでは日本にも貿易船として認められないことは確かであり、また心配である。船が対馬に近づくに従って危険率が高くなってきたので、皆、船中に隠れた。船は無事、対馬を越えて日本本土を目指して走った。

 昼頃より本土が見えて、夜、船は待望の小倉港に午後九時、無事入港した。私はすぐ上陸したかったが、お金で船の貨物を買い入れたので、その解決ができない以上、私は船を去ることができなかった。神からの尊いお金をサタンに取られたくなかったからである。


 七月十八日

 上陸が許されず、午後四時頃、岩国に向かって船は出港した。小倉で上陸が許されなかったので、私は一人でひそかに陸の上に足を着けて心の内で、主よ、日本の土に足を着けましたと祈った。喜びがあふれたが、しかしこれからが問題である。


 七月二十一日

 午前十一頃、呉行き出航、午後一時ごろ広島に到着。午後二時出航、呉行き発、三時半頃、呉海上で保安警備船に連行される。


 七月二十三日

 任意出頭して午後七時、正式に身柄を拘束され、海上保安部留置所に拘置される。

 私は取り調べを受ける。福間係長は私を脅迫した。暴力行為に出たが、私が全日本国民のために十字架を背負わなければならないという蕩減条件を思い、堪え忍び愛さなければならない義務感に打たれた。憎らしい気はしたが愛するように努めた。

 私は神の子として強く闘う事を望んだが、弱いふりをして同情を得ようとしたが失敗した。法の前には同情はなかった。


 七月二十五日

 午前十時頃、検察庁に送られた。私は釈放されるものと思ったが、とうとう送検になり、検察庁の簡単な取り調べがあった。午後四時頃、吉浦拘置所に移送されて被疑者らしくなった。厳重な身体検査を受けて、二舎の二房、そして囚人番号六十番、また私は私の名を権順南とした。八畳位の部屋である。先輩が二人いた。一人は殺人犯であり、他は窃盗犯であったが、二人とも案外、人間的には悪くなさそうである。

 狭い保安庁の留置場からやって来たので、自由の身になれた気がした。話し相手もできた。しかし、少し楽になったのが問題ではなく、重大な伝道使命、日本復帰の使命を思うとたまらない。ただ運に任せて苦杯を飲むだけだ、と。しかし、これも私の知恵の足りない罪の蕩減の結果ではないだろうかと思って申し訳なくたまらない。


 七月二十九日

 検事の取り調べが始まった。指紋照会によって私の本名が分かったので、もう正直に私の過去を話すべきだと思って、自分の本名を明らかにして彼の情状酌量を求めた。そして、一応は彼にも宣べ伝えるべきだと思って終末論を少し話したが、聴かなかった。

 拘留満期には必ず釈放されるものと思っていたが、私と船長、事務長、他の船員二人は起訴となり、他は釈放された。一番この世的にも、神の側からも、釈放されるべき私が許されず、サタンどもが許されたとは。しかし、私はあえて苦杯を飲まなければならないことを決心して、次の公判に備えた。

 私はこの拘置所にジャンパーとズボン一枚で入った。来る時はお金をもっていたが、私の金で船の者たちが海草を買い、それを売って彼等が適当に分けてしまった。私は一文なしだ。尊い神のお金、天の公金であるが、神の子の私には一文もなく、サタンどもによって分けられ、彼等はいろいろなものを買ったが私は何も買えず、また私が来る時の手荷物、原理の本、全ては船の者達が盗み去った。神の子は着のみ着のままである。

 同じ部屋にいるサタンの子達は親兄弟、親戚からの差し入れがあり、それは食物・着物・小遣い金・日用品一切である。神の子には何もない。ゼロの立場より再出発である。同房の松田氏が時々私に食べるように勧めた時、私は後日、必ず大きく報いるであろうと心の中で思った。本当に神の子は惨めだ。何もない。手拭いも破れた。歯ブラシもない。

 私は吉浦に来て以来、父上・主の前に一日三度のお祈りを定期的にした。朝起きる前と就寝前と夜中である。房内で聖書と英語の勉強をした。日曜には朝食を食べず主様の心情を思い、ソウルの方を向いて、朝の礼拝の時間に合わせて静かに聖歌を歌うと共にお祈りをして、私一人で心から礼拝の時を持った。


 八月三十一日

 私が拘置されて丁度四十日である。この四十日を中心にしてサタンを分別し、来たる九月四日の公判に備えようとして四日間の断食を決心した。此の四十日でもってサタンを分別して自由の身になれるような気がする。監房生活での断食は易しいことのように見えたが、やってみると困難であった。何故なら、監房では食事の時が何より楽しみなのに、眼前のむしゃぶりつくような食欲を抑えるのも簡単ではなかった。無事に終えて不変の心で過ごしたことを感謝し、父の心情を慰めた。


 九月四日

 四日間の精誠の断食をして、心を新たにして堂々たる風で公判に出た。もう神の子としての威風を失いたくない。第一回の公判が午前十時より始まり、簡単に各被告に対して質問があり、次回は十八日に開かれることになった。裁判長は一見、好人物のように見えた。


 九月七日

 父の子としての権威を保って、絶対に弱音を吐かない。弱い態度も見せない。いかなる位置、環境にあっても主様の路程を思い出して、私もその如く歩むことを心に決めた。その日の夢に、主様が五十年ぶりに私の母の家にお帰りになり、玄関にそのみ声を聞いた時、私は涙で迎え、主様の胸に抱かれて喜びと不安の心で奉った。

 この五十年間、主様に私が捨てられても不変不屈の思いであったのをみて主様は喜んだ。この夢の如く、私の心が主様にあって永久不変であるようにとの夢であった。私は起きて静かに祈った。


 九月十八日

 午前中、証人福間係長の話があり、午後、各被告に対して検事の求刑があり、私は六ヶ月を求刑された。


 九月二十九日

 判決の予定だったが、裁判所の都合によりと云って十月六日に延期される。


 十月六日

 再び、来たる九日に延期される。


 十月九日

 私は無罪になる自信がある。神の側から見ても、法の側から見ても。しかし、不安な気持ちは隠すことができない。監房を出る時、別れの挨拶をして出る。無罪釈放だと一行の五名の者も皆、このように思っているが、万一実刑を言い渡されると大変なことになると、家族、子供のある船長が悩み出す。私は、このサタンめ、家の事が大事か。私がこうしているのも、彼が不充分だからだと思うと憎んでも憎みきれない。

