世界への神の希望
2. イエス様の善の基準
私たちが神の真の息子、娘となるための第一歩は、まず神の善悪観を明確に理解することです。善とは何であり、悪とは何なのでしょうか?
善悪の永遠なる基準は、神によって定義づけられます。明確な善悪の定義は、エデンの園の存在に悪が入り込むずっと以前、神の創造の時に存在していました。神の善悪観は決して変わることはありません。時の流れにかかわらず、神は永遠であり、神の法則は永遠であり、神の定義は永遠であり、不変です。
人間の自己中心性は、よく悪の基盤として見られます。この認識について考えてみましょう。私たち人間のすべての特質は、神から来ているのです。私たちは、人間には何か利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実は皆さんを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、御自身以外の何ものをも愛することなく、「たった一人」で存在しておられたことを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の生命に対するすべての概念が現れたのです。神は今や、御自身のためではなく、その対象のために生きておられるのです。
創造とは、何でしょうか? 創造とは、創造主なる神が、御自身を実体的なかたちに投影していかれること以外の何ものでもありません。神は御自身を、宇宙の中に象徴的に実体化され、男性と女性の中に直接的に実体化されました。神がかたちをとる時、これが創造です。神は、その創造に御自身を投入されました。神のエネルギーと、思想と、愛の投入が創造なのです。
聖書は創世記において、創造というものが単純で容易なように感じさせます。創世記は、神の創造が神のみ言の魔力によって成就されたという印象を与えるのです。神が簡単に、「世界あれ」と言われると、直ちに世界が存在します。そして神が、「人間あれ」と言われて息を吹きかけると、アダムとエバが生まれるのです。
しかし、今日では、創造は決してこのように簡単なものではなかったということが明らかにされてきています。神は御自身のすべてを、その創造に投入されました。神は、ほんのわずかなエネルギーでさえ、残されはしませんでした。創造は、神の仕事の一切であり、御自身のすべてを与える努力の一切であったのです。神は、その対象の創造に御自身の心情と魂のすべてを注がれる時、御自身を100パーセント投入されていたのです。このようにして初めて神は、第二の御自身、すなわち目に見える神を創造することができたのです。
それゆえに、創造ののち、神はもはや、単に御自身のために存在されたのではありません。神は御自身の息子と娘、すなわちアダムとエバのために存在されるようになりました。神は愛するために存在し、与えるために存在されるのです。神は完全に利他的な存在です。神はもはやお一人で存在されることはできないのです。「愛」と「理想」は、二者が互いに補足し合う関係にあるときにのみ、その意味をもつのです。神は創造に着手され、失うことのできない投入をされました。神はそのすべての愛と、生命と、理想とを第二の御自身に注がれるとき、ある意味において、利益を生み出さなければなりませんでした。神は、御自身のもてるすべて、100パーセントを投入するとき、その対象は成熟し、神の愛と、生命と、理想の結実を何倍も御自身に返してくるようになるということを知っておられました。神の対象である男性と女性は、神にとってすべてなのです。対象の生命は、神を引きつけるのです。神は地上で、御自身の対象のところに行き、共に住みたいと願われるのです。
例えを挙げて考えてみましょう。一人の偉大な芸術家がいるとします。彼女がもし、何の感情もなく、でたらめに作品を造るならば、彼女は何一つとして、価値あるものを生み出すことはできないでしょう。その生涯における傑作品を生み出すためには、芸術家は、自分のすべての心情と魂とをその作品の中に投入しなければなりません。それが、彼女にとって偉大な芸術作品を生み出す、唯一の道なのです。もし、一人の芸術家がこのような取り組み方をするならば、彼女の芸術は彼女の人生となるのです。
神はあらゆる芸術家の中で、最も偉大な芸術家です。神がその傑作である男性と女性を創造される時、神はその過程に御自身の心情を注がれ、魂を注がれました。また神は、それにすべての知恵と、すべての労力とを注がれたのです。神は、アダムとエバと、そしてすべての人類のためだけに存在されることを願われたのです。神は、彼らを創造された時、ほんの少しの労力をも残しておくということはされませんでした。このようにして人間は、神の生命となったのです。
神は宇宙に、一つのパターンを敷かれました。理想的存在において、私たちは、他者のために生きるのです。主体は対象のために存在し、対象は主体のために存在するのです。神の善の定義は、完全に与えること、完全に仕えること、そして絶対的利他主義です。私たちは、自分の人生を他者のために生きるようになっているのです。皆さんは他の人のために生き、他の人は皆さんのために生きるのです。神は、人間のために生き、私たちは神のために生きるのです。夫は妻のために生き、妻は夫のために生きるのです。これが善です。そして、ここに統一と、調和と、繁栄とが満ちるのです。
私は皆さんに、愛は最も聖なる、無上の刺激だということを知っていただきたいのです。もし、自分の配偶者のために命を投げ出すことができるなら、皆さんは最も偉大な恋人です。同様に、子供のために自分の命を与える親は、最も高い愛をもっているのです。
私たちは、自然から愛のレッスンを受けなければなりません。最も神聖な人々は常に、自然と親密な関係をもってきました。皆さんは当然毎日外に出て、自然から新しい愛のレッスンを受けるために、空や鳥や動物を見たくなるべきです。皆さんの家庭は、皆さんの家族のためばかりではなく、自然の万物に対しても、愛の家庭でなければなりません。すべての被造物は、虫をも含めて、皆さんの「愛のオーケストラ」の一部になることを願っています。皆さんは、植物や、動物や、花や、虫たちと、愛の中で共に住むでしょう。
宇宙は、愛を至上の価値あるものと考える男性と女性を歓迎するのです。ここに、私が間違ったことを言っていると思う人がいますか? 愛は全能であり、生命自体よりも偉大です。愛を完全に表現できるほど大きな形容詞はありません。それは、絶対的で、不変で、美しく、甘いものです。しかし、これらの言葉はどれも、愛を包含するものではありません。文学や詩の歴史を通して、何がより称賛されていますか、愛ですか、生命ですか? あるいは、力やお金が詩の焦点ですか? いいえ、愛が最も称賛されています。理由は非常に簡単ですが、しかし、おそらく大部分の詩人は、十分に理解してはいないでしょう。
皆さんは、皆さん自身のために生まれてきたのではなく、他のために生まれてきたのです。皆さんの用語が「私たちは」あるいは「私たちに」である限り、宇宙は皆さんを支持しますが、「私は」あるいは「私に」という観点を考えた瞬間、宇宙は皆さんに反対するでしょう。そして最終的に、皆さんはこの宇宙から追放されるでしょう。皆さんはこの法則に、不平を言うことができますか?
