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至誠感天・家和万事成 - 3 - 1. 祈祷生活の呼吸化

작성자대태양/김현수|작성시간22.02.12|조회수944 목록 댓글 0

第三章 信仰生活の四大指針
第一節 祈祷生活の呼吸化

(一) 祈祷の生活化

 ① 祈祷の意義と必要性

 祈祷というものは、心と体を神様の前に捧げることです。物を神様の前に捧げるのではなく、自分の心と体を完全に神様の前に捧げるための精誠の時間が、祈祷の時間なのです。(二八―二五、一九七〇・一・一)

 一人で静かな所に行って、月を見つめながら感謝し、すべての自然と呼吸できる心霊的生活、すなわち祈祷生活が必要です。今、先生もそうです。私が海に出ていくのも、その心情を体恤するためです。それが御飯を食べることより、もっと貴いというのです。(九四―一五五、一九七七・九・一)

 祈祷というのは何かというと、浄化です。自分の精神を浄化させるために必要なものです。精神を浄化させるために鍛錬する方法として必要なものであり、精神統一するために、それが必要なのです。(一八一―三二二、一九八八・一〇・三)

 祈祷するのは、本来の良心基準を取り戻すためです。本来の良心基準さえ取り戻せば、神様に尋ねてみることもありません。すべて通じるというのです。自分が行く道は、はっきりと分かるようになっています。それが、真の愛を中心として一体となった心と体の共鳴体です。(二五三―三二〇、一九九四・一・三〇)

 今から皆さんは、祈祷を生活化するのです。生活的に祈祷しようというのです。二十四時間なら二十四時間、すべて祈祷です。御飯を食べながらも祈祷であり、どこかを歩いていきながらも祈祷であり、寝ても覚めても祈祷であり、すべてが祈祷です。(一六一―一四一、一九八七・一・一八)

 常に祈祷し、反省し、決心する生活を繰り返さなければなりません。先生に叱責されても祈祷しなければならず、たとえ夫にたたかれたとしても感謝の祈祷をしなければなりません。常に祈祷する生活をしなければ、み旨の道を行くことはできません。皆さんは、生活するにおいて、お金のことを考えずに、先にみ旨のことを考えなければならないのです。ですから、祈祷するのです。祈祷は、心情の補給倉庫です。時間がなければ、仕事をしながらでも祈祷はできるのです。(二七―八五、一九六九・一一・二六)

 今日の私たち堕落した人間は、時に合わせることができないので、どんどんずれていきます。ですから、一番重要なことは何かというと、その時を私たちがどのように把握して合わせていくかということです。このようなことを信仰生活において悟るようになるとき、皆さんが注意しなければならないのは、どのようにしてきちんと調節し、その時に合わせていくかということです。これは、とても重要な問題です。

 これをきちんと合わせることができなければ、一日がずれていき、一年がずれていき、十年、あるいは数十年がずれていき、行うことすべてに成果が現れず、相反する結果ばかりが現れる、そのような生涯路程を経ていかざるを得ないのです。

 このような問題を考えてみるときに、み旨に従っていく私たちが、このような時に合わせていくためには、より一層深い信仰生活、言い換えれば深い祈祷生活が必要だということを知らなければなりません。(四〇―六六、一九七一・一・二四)

 愛を実践させる刺激を連続させるためには、祈祷が必要です。ですから、祈祷というものは、そのような愛を実践するために必要なのです。祈祷には、求める祈祷があり、報告の祈祷があります。求める祈祷は決意の祈祷であり、報告の祈祷は感謝の祈祷にならなければなりません。それが連続的に私を刺激します。それで祈祷が必要なのです。

 個人にそのような祈祷が必要であり、夫婦にそのような祈祷が必要であり、教会にそのような祈祷が必要であり、国にそのような祈祷が必要であり、世界にそのような祈祷が必要なのです。堕落した圏内では、そのような祈祷が絶対に必要だということを知らなければなりません。(一一二―五九、一九八一・三・二九)

 先生も、先生自身が今もっている力より、もっと大きく世界的なことをするときは深刻です。もっと大きな力が必要なときは、それをどこからもってくるのかということが問題になります。もってくることができないときは後退しなければならないのですが、それはできません。ですから、祈祷が必要であり、神様が必要です。それで心情の世界が必要なのです。