 刑を言い渡される時が来た。最悪の場合でも執行猶予になると信じていた。しかし、思いは裏切られて全員に懲役六ヶ月の実刑が言い渡され、未決通算五十日が加算されることになった。その瞬間、第二の苦杯を飲むことを覚悟して、その日の午後、上訴権を放棄して就役することに決定した。


 十月十二日

 受刑が確定されて、二階の三十三房に八十四番として入った。受刑者としての初日である。


 十月十三日

 長年伸ばして来た頭髪を刈る。鏡の前で自分の髪の毛がバリカンで刈られていく時、外見が囚人らしくなった。そして私の髪を刈っている青服の囚人が今までは他人のように見えていたが、今は本当に我も君も同じで、頭まで丸坊主になると本当に囚人らしく思え、この時、隠すことのできない淋しさが込み上げてきた。


 十月十四日

 午前十時頃、私達は広島刑務所に移送される為にトラックに乗せられ、約五十分後、広島の吉島刑務所に来た。大きな刑務所である。壁は厚く高い。我等が近づくと大きな刑務所の正門の鉄扉が、待っていましたとばかり開く。無気味な感じである。本当に生き地獄に来たようである。車から降りて奥へ奥へと入った。先輩達が行ったり来たりする。ここで私は今迄の私服を全部脱がされ、初めて青い服に着替えてみると涙の出るような思いである。丸坊主頭に、ぼろぼろの懲役服にゴム草履だ。

 天の使命を負って、神の子として日本民族を愛せばこそ、救おうと日本にも天国を建設しに来たのに、汝らは我の誰なるかを知らずしてこのようになすのかと、心に彼等の無知がたまらない。神の子がこのようにサタンの罪の世界に共に入れられて、サタンの子扱いされる悲しみが新たに湧いて来る。如何なる立場に於ても神の子としての威信を失いたくないので、より心を引きしめた。外のサタンの子達はペコペコ頭を下げたが、私は頭を下げず、神の子の立場を取った。


 十月二十四日

 教育課長に面接を頼んでおいたので、面談する事になった。私は早速原理を語った。彼は良く聴いてくれた。約三十分間、一気に語った。時間がないので又約束して別れた。初めて原理を聴いてくれたので嬉しかった。静かに、父よ、実を結ばせ給えと祈った。


 十月二十六日

 今日はYMCA(キリスト教青年会)の幹部の人が来て話をしたが、中共の視察団としての実話なのか、余り過ぎると云う事柄が多かった。何かの為になる話などなく、ただ雑談のようであり、無意味な時間を過ごした。広島に来て以来、全てを忘れて唯、満期の一日が早く来る事を待ち望んで、規則正しく生活した。

 お祈りは三度、夜中に必ず起きてお祈りした。看守達が私の祈りを理解せずして「おい、おい」と声を掛けられた事が度々である。別に外的に苦しい事がないので、天の父に申し訳ない思いだけである。私の祈りはもっと苦しみを与え給えと祈って、父の六千年の心情と主様の路程と義人、殉教者の道をより実感してみたい。


 十月二十九日

 知能テスト、又分類等があったので、仕事も専門に応じて分けられるようであり、私達一行五人のうちで三人は移送。身体検査などを行って、近いうちに山口刑務所に移送されるようになった。今日は特別に、小さいキャラメルの配給があった。砂漠を行く旅人がオアシスを見付けたような喜びである。甘い物を味わっていない者は、溶かすようにして食べた。吉島の祭りであるとの事だ。


 十月三十日

 拘留生活をして以来、今頃になって体の調子がとてもよい。太ってきたようである。他者は、腫れたと言うが、そうではない。確かに太った。以前の主様の苦難路程を思い出し、私も太ったのだと思うと恥ずかしい。苦労してやせれば、せめて天に対して償いの出来る立場なのに、肥るとは心が刺されるような思いだ。そして、食欲が出て食べたくてたまらず、いやしい思いだ。

 ここ広島刑務所は累犯刑務所なので、私達初犯者は山口に移送されるとの事で、私も近いうちに移送されるとの事である。その間、広島に馴れたので移りたくない。また、山口刑務所から来た者の話によると、山口刑務所は監房が寒いし、食事も少ないし、規則も厳格であるというので少し嫌な気がし、苦杯を進んで飲もうと決心した自らに恥じた。


 十一月一日

 まだ過ぎない、まだ過ぎないと思った十月も過ぎて、今日まで二十二日間を勤めた事になり、十一月に入って新しい月が来たので希望が湧いて来る。出所が近づくような気がして、父よ、主よ、おめでとうと、我知らず心で叫ぶ。夜、静かに寝間で考える事は、韓国の兄弟の事である。勿論、天的兄弟の事である。実は私には苦しみの連続のようなものであった。しかし、共に語り、共に楽しみ、過去は全て楽しい良き思い出である。

 今の心境が落ち着き、又楽であるので、もったいなくてたまらない。常に神の子として強く生きるべき事を定め、今日まで戦い、楽より苦を選び、サタンに対する敵愾心を湧かせ、自ら苦難に進むべきと絶えず思う。


 十一月三日

 昔は日本の明治節であったが、敗戦によって文化の日と変えた。午前中、運動会があった。キャラメル配給が再びあった。刑務所の運動会は外面は楽しそうに見えるかもしれないが、皆内面はそうでもない。午後、部屋に帰ってボタ餅の配給があり、続いて夕飯になり腹一杯になったので嬉しい。初めてである。私も嬉しい。やはり肉なる私は肉による思いは同じである。

 一日も早く「天の父の全きが如く私も全きたる者となってみたい」、この世的凡欲を断ってみたい。夜、私は安氏に原理の一部を話したが聴かない。唯物思想に固まった北鮮的な青年である。何だか私が恥ずかしい思いになって、父の御言の権威が傷つけられるかと心配で止めた。可愛想な反逆者め、と心は怒る。