これは、結婚の美です。結婚は、人々にいつも他者の観点から彼らのことを考えることを追求しています。同様に、家庭の中に生きることは私たちに、「私たち」の観点で考えることを要求します。子供たちは、彼らの両親のことを考え、両親は子供たちのことを考え、各々の子供は、他の兄弟姉妹のことを考えます。
もし私が、「皆さんは一人の女性のために創造されたのです」と言うならば、男性の皆さんは憤慨しますか? おそらく皆さんのうちの幾人かは、自分の男らしさを誇りとしており、このようなことは聞きたくないでしょう。しかし、これは神の創造の原理であり、このような言葉を聞いて残念に思う必要はないのです。男性はその配偶者のために生きるのであり、彼自身のために生きるのではありません。
例えば、一人の女性としての皆さんが、美しい女王であると仮定しましょう。皆さんがどんなに美しくても、その美しさは、皆さん自身の満足のためにあるのではありません。それは男性の喜びのためにあるのです。私たちは、お互いのために生きるように創造されているのです。これが正に、私たちの存在の理由です。私たちは他者のために、対象のために、相対のために存在しているのです。これが社会における、すべての人間関係に関する原則です。親は子供のために存在し、子供は親のために存在します。そして、親と子供の両者が他のために与え合う時、彼らは回転運動の中で一体となるのです。
この回転運動は、一体化の運動です。皆さんが授け受けする時、その授受作用は回転運動を起こすのです。回転運動のみが永遠性をもつことができます。なぜなら、そこには終わりがないからです。それゆえに神の創造のすべては、回転運動のパターンに基づいています。なぜなら、神は永遠のために創造されたからです。私たちの顔でさえ、その真ん中に一本の垂直線があるにしても、やはり丸いのです。私たちの眼球も丸く、また一つの丸い口をつくる上唇と下唇があるのです。太陽は丸く、月も、地球もすべての天体は球形です。それらは、それぞれ、それ自身の軌道を自転しながら、他の周りを公転しています。この宇宙にあるすべてのものは、主体と対象との間で、互いに補い合う授受作用をしています。授受作用は、動脈と静脈との間にも行われ、それによって血液が体内を循環します。人間の病気は、授受作用のバランスが壊れ、正常な循環運動が停止した状態です。主体と対象の間の、この授受作用なくしては、またこの原理を守ることなくしては、いかなるものも永遠性をもつことはできないのです。宇宙は継続的に授受することによって存在し、内部から外部へと存在の中心は変わり、また再び元に戻るのです。全宇宙の力は、最も小さな胚に入っていき、そしてその胚は芽を出し、それ自体を宇宙全体に与えるのです。これが授受の究極のかたちです。
各個人は、宇宙の大きさと比較すれば、小さな存在です。しかし、各個人は、彼あるいは彼女を全宇宙と関連づける必要を感じます。なぜ私たちに、そのような必要があるのでしょか? そこには、必ず理由があるはずです。それは、広大な宇宙は、真にそれぞれの小さな生命と関係づけられているからです。宇宙は、各個人の起源である胎芽に、それ自体を関連させているのです。それで、それぞれの胎芽は、それ自体を宇宙へと拡大していくのです。宇宙が皆さんの中に来るのです。皆さんは、内部から外部へと継続的に運動する螺旋のように、宇宙と関係をもつのです。神の原理である調和的授受が基盤となっている存在はすべて、善なる存在です。
では、悪とは何でしょうか? 悪とは、この世界に利己心が顕現したことです。もし一人の個人が、自分勝手に方向を決めるならば、その人は、「私は私自身のためにだけ存在したい。これは私の宇宙であり、それは私を最大限に満足させるために存在している」と言うことでしょう。そのような人が動けば動くほど、さらに多くの破壊を宇宙にもたらすことになるでしょう。もし多くの人々がこのようになるならば、すべてのものが破壊されてしまうでしょう。全世界の秩序や調和は、そのような「自由愛」的な態度によって、破壊されることでしょう。利他的に与える神の原理は、利己的に奪う神なき原理へとゆがめられてしまったのです。仕えるよりも仕えられることを望む邪悪な立場が、それによって打ち立てられたのです。
悪の根源はサタンです。彼は神に仕えるべき立場にいました。しかし、その代わりに彼は、もう一つの神として装い、男性と女性を自分自身の利益のために従属させたのです。神は、この宇宙における絶対的なプラスの力です。そして、サタンもまた、もう一つのプラスの力として装ったのです。二つのプラスは当然、互いに反発し合います。サタンは、堕落した天使長です。彼は、神とその子供に対する忠実な僕としての立場を離れて、神に挑戦し、神と競争したのです。「彼の動機は利己的」なものでした。彼の利己心から、悪と罪が発生したのです。
事の次第はこうでした。エバはサタンの最初の犠牲となり、自分自身を利己的な被造物へと変身させて、神の最初の娘としての位置から堕落してしまったのです。そして、エバとサタンは一緒になって、首尾よく、アダムを彼らの利己的な世界へ引き込むことに成功しました。彼らは、不義なる、不倫の愛の関係を通して罪を犯したのです。では、彼らの間の愛の関係とは、いったいどういうものだったのでしょうか? すべてのものは神から始まるべきです。そして、それはアダムとエバに行き、次に天使長に行くのです。しかし、事は逆行したのです。まず天使長に行き、それからエバとアダムへと行ったのです。
天使長の立場からすれば、アダムとエバは二人とも、彼の主人の立場にいました。ですからそれは、天使長が、主人の妻になるはずのエバを、誘惑したということを意味します。その不品行ののち、エバは自分の罪を正当化したいと思い、アダムに同じ罪を犯させて、アダムを誘惑しました。彼らのすべてが神に反逆したのです。もし皆さんが、神の立場にあるなら、どうしますか? 皆さんは簡単に彼らを許すことができますか? さて、法則や原理を無視して、神は無秩序に物事を成されると言うことができるでしょうか? 私たちは神は絶対的だと言いますが、これは、悪であるかもしれない道においても、神が彼らを許すことができるという意味においてでしょうか? 私
たちは、神は善なる道においてのみ絶対的であることを知っています。
アダムとエバや、天使長、そして全被造物を創造することにおける神の本来の計画は、無に帰したのです。しかし神は、彼らを切り捨て、踏みつぶすことはできないのです。神は、これらすべての人々と被造物の主人であり、創造主なのです。ですから、罪は神の家庭内で犯されたのです。それで、起きてしまったことを神が悲しまれるのは当然でした。神もまた、恥ずかしかったのです。皆さん自身の家庭において、皆さんが罪を犯すか、皆さんのお母さんが罪を犯したとするなら、皆さんのお父さんは誇らしく思うでしょうか、恥ずかしく思うでしょうか? 神はそのような息子と娘、そのような召使をもったことを、どれほど悲しく思われたことでしょうか? 神は後悔し、悲しまれ、怒られたのです。このすべてのことから私たちは、神は悲しみの神であり、辱められた神だと言うことができます。神は、罪の苦さを味わわせられた神なのです。もし、皆さんの息子か娘が罪を犯したなら、皆さんは自分自身が罪人であると感じるのです。
この悲劇的な出来事により、神は、エデンの園において、人間から孤立させられてしまったのです。これが堕落について創世記が記述していることの意味です。かくして、人類歴史は、神のいない、悪なる立場から出発したのです。人類の悪なる歴史の土台は据えられ、サタンは、この世の支配者となったのです。私たちは、サタンが行ったことを、明確に理解しなければなりません。サタンは、神が男性と女性と共に完成することを追求していた正にその要素、すなわち神の愛を盗み、破壊してしまったのです。神とその子供たちの愛し合う関係は、引き裂かれてしまったのです。利己心は、人類歴史の出発において存在するようになり、今やこの世界は、殺人と、虚偽と、盗みとに満ちているのです。罪悪世界における、これらすべての行為は、利己心に起因しています。
悪は、それ自体の利益のために他を支配し、一方善は、他の利益のためにそれ自体を犠牲にするのです。人間の堕落以来、神の仕事は、本然の善を復帰することでした。神は悪なる世界を滅ぼし、善なる世界を再創造することを願っておられます。私たちは、健康を失ってしまったのです。私たちは、病人になってしまったのです。それゆえに神の救いは、もう一たび、人間を健康な状態へと復帰することです。地上の地獄であるこの世界は、救い主が必要な世界です。
人間は、この地上地獄での生活を完了して霊界へと高められたとしても、地獄に行く運命のほかには何もないのです。例え話をしてみましょう。秋に美しいリンゴが実ったのですが、ある一つのリンゴが腐っていた場合、農夫はそれを捨ててしまいます。それ以外には方法がないのです。地獄で死んだこれらの人々は、神の目から見れば、人間の屑です。あるリンゴは、皮は悪いのですが、中身は非常に良いかもしれません。一方、もう一つのリンゴは、表面は良いように見えるのですが、中身は腐っていて価値がないかもしれません。人間は、後者の部類に属するのです。内面において腐敗した堕落人間が簡単に救われる可能性はないのです。
