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神様の祖国と双合七八禧年祝福を勝利しよう - 3 - 2. 天運を相続するには

작성자대태양/김현수|작성시간22.02.12|조회수52 목록 댓글 0

第二節 天運を相続するには

(一) 「ために生きる」真の愛の原則の道を行くこと

 1 天理法度に従う天運

 天運に乗ろうとすれば、原則的な道、原理の道を行かなければなりません。これが先生の生活哲学です。今まで四十年以上迫害を受けてきて、みな滅びると思っていましたが、滅びる位置から跳躍し、より大きな世界に、より大きな舞台に発展してきたのです。天が協助できたのは、天理原則に一致した道を歩んできたからです。皆さんも同じです。(一四九―一八七、一九八六・一一・二一)

 世界の運勢、地球の運勢、あるいは天の運勢自体が、巨大な大宇宙の法度に従って動いています。地球も、地球自体が独りで回っていくのではありません。太陽系の一つの惑星として、すべての力とバランスをとって公転するのです。もしその軌道から外れれば、宇宙の破綻の要因になります。ですから、全体が回るためには、その軌道が、常にこの宇宙の運動法則に合う力のバランスを維持しなければなりません。その位置で歩調を合わせてこそ、永遠に存在するのです。(二四―二一三、一九六九・八・一七)

 天運の終着点は、み旨の完成世界にあるので、完成した人たちが暮らす所は、神様が法を中心として絶対的に保障する世界にならなければなりません。そのためには、善の主権が私自体を通して、家庭を通して、民族を通して、国家を通して、世界を通して天宙まで連結されなければなりません。そのような世界で、「私は、道理に従う法の統治を受けることができる人だ」と言う人にならなければならないのです。

 それでは、皆さんが個人的に法の統治を受ければ、それでよいのでしょうか。違います。それは、家庭的にそうでなければならず、氏族的にそうでなければならず、民族的にそうでなければならず、国家的にそうでなければならず、世界的にそうでなければなりません。そのためには、そのような内容を連結できる思想的体系がなければならないというのが、統一思想が見る観点です。(七八―一三八、一九七五・五・八)

 人々は、「正しく生きなければならない」、あるいは「まっすぐに生きなければならない」という話をします。それでは、正しく生きるとはどういうことでしょうか。正しく生きなければならないという、その基準は何でしょうか。自分を中心としたものではありません。私たちが山にある木を見て、「あの木はまっすぐだ」と言うのは、自分が見る立場でまっすぐだというだけです。しかし、本当の意味では、地と環境を中心とする基盤を中心として見たときに、九〇度の角度に育てば、「その木はまっすぐだ」と言うことができるのです。

 これと同じように、私たちが正否を判断できる基準が何になるかというと、自分ではありません。公的な基準や自然的な基準は、道理に従い、天理を中心とするものです。ですから、そのような公的な基準を中心として正しくならなければなりません。(二四―二一三、一九六九・八・一七)


 2 「ために生きる」真の愛の原則

 天運は、本然の愛の心をもち、心と体が天運と共に和合し、宇宙と神様の縦的愛の前に、縦的な天を尊重視し、人間と宇宙を愛そうという心の和合、それを吸収できる本然の性相、本性基準に一致できる愛の心が宿った個人を訪ねてきます。

 そのような個人である男性と女性が一つになって家庭を成せば、家庭的な運勢は、その家庭に訪れてきます。会社なら会社、社会団体なら社会団体も、大いなる天倫の縦的な基準を中心としてお互いに愛し、そこで生産される物質も愛で絡まっていくようになるとき、その物質も会社から離れたいと思わず、人も離れたいと思わないのです。そのような因縁の背景ができていれば、その会社の運勢、団体の運勢は訪れてきます。

 国も同じです。忠臣烈士たちが、天道を中心とする天理の原則的愛を受け入れられる国家基準で、忠臣と王が、主体と対象が、その国を代表して真の愛の運勢圏内にいるとき、天理を代表できる国家の運勢は訪れてくるのです。(一四九―一五一、一九八六・一一・二一)

 一つの国が栄えるか滅びるかということは、何によって決定するのでしょうか。天運が宿ることのできる愛の心によって、内的なものから外的な環境にまで影響を及ぼす、そのような国民、そのような国家は栄えます。そのようになれず、すべて個人の愛、個人の欲望を中心とする環境が造成されれば、天運は離れていくようになります。

 真の愛の心をもって天運が訪ねてこられる個人的真の愛の起点をつくり、家庭的真の愛の起点をつくり、団体の真の愛の起点をつくり、国民と国家の真の愛の起点をつくれば、世界的な天運は、訪ねてくるのです。(一四九―一五一、一九八六・一一・二一)

 「ために生きる」心を万年主体とすれば、それが動機となって天運が動きます。春の季節と希望の解放時期を迎えたのと同じように、天運を抱いて包容するので、本心は天運によって輝くようになっているというのです。そのような方向に向かって結集するのは、自然な現象であり、理論的な結論です。(二二九―二四三、一九九二・四・一二)

 善の人とは、村の悪いことにも良いことにも、自分のことのように対し、すべてのことを主体的な立場で行おうとする人です。そのような人は、その村の心情的主体になります。

 国の運勢も世界の運勢も、それと同じです。天の運勢が数千年目にして大韓民国に訪れてきたというとき、「大韓民国を愛する天があり、天はこの民族を信じているので、国の悲運の歴史があれば、その悲運の歴史の中で、私は後退する人にならず、そこで中心的な責任を果たし、その悲運の歴史に私が責任をもってこれを消化させなければならない」と思える人にならなければなりません。

 この上なく困難な峠道を経ていってこそ、この上ない幸福な出発の道に出会えるのであって、普通の立場で、「ほかの人がみんな行くので、私は苦労しないで行けばよい」と考える人は、この上ない幸福になり得る道に出会うことはできません。