 十一月七日

 常の如く朝六時半起床、十一時半昼食で、午後四時半に作業中止で、六時半に就寝である。今日、その間待ちに待った韓国の兄弟からの手紙が来た。担当が言うには、韓国文であるので翻訳しなければ渡せないので、当分の間留置するとの事である。他国に来て唯一人の面会のないこの日に、手紙が何より懐かしい。三枚だという。一枚は金成一氏、宋道彬氏、辺氏の三枚との事である。早く山口に移送になってでも読んでみたい思いでいっぱいである。

 書信も月一枚と制限されているので、金成一氏にここでの生活の一部を書き、心配しないようにと書いた。私は絶えず平穏と神の子の権威のうちに希望と忠節に生きる。今迄、拘置生活以来、周囲の者から絶えず尊敬を受けてきたので、父と主様に対して何よりも面目が立った。


 十一月十一日

 韓国の手紙が来ても韓国文だったという理由で留め置きされたので、日本語で送ってもらうために定期特別配信願いを出したところ、今日、許可になった。そこで早速、金成一氏宛に手紙を書いたが、辺先生にも一緒に書いて送った。ソウルの宋兄には臨時発信で出すために今回は書かなかった。この手紙が母国について返事の来るのはいつごろでしょうか。


 十一月十三日

 我等五名が去る十月九日に六ヶ月の判決を受けて十四日の日にここ広島刑務所に来たが、私は初犯者というので山口に移送される事になった。長い間変化がなかったので、私は広島に残るものと思っていたが、やはり移送が決定して私と船長が送られる事になった。

 今迄はこれという辛い事もなく寒くもなく苦労がなかったので、懲役という事を感じなかった。しかし山口刑務所に送られるとなると、今度は本当に刑務所に行くような感じである。向こうから来た者の話によれば、とても規律が厳しく、その上に監房が古風式の格子監房であり、冬は寒く房内までも寒いし辛いとの事である。

 私は自分の寒がり、また弱い体の事を思って少し心配になったが、これも瞬間であり、自分が神の子であり、主様の弟子である事、重大使命の事を思うと、すべて吹っ飛ぶ。ひげをそり、風呂に入り、私物を検査して出発の用意を整えさせられた。

 主様の事を思い浮かべると、いつも奥のオンドルの部屋で話をしている事、また山に登った事、映画に連れて行っていただいた事である。何も言えない、心の底より絶対信頼出来る、自信のある姿が映る。兄弟達の事、また私が教会に入って以来の事や、苦難の路程が思い出される。このように時々自由な夢を見て、起きて自分が不自由の身である事を知り、がっかりする時が多い。

 別に辛い懲役生活ではないが、一日一日が辛い。やはり体の問題より心の問題である。今、私がこのような路程を歩んでいるのは蕩減条件として当然の道なのか、または私の知恵の足りなさの為に受ける失敗なのかで心を悩ます。これが日本民族を救う当然の蕩減条件であると、自己弁解の思いが湧く。


 十一月十四日

 朝六時前に起きる。私達が初めて来た時、青服に着替えた場所に来た。ここは入所する者と出所する者の通らねばならない所、即ち悲喜の交叉点である。私と船長二人は私服に着替え、冷たい鉄の手錠を掛けられ、そして二人はつながれた。自動車に乗せられ広島の次の甲斐駅で降ろされた。丸坊主頭に、手に手錠をはめられ、縄で二人縛られている様子は、一般市民には殺人、強盗、大罪人のように見えるのでしょう。看守や私服刑事が付き添う。

 汽車が来た。乗った。一般の客席に座る。みんなが私を見る。冷たく避ける。誰一人、私の誰なるかを知るはずがない。本当にこの時、誰か一人でも私を慰める者がいたら、私は汝を報うであろうと、味方の一人を求めたい。汽車が下りに走りだす。脱走したい。汽車から飛び下りたい。出来るはずもない汽車の窓より外を見る。景色は楽しいが、心は悲しい。

 私は自由の身となり上り方向(東京)に行かねばならないのに、今は不自由の身となり、逆に下りの方に行く。道行く人、並ぶ家々を見ると何時かは汝らを救ってみせると決意に燃え、今日はこのようにして不自由な身であるけれど、遠からず自由の身となって上京する日がある事を信じ、待ち遠しく思い、今は全て運命に任せた。昼頃になって汽車は小郡駅で下りて、自動車に乗って再び走り、十二時半頃、山口刑務所に到着した。


 十一月十五日

 午前から労役に出て荷物運びをした。長い間部屋の内で手先仕事だけしたので、体に力がない。足もふらふらする。長くいると本当に人間が弱るだろうと思う。昼食の時、三等飯をくれたのでたくさんのご飯に喜んだ。


 十一月二十日

 十七房より五房の雑居房に移る。淋しく冷たい独房より暖かく、又話し相手もいたので少し楽しくもあった。仕事も荷札を作る事に変わり、易しくなった。或る日は拘置所の階段磨きをした。サタン世界の家を磨いている事が辛く、これが神の宮殿なら、たとえ永遠であっても満足であるけれど、幾日も磨かせられた。


 十一月二十五日

 いよいよ今日から本職に入る新人達の訓練が行われ、工場に向かって行った。ここは手袋工場である。私達が入ると同時に、私達一行の三人が訓練を終えて出る所である。久し振りに逢って懐かしい。八房に八〇八番で入り、石鹸箱全てが八番である。早速仕事にかかる。ここでは食事も前より多くて十分である。


 十一月三十日

 久し振りの日曜日。雨なので講堂に集められてフリーテニスの試合を見せられる。日曜日は働かないので一食が下げられる。私は相変わらず日曜の朝食は主を思い断食した。


 十二月一日

 のろい亀の足に万貫の重りをつけてゆくように、経たない一日一日が新しい日を迎えるごとに歓喜の声を上げたいような気がする。今年最後の月である。今は有史以来、一分一秒を惜しむ時であるのに、貴重な時なのにと思うと、来年出獄までは考えないと思っていても残念でたまらない。