リンゴの表面が少しいたんでいたとしても、その種が完全であれば、まだ価値はあるのです。しかし、人間は反対で、外側は無傷なのですが、内側が腐っているのです。堕落したのち、人間は中心まで腐ってしまったのです。
神は、善なる種を蒔きました。しかし、その実を収穫する前に、サタンが悪なる種と共に侵入し、悪なる実を刈り取ったのです。このために、神はもう一度善なる種を蒔かなければなりません。そのみ業をするために、神はある道具を必要とされるのです。世界の宗教は、そのような神の道具としての役目を果たしてきたのです。歴史を通して、善なる宗教は、犠牲的愛と奉仕を中心とした、神の生き方を教えてきました。ですからキリスト教は、この犠牲的愛と奉仕とを最高の形において教えているために、最も成長し進歩した宗教と考えられてきたのかもしれません。
歴史上に、多くの教えがありました。その一つは、もしだれかが皆さんを虐待するなら、同じ方法で報復しなさい、つまり目には目を、歯には歯を、命には命をもってというものです。しかし、最も革命的な教えが、「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者たちのために祈りなさい」と語った一人の方によって与えられました。それは言うまでもなく、イエス・キリストでした。
イエス様は、御自身の宣言をされたのでしょうか、それとも、御自身のエゴを否定して、他のだれかの意志に従って教えておられたのでしょうか? 皆さんはどう思いますか? イエス様は、御自身のメッセージを宣言されたのではなかったのです。彼の上に、神がおられたのです。イエス様の教えは、神の教えです。彼の物事に対する感情的な反応は、彼自身のものではありませんでした。これは、イエス様がされた宣言は神の宣言だったという意味であり、神は100パーセント信頼できるのです。
究極的に私たちは、こう結論を出すことができます。この宇宙には、皆さんが完全に信頼できる存在がただ一つあり、それは神です。そしてその性質は、イエス・キリストを通して顕現したのです。
イエス様は、救い主として来られましたが、彼は、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるため」である(マタイ20:28)と説きました。イエス様は宇宙で最も偉大な愛は、敵のために自分の生命を捨てることであると教えました。聖書の教えは、この世の一般社会のルールに反しています。それは、この自己中心的世界のやり方とは全く逆です。聖書は完全に与えることと、全き犠牲とを説いています。「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのため自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ10:39)。私たちの悪なる社会においては、このような生き方をまじめに考えることすら、ばかげたことに思われます。しかし、一たび神の原理を知ったならば、実際これよりも偉大な知恵はないということを発見するのです。
イエス・キリストの教えは、正にこの根本的な真理の神髄を突いています。人は、与えれば与えるほど、より多く受けるようになるのです。神は、完全に与えるものに対しては、完全な愛をもって報われ、完全な犠牲に対しては、完全な生命をもって報われるのです。与えることは、神の愛が入ってくる空間を生み出すのです。皆さんが与えることによってより大きな空間ができ、その真空度が高くなればなるほど、ますます急速に、皆さんは神の愛の流れによって満たされるでしょう。
良くしてもらうためには、まず皆さんが、他の人に対して良くしてあげなければなりません。皆さんは、蒔いたごとく、刈り取るのです。悪を蒔けば悪を刈り取り、善を蒔けば善を刈り取るのです。皆さんの関心は、どのように与えるか、そしてどのように良く与えるかということであるべきです。そして、皆さんへの報酬に関しては、神を信頼しなければなりません。それは、神が取り計らってくださるでしょう。私たちにはみな、たった一つの人生しかありません。そして、人生が終わる時、皆さんが答えなければならない深刻な質問は、実際に、どれくらい神を愛したかということなのです。その質問は既に、イエス様によって掲げられ、聖書に記録されています。彼は人々に対して、自分の配偶者や、子供や、他のいかなる人よりももっと彼を愛しなさいと命令されました。
愛には、いろいろな質のものがあります。私たちがだれかに対して、「私はあなたを愛しています」と言う資格を実際にもつ前に、私たちが満たすことができなければならない愛の基準は何でしょうか? 皆さんは、その基準に対して、どこで関係をもつか知らなければなりません。イエス様の愛の基準は、人の人生におけるすべてのことを超越し、その人とその人に属する貴重なもの、すなわちすべてを愛されました。各人は、各人の環境、家庭、国家、そして世界に対して要求する権利をもっています。イエス様を愛するためには、もし必要ならば、そのすべてのものを捨てなければなりませんでした。これが、聖書が記録する明確な基準だったのです。
多分、皆さんはこれらのことを考え、そのような態度で祈祷すると思いますが、しかし、真の試験は、自分の人生をどのように生きるかです。善なる人と、悪なる人の例を挙げてみましょう。ここに十人の友人をもっている一人の人がいるとします。来る日も来る日もこの人は、その十人の友人のために自分を忘れて仕えています。人々は、その人を愛さずにはいられません。彼は、その十人の人々にとって、正に最良の友となることができます。そうして彼の影響は、その最初の十人の人々の親戚や友人へと広がっていくことでしょう。自分を忘れて与え、仕えることによって、その人は栄えるようになるのです。彼は、神の原理に基づいて生活しているので、調和と統一の中心となるのです。無私の精神は、繁栄をもたらすのです。ここに善なる人がいるのです。
しかし反対に、例えばこの人が友人に「十人の者たちよ、すべてのものを私のところに持ってきなさい。あなた方は、私に仕えるためにここにいるのです」と言ったとしましょう。彼がこのようなことを、友人に向かって三度も言わないうちに、だれもがみな、彼との関係を断ち切るようになるでしょう。やがて彼は、たった一人取り残されることでしょう。そういうことは、私たちの現実社会においても真実ではありませんか? それは普遍的な真理です。自己中心的な主義、自己中心的な哲学、自己中心的な生き方は、自己崩壊という悲劇的な道に、皆さんを真っ逆さまにほうり出してしまうのです。しかし、もし皆さんが人生を他への奉仕のために生きるならば、皆さんは栄えることでしょう。そのような生き方は、皆さんを滅亡に導くように見えるかもしれませんが、決してそうではありません。それが必ずしも皆さんに繁栄をもたらさない、ただ一つの理由は、皆さんが最後の最後まで与えないからです。途中で、突然皆さんは懐疑的になるのです。そして、皆さんは心変わりしたり、自分自身を哀れに思うようになり、完全に与えるという神の法則から外れてしまうのです。そのため、善なる結果は決して現れないのです。完全に与えることが繁栄への道です。なぜなら、それが神のやり方であるからです。
もし、ある個人が、もう一人の人のために自分自身を犠牲にするならば、その個人は他の人々にとって英雄となるのです。もしある家庭がもう一つの家庭の幸福のために犠牲になるとするならば、その家庭は、すべての家庭の中で、英雄的な家庭となるのです。他の利益のために自らを犠牲にする民族や国家は、国々の中でチャンピオンになるのです。自分の命を親のために捨てる人は、孝行息子です。自分の命を国家のために捨てる人は、愛国者です。そして自分の命を全人類のために捨てる人は、聖人です。
個人がある方向に行き、家庭が他の方向に行き、民族と世界がなおも他の方向に行くのは、神の道ではありません。真の人生の道は個人から始まりますが、しかしそれは宇宙レベルにまで続いています。私たちは、霊界を含めて、いくつかの段階を経ていかなければなりません。皆さんがさらに前進する前には、常に各々のレベルにおいて、試験を通過するようになっています。だれが皆さんを試験しているのでしょうか? 皆さんを試験するのは神ではなく、サタンであり、サタン世界です。サタンは検事の立場であり、神は判事の立場にあり、皆さんは被告です。イエス・キリストは皆さんの弁護士です。皆さんが前進する各レベルで、審判の法廷があり、最終的には、宇宙の主権者である神御自身の法廷があります。そこで自分自身を弁明することからは、だれも逃れることはできないのです。
クリスチャンは自分の敵を愛しなさいと説いていますが、イエス様はあなたの隣人を愛しなさいとも言われました。だれがクリスチャンの近い隣人でしょうか? 明らかにそれは、もう一人のクリスチャンです。しかし、彼らはそうしていますか? カトリック教徒は、モルモン教徒を愛していますか? エホバの証人は、メソジスト教徒を愛していますか? 私たちをだれが異端と呼ぼうとかまいませんが、自分の敵をも愛するというこの原理を実践する人はだれでも、より神に近いのであり、正統なクリスチャンです。それが私の信条です。愛は一つにすることができます。もしクリスチャンが愛を実践すれば、私たちはクリスチャンを一つにすることができ、またクリスチャンたちは、世界の全宗教を一つにすることができるのです。
