世界への神の希望 2
2. 公的人生
人々の考えが大概自己中心的であるということは、正に本当です。そのような観点から人々は、自分の両親、兄弟姉妹、国家、世界について考えます。だれでも自分自身を中心として、すべての環境をもちたいと思っています。そうであるならば、人々はどのようにして、お互いに関係をもつことができるでしょうか?
別の観点から考えてみましょう。皆さんが、ある会社に勤めているとしましょう。もし会社の利益のために貢献しなければ、皆さんは遅かれ早かれ、いずれは解雇されるでしょう。学校生活においても同じです。人は学校で教育を受けますが、その人はまた、学校の一部ともみなされるのです。学校がその人の一部ではないのです。中には、自分のためだけに学校が存在してほしいと思っている人もいます。同様に、国家は自分たちだけのために存在してほしいと願っている人もいます。しかし、社会はそのようには機能していないのです。個人は、その国家に貢献する要素とならなければならないのです。同様に、皆さんは世界の一部です。世界は、皆さんのためだけに存在してはいないのです。宇宙の原理は、各個人は、森羅万象と関係をもって生きており、より大きな全体の一部となるように訓練されなければならない、と言っています。
私たちは、その中により小さな集団をもつ大きな集団として、宇宙を表現できるでしょう。その中央には、個人を表す小さな点があります。各個人が、その宇宙の中心になりたいと願うのは当然です。人間以外に、そのような願望をもつ存在はありません。猿も犬も猫も、宇宙の中心だとは考えません。人間を動物王国の「至高の存在」とならしめるものは、いったい何でしょうか? それは単純に、人間だけが、自分は存在する他のすべてのものと関係をもっていると認識している――この点なのです。
一人一人が、「トップでありたい」、他のすべてより上にありたいと願っています。これは人間の性質です。しかし、逆説的に見て、人が自分の環境や周囲にかまわず、自分の気紛れに従いたいと望む時には、いったいどんな意味があるのでしょうか? そのような人は、すべてのより大きな生命の存在から孤立するでしょう。アメリカは、「私」という言葉が頻繁に語られる一つの国ですが、アメリカの「私」は、存在するすべてのより大きな範疇からしばしば分離し、個人的で、孤立しています。
もっと深く考えてみると、私たちは、「この世界、国家、社会に私はどのように適応することができ、なおかつ自分自身の個人的な理想と願望を満たすことができるのか?」を問うてみなければなりません。だれでも、自分のしたいことは何でもやり、自分の気に入ったとおりの出来事が起こるのを見たいと思う傾向がありますが、しかし、そのようなことはめったに起こりません。完全に自己中心的な考えをもっているならば、皆さんは、どこへ行っても排斥されるでしょう。学校、会社、国家は、そのような考えをもつ人をすべて拒絶するでしょう。神は、そのような思考を拒絶されるでしょう。
皆さん自身の配偶者のことを考えてみてください。たとえ、彼あるいは彼女が自分と極めて親密な関係にあると感じるとしても、すべて自分中心にやろうとするならば、その関係はひずんだものとなるでしょう。共にそれに向かって専心することのできる、ある共通の土台がなければならないのです。こういうことを考えるとき、皆さんは、自分を他のすべてのものの上に上げることは、極めてばかばかしいことであるという結論に至るに違いありません。
自由は公益のために
自由とは何かを考えてみましょう。自由を得るということは、自分自身の願望だけに従って、すべてのことをなすことができるという意味でしょうか? 自由を語るときには、一つの備えられた黄金の鉄則があり、自由は、万民の自由を尊重するという枠組みの中でのみ存在し得るのです。このような公的土台の上でのみ、自由は本当に繁栄することができるのです。個人は、自分という存在以前に、より大きな存在があることを認めなければなりません。「それはどんな自由なのですか? そのような自由は好きではありません」と、皆さんは言うかもしれません。しかし、その基準に敬意を払わなければ、皆さんの自由は、この社会に破壊、混沌、混乱をもたらすだけでしょう。今日、自由についての大変間違った概念が、この社会に広がっています。自由国家に住むということは、自分が良いと感じることは何でもできるとか、自分の衝動に何でも従ってもいいという意味ではないのです。しかし、多くの人々は、このような態度をとっているのです。