 私はいつも主様の苦難記の事を思い出し、一言一句忘れずに記憶して、その如く実行したかった。主が最低の立場に於ても絶えずサタンを屈伏させられた事を思い、私もここ最低のサタン世界に於て屈伏しなかったので、最高の成績を上げた。私の成績が最高に張り出されたので、心の内で「見ろ、どうだ。神の子を」と、どこでもいつでも神の子としての威信を失いたくなかった。


 十二月三日

 留置所の方から、私に荷が来ているからと言って母印を取りに来た。メリヤスの上下である。田耕善、三位基台の兄弟からである。私が寒く苦労しているだろうと思って、韓国から送ってくれた心に涙が出る。

 天の兄弟であるからこそ遠い所から、このように送ってくれると思い出しては涙する。印刷物が来ているのは、多分、主様の説教か又は会報の「成和」であろうと思う。金成一氏から送られて来た。境遇が境遇であるから、より情的に強い。天的兄弟の事を思うと、これが本道でなくして他に道があろうかと、自問自答して喜ぶ。


 十二月四日

 私と私の隣にいる上野氏を呼びだして、担当が事ありげに話をする。周囲の者の話では、この二人はこの手袋工場に残る前兆だと言った。又、私をして監房長として責任を命じたので、神の子を知るかと……心に思う。この担当は韓国人だからといって偏見的に取り扱わない。


 十二月七日

 今日は久し振りに映画があるという。私達は講堂に導かれた。心では嬉しいが、又申し訳ないような気がする。聖日、主様は本部で礼拝をなさっている事を思うと、映画の途中で礼拝時間が来た時、私は心を京城(ソウル)に向けてお祈りをして映画を見た。とにかく条件と精誠は立てた。約三時間続いた。日本皇太子の婚約発表からニュース、そして天然色のチャンバラ映画、初めて見るものである。「人肌孔雀」、最後に善が勝つ。父の国の為に戦う事だ。


 十二月十一日

 昨夜から本格的な冬になったと見えて、水がめに氷が張っている。工場に出て嫌な腹巻きをしたが、九時半頃、仕上部の方に廻された。

 如何なる立場、環境にあっても天を休ませ、十字架を背負い行く、一心一徹の変わらない、このような絶対的な信仰を持てるのも全く原理のおかげである。本当に一日も早く自由な身になって使命を全うしたいと、汽笛を聞くたびごとに新たに思う。


 遠く鳴る汽車の汽笛よ
 一人去らず我を連れて行け
 格子の彼方に輝く星
 師はいまし給う聖恩を偲び
 新しい力湧き出ず


 十二月十三日

 体の調子がよい。恥ずかしいくらい健康である。この第三工場で先週土曜日に事件が起こったので、今日は寒いが裸の検診を受けた。舎房に帰って手紙を受け取った。田耕善兄からである。嬉しい。天宙復帰の使命によって結ばれた三位基台の兄弟である。私の為にいろいろ心配して、劉孝元先生も心配していらっしゃるとの事である。勿論、主様はそれ以上である。宋道彬兄と共に金を準備して送るとの事である。私の為に心配して下さる事を思うと涙が出る。


 十二月十六日

 今日から手袋の荷造りの針山の仕事をするようになった。針台の針が手を刺し血が流れ出る。注意してすると仕事が遅れる。負けたくないので血を流しながらやった。力を入れてやるので、今迄の寒さは吹っ飛んだが、疲れが増して来る。二、三日やると疲れて全身が痛む。夜は疲れの為に勉強が出来ないくらいである。しかし、苦労は覚悟の事であるし、サタンに負けたくないので無理にでも勉強した。


 十二月二十一日

 今日は山口の信愛教会より青年会が来て、二十五日のクリスマスのために今日ここに来て劇を見せるという事である。簡単な劇であった。これを見ていると、何も知らないでいる人類が可哀相である。一日も早く原理を宣べ伝えて、再臨主の御来臨を証さねばと思い、遠からず成約クリスマスの祝われる事を想像した。


 十二月二十三日

 今日、不注意で作業中に針山の針に手首を刺した。血が湧き出る。腕がしびれる。キリストが十字架にて手足を釘打たれた苦しみの何億分の一を味わうような気がする。毎日毎日サタンとの戦いである。絶対負けじと戦う。


 十二月三十日

 刑務所に服役してから、一九五八年の最後の就業日が来た。午前中で作業は終わり、午後大掃除をした。一通り今年の全ての作業は終えた。肉体的には余り辛くなかったが精神的に辛かった。自分の知恵の足りなさで苦役期間を過ごさなければならない事によって、天的使命が遅れた事が、仕方がないで済む事ではない。思えば思う程辛い。


 十二月三十一日

 今年最後の日が来た。午前中、所長の訓示があり、昼から風呂に入った。監房より風呂までの道を寒い中、裸体で走って行った。変わった格好である。今夜は末日であるので、夜遅くまでラジオが鳴る。年越しそばが出る。いよいよ十二時に近づいて来た。ああ、苦難の一九五八年も終わる。過ぎるのを待ちに待った大晦日である。

 私は起きて服を着て、北西の彼方を望みて百八の除夜の鐘と共にお祈りをした。静かに鐘の音がラジオを通して聞こえて来る。自然に私も頭を下げた。父上よ。主様よ、と一言言っただけで涙が出て来る。サタンに対する敵愾心が燃えて来る。今年よりサタンに対する反撃戦である。新年と共に再出発である。新しい決意に燃える。山口刑務所にて父上の、そして主様の聖恩と使命を偲びつつ一筆した。