ムーニーは異端ですか、そうではないですか? 皆さんはどうやって知ることができますか? もし皆さんが、統一教会がいかなるものかについて世界のクリスチャンたちに告げるならば、彼らは皆さんが異端だと言うかもしれません。しかし、重要なことは、キリスト教の真の伝統と精神を相続することであり、私たちがその教理を相続し、それを実践している限り、私たちは最も正統なのです。
クリスチャン自身でさえ神の律法の多くを犯してきたにもかかわらず、なおも他を裁き、彼らを異端とか反キリストとか呼んでいます。あるクリスチャンたちは、統一教会が偽物であり、異端だと主張していますが、彼らに裁く資格があるでしょうか? 神が彼らにそのような権威を与えたでしょうか? もしクリスチャンが自分の教派のみに関心をもつならば、彼らは自分たちの宗教の枠を超えて生きる人々によって、つまり神のために自分自身を完全に献身している人々によって審判されるでしょう。
イエス・キリストは、正にこの真理を宣言したのです。彼は、神の真理をこの地上で成就するために闘われました。彼は、イスラエル一国の利己的な目的を満足させるために来られたのではなく、全世界の救いを全うするために来られたのです。
神は、イスラエル選民に、メシヤが世界救済の使命を成就するために準備した道具として仕えるよう計画されました。しかし、イスラエル選民は、これを知らなかったのです。ある人々は、来たるべきメシヤを、ユダヤ民族の栄光のために、政治的なダビデの王国を復帰する軍事的指導者としてとらえていたのでした。彼らは何と間違っていたことでしょうか!
私たちは、神がある一つの特定の家庭あるいは国家にのみ関心があると考えるかもしれません。今日まで、一般のクリスチャンが信心深い生活をするために深く祈る時、その人は個人的救いか、あるいはせいぜい自分の家庭の救いのためにそうしています。私たちは、そのくらいはよくしますが、しかしそれを超えることはありません。私たちは、もし本当に神の真理に支配される一国家を建設するために苦闘するならば、私たちの家庭や私たち自身はその範囲内にあるのだということを悟らなかったのです。より大きな物事に目を向けることによって、それらのより小さな領域は既に救われているか、あるいはそこに含まれているのです。今日、キリスト教は衰亡しつつありますが、それが原因です。そして、もしキリスト教が全体として衰亡するならば、家庭や個人でさえも衰亡するのです。多くのクリスチャンたちは、主が再び来られる時には、ただ自分たち自身と自分の家庭のためだけに来られるのだと信じています。主が再び来られる時、その方は神の選民国家を、世界を復帰する基地として建設するということを思い起こすクリスチャンがいるでしょうか? キリストが再び来られる時、そこにはその方が働くために設立された一つの国家的基台がなければならないと強く信じるクリスチャンが、全世界に一人でもいるでしょうか? もし皆さんが「何を救いたいですか」と尋ねられるなら、即座に自分自身ではなく、最低一国家を救いたいと答えるべきです。なぜならば、皆さんは、もし一国家全体を救うことができれば、皆さんの家庭はそこに含まれるであろうし、皆さんもそこに含まれるということを知っているからです。そうすれば、皆さんと皆さんの家庭もまた救われるのです。
もし皆さんが思い起こせば、イエス・キリストの時代においても、同様のことが真理でした。当時のある人々は、ユダヤ国家を救うために、その民族にイエス様を送るため、神は4000年の歴史を準備されたのだと考えました。彼らは、イエス様が来られた時、彼らの敵に復讐するだろうと考え、またそう願いました。彼らは世界の指導国家であり、その他のすべての国々は、彼らの前にひざまずくだろうと考えたのです。しかし、もし皆さんが神の立場に立ってみるならば、世界全体を救いたいですか、一国家を救いたいですか、それとも、ただ一個人を救いたいですか? 答えは明白です。
さて、どうしてキリスト教は、全世界に広がったのでしょうか? なぜなら、イエス様の犠牲的精神は摂理の精神であり、それは神の摂理の基本精神であるからです。つまり、皆さん自身が他の人々のために犠牲になるということです。キリスト教は多くの迫害を受けましたが、しかし迫害を受ければ受けるほど繁栄したのです。イエス様は、マルクス主義のようなイデオロギーを残したわけではありませんが、その精神のみによって、世界中にそれほど大きな影響を与えたのです。それは、イエス様お一人によって成されるのではなく、神の摂理と神御自身の協力と御意志によって成されるのです。したがって、最も重要なものは、全世界と全人類のためにすべてのものを犠牲にする一つの国家です。その国家から、イエス様御自身から出発した体制が生まれるでしょう。未来の理想世界が展開するでしょう。その国家は、全世界の利益のために、その国家自体とその主権を犠牲にするのです。そのような国家は、まだ地上に存在していません。
アメリカ合衆国は、このような位置から遠く離れています。個人と個人主義は良いのですが、しかし、アメリカと西洋人はこれら二つのことにあまりにも重きを置き過ぎています。結果として、彼らは自分たちの国家も国民も、家庭も、両親も、そして彼ら自身をさえも失ったのです。彼らはまるで、嵐の中の鷹か花のようなものです。
神の究極の目的は、ある特定の個人、あるいは教会、あるいは国家の救いではありません。神の目的は、全世界を救うことなのです。ですから真の教会は、世界の幸福のために、それ自体を犠牲として与えるのです。神は、人類を救うために、御自身の息子イエス・キリストを犠牲にされました。神のひとり子は、人類を救うために犠牲として殺されたのです。アメリカと全世界を救うために統一教会を犠牲にすることが必要ならば、それは良いことですか、悪いことですか? 世界の人々は死にかけており、非常に苦悩しています。もし彼らが皆さんの兄弟姉妹ならば、皆さんは彼らの所へ行き、彼らのために泣かなければなりません。真のクリスチャンは、自分の命を、世界と全人類のために喜んでささげる準備がなくてはなりません。しかしながら、今日のクリスチャンの教えの多くは、自己中心的です。多くのクリスチャンは、自分自身の個人的な救いを追求しているのです。彼らは「私の救い」と「私の天国」を求めて泣き叫んでいるのです。これは、神の真理に反し、神の理想と反対です。私たちは、断固として与え、愛し、犠牲になり、他のために生きなければなりません。
私たちは、この地上にそのような国家を見いだすことができるでしょうか? それ自体を犠牲にしているような国家は一国もありません。ですから、宗教がそれ自体を犠牲にしなければならないのです。宗教は、それ自体を国家のために犠牲にしなければならず、その国家は世界のためにそれ自体を犠牲にしなければなりません。そして世界は、神のためにそれ自体を犠牲にしなければならないのです。そのようにして初めて、神の理想の一つの世界が達成できるのです。もしこの宗教がアメリカにあれば、それがアメリカを救うためにもっているすべてを犠牲にしなければなりません。その宗教は、自分の教会を増やすために戦うべきではなく、それ自体の教会を犠牲にして、国家を救うために働くべきです。もしその宗教がそのような精神で働くならば、その国家はその宗教のところへ来て、最終的にそれと一体となるでしょう。そして、この宗教がその国家と一体となる時、それらはそれ自体を犠牲にしながら、全世界を救うために前進しなければなりません。したがって、犠牲なしには、神のみ旨は実現され得ないのです。
私たちは、人間の堕落に対して非常に悲しんでこられた神の心情を解放すべき立場にいます。堕落のゆえに、神の幸福は束縛されたままであり、私たちは神を解放し、悲しみから解き放ち、神を救わなければなりません。この事実を知らないので、クリスチャンや、あるいは他のどの宗教の人々も、神に自分たちを解放してくれることを要求し、反対に自分たちが神を解放してあげなければならないと考えないで、自分たちのためにこれをしてほしい、あれをしてほしいと要求してきたのです。
統一教会はこの地上に、神の心情を解放するという、その使命をもって創立されました。最も重要な疑問あるいは問題は、私たち自身を個人的レベル、家庭的レベル、国家的レベル、そして世界的レベルで復帰することによって、神の心情をいかに解放するかということです。神が願われているのは、現状の世界でも、現状のキリスト教でもありません。神は、世界とキリスト教と神の人々に、御自分の心情は悲しみと痛みに束縛されているという事実を知って、その心情を解放してほしいと願われているのです。そのように考えたクリスチャンが何人いたでしょうか? その国民が、神の心情を悲しみから解放しようと考えてきた、そのような神の選民国家がかつて存在したでしょうか?