目が、例えば腕の上など、頭以外の体のどこかの部分に行きたいと心に決めたと想定してみてください。それはとてもおかしなことですが、しかしそれは実際に、西洋の若者たちがすべてのより大きなレベルの存在の中における自分の本然の位置から、自分自身を切り離そうとしているのに大体似ています。そのようにして、人は幸せを見いだすことができるでしょうか? 家庭、社会、国家、世界と関係のないところで歩み、何か個人的で孤立した世界に自分自身を置こうとする人は、実際にすべてを失うのです! どんなに一生懸命に働いたとしても、結果を自分以外の何にもつなげることはできないのです。
しかし、宇宙の中心点で自分の本然の位置に立つ人は、自分の仕事、業績のすべてが拡大し、最も幅広い段階にまで結びつくのです。このような人は、全体と連結しているので、同時に宇宙の中にある価値のすべてを所有するのです。
大概の人は、自分の本然の位置を行ったり来たり、出たり入ったりしています。宇宙の中で自分の本然の位置以外のどこかにいれば、宇宙はその人を排斥しようとするでしょう。そのような立場は、体の中の腫瘍すなわち間違った場所にできた外部からの物質に似ています。多くの人人は、孤独で、全く個人主義的な生き方をとても魅力的だと思っています。彼らは、自分自身の意志に従ってすべてのことを指揮できるので、自由があると思い込んでいます。しかし、成功して幸福になろうとする彼らのすべての努力は、宇宙の力によってはねのけられてしまうでしょう。最終的には、彼らは、大変不幸な立場に追いやられることでしょう。しかし、人が自分の本然の位置に立つとき、彼のすべての努力は宇宙の力によって援助を受け、人生は当然、平坦で容易になるのです。
多くの責任をもった重要な指導者になるためには、何が必要なのかを考えてみてください。確かにアメリカで最も重要な指導者は、大統領です。最も重要な人物であるならば、毎朝目覚めて、その日に襲ってくるどんな気紛れにも従うことができるでしょうか? 重要人物は、平常、自分が寝たい気分になれば、いつでも寝るでしょうか? いいえ、重要人物の一日の一刻一刻は、詳細に報告されなければならないのが、現実です。単に夕食を食べているとしても、彼がどこで何をしているのかを知りたいと思う人がいるでしょう。
大統領は、自分に構わないでほしい、自分に付きまとわないでほしいと言うことができるでしょうか? 大統領は、その多くの責任の中で差別待遇し、喜んで世話できるものだけを選ぶことができるでしょうか?彼は、様々な責任が彼の注意を必要とする場所や時間を調整することができるでしょうか? 大統領は、明らかにそのようなことのどれもできないでしょう。真夜中に何か起これば、大統領は喜んでその事態に対応しなければなりません。もしそうしなければ、大統領は国家の指導者となることはできません。この意味において、大統領には少しの自由もありません。ほとんどの時間、大統領には、自分の思いどおりになる自由など全くないのです。
この国における典型的な個人というものは、自由を驚くほどふんだんにもっています。多くの主婦は完全に自分の欲望に従って日々を過ごす自由があります。主婦は一個人ですが、家庭の中では、夫や子供を代表する立場にあります。もし主婦が、そのような責任から離れるならば、自分自身の本当の価値から離れてしまいます。時には、母親が出掛けて、何か自分の好きなことをしようと準備ができたちょうどその時に、ある危機が家の中に起こるかもしれません。母親はその時、子供たちに対してなすべきことを無視して、出掛ける自由があるでしょうか? 彼女にはそのような自由があるかもしれませんが、そうすることは正しくないでしょう。家族というより大きな存在を犠牲にして、自分自身の欲望を満たすならば、彼女は宇宙の原理に従った善なる人ではなくなるでしょう。もちろん、そのような自己中心的な人は、おそらく自分が正しいと思うでしょうが、しかし彼女は、夫や子供、そして社会の人々からの批判に苦悩することになるでしょう。彼女は悪い人だと、すべての人々が彼女に言うでしょう。ここにおける、「悪い」とは、どういうことでしょうか? 悪い人というのは、簡単にいえば、物事のより大きな組織における自分の位置を放棄し、他のすべてのものとの関係を失ってしまった人のことをいうのです。そういう人は、失ったものを、かつてはもっていた人です。いま挙げた例えの中の主婦は、いつも自己中心的な基準で生きるならば、自分の夫と子供から、結局は拒絶されるでしょう。そして彼女は、「悪い人」というレッテルを張られるでしょう。