 愛の世界は、いくら引っ張ってきても終わりがありません。物質の世界は終わりがあり、知識の世界も終わりがあり、権力の世界もすべて崩壊しますが、心情の世界は無限だというのです。ですから、心情の世界を中心として動かなければなりません。(一二〇―三〇六、一九八二・一〇・二〇)


  ② 祈祷によるサタンの分別

 祈祷するのはサタンを屈服させるためです。サタンを追放することが問題です。神様と直接一つになってサタンを追放しようというのです。人が良心を中心として完全に一つになれば、サタン以上の位置に上がっていきます。堕落したアダムとエバ以上の位置に上がっていくので、サタンを追放できるというのです。(二七五―三〇九、一九九六・一・一)

 皆さんが活動するところには、二種類の敵がいます。見える敵と、見えない敵がいるのです。この二つの敵は、いつも私たちに向かって共同作戦を繰り広げています。これにきちんと対処していくためには、まず敵を知らなければなりません。ですから、皆さんの一日の生活において、最も重要で必要なものとは何でしょうか。祈祷生活です。

 祈祷を通して見えない敵を知り、見える敵を明らかにしていかなければなりません。いくら全面的な進撃をしたとしても、敵が分からなければ襲撃されるのです。むやみに走れば、激しく打たれるというのです。(一九―一四六、一九六八・一・一)

 「絶えず祈りなさい」(テサロニケⅠ五・一七)という聖書のみ言があります。これもやはり、とても重要なみ言です。なぜかというと、サタンが堕落した世界を支配しているからです。サタンは、一日二十四時間、あらゆる方向から堕落した人間を誘惑し、苦しめます。一方で神様は、ただ一つの方向から、すなわち精神の垂直的な方向からのみ、力を及ぼすことができるのです。ですから、絶えず祈祷しなければなりません。(二〇一―二〇八、一九九〇・四・九)

 この体というものは、いつも良い物を食べ、良い物を着て、良い所で暮らしたいと思うのです。それがサタンの本性です。ですから、それを否定しなければなりません。それで、宗教では、「断食しなさい。犠牲になりなさい。奉仕しなさい。低いところに行きなさい」というのです。

 何のために、そのようなことが必要なのですか。そのようにして、心の世界が体を完全に屈服させなければならないからです。そのようにして、良心が力を得て縦的に神様と連結すれば、サタンは逃げていかざるを得ません。その道を築くのが祈祷生活です。心と体が一つになり、神様と連結されることによって神様が臨在するので、サタンは、体を捨てて完全に逃げていかざるを得ないというのです。(二二九―七、一九九二・四・九)


(二) 天に通じる祈祷

  ① 内的姿勢

 深い祈祷をして、自分が今まで全く感じてみたことのないある分野を感じるためには、自分を中心とする祈祷をしてはいけません。国家なら国家、世界なら世界という、大きな目的を中心として祈祷しなければならないのです。(三〇―一二二、一九七〇・三・二一)

 皆さんが祈祷するときは、自分の私欲を中心として祈祷してはいけません。より公的な神様の立場で、神様のために祈祷しなければなりません。皆さんが大変でも、そのようにしなければならないのです。そのように祈祷してみれば、自分でも知らないうちに、ふと言葉が出てくるときがあるのです。(二九―三二二、一九七〇・三・一三)

 祈祷するときは、過去を悔い改め、現在を悔い改めなければなりません。率直でなければならないというのです。「私は、過去に、これこれこのような人間でした。このようなときもあり、これこれこのようなときもありました」と悔い改めなければなりません。そして、このような罪悪のある私が、今日、この場に立てられたことに対して感謝の心をもたなければなりません。

 過去の過ちを思うとき、感謝の涙が先立ち、自分で自分を責めながら、神様の過酷な審判のむちがあっても、それを甘んじて受け、自分自身を神様の前に祭物としてお捧げしようという心をもたなければなりません。このような立場でこそ、神様の赦しを受けることができるのです。(三六―一一〇、一九七〇・一一・二二)

 祈祷するとき、祈祷する場所以上に、祈祷できる心の姿勢が必要だということを知らなければなりません。祈祷するよりも、その時間に人のために犠牲になり、人のために奉仕すれば、それがもっと貴いというのです。