私たちはすべて、理想的な生き方を求めて働かなければなりません。私は私の家庭のために存在し、私の家庭は私たちの社会のために存在し、私たちの社会は国家のために存在し、私たちの国家は世界のために存在し、全世界は神のために存在するのです。そして神は、皆さんと私のために、全人類のために存在されるのです。この偉大なる授受の輪の中に、調和があり、統一があり、繁栄が増し加わる永遠のプロセスがあるのです。さらに言うならば、この回路の中で、すべての存在がその創造目的を成就するようになるので、そこにはあふれんばかりの深い喜びが存在するのです。これが幸福感の満ちあふれる天国なのです。
この世界において、利己心はすべてのものを破壊します。家庭内における利己心は不調和を生み出し、それは苦しみと闘争へと爆発していくのです。だれもが、他に仕えることよりも仕えられることを願います。妻は夫に何をすべきか告げ、仕えられることを求めます。そして、夫は妻に仕えられることを願うのです。親はその子供に仕えられることを期待し、子供は自分たちの親にそうすることを当然のことと思うのです。これは、私たちの家庭や社会や国家において証明されています。
もし人間がお互いに愛し合ったならば、お互いに離れたいとは思わなかったでしょう。彼らはより親密になり、共に抱き合い、共に語り合いたかったことでしょう。どこに行こうとも彼らは、協力して行ったり来たりすることを願い、自分たちの言語を忘れたりはしなかったでしょう。しかし、もし不調和が存在し、けんかをするならば、敵対者と共にいたいと思わないでしょう。つまり、彼があちらの道へ行けば、皆さんはこちらの道を行きたいと思い、自分の敵対者が作った物なら何であっても絶対に食べたいと思わないでしょう。この不調和は、堕落によって起こったのです。
今日のこの世界においては、国家は、単に自国の利益のためにのみ存在しています。彼らは、策略を用い、共謀し、だまし、そしてうそをつくのです。彼らは、自国の利益のために、他の国々を破壊するのです。この地上に、たった一国でも神に向かって「神よ、もしそれがこの世界を救う道であるならば、どうぞこの国をあなたの犠牲として、そして供え物として用いてください」と誓う国があるでしょうか? どこにそのような国があるか教えてください。どこにありますか?
アメリカが世界における奉仕と犠牲的義務の精神を示して、彼らを必要としている国々を援助するために出かけていった時――すなわちアメリカが、生命と、資金と、援助の手を差し伸べた時――アメリカは、黄金時代を満喫したということは周知の事実です。しかし今やアメリカは、利己的な姿勢をとっています。今日のアメリカ国内の問題は、非常に深刻です。アメリカは今、決定的な転換点にいます。今日、深まる分裂と、増大する腐敗が存在し、ますます目に余る不道徳がこの国家の首を締めています。
私はこれらのことが、ただアメリカで決定的だと言っているのではありません。私は、2000年前にイエス様がもたらされた、天の真理を宣言しているのです。
私は、統一教会を創立しました。もし、この統一教会が統一教会自体の利益と幸福のためだけに存在しているとするならば、それは滅びる運命にあります。私は、世界の救いの進展のために、私の命と、私の心情と、私の魂をささげるために統一教会を創立したのです。私はこの教会のメンバーたちに、他に仕え、この国と、世界を救いたいという願望を、彼らの唯一の動機とするように教えています。
すべての宗教が正しいわけではありません。神を中心とした宗教と、サタンを中心とした宗教があります。どのようにして二つの宗教を区別できるでしょうか? 私たちは、その行動を観察することによって区別できます。より強い立場を取ろうとし、弱者を征服しようとしている宗教は、悪なる宗教です。善なる宗教は常により低い立場を取り、犠牲になり、奉仕しようとします。一国の宗教は、その国を自国だけのためではなく、世界のために働くよう鼓舞すべきです。善なる宗教は、世界中に奉仕の精神を促そうとします。
イエス様は、その弟子たちに、報復の法則を教えはしませんでした。イエス様は彼らにこう言いました。「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。……もし、だれかが、あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい」(マタイ5:39、41)。皆さんは、決して報復してはならないのです。皆さんのなすべきことはただ、完全に、絶対的に与えることだけであり、そうすれば、神がもっと豊かに皆さんに報いてくださるでしょう。
歴史上の最大のなぞは、あの無名で無学の大工の息子であるイエス様の名前が、過去2000年の間に、いかにしてすべての家庭に知られるようになったかということです。イエス様はその生涯において、良い待遇を受けられませんでした。彼はいかなる正式な教育も受けておらず、非常に卑しく惨めに見えました。彼はガリラヤ湖周辺の漁師や、取税人や売春婦のような友人を集めました。イエス様がそのような人々と共に村から村へと、衝撃的で、今まで聞いたこともないことを語りながら行った時、人々は彼は気が狂っており、危険であると考えました。そして彼は、ついに十字架上で殺されてしまったのです。
そのような人物の名前が、どのようにして2000年の間に世界的に知られるようになり得たのでしょうか? イエス様は神の公式に従って生きました。彼はこの点で世界的な人物であり、このことが、彼を別個にするのです。彼は世界を抱擁する、完全に、そして絶対的に、公的な人でした。それが正に、どのように神が全歴史を通して生き続けてこられたか、なのです。神とイエス様の哲学は完全に同方向であり、イエス様が亡くなられたのち、神はその名前を世界的に高められたのです。
イエス様が十字架につけられた時、ローマの兵士たちは、イエス様を槍で刺し通しました。そして、イエス様は、自分の敵のためにこう祈られたのです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。十字架上における死の瞬間でさえ、イエス様は許すことにそれほど懸命であられたのです。彼の正に最後の行為は、敵に対する愛によって動機づけられたものでした。彼の哀れみ深い心は、その民族のみならず、民族の敵をも包むことができたのです。彼は、与えることの最高のかたちであり、愛の規範でした。彼は、自分のわき腹を刺し通しているあの一人のローマ兵のために祈られただけではありません。彼は、全ローマ帝国の許しのために祈られたのです。彼は一人の魂や一団体のためではなく、宇宙的、国際的使命をもって来られたのです。今日、多くのクリスチャンたちは、「私の天国、私の小さな階上の隠れ家」を探していますが、それは神が求められる道ではありません。皆さんは全世界をもうけるか、何も得られないかのどちらかです。