 お父上
 父よ 貴方は六千年
 話してもわからぬ此の子を
 頼っても裏切られる此の子らを
 忍びに忍び待ち焦れ
 待ちに待ちたる日のあらん事を

 嬉しや父よ 御意通り
 父の御意の現れの子が
 愛と真で忠と孝を誓い
 罪を嘆きて海となし
 天宙復帰の使命背に負えり

 父の御意を我が心とし
 三十幾星霜 涙で過ごし
 サタンと共に戦えり

 危うい山も谷もあり
 父の力と己が力で勝てり

 誰でも我を信ぜよと
 言うに言われず 焦りとこがれで
 今日も暮れ 明日も過ぎ行く
 愚なる者に良薬苦く
 永久の尊貴栄光 誰にあれ

 我は知る 父と子の
 御意と使命を
 荒野のイスラエル倒れど
 過ぎし人物あたわねど
 復帰の理想 我のみ成し遂げん



 一九五九年(昭和三十四年)

 一月一日

 新年は開けた。祈りと共に除夜の鐘の内に今夜の夢を期待したが、別に夢示がなかったので、今年も又苦難の十字架の年である事を覚悟した。久し振りの白飯に餅、珍しい折箱も入っていた。珍しいものを食べてご飯は食べられない位であるが、無理にでも食べたくて食べた。腹が膨れた。

 皆、思い思いの事をしたが、私は絶えず時間を惜しんで勉強して次の準備をすべきだと、英語と歴史の勉強をする。みんなサタンが遊んでいる時、神の子は努力するのだと、元旦より心を新たにして勉強した。今年から反撃だという事を考えて心は焦る。二ヶ月振りに手紙を書いた。書き初めである。


 一月十日

 仕上部にいた者が担当に呼び出されて、製品の数が違っていると叱られている。私は威信を維持せんが為に、絶えず注意をこらして、絶えず平然と外面を装った。


 一月十一日

 今日は日曜日であるが、今月はあまりにも休日が続くので、今日一日は仕事をする事になった。今まで常に日曜日の朝食は断食していたが、今日は仕事場で刑務所規則のため断食が難しいので食べた。


 一月十二日

 夕方、監房に帰ると故国からの手紙である。三位基台の田兄からである。嬉しい、嬉しい。掃除を済ませて、繰り返し繰り返し読んだ。一言一句、身にしみる。主様の新年度の御言が書かれている。今年は自由に種を播く時である。今迄は人類が六千年間、己の罪の蕩減の為、己れの罪の赦しの為に働いて来たが、今年からは御父の為に働けるのである。如何に素晴らしいかである。


 一月十六日

 午前十時頃、突然私の名を呼んだので何事かと思ったら、三級に昇級との事である。三級章をつけると新人から古参になったようで、少し権威がついたみたいだ。これからは少し神の子も威張れるから愉快だ。月に手紙を二通書けるし、鉛筆を持ってもよい事になった。刑を務めた吉事の一つである。受刑者の喜びの一つである事を知った。


 一月二十三日

 もとの船の事務長に放免面接があったと、そして私の書類もあったら近い内に二週間で放免されるとの事である。一日でも早く出所したい私は、胸が躍る。しかし翌日も又翌日もないので心配だ。しかし全ては父の御意にある事だと、唯感謝して服従するのみだと思えば平安になる。


 二月十三日(陰暦一月六日)

 主様の御聖誕日である。この日に韓国では主様を奉って断食する事を知っていたので、私もたとえ拘束の身であっても、この日だけは心を同じく断食して私も奉ってみたかったので断食をした。刑務所の中では、一切、断食も勝手な行動は許されない。しかし私は如何なる事があってもする事を決意して、腹が痛いから食べられないと言って朝食を無事過ごした。

 しかし担当の疑いの眼が光る。何故なら囚人等が断食したり仮病を装おって休職するからである。昼食が来た。頑張り通した。担当に胃か腹が痛いなら汁だけ飲めと言われたが、それでも頑張り通した。午後になって医師が来て私を診た。彼は私に、「うん、胃が悪い」と言って薬をくれた。私はそっと捨てた。

 夕食になった。今日はなんて皮肉な事でしょう。天ぷらという特別なおかずである。サタンの誘惑である。周囲の者が欲しがっている。無事一日の断食を済ませて、韓国の兄弟等と共に、私は刑務所ではあるけれど心と断食の行動を共にして、天の父上に主様に誓いを立てた。神の子が断食する、怨みのサタンの為だ。より一層サタンが憎い。釈放の日も近づいて来たので、長髪願いを出して頭髪も少しずつ伸びて来て、希望が加わって来る。今日この日の記憶は世界一であろう。このように天宙復帰の使命をもち刑務所で主の御聖誕を祝うとは。


 二月(出所前)

 一月に、正月一日韓国宛に出した手紙の返事を今日か今日かと待つうちに、八日頃、田兄から手紙が来たが、その後何の返事もないので心配でたまらない。たとえ私の手紙が未到着でも返事が来るべきであるのに、夕方いつもの如く舎房に帰って、今日か今日かと待ち焦れた。二月六日頃になって私に手紙が配られたので、胸を躍らせて読んだ。兄弟愛に溢れる一字一字が胸にしみる。目頭が熱くなる。私が苦労しているというので心的により苦しんでくれている。かえって、苦労しているという私が楽で申し訳のないような気がする。

 又、私の出所の為に遠い祖国より洋服まで送ったとの事である。ああ、肉の親、兄弟以上だ。今さら主の御言の偉大さに驚く。このような真の愛が出るのも原理を通してである。読んでは又読み、感謝にあふれる。如何なる事があろうと三位兄弟の名誉に懸けても己が使命を果たすべきだと、固い固い決意が湧き出す。

 それから三日後の夕方、舎房に帰って郵便配達の時間に「崔君に手紙」と言う囚友の言葉に、疑いながら見ると白い封筒なので疑う。何故なら韓国からの封筒は白封筒がないからである。ところが字のくせを見たが、忘れもしない宋という字を見て、ああとうとう宋道彬兄からの手紙かと目が開く。道彬兄は日本語がへたであるのに、どうして書いたのかと疑いつつ読むが、代筆でなく宋兄の気持ちが文の上にありありと出ている。続けてもう一回読む。感慨無量である。

 私に手紙を書く為に、如何に日本語の勉強をしたか。静かに眼を閉じると、私が教会に来て間もなく、二人で、中央劇場で「憤怒の河」という映画を見た事が思い出された。そしてあの時、宋兄が「後日、奉春が日本国民に生命の食糧をもって行く象徴的映画だよ」と言った事が思い出され、彼の幻が浮かび上がる。