 悲運を誰よりも自分のことと思い、私でなければならないと主人の立場で、最初から最後まで、夜も昼も、一時もこれを無視せずに考え、すべての出来事を自分の生死とともに因縁を結んで闘っていった人は、間違いなく悲運の歴史を解消させるにおいて、天の功績を引き込める原動力を提示できると同時に、天の運勢を迎え入れる第一人者になれるのです。(五八―二四二、一九七二・六・一三)


(二) 神様を中心として夫婦が一つになること

 夫は、至誠の限りを尽くして妻を愛さなければなりません。そのように夫が妻を愛するならば、妻は、夫を愛するように、自分の血肉を受けた子女を愛するようになるのです。このようになるとき、平和な家庭ができます。それで、「家和して万事成る」というのです。すべての天下が、すべての存在世界が歓迎し、侍るようになるということです。男性が、至誠の限りを尽くして女性を喜ばせてあげ、愛して幸福にしてあげてこそ、女性は幸福な母親として子女を喜ばせてあげられるのです。「夫の息子、娘なので、夫から愛される以上に私が彼らを愛し、二人で協力して、夫が願うより貴い息子、娘をこの地上に残していこう」と考えるというのです。それが父母の行くべき道です。(二七四―八五、一九九五・一〇・二九)

 この存在世界において、相対的因縁をもたないものは、なくなります。そのようになっているのです。したがって、天運があれば、その天運は、相対的因縁を擁護するようになっています。これが存在世界の鉄則です。それは、一つの公式と同じです。それが存在する相対世界の原則になっているのです。その原則と反対になったり、欠陥が生じるようになるときは、天運は、その分量だけ反対の立場で押し出すのです。

 例えて言うと、男性と女性が真の愛を中心として一つになるとき、それを本当の意味の夫婦と見ます。理想的な夫婦だと見るのです。また、父子関係において、父母が子女を愛することに心を尽くし、その愛を受ける子女が喜びの対象になるときに、その父子関係は、理想的な関係だと見るのです。

 このように、真の愛を中心として男性と女性を見れば、その男性と女性が神様の完全な愛を与え合うことのできる位置に立つようになるとき、初めてその男性と女性は、神様の前にあって喜びの対象になれる夫婦になるのです。真の愛を中心として完全に与え合えば、理想的な夫婦になるというのです。そのようになるとき、宇宙の力が彼らを保護し、擁護します。(五九―二九七、一九七二・七・三〇)

 子女を育てるときは、自分独りがするのではありません。父親が協力して外的な世界と連結するのです。心情の基盤である母親の愛の懐で育ち、外的な世界に連結されるときは、父親の世話になるのです。そして、父親が補給し、供給してくれる万物で暮らすのです。その時は、母親も影になります。

 昔は、そうではないですか。狩猟して生きていた時代は、男性が出ていって肉をもってきて、それを女性たちが精誠を尽くして料理するのです。苦労した夫のために精誠を尽くしながら料理するその瞬間が、女性の幸福だというのです。その幸福は、世の中に差し出せる幸福ではありません。そして、父親と母親が同じ食膳で子女たちと共に食べるとき、それをおいしそうに食べるのを見つめる母親の心は、天国に暮らす人の心だというのです。自分が精誠の限りを尽くして作り、愛する子女と愛する夫がそれをおいしそうに食べるのを見つめる、そこに母親の幸福があるのです。(二三三―二〇五、一九九二・八・一)

 夫婦というものは、一言で言って、山を越えて、行ったり来たりするものです。山がどれくらい高いかということが問題です。自分を主張すれば、どんどん高くなります。その山がどんどん高くなるのです。自分を主張しなければ、平地になります。「ために生きよう」と思えば、山を行き来する必要はありません。「自分」があると、山の頂上がエベレストより、もっと高くなるのです。

 人は、自分自身を主管することも大変ですが、相対を育てていきながら、完全な位置に定着させてあげることは、もっと大変です。自分があっては、位置が定まりません。位置がたびたび変わるのです。ですから、十年の歳月が過ぎれば、責任をすべて果たしたと言いますが、十年では完成できません。二十年、三十年、四十年かかるのです。六十歳の還暦というものがあるではないですか。二十歳を過ぎ、四十の峠を越えて、六十歳になるのです。四数は四位基台を拡大した全体数ですが、四十数が絶対的に必要です。

 皆さんは、もし夫婦同士でけんかすれば、どのようにしてゼロの位置に戻っていくかということを常に考えなければなりません。なかったものが生じたときは、ゼロの過程を経なければなりません。ゼロの位置を経なければ、それがいつまでも残るのです。ゼロの位置を経ることによって忘れてしまうのです。夫婦生活とは、刃の上に立ったのと同じです。一言で、刃物の刃になったり、刃物の背になったりします。細くとがることも、鈍くなることもできるのです。刀の切っ先のようにもなれば、刀の柄のようにもなるのです。

 ですから、心と体が一つになって腹を立ててはいけません。腹が立てば、腹が立った動機が何であるかを考えなければなりません。自分のために腹が立ったとすれば、譲歩しなければなりません。後退しなければなりません。良心は分かります。けんかをすれば、どちらが悪い動機なのか、良い動機なのかがすぐに分かるのです。いくら夫であっても、自分の動機が悪いときは後退しなければなりません。かわいそうな妻に、むやみに十字架を背負わせる必要はないではないですか。そのようなときは、すべて自分の胸の中で怒りを握りつぶさなければなりません。男性よりも女性のほうが弱いからです。