全人類のために、自分自身を犠牲にする人々は、真の男性と女性と呼ばれることができます。イエス様は人類のために御自身を犠牲にされた方です。イエス様は、神と、神の国と、神の民全体のために死ななければならないという事実に覚醒した、最初の人でした。それゆえに、人々はイエス様をたたえ、神は彼を愛されるのです。神の愛と真の人間の愛の両方が、イエス様を通して顕現したのです。新しい世界はイエス様を通して、その出発を成したのです。イエス・キリストの模範は、全人類のための絶対的な基準です。イエス様のような男性と女性ばかりで構成された国を、少し考えてみてください。そのような国を何と呼んだらいいでしょうか? それは地上天国以外の何ものでもありません。
イエス・キリストは、その並ぶもののない愛と奉仕と犠牲のゆえに、すべての生命に対する主人でした。彼は、永遠に主であり続けられるのです。それと同様に、神の全き奉仕と、愛とに勝る者は、この宇宙にだれもいないのです。それゆえに、神は永遠に神であられ、すべての被造物を支配されるのです。
ローマの衰亡を見てください。全ローマ帝国は、武器をもたない軍隊、すなわち、イエス・キリストの軍隊の前に崩壊したのです。クリスチャンは、いかなる方法でローマを征服したのでしょうか? 正に彼らの命までもささげる愛と、犠牲と、完全な奉仕によって征服したのです。歴史は、いかなる帝国も、犠牲的愛の軍隊に逆らうことはできないことを証明しています。そして、この歴史は繰り返されるのです。
今日まで人類は、善悪の定義を明確に知りませんでした。私たちはどこに自分を委ね、いつ行動し、何に仕えるべきかよく分からなかったのです。これが、人間生活における最大の混乱の原因でした。私たちは、自分自身の幸福のみを切望するようなクリスチャンになってはいけません。クリスチャンとして私たちは、他の人々が生命を得ることができるように、イエス様のような生活をし、他の人々の幸福のために、私たち自身を完全に与えていかなければなりません。これが、神のやり方なのです。
現在のこの世界は、神の怒りを呼び起こしています。本当にこの世界は、神の容赦ない審判に値するのです。しかし、神は愛であられ、長い間苦悩しておられます。神は、私たちを救いたいがゆえに、その怒りを制しておられます。神は、私たちに変わる機会を与えておられます。神は待っておられるのです。
私は、西洋文明は個人主義によって特徴づけられるということを知っています。しかし言っておきますが、「自己中心的」な個人主義は滅びるのです。そして、「犠牲的」個人主義が花開くのです。個人主義、それ自体は善です。神は、私たち一人一人に独特な奉仕の道を与えてくださいました。しかし、神なき個人主義のできることは、崩れ去る砂の上に城を建てることだけです。
私は偉大なる変化、偉大なる新しい革命の波が、アメリカにやって来ているのを見ることができます。それは、火や、銃によるのではなく、人間の心の革命に火をつける、神の真理によるものです。私は、この精神革命に火をつけるために、ここにやって来ました。究極的な答えは、デモや法廷闘争ではありません。答えは、利己心から利他心への静かな革命の中に、つまり男性と女性の心の中にあるのです。
皆さんは、理想世界が、どんなに素晴らしいか想像することができますか? 個人は家庭に属し、家庭は社会に属し、社会は国家に属し、国家は世界に属し、世界は神に属し、そして神はあなたに属するのです。最もよく与える人が、最も深く神を知るのです。
ある人々は、私に向かって「文牧師、あなたは何かおもしろい理論をもっているようだが、その神学的内容はもっと綿密に調べられなければならない」と言うかもしれません。しかし、その言葉は私に対する誤解からきています。私は、理論からではなく、生活から話をしているのです。私は、私たちすべてが、イエス様が真理に生きたように、真理に生きるべくここにいるのだということを、皆さんに告げているのです。これは、理論でもなく、哲学でもなく、神学的教理でもありません。それは、神の究極的な真理であり、話すべきことではなく、生きるべきことなのです。
人々が、この真理を生きたものにする時、それは地上に完全な変化をもたらすでしょう。皆さんは、私が今まで語ってきた真理を、ある意味で知っているかもしれませんが、しかし、だれも本当の意味でそれを信じてはいないのです。だれも真理を信じていないので、だれもその真理に生きる人はいないのです。この真理は、神のごとく古いけれども、なお21世紀のごとく新しいのです。皆さんは真理に生きなければなりません。もし、「統一原理」の啓示が、この年を経てきた真理を、皆さんの心の中で現実のものにするならば、皆さんはその結果として、新しい真理を発見するのです。統一教会の教えは、私たちの正に現実の神とイエス・キリストへの道を指し示しながら、数百万の人々の心を動かしつつあります。世界中の人々が、神は絶対であり、完全であるということ、そして、その完全なる神がその対象として、完全なる人間を要求されるのだということを学びつつあります。イエス様は、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と言われました。彼は、私たちの価値の基準は、私たちの天の父の完全性であるということを明確に示しているのです。そうでなければ、私たちは神の対象であることはできず、神も私たちを受け入れることができないのです。
私たちは、だれしも完全でありたいと願います。だれもが地上に天国を願っていますが、私たちは、「それは、どのようにしてなされるのでしょうか?」と問わずにはいられないのです。
果たして人間が完全であることなどできるだろうか、と私たちは疑問に思うのです。ある人々は、はっきりと弁明して、そのような野望を抱くことが甚だしい間違いであることは、ただ人類を観察してみればすぐに分かることであると主張します。私たちは、すべてのものの中に、また最も神聖なものの中にさえ、罪や苦悩が生来備わっていると指摘し、「神のみが完全である」と言います。しかしながら、神の創造の概念の中における男性と女性についての構想を十分に理解してみると、完全というものが私たちの手の届くところにあることが分かるようになるのです。
神の創造理想において、私たちは神の宮、神が主人として住まわれる神の霊の宿る宮として設計されました。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ3:16)。
