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至誠感天・家和万事成 - 1 - 1. 至誠感天と精誠

작성자대태양/김현수|작성시간22.02.12|조회수1,392 목록 댓글 0

至誠感天・家和万事成

第一章 至誠感天
第一節 至誠感天と精誠

(一) 至誠感天

 「至誠感天」という韓国の格言がありますが、それは、本当に天理に通じる言葉だというのです。「すべての精誠を捧げる」というとき、それは内外のすべてを捧げるということです。思うこと、話すこと、行うこと、また良心の生活圏までも、すべて合わせて捧げるというのです。それが精誠です。

 「精誠」の「精」の字は精神を意味します。「誠」は言偏に「成」の字です。ですから、内外のすべてのものを成して捧げるという意味です。そのようにしてこそ「感天」になるのです。天が感動するということです。天が感動すると、どのようになるのでしょうか。天がその人を思い、思うだけでなく、天の思いがいつもとどまるようになれば、そこには天の愛が訪れてきます。すべての天の思いがそこにとどまるようになるとき、天の愛がここに連結されるようになるのです。(七八―三〇、一九七五・五・一)

 「至誠感天」といいますが、「至誠」というものは簡単なものでしょうか。それは簡単なものではありません。「至誠」とは、死を覚悟して精誠を尽くすことです。

 それでは、その「至誠」の限界は、どの程度なのでしょうか。至誠の中の最高の至誠とは何でしょうか。自分個人の幸福のために至誠を尽くすのであれば、自分個人のみ旨は成されるかもしれませんが、その至誠によって世界のみ旨を成し遂げることはできません。国のために精誠を尽くすことが至誠の限界でしょうか。それは、国のための至誠にはなるかもしれませんが、それ以上にはなれません。至誠の限界点になるのは、世界のみ旨を成し遂げることです。ですから世界のために至誠を尽くさなければなりません。

 それでは、世界のために至誠を尽くす理由とは何でしょうか。それは、正に神様のみ旨を成し遂げるためなのです。(三五―三三一、一九七〇・一一・一)

 至誠の中の最高の至誠とは何でしょうか。今まで、自分の息子、娘のために生涯を捧げて精誠を尽くした父母はたくさんいました。しかし、国と世界のために精誠を尽くした人たちはいませんでした。ですから、国と世界のために精誠を尽くし、犠牲になる群れがいなければなりません。そのような群れとは、どのような群れでしょうか。それは、宗教を崇拝する群れです。

 それゆえに、長い歴史の過程において、民族が滅びることはありましたが、宗教は滅びなかったのです。世界のために精誠を尽くす群れがこの地上にいてこそ、神様のみ旨も成し遂げられるのです。(三五―三三一、一九七〇・一一・一)

(二) 精誠

 精誠というものがあります。精誠とは何でしょうか。どのようにすることが精誠なのでしょうか。精誠とは特別なことではありません。同じことを千回、万回、心を込めて反復しながら、自分が喜ぶと同時に、世界までも喜ぶように影響を与えようとすることです。(二三四―二八五、一九九二・八・二七)

 精誠というものは、千回、万回繰り返すことです。専門的な技術者になるためには、その分野で千回、万回、億万回、何度も繰り返さなければなりません。繰り返すところに最高の権威が生じるのです。愛する世界で専門家になり、愛の最高の技術者にならなければなりません。(二七八―一一三、一九九六・五・一)

 皆さんが伝道してみると、なかなかうまく伝道できません。しかし、そのできないことをしなければならないのです。やってみて、やってみて、またやってみる、それは、石を海に投げるのと同じです。海の水をみな埋めて山になるまで、限りなくするのです。そうすることによって、どうなるのでしょうか。私が心情的に成長するというのです。体は何も変わることはありませんが、心情が成長するというのです。(九六―二八〇、一九七八・二・一三)

 祈祷の喜びは、祈祷をする時間によってその程度が決定されるのではなく、その時間圏内にどれほど精誠を投入するかに比例し、それによって程度が変わるという事実を考えるとき、精誠こそ、私たちを救ってくれる第一の要素になり得ることを、私たちは知らなければなりません。皆さんが精誠と直結される場に立たなければ、皆さん自身の救いも完成できないことを知らなければなりません。(四二―二一九、一九七一・三・一四)

 何を中心として救援歴史が決定するのでしょうか。それは、精誠の基準を中心として決定されるのです。天の精誠がより高くなるときに、死亡世界にある社会も、天の精誠の前に吸収されるのです。すなわち、より大きな精誠は小さな精誠を吸収し得るということです。人間の本心は、より大きな精誠を要求します。そして、これは、私たちの良心の標準です。したがって、人間がより大きな精誠を願い、小さな精誠よりは大きな精誠圏内に移っていこうとするのは、自然の道理なのです。(一七―二二九、一九六七・一・二九)

 神様の恨と、イエス様の恨と、歴史的な人類の恨を解くために、私たち自らが祭物の立場に立ち、あらゆる精誠を尽くし、あらゆる愛をすべて注いでこの国を愛さなければなりません。一つの命に対しても、父母の心情をもって僕の体を用い、涙と血と汗を流して精誠を尽くさなければなりません。そのようにすれば絶対に滅びません。そのような人は、行けば行くほど栄え、行けば行くほど主体者として登場するのです。そのような人には、天運が共にあります。このようなことは、先生が実験してみて、経験を通して間違いないと悟った事実なので、皆さんにはっきりと教えてあげるのです。先生の言うとおりに実践してみてください。(三八―二九三、一九七一・一・八)

 自分を中心としたものになれば、精誠は成し遂げられません。精誠は、自分を中心として尽くすべきものではなく、相対、すなわち、家庭なら家庭、社会なら社会、国家なら国家など、より大きな相対のために尽くしてこそ、「精誠」という名詞が成立するのです。自分を中心として精誠を尽くしたものは、自分一代においては残り得るかもしれませんが、それは、自分一代と共に流れていってしまうのです。

 精誠の基台は、相対のためのものだけが残ることができます。その相対の大きさによって、精誠を尽くした実績や、結べる因縁の大きさが決定されます。ですから、皆さんは、自分を中心とするところではなく、必ず相対のために生きるところにおいて精誠の要件が成立し、「精誠」という名詞が成立するということを、肝に銘じなければなりません。(一七―二二七、一九六七・一・二九)

 今後、真なる息子、娘が尽くすべき精誠とは何でしょうか。現実的な生活舞台における精誠ではなく、希望の精誠、栄光の精誠、忠誠の精誠、侍る精誠を尽くさなければなりません。そのような精誠を残していってこそ、天国が私の天国になり、その父が私の父になるのです。今までの精誠は、蕩減する途上での精誠でしたが、これからの精誠は、天に侍るための精誠でなければならず、侍る場に同参するための精誠でなければなりません。(一七―二四五、一九六七・一・二九)

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