 二月十七日

 朝五時頃より眼を覚まして夜の明けるのを待つと同時に、最後の日だという思いが嬉しさに変わり、胸を詰める。通常だったら朝のサイレンが仇のように聞こえて来るが、今朝は待ち遠しい。その内にも夜は白み、あの憎らしかったサイレンも心より鳴り響く。朝、最後の検身を受ける。嫌でたまらなかった、神の子をなんというか……しかしこれも苦難期間と忍んで来たが、これで終わりである。廊下を通り工場までの踏み台を踏んで工場に出る。この道も最後だと思うと変わった気分になり、うんと味わいたい。この一日を待ったのだ。朝食を食べて仕事にかかったが、勿論する気にならない。

 しかし最後を飾るべく仕事をしながら、ただ保安課の方で私を連れに来る事のみを待つ。仕上部及び工場の皆が、いよいよ来たね、と羨ましそうに言ってくれる。私はただ隔離される事のみが念頭にある。

 私が初めてここに来た時、独房に入れられたので、昔が偲ばれる。復帰路程である同じ道を通って元に帰る。静かに目を閉じて祈り、夕食を食べ、七時就寝である。布団の中に入って、出所後の事、又如何に己の使命を完遂するかと次々に考える。一方、時間が待ち遠しいので、無理にでも十時に祈り、眠りに入った。父よ、最後の夜を明かしますと祈る。


 二月十八日

 夜中の祈りの為に眼を覚ましてお祈りした。そして夜の明けるのを待った。相変わらず思いは未来に走り、如何にして主様、又三位基台の兄弟に面目を立てるか、考えては又考える。その内に明るくなり、希望の出所を告げるサイレンの音、快く高鳴る。わくわくする気持で最後の朝食を食べた。

 後は、保安課より連れに来る事のみを待つばかりである。普通、朝食後すぐ来ると言うので待ったが遅い。雑役が、入管関係は少し遅れると言ったので仕方ない。暫くして九時半頃、教育課の方で牧師面接だと言って私を連れに来た。出所の際、来て下さると約束した林牧師である。彼は忙しかったので、私の仮放免の事をお互いに少し話し合って別れた。独房に帰り、暫くすると今度は本当に保安課より、満期釈放と言って来た。

 三人、高鳴る思いで一歩一歩と歩いた。私の喜びは誰よりも大きい。庶務課長に釈放の言い渡しを受けて、留置の部屋で、ああ、四ヶ月十日前に着せられた怨みの青い服を脱ぎ、故国より送られた田君の背広に着替えた。この日この時が現実に実現した。胸が躍る気分で、白いワイシャツを着る。腕に宋君のくれた時計をはめて、全く新しい社会人と化した。喜色満面、意気揚々、私は思わず、お父上、主様、兄弟よ、見てくれ、と心で叫ぶ。


 二月十九日

 満期釈放。サタンの子らには自由になる日であったが、神の子には未だ時至らぬ故に第二の苦役期間であった。山口刑務所を出る時、私の路程はちょうどラバンのサタン世界で苦役するヤコブのようであるので、何か復帰したいと思って出所の際、同監房にいる上野勝氏という囚友が来たので、私は第一次苦難を信仰によって勝利した者として、「勝」という名前にした。

 天的条件に勝利したヤコブが、天使よりイスラエルという名をもらったようにである。十八日に釈放はされたものの、私の前には第二次苦役路程として再び収容生活なる不自由の身となった。私の悲しみより天の悲しみはと思う。しかし、時の来るまで仕方ない。


 二月二十二日

 第二苦役が始まって初の主日である。昨夜早く寝たので朝五時頃目が覚めたが、うつらうつらしているうちに七時頃起床した。今日は主日であるので緊張した気分になる。食事後、暫くして説教集を出して読み始め、「三位基台の意義と父に喜ばれる人」という説教を読んだ。

 久し振りに読む主様の御言に力が湧いて来る。本当に父の御旨を我が心として忠臣になろうという固い決心が起こる。読み終わると聖歌を歌いたくなったので、覚えている新しい成約聖歌を歌った。ああ、数ヶ月振りに感慨無量な気持ちで腹底に力を入れて歌った。目頭が熱くなる。終わって、静かに西方を望み、お祈りをした。

 京城(ソウル)の教会に於ける主日の礼拝の事が思い出される。一層強い気持ちになり、父と主様に忠節を誓った。夜になってジャービス兄に手紙を書いた。私がここに来てもう五日目になる。出来るだけ日本の知人に連絡を取って放免の願いを叶え、自由の身になりたい。今は書信を出すのが最高の手段である。昨日は林牧師に紹介された岡田牧師に手紙を書いた。


 二月二十四日

 朝食後、便所の掃除をした。神の子としての光である。これから当分、自分で毎朝する事を決めた。昨夜、林牧師に書いた長文の手紙を読み直して出す。昼過ぎ、長文であり宗教的用語が多いので分からないといって、係官が持って来たので、簡単に説明してやった。今日何か良い連絡通信はないかと待ったが、何の消息もない。山口刑務所より辺氏の手紙が回送された。

 内容を見ると、消息がなくて大変心配したとの事である。私の失敗で主様に御心配をおかけした事を心痛く思う。如何に私からの吉報をお待ちし給うた事かと思うと、今更残念である。人にも頼ってみたいと思い、北海道に再度手紙を出す。早く寝る習慣がついているので夜眠いが頑張る。天の心情と天運の動きに呼応する気持ちで出来るだけ時間を有効にと思う。


 二月二十八日

 二月の末である。ここ暫くの間、何の変化もない楽な生活をする。何と申し訳のない事であろう。この頃になって心身共に落ち着いて来たので、主様の説教集の御言が一言一句心を打つ。一句一句読むごとに天の父の焦れる思い、忍び給う心、不屈の努力が心にしみ、此の御意を代表したイエス様の心情と御苦労がまざまざと分かる。今迄に味わえなかった勇気が心身に流れる。如何に御苦労の事。崔奉春、この身を捧げて父と子の為、全人類、霊人達の為に戦い、勝ち抜くのだと固い決意が湧く。