私たちは、神の宮となるべく設計されました。私たちが、そのような状態に到達する時、もはや私たちは堕落に向かう意志などを所有しなくなるでしょう。境界とか、法則とかは、もはや必要でなくなるでしょう。なぜなら、神の意志が、私たちの意志となるからです。神の霊が完全に私たちの中に住まわれるので、私たちはただ神の命ずるままに動くようになるのです。そして、私たちを導き指導する力が完全な力ですから、私たちは完全なものとなるのです。
この最終的な目的に到達した時、私たちは、神と完全に一つとなるのです。私たちは、もはや人間的基準にのみ生きるのではなく、神の基準に生きるのです。私たちの中に神の霊が住まわれ、完全な宮として私たちを所有するので、私たちは神の性禀をもつようになり、神の美徳と力とを反映するのです。このようにして、私たちは天の父が完全であられるように、完全になることができるのです。これが、神がアダムとエバを通して人類に与えようと意図された本然の姿であったのです。
結婚は、地上に神の国を実現するための最も重要な手段です。アダムとエバは、神の最初の子供でした。彼らは神から生まれ、神の中で育ち、そして神における完成へと成熟するはずだったのです。神は、アダムとエバを天的婚姻によって、一つにしようと計画されていました。そして彼らは、罪のない子供を生み、全人類の真の父と母となるはずだったのです。彼らは、地上に天国を建設して、「真の父母」になるはずだったのです。
そのような神の国が、かつて存在したことがあるでしょうか? いいえ、存在したことはありません。その代わりに、歴史は悪なる方向へと出発したのです。最初の悪の出発の時から、サタンは、この世の神となってきました。それゆえに、神が本当に地上に御自身の王国をもつことができるよう、完成された家庭を復帰することが神の復帰の目的、神の救いの目的であったのです。そのために、神は一つの模範を必要とされるのです。では、だれがこの地上に完成の基準を示すことができるでしょうか? この必要を満たすために、メシヤが来られるのです。
神の摂理歴史は悲しい、悲しい物語なのです。神の心情を慰め、神のみ旨を成就するために、私たちは、神の復帰の路程と、特にキリストの時代に、神に対する人間の対応がいかに貧しいものであったかを明確に理解しなければなりません。
イエス様は、人類の真の永遠なる父として、この地上に来られました。それゆえに彼は、真の信仰者は、その真の父のところに来るために、偽りの親、偽りの社会、そして偽りの関係を否定しなさいと言われたのです。キリスト教の神髄は、真の愛の伝統です。しかし、イエス様は、この重大な使命を成しながらも、十字架につけられてしまいました。イエス様の時代には、真の愛の伝統が十分に花開く機会がなく、イエス様は十字架にかかる前に、永遠の父として就任できなかったのです。
神が人間を創造された時、神は、アダムとエバという男性と女性をエデンの園に置かれました。彼らは、二人ともサタンと一つになり、罪を犯し、それによって、神を置き去りにしてしまったのです。復帰の過程において、神は、アダムとエバの両者を復帰しなければなりません。イエス様は、罪のないアダム、あるいは完成されたアダムとして来られました。彼はメシヤとして、個人、家庭、氏族、国家、世界のレベルというすべての段階における完成の模範として来られたのです。彼は、何世紀もの期間をかけてではなく、その生涯のうちに完全な世界を建設するために来られたのです。このゆえに、コリント人への第一の手紙第15章45節は、イエス様が「最後のアダム」つまり第二のアダムであると言っているのです。それゆえに、彼の第一の目的は、花嫁を復帰して、最初の神の家庭をつくることでした。そして、すべての堕落人間が、真のオリーブの木である彼に接ぎ木されるはずでした。神を中心とした家庭、氏族、国家が、そのようにして復帰されていくはずだったのです。完成が支配するはずだったのです。神の国という罪なき国家が、過去2000年の間ずっと現実のものであり得たのです。
何がイエス様をして、他のすべての宗教指導者と区別させるのでしょうか? 第一に、彼は御自分がただ一人の神の息子であり、それゆえに神の愛のすべてを所有していると言われました。皆さんが初めて子供をもつ時、その子供は皆さんの愛の限りないほとばしりの中心となります。人間が初めての子供にそれほどまで大きな喜びを感じるのであれば、神はいかばかりでしょうか? 神は初めての息子の中に、御自身の似姿を見、そして彼を通して、御自身の似姿が全世界に現れることができるので、その一人の人間がどんなに重要か分かるでしょう。その息子は何をすべきでしょうか? 神はただ息子だけを必要とされるのでしょうか? 神は以前から、相対が必要だということを知っておられましたが、それが一人の娘です。私たちは、特にこのアメリカにおいて、神の娘について話さなければなりません! 私たちが神のただお一人の娘について話すなら、神はこの国でもっと受け入れられるでしょう。
たった一人で生活している息子は、片足しかない人のようなものです。イエス様は、神が御自身のひとり娘をもつことを楽しみにしておられることを知っていたので、その立場の女性を復帰することを期待していたのです。これが、新約聖書の中心テーマが、花嫁と花婿である理由です。今日、クリスチャンたちは、男性も女性も同様にイエス様の花嫁の立場にあり、そしてそれだけでなく、教会も同様であると言うことによって、この婚姻関係のむしろ抽象的な観点に甘んじなければなりません。施設としての教会が、イエス様の花嫁とどういうかかわりがあるのでしょうか? 明らかにここには、ある特定の象徴的意味があるのです。しかし、神の究極の願いは、御自身の息子に、肉体をもった花嫁を与えることなのです。
どうやってイエス様は施設にキスすることができるでしょうか? 皆さんの大統領は、どうやってキスするかも知らないような施設ですか? 偉大な指導者はとても偉いので、だれにキスする必要もないのですか? イエス様は王の王でした。その意味において彼は、最も偉大な施設なので、生涯独身のままでいるべきですか、そうですか? いいえ、そうではありません。彼は人間であり、すべての男性のように妻を必要としておられたのです。彼は玉座に座って、彼の臣民に向かって指示しながら、独身生活を最も聖なるものとして宣言するのですか? そのような教えは、片手落ちの教えです。
イエス様が完全な花嫁と祝福されたとしましょう。皆さんは、イエス様は聖なる方なので、常に彼女から1.5メートル離れているべきだったと思いますか? 彼は、何かの犠牲のためだけに、あるいは本当に愛を彼女に示したいから、花嫁にキスしたでしょうか? 聖なる人として彼は、時々花嫁を見るだけで行ってしまったでしょうか、それとも、花嫁に注ぐために、燃えるような愛を心の中にもったでしょうか? もし彼がそうしたのであれば、彼は罪人だったのでしょうか?