 そのようにして十年暮らしてみれば、「ああ、いろいろとお世話になった」と感謝するのです。過ぎし日のすべての生活を振り返ってみたときに、自分よりも男性のほうが優れていたということが分かるように、見せてあげなければなりません。

 ですから、山を登って平地に立てるようにしてあげなければならないのです。平地に立たせてあげれば、「山のほうに行け」と言っても行きません。それは、男性がしてあげなければなりません。また、女性は、男性が自分のためにそのように指導しているということを知らなければなりません。私たちの体を触れば、肉が動くのであって、骨は動きません。女性は肉と同じです。すぐに反応が来ます。針でつっつけば、「痛い」と言い、何かで押せば、「ああ、嫌だ!」と言うようになっているのです。そのようなことを理解して、男性は、女性の垣根となって保護してあげなければなりません。

 今まで神様も、垣根の立場に立って、堕落した世界を保護してこられたのです。考えてみてください。アダム家庭を失うことによって、創世以来、今日まで役事してこられたのです。一人の人を立て、一つの家庭を立てるために、今まで、旧約時代、新約時代、成約時代を経てこられました。復帰摂理には、救援摂理の同時性の時代があります。そのような歳月が、どれほど長かったかというのです。

 それは、未知の世界です。未知の世界は、関係を結ぶことができなかった世界です。人間は、神様に対する関係を知らず、神様は、人間に対する関係を知っていらっしゃったのですが、関係を結ぶことができなかったのです。ですから、主体が種にならなければなりません。完全な主体が完全な対象をつくるのと同じように、完全な主体はすべてを知っているので、対象的基準をつくっていかなければなりません。それまでは耐えなければならないのです。(二九二―一一、一九九八・三・二七)


(三) 天運の時を知って準備すること

 皆さんは、時を知らなければなりません。今の時が、どのような時かということを知らなければならないのです。また、時を知っているだけではいけません。その時を中心として、前後関係を分別できる自分自身にならなければならないのです。

 先生にとっては、そのような峠がたくさんありました。新しい時代へと一つの峠を越えていくたびに、試練にぶつかります。ここでは、ほかに何か起点があって、それを中心として行くのではありません。アダムとエバが完成段階に越えていく時までは、一人で行かなければなりません。

 そのためには、神様の命令と自分の本心が一致した基準で行動を同じにしなければならないのです。神様の命令と自分の心と行動が一つに一致し、天運の方向と一致した線に入っていくまでは、私たちが願う目的地に行けません。(二四―二一七、一九六九・八・一七)

 きょう、初めて統一教会に来た人もいるでしょう。初めてきた人は、「さあ、集会に行きましょう」と誰かが先導したのでしょう。ところが、今は田植えの真っ盛りです。ですから、「きょうを逃したら、いつできるか分からない」と考えることもできるのです。それで、「あなたが熱心にやっているのを見ると、行くことは行かなければならないのだが……。約束もしたし、行ってみたいとも思うが、麦打ちが問題だ。田植えをしようとすれば、苗代をきちんと整備して田植えをしなければならず、苗を移して植える田を準備しなければならない。何日か前だったらよかったが、きょうは駄目だ」と思いながら、さっと後退してしまいます。

 しかし、その瞬間は、その人の一生だけのことではなく、自分の善の先祖たちが、天の福を受けることができるように、その道に押し出す交差点だったというのです。これを逃す日には、今までの善の先祖たちの千年の功績がすべて壊れてしまいます。

 ですから、人は、どのような人にならなければなりませんか。善の人にならなければなりません。善の人とは、どのような人ですか。村の事情を自分の事情のように理解してあげようとする人です。村の喜びを自分の喜びと思い、困難があっても自分の困難と思い、自分を中心として解決しようとする人がいれば、その村に訪れてくる福は、その人が最初に受けるようになるでしょう。

 それと同じように、一つの村の幸不幸の時が、自分の知らない間にさっと過ぎていくのです。わずかの時間に過ぎていきます。映画のようなものを見れば、一生の間、探していた人と出会うようになったのに、さっと一歩ずれてしまうことによって、永遠に出会うことができなくなるという場面があります。これが人生の運命の分かれ道だということを知らなければなりません。それは、ある瞬間を中心として決定するのであって、長い時間を中心として決定されるものではありません。(五八―二四二、一九七二・六・一三)

 自分自身の生活問題を考えるよりも、歴史的な使命とこれからの天運と勝利の拍子に合わせることに、どれほど深刻だったでしょうか。私たちは、そのようにできる夫婦の因縁を尊重視し、そのようにできる人間の価値を貴重に思いながら、因縁の世界を創建していかなければなりません。これが自分の一代で終わらなければ、後継者を立ててでも相続させなければなりません。ですから、この途方もない歴史的な宿命の課業に責任をもって準備し、そっくりそのまま相続してあげる真の父母の姿として、どのように登場するか、これが重要なのです。(二七―二八〇、一九六九・一二・二一)

 準備する人は、滅んでも、行くべき道を訪ねていくことができます。準備できない人は、滅べば、それで終わりです。終わるというのです。荒野の六十万の大衆が準備して、「私たちはカナンの地に行こう」という信念で、砂漠で準備して訓練していたならば、わしのえさになることはなかったでしょう。そのような人たちは、カナンの福地に行くときに神様が守ってくださるのです。(一二五―一二七、一九八三・三・一四)

 皆さんに教えてあげるのは、先生の生活哲学です。それは準備しなければならないということです。しなければ滅びるのです。準備の基盤をもとうとすれば、ほかの人よりも侮辱されなければならず、ほかの人よりも悲惨な立場にも行かなければなりません。悲惨な人たちを生かしてあげようとすれば、悲惨な立場で生き残ることができる基盤がなければならないのです。(二四八―二二二、一九九三・一〇・一)