 祈祷は、自分の精誠をすべて尽くしても力が足らないときにするのです。自分でできるのに、祈祷が必要ですか。ですから、祈祷しようとすれば、神の国と神の義のためにしなさいというのです。世界のために祈祷し、神様のために祈祷するのです。そのような祈祷は、いつでも神様が祝福してくださるのです。(一〇四―一〇七、一九七九・四・一五)

 祈祷するときに絶対に欲張ってはいけません。「自分は、家門を見ても何がどうで、顔を見ても何がどうで……」、このような祈祷は、してはいけないというのです。祈祷は、そのようにするものではありません。「神様! 私は大韓民国の人間として、大韓民国の血を受け継いで生まれた倍達民族の子孫ですが、大韓民国の人間としてのみ生きたいとは思いません。私は、世界のために生きたいと思います。神様も世界のために苦労されたので、私も一度苦労してみます」と祈祷できる皆さんにならなければなりません。(二二―一三九、一九六九・二・二)

 良心の呵責を受けることがあれば、祈祷できません。「お父様」という言葉を言うことが、あまりにも恥ずかしいのです。「お父様」という言葉を言うことが、どれほど大変か分かりません。良心の呵責をもちながら、「愛するお父様……」と言うのは、うそをつくのと同じです。ですから、恥ずかしく思わなければなりません。

 自分の同志に会っても、礼節をわきまえる心がなければならないのです。神様の前に出ることが恥ずかしく、お父様の前に立つことが恥ずかしく、自分の姿勢を正してまた正す、このような態度が必要です。

 そのようなところで、このような子女でも、誇らなければならないお父様の事情を考え、世の中が悪であるがゆえに、このような私を必要とされるお父様の事情があることを考えなければならないのです。このような心で神様の同情心を誘発させてから、「お父様」と呼ばなければなりません。そのときは、「お父様」と言っただけで涙が出てくるのです。そうして悔い改めてこそ、その悔い改めが神様の前にふさわしい悔い改めになるのです。人間は罪を犯すのが当然で、神様は赦してくださるのが当然なのではありません。(四三―一一三、一九七一・四・二五)

  ② 外的方法

 皆さんが祈祷しようとすれば、一日の日課を始める前にしなければなりません。ですから、最も重要な時間がいつかというと、早朝が最も重要なのです。この時間が、一日の勝敗を左右する重要な時間帯です。この時に祈祷をしなければなりません。(三〇―一二二、一九七〇・三・二一)

 祈祷生活をするとき、目標のない祈祷生活をしてはいけません。目標を立てておいて生活しなさいというのです。一つの目標を立てておいて、三年なら三年、あるいは十年なら十年間、自分のすべてのものを投入し、神様と共に談判する生活態度でいかなければなりません。(三〇―一二〇、一九七〇・三・二一)

 祈祷生活というものは、自分の気が散るような所でするのではありません。奥深い所、天を代表する所、サタンとの境界線から遠い中央の地に行って祈祷しなければならないという話は、至極妥当な話です。ですから、どのように祈祷しなければならないかというと、生涯の切実で重要な問題を祈祷するときには、自分自身を清め、サタンとの境界線とは関係のない、永遠にサタンと関係のない所で祈祷しなければなりません。(一二三―八〇、一九八二・一二・一二)

 恩恵の基準が高い人を中心として、その人が祈祷する時間に、ほかの人たちも一緒に祈祷するのです。そうすれば、その人によって恩恵を受けるのです。もし夫が自分よりも恩恵の基準が高く、信仰生活においても模範であれば、その夫によって恩恵を受けるようになります。

 そのように恩恵を受けるようになれば、夫が世の中にいない美男子に見えるのです。また、夫が妻を通して恩恵を受けるようになれば、その妻が誰よりも美人に見えるのです。自分の母親よりも会ってうれしく、自分の姉よりも会ってうれしいのです。世の中の女性で一番だ、と思うというのです。本来の夫婦は、そうでなければなりません。(三一―二八八、一九七〇・六・四)

 聖地を訪ねて精誠を捧げなければなりません。イスラエル民族はエルサレムの聖殿を失いましたが、それが聖殿になるのではなく、この地球が聖殿にならなければなりません。この地球という星が聖殿にならなければならないのです。この地が聖殿になれない時は、この地にすがって皆さんが涙を流さなければなりません。聖殿の実体基盤に代わる聖地に対して、涙を流し得る因縁を備えてこそ、皆さんがこの地の主人になれるのです。(一五二―二七九、一九六三・六・二〇)