イエス様は、神の意志を成就するために来られ、そうするために、御自分の花嫁を復帰しなければなりませんでした。すべてのキリスト教世界は、この啓示を聞いて震え、そのゆえにクリスチャンたちは、私を異端と呼んだのです。イエス様は、この地上でこのような会話が行き交っているのを聞くことができます。皆さんは、私が彼は御自分の花嫁をもつべきだったと言っているのを聞いて、彼がほほえまれると思いますか、あるいは、彼はそれが最も聖なる生き方だと考えて、独身のままでいたと思いますか? だれが男性と女性を創造し、だれがイエス様の親でしたか? 神は男性と女性が一つとなって結婚し、夫と妻として生きるよう創造されました。それは、神の創造におけるすべての中で最も聖なる関係なのです。創世記は、神がアダムとエバを創造したと記していますが、アダムとエバの双方を創造し終わるまで、神は決して「良し」と言われなかったのです。多くの宗教は、独身生活を提唱してきました。統一教会は、個人ではなく家庭が天国の構成要素であると言っているのです。
イエス様は、御自身が神のひとり子だと言われただけでなく、世界を否定されました。世界がどんなに美しく、素晴らしく見えようとも、神の目には無に等しいので、イエス様の使命は世界を否定することから出発しなければなりませんでした。イエス様は、神のひとり子として、神のひとり娘を復帰するために、そして、神の一家庭、国家、世界を建設するために来られたのです。イエス様は、最も直接的な神の化身だったので、本当に中心的聖人の位置を占めていたのです。
神の心情さえも完全に溶かすような、神の中心テーマは何なのでしょうか? 神はお金や力は必要とされません。イエス様が来られ、御自身を神のひとり子として宣布した時、それは、それまでいかなる音の響きもなせなかったほど神を感動させました。イエス様以前の4000年間に、多くの良心的な人々が地上に生まれました。しかし、もし神がイエス様に「あなたはモーセよりも、アブラハムよりも、そして他のすべての者よりも偉大だと思いますか?」と尋ねれば、イエス様は「そうです」と答えたことでしょう。イエス様の宣言に異議を唱えることのできる人は、ほかにだれもいなかったし、その立場の候補となる人さえもいなかったのです。神の息子であるイエス様の心の中には、何ものも揺るがすことのできないほどの絶対的な内容があったのです。そのような人は、男性でも女性でも、以前に存在したことはありませんでした。
イエス様は、神の心情の中の正に愛の中心に到達し、神からどのような指示でも受ける準備が常にできていました。他のどのような聖人でも、その目標をそれほど厳密に具体化した人はいません。他のすべての聖人たちは、善なる生き方や真理を教えはしましたが、神が彼らの父であるという信仰においても、世界を完全に否定することにおいても、イエス様がされたほどには絶対的ではありませんでした。イエス様が御自分のことを神のひとり子と呼んだ時、彼は、彼と神のみが真の存在であるということを意味したのであり、その他の世界も同様に、真実なるものになるように変えるということを意味したのです。彼が再創造しようと計画した最初のものは、神の娘でした。それから彼は、神の家庭、社会、国家、世界を創造しようと計画していたのです。
そんなにも新鮮な鐘の音は、イエス様が来られる以前に鳴ったことがありませんでした。イエス様の鐘の音は、ただこの世界だけでなく、霊界までも鳴り響きました。その音は、正に神の魂と心情を刺し通し、それらは再び鳴り響き、共に鳴ったのです。その音は、神を驚かせ、それが愛の音であるがゆえに、神を喜ばせたのです。
なぜ神は愛を必要とされるのでしょうか? それは、神が愛の喜びに酔いたいと思われるからです。愛だけが、地を揺るがすほどの笑いと喜びに、完全に神を酔わせることができるのです。その喜びは、ただ歌や踊りを呼び起こすだけでなく、それ以上のものとなるでしょう。神は、御自身のことも、神としての権威も忘れて、完全に子供のようになることができるくらい、愛によって溶けてしまいたいと思われるのです。
神は、その闘士であるイエス・キリストを送られる前に、イスラエル選民国家という舞台を準備しました。これはメシヤ降臨のための基台でした。イスラエル民族は、もし来たるべき主と一体となったならば、彼ら自身と彼らの国家を完成することができたのです。神の国は、当時、目に見える現実となったのです。
イエス様の意志は、この地上に神の国を建設することだけに向けられていました。しかし、現実的に言って、神の国とは何なのでしょうか? 聖書は明確には言っていませんが、イエス様がこの地上で建設しようとされた神の国は、簡単な教えから来るものでした。つまり、父なる神を愛するほどに、自分の国家と社会と、自分自身の家庭を愛さなければならないということです。その一つの愛の伝統が人生のあらゆる側面をつなぐ時、神の国は現実のものとなるのです。皆が共通の父として一つの神を崇拝する時には、国境も、言語や教派の壁も、何の境界もなくなってしまうのです。あらゆる障壁を崩すことができるのです。
もしイエス様が、ただ新しい宗教を創立するために来られただけならば、彼はメシヤではなかったのです。実際に、イエス様は、宗教についてあまり関心をもつことができませんでした。彼が関心をもたれたのは、神を中心とする王国についてであり、その王国は宗教によって建設することはできないのです。その王国は、家庭によって建設されるのです。イエス様は、神が主権者として、真の父として住むことができる現実の家庭まで、神を降ろしてあげることができるよう、最初の真の家庭を建設するために来られたのです。神のみ意が成就できる道はほかにはないのです。この地上に神の国を建設する道はほかにはないのです。
しかし、イエス様はその国家から受け入れられませんでした。歓迎されるどころか、あらゆる段階において拒絶されたのです。イエス様は、復帰されたエバの立場に立つ花嫁をもち、神を中心とした最初の天的家庭を建設する機会を否定されたのです。それどころか、彼は十字架に釘づけされたのです。このようにして、イエス・キリストの使命は地上で未完成のまま残ってしまいました。そして、これがイエス様が再臨を約束された理由なのです。イエス・キリストは、メシヤの使命を完成させるために、再び来なければなりません。繰り返して言いましょう。イエス様は完成されたアダムであり、彼の使命は全人類を復帰することでした。その最も重要な段階は、花嫁であるエバを復帰することでした。イエス様は神と一体となった人間ではありましたが、父なる神御自身ではなかったのです。彼が再び地上に来られる時、彼は第三のアダムという立場で、一人の人間として来られるのです。
これらは、私に対する神からの啓示であり、私は、皆さんが中心ポイントを十分に理解してくださることを切望します。神は、エデンの園において、アダムとエバが天的婚姻において一つとなるよう計画されていました。当時それが実現されなかったので、神はイエス様がその時代に、この天的婚姻を成し遂げるよう計画されたのです。しかし、だれ一人として、この地上で彼をメシヤとして信じなかったので、それはイエス様によっても実現できませんでした。
イエス様は第二のアダムでした。彼が、復帰された花嫁である第二のエバと、天的婚姻において祝福されることが神の願いでした。神は、イエス様がこの地上に罪のない子供を生み殖やすことを計画されたのです。そして、イエス様とその花嫁は人類の真の父母となるはずだったのであり、全人類は、彼らに接ぎ木されることによって命を見いだすはずだったのです。聖書の最後の黙示録において、神の理想の最終目的は、この完成した男性と女性であるということが明確に示されています。彼らが聖なる婚姻において喜び、抱き合うその時、これは全宇宙にも替えることができないのです。一たび神が一つの基準としてこの高い理想に到達された時には、さらに多くのそのような個人や家庭が存在するようになるのです。これが、神が従事し続けておられることなのです。したがって、これは神の最高の理想であり、また人類の最高の理想なのです。これは神の最も深い願望であり、また人類の最も深い願望でもあるのです。この一点を中心としてのみ、すべての人々と神が永遠に幸福になり、一つになることができるのです。
イエス様は人々に警告しました。「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって」(ヨハネ8:44)と。なぜなら人類歴史の出発点で私たちは、サタンの子供として生まれたからです。真の父母が復帰されることによって、私たちは天の父なる神の子供として生まれ変わるのです。これは、聖パウロが書いている(ローマ8:23)ような単なる養子としての救いだけでなく、神の真の子供として完全に救われることを意味するのです。
神のみ意は、イエス様の時代に成就されませんでした。それゆえに、彼は再び来られるのです。黙示録に、小羊の婚姻に関する預言があります。この小羊の婚姻の宴は、実際に開かれるでしょう。全人類の真の父母は、私たちの時代に実現するでしょう。神は、神の真の家庭をこの地上に生み出されるでしょう。すべての人々が、真の父母を通して新たにつくり変えられるでしょう。すべての人々が、この世界に罪なき子供たちを生み殖やす権能を与えられるでしょう。これらのことは、イエス・キリストが再び来られる時に成されるのです。地上天国は、その時始まるのです。これが希望の日であり、再臨主が来られる日となるでしょう。
これが、神の本然の理想が初めて実現される日なのです。これが、神が男性と女性と共に住まわれる日なのです。神は喜びに満たされるでしょう。そして、完成された第三のアダムとしての神のひとり子が、この地上に全く新しい歴史を出発させるでしょう。その日には、私たちは神の生きた似姿となるのです。かくして、神は神の国を地上にもたらされるのです。
このような理想の最終的実現は、全人類の希望であったと同時に、神の希望でもあったのです。私は、これらのすべてのことは、神の時が満ち、すぐ間近に実現するということを、皆さんに心の底からお誓いするものです。