 天意による召命を受けたとしても、それに対する準備をすることができなければ、その召命が定着できる地上基盤は顕現しません。自分の生命が消えることがあり、自分の一代が滅びることがあっても、召命的な責任のために絶えず準備し、未来に対する相対的準備を怠らない、そのような教会、そのような団体、そのような国、そのような人には、天運が訪ねてくるのです。(一四七―一七三、一九八六・九・二一)

 先生は、世界舞台を中心として、天運を受け継ぐ準備を怠らず、迫害を受けるところで、時間を惜しみながら天涯孤独でこのようにしてきました。ですから、皆さんも、家庭を整備しなければなりません。世界に行ける大韓民国の運勢圏を開門するために、準備を急がなければ滅びます。未来の希望は、ほかの所に回っていきます。(一四七―二〇八、一九八六・九・二一)

 世界最高の情報を一番先にキャッチする人が私です。なぜ宗教指導者に、そのようなことが必要ですか。神様の行く道を妨げる怨讐の悪党たちを整備するために、準備しなければならないからです。そのようにしなければ敗者になります。歴史が流れていく方向を私は知っているので、準備ができなければ天運を相続できません。私は、反対されながらも、南北が統一されたあとに世界に出ていく道をすべて準備し、今後、民主世界が行く道をすべて準備し、教えてあげているのです。(二〇九―二一六、一九九〇・一一・二九)


(四) 感謝すること

 今まで先生が、生涯を経て築いてあげた基盤、その受難の精髄を受け継ぎ、その勝利の結果として固められた基盤を見るとき、高く、深く、広くあがめ奉る心や感謝の心をもち、涙と共に血肉が躍動する場に立って一日の生活を誓って歩めば、天が共にあるのです。そのようにすれば、私と共にあった神様が、間違いなく皆さんと共にあり、私を擁護していた天運が皆さんを擁護するでしょう。皆さんの行く道がいくら困難でも、勝利し、解放されるのです。(一六三―三三、一九八七・四・一八)

 天運に乗ろうとすれば、先に天運の行く道がどのようなところかを知らなければなりません。そこは、万民が喜ぶところ、楽しんで飲み食いするところではありません。すべてが嫌う位置です。その場は、どのようなことでも常に感謝し、責任を遂行しながら、栄光を神様の前に返して自分自ら感謝できる位置でなければなりません。そのような位置に立つ人が天運に乗れるのです。(一九―一四五、一九六八・一・一)

 宗教の本質は、感謝することです。それで、サタンを防御するための一番重要で緊急な要件を挙げるならば、感謝することだというのです。その次に満足することです。イエス様は、この二つの問題を無難に合格したので、神様はイエス様にメシヤの名称を与えざるを得なかったのです。そして、イエス様は十字架で亡くなりましたが、復活の権限を行使されました。ですから、その時から喜びの世界と歴史的な新しい希望の朝が訪ねてくるのです。

 しかし、世俗的に見ればイエス様は、どうだったでしょうか。不幸な人の代表者であり、不満を言おうとすれば、誰よりも不満を言うことができる人であり、不平を言おうとすれば、誰よりも不平を言うことができる人であり、良くないと言おうとすれば、誰よりも良くないと言うことができる人であり、悲しもうとすれば、誰よりも悲しむことができる人だったのです。

 それでも、イエス様は、ゲッセマネの園で「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と三度も祈祷しました。ここで克服という言葉が成立したのです。(一七―一八、一九六六・一一・六)

 それでは、この罪悪の世の中にいる私を、何がそこから移動させないようにしているのでしょうか。それは不平不満です。このような不幸の与件がこの社会を覆っています。これが、死亡の世界を越えていくにおいて、私たちが征服すべき一つの必須的な戦場だということを、皆さんは知らなければなりません。

 それで、大勢の宗教者たちが闘ってきたのです。その闘いがまだ終わっていないので、この世界は明るくなっていきません。この闘いに勝利し、勝利の王者だと自信をもって出ていくことができなかったので、この悪の世の中に神様が願われる理念的な生活体制をもたらすことができないのです。ですから、歴史は今、悪の歴史が連続しているというのです。(一七―一八、一九六六・一一・六)

 今まで神様が苦労されたのは、結局、私のためであり、今から行くべき世界的な開拓路程の九五パーセントの使命も、私のために果たしていらっしゃるということを考えれば、私たちは神様に感謝せざるを得ません。

 ですから、信仰生活の本質は何でしょうか。神様に感謝する心です。そのような心があるとき、それが、堕落の因縁を越えて神様と私が一つの因縁で結ばれる基になるのです。

 自分がこの世の中で良い立場に立って、初めて感謝しなければならないのですか。違います。今まで神様は、良いときだけ私たちのために苦労してこられたのではありません。困難なときであるほど、より苦労することを誓われたのです。ですから、今日の私たち自身も、神様を私の父として侍るためには、私の代わりに働かれ闘ってこられた神様に、良い立場で感謝することよりも、困難な立場で、より一層感謝しなければなりません。したがって、過重な十字架の途上でも神様に感謝できるというのは、このような原則を理解するときに可能なのです。(二九―三三八、一九七〇・三・一四)


(五) 良心に従って心と体を一つにすること

 人類の良心が指向する最高の目標は、天運に従っていって神様と一致し、神様の愛を自分のものにしようということです。(二四―一六、一九六九・六・二二)

 良心に従うと、なぜ良いのでしょうか。それは、一つの目的に向かっていくから良いのです。宇宙の運勢は、どこに向かって動いているのかというと、大きなものも小さなものも、すべてが一つの目的に向かって動いています。また、天運によって起きるすべての出来事も、その目的を協助するためのものです。磁石の周囲に金属があれば、磁石は金属を引き付けるようになっています。