(三) 祈祷の恩恵

 祈祷生活をすれば、言い表し得ない喜びが訪れるのです。その境地が、創世前の神様の心の境地です。皆さんがそのような境地で、「こうだ」という内容をもって説明できる立場に立てば、その立場が正に神様が天地万物を創造された立場なのです。神様がみ言で被造物を創造された立場だというのです。そのような境地で、み言を宣布しなければなりません。そのようにすれば、人々も、必ずそのみ言に触れてみようと思うのです。(二九―三二一、一九七〇・三・一三)

 祈祷は、必ず成し遂げられます。祈祷することによって力を受け、祈祷することによって、今後この問題がどのように展開していくのかという展望が、すべて教えられるというのです。「このことはこのようにして、このことはこのようにする」と教えてくれます。それを知ってこそ、皆さんが大きなことができるのです。祈祷してこそ、その道を開拓できます。祈祷は御飯を食べることより重要だ、ということを知らなければなりません。(一〇四―一一一、一九七九・四・一五)

 皆さん、祈祷の味わいを知っていますか。御飯の味は知っているでしょう? 御飯をおいしく食べる人は健康であるのと同様に、祈祷の味わいを知っている人は、間違いなく信仰の火がつく人です。統一教会の教会員の中でも、ふらふらして「ああ、行けない」という人たちは、みな祈祷の味わいを知らない人たちです。ほかの人の話を聞いて、ついていく人です。誰かが「行こう」と言えば「ああ、そうしよう」と言う、これではいけません。そのようにしていては信仰が冷めてしまいます。(八六―三〇〇、一九七六・四・一一)

 祈祷の味わいを知らない人は、神様から補給される熱をいつも失ってしまうのです。問題があれば、その問題を中心として祈祷して、解決しなければなりません。祈祷すれば、すぐに霊感が来るのです。神様が皆さんに線を引き、神様が発電所のようになって熱を供給できる道をもってこそ、皆さんがいつも熱さを保つことができるのです。そのようになれば、神様が変わらない限り、皆さんも変わりません。(八六―三〇二、一九七六・四・一一)

 有能な医者は、患者の顔色を見ただけでも、何の病気なのか分かります。道を歩くのを見ただけでも分かるのです。そのように、皆さんも霊的なアンテナが高く、鑑定能力がなければなりません。そのためには、精誠を尽くさなければなりません。祈祷しなさいというのです。祈祷は、本当に恐ろしいものです。言葉なく、その環境を完全に占領するのが祈祷です。(二〇七―三四九、一九九〇・一一・一一)

 祈祷して、「なぜ私の祈祷は聞いてくれないのか」と思う人がいますが、それが福なのです。十年間精誠を尽くし、生涯精誠を尽くしたのに、祈祷を聞き入れてくださらなかったのなら、それが幸福だというのです。それは、打たれない天の保護圏内にいるということです。ですから、発展していきます。そのようにして、個人的な蕩減時代を越えていき、氏族的な蕩減時代を越えていき、民族的な蕩減時代を越えていかなければなりません。(二九―二二二、一九七〇・二)

 祈祷をたくさんするのです。たくさん祈祷すれば、一人で生活していても絶対に寂しくありません。祈祷は、呼吸するのと同じです。祈祷をたくさんすれば、霊的に相当明るくなります。また、相当に鋭敏になり、善悪に対する分別力がつくのです。(三〇―二八二、一九七〇・四・四)

 皆さんが信仰生活の中で、真っ暗な夜に一人で祈りながら、静かに心を鎮めて自然界を見つめ、深刻な心で心の門を開き、本心からわき出る心情を感じながら自然界を見つめるとき、その自然界が皆さん自身のためにあるという事実、無数の天体世界が皆さん自身のためにあるという事実を、実感として感じるでしょう。そのような境地で頭を垂れて、「お父様、感謝です」と祈祷するその瞬間は、人間と人間同士が感情で祈祷するどの時間より、もっと崇高な祈祷の時間だということを感じるでしょう。(五―三四六、一九五九・三・八)