 三月五日

 拘束の身が天の心と主様の心を泣かせる。如何なる方法、手段を講じても早く自由の身になって戦い、天父の無念を晴らす事だ。私は最後の手段として断食して病気になり、仮放免をしてもらう他に方法のない事を決心して、今朝から始める事にして、露骨な態度はかえって不成功になりやすいので、慎重にする事にした。病気だと言って朝食を減食した。

 船長が、崔さんは病気だ、と言って係長より体温計を持って来て熱を計った。三七度、微熱だという。昼から医者の往診も頼んで私は床に入った。午後になって医者が来て診察した。私は心臓と胸が悪いと言って診察を受けた。診察を始めた。熱を計り始めたので、私は心の内で祈った。父よ、何とぞ悪い結果が出て病気という診断が下され、自由の身になれますように。


 三月六日

 朝から医者の診察を頼んだ。断食、水も飲まないので体が早く衰弱していく。私の願いは悪化する事である。昼から医者が来て血圧を計る等で再診した結果、医者も心配して事務所の方に宜しく言いますと言って、私の入院する必要を言う。船長は医者といろいろな事を話し合った。私の入院の事を言った。又、私が突然卒倒する事もあるので、便所へ行く時、一緒に行くようにとの事である。

 午後四時迄には入院するという事で待っていたが何の返事もない。私は入院と言った時は、「よし」と思ったが、遅れるので心配になった。四時頃になって、私に再び厚生病院に行こうと言うので行った。やはり彼等も慎重である。厚生病院の診察を受けた。私は心に祈った、父上、自由の身にして下さい、と。やはり彼等も私を心臓病だと診断したので、私はもう安心した。私は嬉し涙が出る。


 三月七日

 朝が明けた。希望に満たされる。昨夜よりいろいろと未来を連想しながら、自由になる日が来たのだ。しかし、今日は土曜日であるので、午前中迄に私の身柄引き受け人が来なければ月曜日まで延びると言うので、心は焦り出した。

 さあ、入院と言って来た。嬉しくて嬉しくてたまらない。しかし最後の一秒まで気を許さず用心した。保釈金一万円を積んで残金一万七千円をもらい、各課長に注意事項を述べられ、保釈証をもらって外で待っている自動車に乗って出発した。

 希望の時、喜びの充満です。自動車は駅前を通って約五分して木下病院という所に着いた。私を残して係員は帰った。私は一人自由に残された。早速再診察が行われた。心臓は大丈夫との事である。胸の方も診たが大丈夫との事である。何だか医者は冷淡である。そして医者は私に「貴方は何しに来たのか」と露骨に聞く。又「ここにどの位いたいのか」と聞く。私も彼が露骨に来たので、私も露骨に「日本の文化視察に来たのだ」と言って「約三、四ヶ月いたい」と適当に答えた。

 彼も私に同情して、宜しい面倒をみましょう、と言って入院静養するようにと言った。看護婦に連れられて二階の病室に入った。七号室である。一人静かになったので、早速父上と主様に喜びに満ちて自由の身になった事を御報告した。ハレルヤ!

 一分一秒たりとも早く韓国に知らせたいので、早速手紙を同じ患者の島田さんに郵便局まで案内してもらって手紙を出し、又早速電報を打った。「私は自由の身に釈放された」と。帰りに喫茶店に入ってテレビを見ていると社会の味がする。部屋に帰り、私は彼に原理の一部を早速話したが、余り知識がないので深く理解し難いらしい。

 今日は全て最上の喜びに満たされた日である。父よ、主よ、有難う。しかし有難い時ばかり感謝するのでなく、苦難の時も感謝するのだと自重する。未来の伝道の事、東京上京の事で胸が一杯だ。十二時就寝。


 三月十一日

 昨日、大判のレントゲンを撮った結果、左右の肺がおかしいというので、今日は断層写真を撮るように言われたので、入江町の木下病院に行ってレントゲンを撮る。ああ、なんと両肺に空洞があるので六ヶ月の療養を言い渡された。私は、これも神が私を合法的にここにおいて下さる神の奇事として感謝し、私は入院しますと言って療養所に行く事を密かに決め、いろいろと考えを巡らした。


 三月十六日

 私は療養所に入る事を院長に約束したので、朝から準備した。院長も入管の方に電話を掛ける。三ヶ月の猶予をもらったらしい。私も診断書を送った。その間の入院費を何とか払って、十一時、皆に挨拶をして自動車で光風園に来る。山の内にある静かな所にある療養所である。自動車の運転手にも神の国の事を宣べ伝えた。彼も本当に喜んだ。到着して早速私の部屋に案内された。

 私は重患でないので上手の方に上って行った。長屋の如くに建てられた病棟の内の一部屋を与えられた。寒かったが毛布の中で震えていると、四時頃、新しい布団を持って来てくれて気分を取り返した。

 夕方五時頃になって、隣の部屋にいる上野という日本人が自ら挨拶に来て、飯を食べてくださいと頼んで来た。私はすぐ彼と親しくなって、彼の部屋に入り私は韓国人だと言って韓国から来た事を話し、原理を述べた。嗚呼、彼は百パーセント受け入れ、喜び共鳴する。私も嬉しくてたまらない。

 異国に来て初めて成果を得られたような気持ちで、胸が一杯である。又明日話し合う事を約束して別れる。静かに天の父に食口にして下さる事を祈る。私がここに来たのは体の健康の為に来たのではあるけれど、重大なる使命の為に来ているので、一日も休む事が出来ない。しかし、事を急いで損する事があるので慎重に構えた。私はこの期間に原理の日本語訳を思い決意し、早速始めた。

 私が韓国を出発する時、全部日本語で訳して持っていたが、その間の事件の時、カバンを広島の呉で持って行かれた時に失ってしまった。昔から私は字を書く事が大嫌いであるので、決心を固めて創造原理からノートに訳した。