 これと同じように、天理の公法があれば、すべてのものは、それに向かって動いていくようになっているのです。一つの目的に向かっていくことは変わりません。変わることは、このような方向を離れた立場です。(一六―一三一、一九六六・一・二)

 宇宙の保護を受けるために、私たちには、良心と肉身の相対圏が与えられていることを、有り難く思ったことがありますか。宇宙から相対圏が与えられた自分自身を考えるとき、自分自身に対して「ああ! 良心よ、ありがとう。肉身よ、ありがとう」という考えをもってみたことがあるかというのです。そこに天運があり、それによって左右されるのですから、「私」によって左右されるようになっているということです。ですから、良心と肉身が一つになれば、天運が「私」を永遠に保護するのです。(二〇五―四五、一九九〇・七・七)

 いつでも、心の言うことと一つにならなければなりません。いくら難しくても、心と体が一つになることができなければならないというのです。そのようになれば、天運が保護します。これが合わなければ、良心に苦痛が来るのです。間違ったことをすれば苦痛が来るでしょう? それは、天運の啓示であり、天運の命令です。自分の心が、「天運が相対圏を喪失した基準に立ったため、それに比例する力があなたを追放するので、あなたは消えつつあることを知らなければならない!」と指示しているというのです。(二三六―二六九、一九九二・一一・八)

 良心に苦痛が来れば、天運が私を訪ねてきて、「あなたは、破壊の道を行っている」と警告していることを知らなければなりません。このようなことを知らなかったのです。しかし、統一教会は、これを知っているので、良心が嫌えば、すぐに回れ右して行きます。

 霊的な生活をするようになれば、もっと敏感になります。自分が今話していることが、これから成されるのか成されないのか、すぐに感じるのです。ですから、いくら環境が難しくても、正しいことをしているのであれば勝利します。なぜでしょうか。天運が共にあるので、天運に乗っていくからです。(二四三―八一、一九九三・一・三)



第三節 天運と祭物

(一) 天運と祭物

 宗教世界において、なぜ祭物が必要なのでしょうか。祭物とは何でしょうか。それは、今まで塗炭の中にいた人たちが飛躍できる新しい起源となり、一つのサイクルの方向を転換させ、一つの個人的な悲運を天運につなげるためのものです。(一〇五―二九四、一九七九・一〇・二八)

 天運を愛し、天運の悲しみに対して私が祭物になろう、これを私が迎え入れようと考える人は、絶対に滅びません。このような観点から、イエス様も、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)と語られたのです。個人の運と天運というものを中心として考えてみれば、その言葉は正しいというのです。

 天運のために私のすべてを投入するときは、滅んだとしても、滅んだのではありません。必ず復活します。自分を中心としてすべてのものを投入すれば、生きたと思っても死んでしまうのです。このことをはっきりと知らなければなりません。(一〇五―二九九、一九七九・一〇・二八)


(二) カイン・アベルの祭物と私

 皆さんは、カインとアベルが一緒に神様に祭物を捧げたとき、アベルの祭物を受けられた神様の立場と、カインの祭物を受けられなかった神様の立場が、互いに異なるものだと思っていますが、そうではなかったことを知らなければなりません。カインに、天の立場を身代わりしていたアベルを通そうという心が少しでもあったならば、神様はカインの祭物を受けられたでしょう。神様は、時間的な差はあったとしても、公平な立場で彼らに接しようとされたのです。

 それでは、今皆さんが、神様の前に宇宙的な嘆息の峠を越え、神様のうれしく、喜び得る一つの祭物として現れることを願うとすれば、皆さんはどのようにすべきでしょうか。全宇宙の万物を復帰するためのアベル的な祭壇を築き、アベル的な祭物として、羊を捧げるのではなく、皆さんの一つの生命の実体を捧げることができなければなりません。

 昔、アベルが天の使命を付与され、それを果たすことができずに血を流し、神様の摂理を挫折させましたが、今日の皆さんは、そのようになってはいけません。皆さんの周囲に現れるすべての事実は、自分を完成させるために現れたものだという心をもち、ある人がどんな不義の環境に私を追い込もうとしても、決して天に対して背く道には行かないという、確固たる信仰をもたなければなりません。そうして、皆さんは、周囲の環境のすべてのものを忘れ、ただお父様の栄光を現すために、死を覚悟して前進できる人にならなければならないのです。(三―二〇四、一九五七・一一・一)

 カインとアベルが祭物を捧げたのち、アベルの祭物だけを神様が受けられたことを知ったカインが、アベルを憎み、殺してしまいましたが、ここには、カインとアベルが祭物を捧げるために準備するときから、カインにアベルを憎む心があったことを、皆さんは知らなければなりません。カインは、神様が自分の祭物を受けないので、瞬間的にアベルに対する憎しみが生じて彼を殺したのではなく、そのことにぶつかる前から、アベルが憎くて殺したいという思いがあったというのです。

 そのような堕落性の血統を受け継いだ今日の皆さんが、宇宙的な嘆息の峠を越えるためには、どのようにしなければならないのでしょうか。皆さんは、神様に不信と争いの条件を成立させる祭壇を築くのではなく、お父様の栄光を紹介し、お父様に喜びと栄光をお捧げできる勝利的なアベルの祭壇を築かなければなりません。

 ですから、今日の皆さんの生活は、ただ皆さん個人に極限された生活ではありません。全体を身代わりする生活なのです。皆さん個々人がお父様の前に身を伏すその時間、み旨を中心として生きる生活、それは、その時間と生活で終わるのではありません。そこでカインの立場か、あるいはアベルの立場かという、二つの道が決定するのです。すなわち、今日の皆さんは、ともすればアベルになり、ともすればカインになる、このようなとてつもない歴史の峠道にいるというのです。(三―二〇四~二〇六、一九五七・一一・一)