 皆さんが祈祷するとき、神霊的な境地に入って祈祷すれば、その祈祷の中で、未来のすべてが皆さんと関係を結ぶようになるでしょう。そのようなとき、皆さんは言葉にできない喜びを感じ、言葉にできない力が自分に迫ってくることが分かるようになるでしょう。そこで見つめる世界は、一つの世界です。そして、その場で感じる感情は、超民族的であり、超世界的なものです。

 皆さんが喜ぶことは、皆さんの喜びで終わるのではありません。皆さんが喜ぶ瞬間、万物が一緒に喜ぶことを感じるでしょう。また、勝利を約束するときは、全天上世界と地上世界のすべての存在が、その勝利圏に巻き込まれていくことを感じるでしょう。

 それは何を意味するのでしょうか。神霊的な境地で祈祷し、精誠を尽くす瞬間だけは、天との相対的関係が結ばれるということです。(三二―二一五、一九七〇・七・一九)


(四) 真のお父様の祈祷の境地

 先生は、一日一日の生活において、重要な問題は、必ず神様に祈祷して解決します。その場の思いつきでは、しないというのです。(四三―三三、一九七一・四・一八)

 先生は、この道を築くために、綿入りのパジやチョゴリがすべて濡れて、水が流れるほど祈祷しました。涙を流したというのです。一日に十七時間、二十時間まで祈祷しました。そのように暮らしたのです。そのようにして探し出したのが、この道です。(一七一―三二、一九八七・一二・五)

 先生は、二十四時間、祈祷します。どこに行っても、自分の目標を中心として、二十四時間、祈祷するのです。御飯を食べながらも、息をしながらも、祈祷するのです。それは、自分のためではありません。人類のためであり、神様のためです。そのような一念を中心として精誠を尽くすのです。(二〇七―三四九、一九九〇・一一・一一)

 一九五七年に、初めて百二十箇所を選定して伝道に出ていったのですが、その前まで先生は、祈祷室に入っていって夜を明かしました。その時にいた人たちは、知っているでしょう。早朝二時は普通であり、三時、四時まで寝ませんでした。平均二時間、寝たのです。常に精誠を尽くさなければなりません。そのようにしなければ、基盤を築くことができないのです。世界的な基盤を築き、国家に一つの礎石を置こうとすれば、精誠を尽くして大勢の人たちが私の手足になるようにしなければなりません。(五六―四九、一九七二・五・一〇)

 先生は、自然を好み、一人でいる時間を一番の趣味と思っています。静かな夜が先生は本当に好きです。そのような話をしないだけであって、先生にもそのようなものがないでしょうか。皆さんに見せないだけです。そのような、豊富な生活の底辺基盤を築き得るのは、祈祷以外に道がないことを、皆さんは知らなければなりません。その世界、その場で愛を感じ、その場で愛を体験できるのであって、普通の所では難しいのです。そのような基台の上で、自分自身が力を補強できる位置に立ってこそ、皆さんの信仰の道を皆さん自身が行けるのであって、いつもこのように先生が導いてあげていては、先生がいなければどうするのですか。ですから、このような背後の生活をするためには祈祷が必要だということを、皆さんは知らなければなりません。

 ですから、誰が見ていようと見ていまいと、私がすべきことは私がやらなければなりません。私たちが神様との約束を、きちんと守らなければならないのです。夜も昼も全体のために祈祷してこそ、それが生きた祈祷になります。そうしてこそ、何年かごとに、自分が祈祷を通して願う内容が変わり、題目が変わりながら発展するのです。(一〇四―一一一、一九七九・四・一五)

 先生は、いくら疲れていても、昼寝はできません。食口たちが全世界で苦労していることを思うとき、それが良心に引っ掛かるのです。雨が降れば、すぐに皆さんのことが思い出されます。雪が降っても、皆さんのことが思い出されます。それで、船に乗って海に出ていくのです。そうすれば心が安らかです。先生が、そのようにしながら祈祷しているという事実を知らなければなりません。(一三一―三三三、一九八四・五・一九)

 私が祈祷するとき、「統一教会をどのようにしてください」、そのような祈祷はしません。常に世界的な問題を掲げて談判祈祷をしたのであって、「私の息子、娘をどのようにしてください。統一教会が苦労しているのでどのようにしてください」とは祈祷しなかったのです。今、私が統一教会の皆さんに苦労させていますが、苦労させておいて、「神様、福を下さい」とは言いません。(四四―二四八、一九七一・五・二三)