 肺が悪いというので余り無理しない程度にやった。なかなかはかどらない。しかし、やり遂げなければならない私の責任である。この療養所に来て落ち着いた生活をしたので、私の体重は増して、全く健康体となった。しかし考えは日本伝道で一杯である。

 しかし、困った事には、お金が尽きてしまって、病院の費用も払えなければ汽車賃もない。日々の生活に困って来た。私があまり困ると、日本に於ける治療を認められなくなって送還される恐れがあるので心配である。

 三月も過ぎて四月に入った。お金があったら一日でも早く飛んで上京したい。東京までの旅費だけあっても上京の決心がつく。一日遅れる事によって天的にも、又金銭的にも食口達にお世話にならなければならなくなると、いずれにせよ、一日も早く目的地に行きサタンとの闘いを始めるべきだ。

 それで適当な日を考えた。四月十日の日を選んだ。この日は皇太子の結婚日である。国中、お祝いの気分で浮いている時が一番適当だと思った。しかし、当日までに送金がなければならない。私は手紙で幾度も頼んだが、その日まで来なかったので諦めた。

 四月中旬頃になって、事務所より送金が来たというので受け取った。百ドルを日本の金に換えたのであろう、三万弱であった。早速その間の支払いを済ませた。勿論、全てする事は出来ない。お金の準備が出来たので、後は実行するのみである。上野さんは原理を信じて慕うが、本当に心から全てを打ち明けて相談する段階でないので、私の心の奥で一人で計画を練って、土曜日という事に決めた。次が日曜日であるので療養所も休診なので、一番適当である。

 いよいよその日の土曜が来た。私の胸は躍っている。夜行の東京行きの急行に乗る事にして、何度も時間表を見て確かめた。下関で乗ると入管又は警察の者に分かる恐れがあるので、下関の次の厚狭駅で乗る事にして、詳密なる計画を立てた。

 私は夕方、いよいよ散歩にでも行く姿で気軽に療養所を出た。心の内ではこれが最後だと一言残して去った。町に来て早速買い物をした。合コートと皮靴を買った。旅行の身支度も出来た。喫茶店で上野君と逢って厚狭駅に行き、早速東京行きの切符を買ってホームに出た。その時、自分の身支度を見ると感慨無量である。成功した喜びで一杯である。彼も東京に行きたいと急に言い出したので、私は彼をなだめた。今の段階では彼はまだ足手まといである。

 暫くして汽車が来た。喜び勇んで乗った。汽車は動き出した。又喜び、お父さま、お父さま、成功。ああ、夢にも忘れず願ったこの日が叶ったのである。今より五ヶ月前は丸坊主頭で罪人として鉄の手錠で入って行ったが、今日は自由の身となって上京である。あの広島より山口の時、私は如何に今日のこの日、この時を待ち焦れたでしょう。夢のようだ。しかし現実だ。唯、「お父さま、勝利」以外に何の言葉も出ない。しかしまだ闘いはこれからである。汽車は走り出す。

 今日この時までの過去を思い出すと共に、先の日本伝道の計画を練る。明朝を過ぎて昼頃は東京である。しかし、東京に行って誰の所という当てもなければ何もない。唯、運を天に任せて行く。汽車の中で誰かを伝道したいと思ったが、私の前は年寄の人で不適当である。少し離れて理知的に見える女性がいたので伝道したいと思ったが出来ず、思いと焦りのうちに東の空は明けてきた。汽車は上へ上へと走る。

 昔東京にいた時代の皆を思い浮かべて、彼等に逢えたら、と思いは尽きず、考えているうちに昼過ぎ東京近くの熱海に来た。熱海で汽車が長く停車した。そしてその向かい側に新宿行きの汽車が待っていたので、これはちょうどよいと思って乗り換えた。何故なら、私の療養所逃亡が知れて手配されている恐れがあったからである。

 昼過ぎ、私は祈りのうちに胸を躍らせながら、また少し不安の気持ちも持ちながら新宿駅に到着した。昭和二十八年以来七年振りに再入京である。新宿で汽車を下りてみたものの行き先がないので、私は韓国のYMCAに行く事に決めた。飯田橋で下りて歩いた。東京の地で第一歩を踏み出した。「お父さま、お父さま」と祈り、固い決心をより固めて闘魂に燃える。


 七月下旬

 学校の米田さんが私に韓国人でクリスチャンがいると言って、清水さんを紹介してくれた。日本に帰化した青年で、雄鶏舎時計店をやっていた。私はここを根拠地として伝道したいという腹案をもって、彼に私は新生運動をやめてここで働きたいと言って、新生運動より雄鶏舎に勤めるようになった。朝は各自動車会社の月賦販売であり、午後は映画館の時計のスポンサー契約であり、夜は映画館の時計修理である。

 最初のうちは伝道する時間がなかったが、最後、午前中だけにして、昼は伝道の自由を得る時間にして、牧師、学生、一般人を伝道した。心は焦る。早く伝道したい。教会を始めたい。心から敬服して従う者がいない。日本復帰を一日も早くと、午後には清水さんの二階で原理講義をしたが、あまり聞きに来ない。最初の夜の原理講義に四人が聞きに来て嬉しかった。この調子でいつも来れば、と思った。

 清水一家は原理をよく聞いたが、須田さんは半信半疑で、反対はしなかった。とにかく教会を発足してみたかったので、初めて世界基督教統一神霊協会東京教会の名で伝道紙を刷って散布して、名を日本に初めて上げた。


 十月二日金曜日午後七時十五分

 日本宣教百周年の今年、神の原理は伝えられ、四月より今日まで原理を信じた兄弟姉妹四人、西川勝、清水義雄、須田トク、田村芳子は午後七時十五分定刻に礼拝を始め、清水氏の司会により始められ、讃美歌と祈りの後、西川勝の聖書講読、マタイ六章25節より後までを読み、「義と神の国を求めよ」という題で約三十分説教して、八時に終わった。J・C・Cの学生も来ると思ったのだが来なかった。

 四人で歴史的な礼拝をして、主の名において日本に一日も早く神の国の来たらん事を祈り、神の讃美と共に報天の決意を固くした。

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