 私たちは、どのような存在でしょうか。私たちは、今日の私がいるまでに、神様が六千年間の世界的な闘いを経て苦労されたことを知らなければなりません。このような神様の苦労によって探し出された自分なのです。ですから、皆さんは、皆さんを育ててくださった神様の恩恵を忘却してはいけません。また、神様の苦労を身代わりした祭物だと、自ら感じることもできなければならないのです。

 そして、皆さんが今に至るまでには、皆さんを探し立てるための苦難の道、厳しく困難な闘いの道を経てこられ、語ることのできない神様の怨恨と嘆息があったことと、数千、数万の先祖たちの血の犠牲があった事実を知らなければなりません。それだけでなく、私たちを救ってあげるために苦労された神様の愛の心情を感じることができる息子、娘にならなければなりません。(二―二九三、一九五七・六・二三)

 私たちの先祖は、数千年の歴史を経てきながら、血の祭壇を築いてきました。イエス様も十字架の祭物として亡くなり、イエス様以降の二千年間、キリスト教の聖徒たちも、血の祭壇を成してきたのです。ですから、今私たちは、そのような祭壇の上に挙げられた自分たちであることを悟らなければなりません。

 そのような立場でお父様を呼び、お父様の声を聞くことができ、神様に代わって人類を救うために、お父様に訴えることができなければなりません。また、六千年の歴史を摂理してこられた神様の無念な心と怨恨を知って、神様を慰労してさしあげる子女にならなければなりません。(二―二九三、一九五七・六・二三)


(三) 祭物の道を歩まれた神様と真の父母様

 救援摂理歴史は復帰歴史ですが、復帰歴史は、蕩減原理を通して再創造の過程を経なければなりません。そうでなければ、完成は、永遠に成し遂げることができません。そのような基準を中心とする歴史が、どれほど然とするものでしょうか。

 ですから、忘れることのできないサタンの息子、娘をすべて忘れなければならないのです。忘れることのできないものを忘れなければならない立場、忘れるべきものを忘れることのできない立場に立っている神様の苦痛は、どれほど大きかっただろうかというのです。忘れるしかないものを忘れられない立場に立ち、そのためにどれほど投入したかということです。投入できないものに投入したのです。

 投入しておいて何をしようというのでしょうか。愛の相対を求めていくのです。愛せないものを愛さなければならない神様の孤独な身の上を、誰が知っていましたか。皆さんが知っていましたか。

 皆さんは、一代を中心として一つの生涯です。それは、この天地の間にある一点の雲にしかなりません。天地のすべてが、生死の境を越えて破壊の一路であり、地獄に向かって破滅する道を進んでいるのに、干渉することができず、手を出すことができず、忘れてしまうべきものを忘れることができない立場に立っているというのです。それをけ飛ばしてしまわなければならないにもかかわらず、再び投入して、また投入する歴史を経てきたのです。そこで終わるのではありません。それを本然のアダムとエバより、もっと愛さなければならないのです。

 忘れてしまうべきものを忘れることができない神様の立場、その孤独な立場を誰が知っていますか。今までの歴史を経てきながら、再創造できないものに数千万年の間投入して忘れてしまう神様の身の上を誰が知っているのですか。そのように恨多き峠とあざを残した、愛せないこの人たちを、愛さなければならない神様の心情を誰が知っているのかというのです。

 今日まで、先生は、そのような伝統を知っていたので、忘れてしまうことができないものを忘れてしまわなければならないのです。怨讐たちがどれほど多かったでしょうか。棍棒でたたいて地獄に飛ばしてしまわなければならない人たちを、自分の息子、娘の血肉まで、その命まで投入して生かしてあげようというのです。

 愛するにおいては、自分の息子、娘を愛するよりもっと愛し、自分の息子、娘を犠牲にし、同調して愛さなければならない立場に立ったのが、真の父母の歴史的路程だったという事実を知らなければなりません。

 その涙の谷間は、いくら海の水が多くても、埋めることができない谷間です。いまだに谷間が残っている歴史なのです。高ければ限りなく高く、深ければ限りなく深い事情を残し、埋めることもできず、上がっていくこともできない恨を残した神様の心を、平和な平地の心にしようと、内外の受難の道を行ったのが私たちの真のお父様です。そのような天の父母と真の父母の歴史を忘れてはいけません。

 これをすべて埋めることができるのは、真の愛の道しかなかったという事実を知らなければなりません。忘れられないものを忘れなければならず、投入できないものに投入しなければならず、愛せないものを愛する、そのような道を行かなければなりません。一度死んで、二度死んで、三度死んでも、復活して行かなければならない歴史だというのです。

 旧約時代に失敗し、新約時代に失敗し、成約時代も失敗がありました。先生の一代の四十年荒野路程というものは、悲痛なものです。アダム家庭の一代の失敗が問題ではないというのです。イエス様が国家的基準を成就して万国を統治できなかった悲しみ以上の悲しみの立場です。戦後、天下を解放でき、地上・天上天国を開門できる、そのような勝利的覇権の瞬間をサタンが追放し、何もない荒野に、無の世界に引き返した神様の立場に対して、誰が知っているのかというのです。

 その道を開拓するために、恨も多く、悲しみも多く、苦痛も多く、涙も多く、苦役も多い、そのような嘆息の峠を、真の父母が五十年歴史を通して越えてきました。世界の家庭を中心として、万国解放の門を開き、万国万民をすべて一つの道へと導き入れることのできる道を開拓してきたのです。