 私が興南の牢獄から出てきたとき、以前にいた食口たちの所に、三度ずつ人を送って訪問させました。訪ねていって、一度門前で裏切られ、二度門前で裏切られても、三度まで行くのです。十二月二日の日が沈むころまで人を送りました。私としては、神様が「背を向けなさい」という指示をされる時まで、最高の精誠を尽くさなければならないのです。捨てることはできません。

 そのようにして、私がなさなければならない責任を全うしたのです。心情の理念をもって出発し、心情に傷を受けた私の胸の中の傷をすべて取り除いて、新たな心情を神様に連結できるという自分自身を取り戻して、初めてそこから出てきました。そのようにして、その日の夜、平壌を出発したのです。指導者は、そのように慎重に責任を負うのです。死の境地でも、神様から任せられた責任分野を締めくくってから行かなれければ、行く道がふさがってしまうのです。

 それゆえに、その時に因縁を結んだ人との関係をすべて解決しておき、天と地に対して、現世や来世に対して、彼らの先祖も同情し、彼らの子孫も同情できる位置に自分が立たなければなりません。そのようなことを考えたので、その位置を築いてから出てきたのです。ですから、私が過去を振り返っても、少しも良心に引っ掛かりません。

 今もそうです。北から韓国に来て、今、統一教会に入ってきた皆さんに、苦労しなさいと命令しました。み旨のために行こう、同じ運命の道を行こう、苦労の道を行こうというのです。「涙と汗と血をすべて捧げて行こう。この民族のために行こう」と言ったのなら、一緒に行く人たちに対しては責任をもたなければなりません。「私は知らない」と言うことはできないのです。

 ですから、そのような問題に対して先生が祈祷するときは、涙でしたのです。「お父様! この者たちが負債を負わないようにしてください。私が負債を負うときは韓国の負債になるのであり、私が負債を負うときは世界の負債になります。この者たちの精誠と、この者たちとの心情の因縁を蹂躙することは願いません」と言いました。これが先生の生活哲学なのです。(一五七―三三六、一九六七・一〇・一六)

 先生の祈祷の中に、「お父様、私が精誠を尽くして祈祷することを、一千年、一万年後に成し遂げてください」という祈祷があります。先生が精誠を尽くすことが、自分の当代に成し遂げられるのではなく、これが天に上達されて記憶され、一万年後に成し遂げられる、そのような天のお父様との心情的因縁が残ることを願う祈祷をしているのです。

 これはどういうことかというと、統一教会が一万年たっても滅びないために祈祷しているということです。一万年後に成し遂げられる天の同情的事情が残っていれば、それがすべて成し遂げられるまで統一教会は滅びない立場に立つので、そのような祈祷をしているのです。祈祷をして、それが今、成し遂げられるのではないかと恐れる、そのような祈祷をしているというのです。(五〇―三一九、一九七一・一一・八)

 統一教会が韓国のために尽くした精誠の基準が、天が公認し得る、世界と関係を結び得る立場になっているのか、ということが問題です。そのようになっていれば、心配することはありません。そのような基準さえできていれば、人がいなくても、世界的に収穫を刈り入れられるので、絶対に損害を受けないというのです。ですから、責任者の精誠というのは恐ろしいのです。

 先生は、過去に、三千万の民族を前にして、額を地につけて血と涙の祈祷をたくさんしました。今後、先生と皆さんの精誠が神様の前に認定される日には、三千万の民族は、間違いなく私たちのところに来るでしょう。そうすれば、韓国の運勢は、一人の主体者を中心として回っていくようになるのです。(四二―一六二、一九七一・三・四)


(五) 食口のための牧会者の祈祷

 牧会者は、三日に一度ずつでも、食口たちのために祈祷してあげなければなりません。先生は、興南の監獄で三年近くの歳月を過ごしましたが、その中でも、何人かの食口たちのための祈祷は、御飯を食べる時から寝る時まで、毎回やらなかったことがありませんでした。たとえ離れていった人だとしても、彼のために続けて祈祷してあげました。そうすると、霊的に先生を訪ねてきて、離れていったことを涙を流して報告するのです。肉身が弱くて仕方なく先生から離れていかなければならないと、あいさつをして離れていく、その悲惨な情景は、同情はしないと思っても同情せざるを得ないのです。そのように、離れていったとしても、その人のために続けて祈祷してあげなければなりません。