 エジプトで苦役を受けていたイスラエル民族が、イスラエルの国を建国する世界に向かって出動できる、その時と同じように、「サタンの前に捕らわれの身となり、監獄に閉じ込められている家庭が、すべて門を開いて理想的天国の一族となり、解放天国のその国に移っていくことができる、このことを宣布される瞬間に私たちが同参したという、この驚くべき感謝と栄光を賛美しなければならない!」ということを忘れてはいけません。(二八六―一三八、一九九七・八・九)


(四) 家庭的祭物と精誠

 1 天運を動かす家庭

 今まで私たちは、外的な分野を中心として、私たちの前にふさがっている国の恨めしい障壁を崩すために、受難の道を歩んできました。先生は、この国とこの民族に恨みを晴らすという心もありましたが、神様のみ旨を知っているので、いかなる困難も甘んじて受けてきました。消耗戦をしてきたのです。血を抜いて売り、ぼろを着て飢えながら、正面から向き合って闘ってきました。彼らと実力対決できる基盤を築いてきたのです。この三千里半島(朝鮮半島)を誰が血と汗を流して守り、神様の心情を抱き締めて誰が忠誠を尽くしたのかというとき、神様を中心として、私たちだけが主張できる内容をもったので、私たちこそが訪れてくる天運を迎えることができるのです。

 皆さんは、今が統一の運勢時代であることを知らなければなりません。歴史時代と共に来たものではなく、歴史時代を越えて、数千年目に訪れてきたこの時を、家庭がそっくりそのまま受けなければなりません。(三五―三一〇、一九七〇・一〇・三〇)

 真の父母様のすべての受難は、自分が幸せに暮らすためではありません。人類を解放させ、人類に天運を分けてあげて、天倫を移してあげるためのものです。真の父母に従ってくる天運を、そのまま譲り渡してあげなければならないのです。祝福の基になりなさいということです。その人が地上に来て自分の福ばかり受けてから逝ってはいけないというのです。地上に功績を立て、すべての人が大きな天運の恩恵を十分に受けられるものを譲り渡してから、逝かなければなりません。(二六一―九一、一九九四・五・二二)

 真の父母様が何をしたのかというと、代身家庭となり、天運を動かす家庭となったということです。ですから、父母様が動けば天運がついて回るのと同じように、皆さんも父母様と完全に一つになって天運を動かす家庭となり、天の祝福を周辺に連結させなければなりません。自分一人だけではいけないということです。周辺に自分と同じ家庭をつくるのです。そのような主体的家庭になることを誓わなければなりません。(二六七―一五三、一九九五・一・四)

 自分たちだけが幸せに暮らすのではないのです。自分だけ幸せに暮らしてはいけません。神様は、そうではありません。父母は、そうではありません。息子、娘がもっと幸せになるようにしなければならないというのです。四方に天の祝福を連結させる家庭を完成しなければなりません。(二八〇―三五、一九九六・一〇・一三)

 家庭の財産と子女と父母のために生きるよりも、人類のために復帰の基準を立て、神様の怨恨を解いてさしあげなければなりません。家庭の世話をするときも、み旨のためだという心でしなければなりません。すなわち、生活自体が、神様の前に、全体の運勢に吸収され得る一つの実体の結果でなければならないのです。このような天的な実体は、横的に見るときに蕩減歴史に同参する価値があるので、天運に従って越えていくことができるのです。(一八―二一四、一九六七・六・八)


 2 家庭的祭物と精誠

 私たちの家庭は、本来どこから出発したのかというと、神様のみ旨と神様の所願成就を成し遂げてさしあげるために出発したのであり、また、それを成し遂げてさしあげるための結果を自分自ら誓い、お捧げするために私たちの家庭が出発したのです。ですから、夫が生きるのも神様のために生きるのであり、妻が生きるのも神様のために生きるのであり、息子、娘を生むのも神様のために生むのです。赤ん坊をかわいがるのも、神様のためにかわいがるのです。

 言い換えれば、神様を中心として因縁を結んだので、その因縁に従って私たちが生まれたのであれば、その因縁の結果をもたらすことも、その因縁の中心である神様のみ旨を成し遂げるためのものでなければなりません。そのみ旨を成し遂げるために私たちの家庭が出発したのです。(八四―一三六、一九七六・二・二二)

 世界の頂上に向かい、世界の主権を取り戻すために、皆さんの家庭が祭物にならなければなりません。家庭的祭物にならなければならないのです。ろうそくを灯して祈祷しながら、祭物のように妻と夫とその子女が、天理の道理に従い、所願成就のために精誠を尽くさなければなりません。

 祈祷だけではありません。言葉だけではありません。実戦途上において、天を天運と同じように考えながら大切に、大切に思い、み旨の道を拡張するために、御飯を食べることよりも、子女を愛することよりも、夫を愛することよりも、もっと貴く思ってこそ、エバが解放時代を迎えるということを知らなければなりません。そのような伝統を植えなさいというのです。(二七〇―二一五、一九九五・六・一)

 希望をもって神様の恨と、イエス様の恨と、歴史的な人類の恨を解くために、私たち自ら祭物の立場に立ち、あらゆる精誠を尽くし、あらゆる愛をすべて注ぎ、この国を愛さなければなりません。一つの生命に対しても、父母の心情をもって僕の体を用い、涙と血と汗を流して精誠を尽くさなければなりません。そのようにすれば、絶対に滅びません。

 そのような人は、行けば行くほど栄え、行けば行くほど主体者として登場するのです。そのような人には、天運が共にあらざるを得ません。このようなことは、先生が実験してみて、経験を通して間違いないと悟った事実なので、皆さんにはっきりと教えてあげるのです。ですから、先生の言うとおりに実践してみてください。(三八―二九三、一九七一・一・八)

 祝福家庭は、子女を抱いて愛することができますが、その子女は何のために生まれたのでしょうか。神様のために生まれ、神様という因縁を通して生まれました。夫が貴く、妻が貴く、秘密の話をし、どんなことをしたとしても、その相手は、自分たち同士で出会ったのではありません。公的な天道を前にして出会った人たちです。神様を介在させて出会った人たちではないか、ということです。

 息子、娘が悲惨であれば悲惨であるほど、そこに介在された神様が悲惨になるということを私たちは知らなければなりません。そうであればあるほど、精誠を尽くし、姿勢を正し、神様が信じることのできる節操と志操をもっていけば、私たちの行く道は、絶対にふさがりません。必ず打開されるのです。それは、今まで先生が闘ってきた生涯路程を通して体験したものであり、否定することはできません。(六七―二九一、一九七三・七・二二)

 女性が先に堕落したので、心情的な生活においては、夫人たちが徹頭徹尾、先に立たなければなりません。子女を育てるにおいてもそうです。子女にお乳を飲ませて、暖かい部屋で寝ているのを見て喜んではいけないというのです。

 赤ん坊が冷たい部屋に寝ていればどうだろうか、お乳を飲もうとする赤ん坊にお乳を飲ませることができない父母の立場が私の立場だったらどうだろうか、ということを考えなければなりません。そのような深刻な立場でお乳を飲ませながら涙を流し、お父様の前に、「この子女を通して、かわいそうな子女たちのことを祈ることができ、また思うことができるのですから、お父様が下さったこの子女がどれほど貴いでしょうか。きょうは私の祈祷をお聞きください」と祈祷するのです。そのようにすれば、その子女が福を受けるというのです。そのような祈祷をすれば、死ぬ運命をもつ子女も、そのように祈祷した恵沢が第三者に越えていくようになることで、生命を延長させることができるのです。

 ですから、キスするときも、自分の子女にキスすると思ってはいけません。恨を抱いて逝った父母たちが大勢いるので、その父母と子女が復活したのと同じ心をもってキスするのです。抱くにしても、そのような心をもって抱くのです。子供たちを見ながら、本当に心情的な面において深く考えれば、体を支えられないほど激しい境地に入っていくので、わざと、断ち切って考えない、このような心情に染まった心をもたなければなりません。ですから、人の子供と自分自身の子供と、分けて考えてはいけないというのです。(一五八―一三九、一九六七・一二・二六)


(五) 祭物精神と霊肉界解放

 私たちが、原理の内容を学んで忘れてはいけないことは、原理を理解して自分だけが救われるのではない、ということです。自分一人を救うために原理の道に立たせたのではないのです。ですから、私たちが第一に考えなければならないことは、先祖たちがいるということであり、霊界にいる大勢の霊人たちを解放する使命が残っている、ということです。すなわち、善の功績を残した先祖たちは、私たちによって再臨復活することを切実に願っているのです。私たちは、このようなことに特別な関心をもたなければなりません。(一九六七・六・三〇)

 霊界には、何千億という数多くの霊人たちがいます。この数えきれないほど大勢の霊人たちが、嘆きながら私たちに対して望みをもっているというのです。ですから、蕩減基準を中心として考えてみれば、私たちには二重の使命があります。

 一つは、霊界のために蕩減条件を立てて、霊界の解放運動をしなければならず、もう一つは、万民を解放しなければなりません。このように、二重的な蕩減をしなければならない立場に立っているのです。これを完全に達成しなければ、完全な先祖として立つことができず、完全な先祖として立つことができなければ、完全な子孫をもてないという結論になるのです。

 このように、第一に霊界の解放運動、第二に地上の解放運動をして、これを完全に蕩減し、神様から認められる立場に立って、初めてアダムとエバが堕落しなかった立場を復帰した基準に立ち、善の先祖の立場に立てるのです。

 もしそれができなければ、私たちは恨の先祖となり、子孫を通じて蕩減してもらわなければならない立場に立ってしまいます。ですから、今の私たちの立場がどれほど重大かを知らなければなりません。(一九六七・六・三〇)

 皆さんは、祈るときに、今まで数多くの先祖たちが善の功績を積み、神様に忠誠を尽くそうとしてきましたが、結果的には忠誠を尽くしきることができず、失敗の道に陥ってしまったことを、彼らに代わって悔い改めてあげなければなりません。そのようにすることで、神様が感謝し、霊界の数多くの霊人たちが私たちに感謝するのです。そうでなければ、勝利した立場で善の先祖たちの功績を地上に連結できません。その基準を地上に連結した立場に立てなければ、私たちが現実において主体の立場に立てないのです。

 ある人は、「祈りや宗教は、堕落した結果、必要になったのであって、蕩減圏を越えれば、それは必要ない」と思って祈祷しない人がいますが、そうではありません。私たちが祈祷するのは、霊界にいる先祖と私たちが上下関係になっていて、霊界を解放しなければ地上を解放できないからです。それと同時に、地上を解放しなければ子孫を解放できないのです。先生は、そのために、今までずっと精誠を尽くしてきたのです。(一九六七・六・三〇)

 蕩減条件を立てる人には自由がありません。それは、一つの祭物です。ですから、自分という存在意識をもっている人は、祭物になれません。祭物は、自分の思いどおりにできないのです。主人が「祭壇に上がりなさい。そして血を流しなさい」と言えば、それに服従しなければなりません。

 今まで霊界と実体界は、人間の堕落によって分かれていました。これが、私たちを中心として祭物を捧げることによって、神様が認め、サタンが認めて一つになることができるというのです。今までは二つに裂いて祭物を捧げてきましたが、裂いた祭物は、死んだ祭物です。本来、祭物は、死んだ祭物ではなく、心身が一つになった生きた祭物でなければなりません。ですから、私たちは、心と体を一つにして、死なずに生きた祭物として神様に捧げられる実体にならなければなりません。(一九六七・六・三〇)

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