 それはなぜでしょうか。その人が責任を果たせずに行ってしまったので、その継承者が出てくるときまで祈祷してあげなければならないからです。そのような精誠の土台さえ残っていれば、いくら食口が離れていったとしても、神様が必ず志のある人を送ってくださるというのです。ですから、食口が離れていったからといって、絶対に落胆してはいけません。

 本当に不思議なことは、ある食口が離れていくと、その人と性格も似ていて、話し方も似ていて、歩き方まで似ている人が入ってくるのです。ある面で見れば、不思議なほど離れていったその人と非常に似ている人でありながらも、すべての面において並外れて優れた人が入ってきます。このようなことを見るとき、尽くした精誠は失われない、ということが分かります。これは、間違いない事実です。

 ですから、誰に会うにしても、会っただけで終わってはいけません。天を中心として会った人ならばなおのこと、絶対にその因縁を忘れてはいけません。教会に来ていたのに来なくなったからといって、切ってしまったり、呪ったりしてはいけないということです。その人が離れていったとしても、その人と結んだ因縁だけは捨ててはいけません。(四二―一六二、一九七一・三・四)


(六) 報告祈祷

 国を中心として、父母を中心として、父母の愛を欽慕しながら相談しなければなりません。それが孝子、孝女、忠臣、烈女になる生活です。父母と相談する生活圏内で、お互いが同じように考え、感じて暮らすのが天国です。報告生活をするところが天国です。報告するときも、天のみ旨を自分に報告するのではなく、天のみ旨の前に自分が報告をしなければなりません。これがみ旨に従っていく道です。(三五―三〇七、一九七〇・一〇・三〇)

 心霊的な復興運動、覚醒運動を継続しなければなりません。先生は今まで、生涯をかけてそのような生活をしています。いくら先生が経済的なことをしていても、また会議をするとしても、善悪を正しく分別し、帰ってくれば、神様に正しく報告しなければならないのです。このような面ではよくできた、このような面ではよくできなかった、このように報告するのです。良心が前に立つのであって、肉身が前に立つことはありません。心霊基準が先であって、経済基準が先ではないのです。(二五五―三一九、一九九四・三・一一)

 自分のためにするのではなく、人のために僕暮らしをして、人のために作男暮らしをすれば、公的に天と関係を結ぶようになるのです。ですから、その結果がどのように現れるかということに対しては、関心をもつ必要がありません。それは天のものです。ただし、報告し、精誠を尽くすのは私の責任です。(四二―一一五、一九七一・二・二八)

 家庭に何かあれば報告するのです。報告するとき、自分の意図や自分個人の感情を中心として報告するのではありません。率直に報告しなければなりません。皆さんが解決できなければ、先生を通して解決しなければならないのです。根に行ってこそ、すべてのことが解決されるからです。良いことも悪いことも、すべて報告しなさいというのです。(五六―三五八、一九七二・五・一八)

 良いことがあれば良いことなので報告し、悪いことがあれば悪いことなので報告し、私たち自身の中で、原理原則に合わないものは、早く除去しなければなりません。それが神様のみ旨であり、神様のみ旨を愛する教会員の、心の姿勢です。(四二―一一五、一九七一・二・二八)

 報告するときは、何かを決定する前に、相談して報告することが重要です。すべて決定しておいてから知らせるのは、報告ではありません。自分が先に入ってはいけないのです。自分を中心とする考えが摂理を台無しにするのであり、うまくやっているという考えが摂理を台無しにするのです。(二〇〇五・九・二一)

 皆さんは、父母様を中心として暮らすところには、神様が共にいらっしゃることを知らなければなりません。ですから、毎日、父母様の写真の前で報告することを、息子、娘に教育するのです。それが絶対に必要です。神様に侍る生活をしながら報告する生活を、自分の三代なら三代がしなければならず、四代なら四代も、すべてそのようにせざるを得ないように習慣性をもたせ、そのような生活様式を子孫と環境に伝達するのです。(一九九八・三・二九)

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