家庭の中における愛は、公共心のある利他的なものであるべきです。自己中心的な愛は、「あなたは私を愛さなければなりません。私は、愛を受けるためにここにいるのです」と言います。そのような愛は、錨のようにいつも皆さんを引きずり下ろします。多くの場合、アメリカの女性は男性に愛してもらいたいために結婚をし、彼女たちは、愛を受けることを渇望しているのです。それは、間違いです。皆さんは今考えを変え、「私はあふれんばかりの愛を与える対象が欲しいので、結婚したい」と思わなければなりません。たとえどんなに大きくて強い男性でも、愛によって溶かされるのです。
公的心情のない愛は、どのようなものでも破壊的な愛です。夫婦にとって、預金通帳と愛と、どちらがより大切でしょうか? 家庭によっては、一つは夫の、そして一つは妻のと、二つの預金通帳があります。お互いにお金を借りる時には、受領証さえ書くのです! 息子がお金を欲しいといえば、受取証を書いて、利子を付けて返すのです。愛は、お金や一枚の紙より安いものでしょうか? 本当に愛しているならば、夫婦は一体です。皆さんの体全体が犠牲的になることができ、そうすれば預金通帳は何の価値もありません。妻にお金が必要なときには、夫のお金が妻のものです。同様に、妻のお金は夫のものなのです。
良い人であると称賛を受ける人は、他の人々に対して常に良いことや利益をもたらしてくれる人でしょう。善なる人が多くのものを所有し、支配するときは、何か良い結果がもたらされるであろうと思うので、人人はそれを歓迎します。しかし、悪なる人は、他の人たちから避けられ、そして、たとえ少し財産があったとしても、人々はそれを見て喜ばないのです。善は、神の世界の範囲内のどこにでも行くことができ、歓迎され、一方悪は、どこも通過することができないし、受け入れられないのです。皆さんは、善なる人ですか、それとも悪なる人ですか? もし、皆さんが善と悪の両方をもっているならば、それは、実際には悪いことです! どうして親は、子供が良くなるように駆り立てるのでしょうか? そうすることによって、親は子供のために究極的な恩恵を願っているのです。良くなることによって、その子供は世界のどこでも受け入れられることでしょう。善は、不変で、普遍的であり、ですから韓国で善なる人として認められている人は、アメリカでも善なる人として知られるでしょう。モスクワでさえも、人々はその人の善なるものを認めるでしょう。
普通、善なる人は、自分の気紛れな心に従うことができません。悪なる人における一般的な一つの側面は、自分の思いのままに行動する習慣をもち、自分の欲望だけに従って生活することです。したがって、現在広まっている自由の概念の中には、善よりも悪なるものがあるのです。多くの若者は、自由の本当の性質について混乱しています。彼らは単に、自分の衝動に従うことが自由であり、それが善なることであると思っているのです。
音楽が大変好きな人がいるとして、それで、インスピレーションが来る時はいつでも、声を張り上げて歌を歌うことができると思うかもしれません。彼が早朝四時に、自分のインスピレーションのままに歌を歌ったとするならば、他の人々からどのように受け入れられるでしょうか?近所の人たちは、このような「芸術の自由」は、あまり歓迎しないでしょう。
直接的に個人の自由のレベルと連結しているのは、家庭レベルの自由です。次には、より高い段階の社会、国家、そして世界の自由です。これらの異なるレベルの自由は時々衝突することがあります。個人の自由は、国家の自由と一致しないかもしれません。国家の自由は、世界の自由と一致しないかもしれません。もし最高の価値が個人の自由に置かれるならば、家庭は苦悩しなければならないでしょう。もし国家の自由が最優先されるならば、世界の秩序や調和は破壊される可能性があるでしょう。もしより低いレベルの自由が、適切でない時に優先されるならば、そのより低いレベルの自由は、より大きいレベルの自由を容易に破壊するのです。
さあ、このような原理を理解したので、皆さんは自分の過去の経験を調べてみることができます。皆さんはおそらく、公の利益に対するその影響を理解しないで、今まで個人の自由に対する権利を主張してきたのです。
神の法を尊重する自由
なぜ、すべての個人は、国家内においては、その国家の法律に従わなければならないのでしょうか? 法律は、国家全体の利益と安定のためにつくられているのです。それらは、必ずしも個人一人一人の好みに合うようにはつくられていないのです。このようにして、国家の自由は擁護され、個人の自由は、そのようなより大きな善に従属するようになっているのです。
同じように、宇宙のすべての生き物は、宇宙の最高の法則を尊重し、従わなければならないのです。宇宙の法則は、神の法なのです。
個人は、自分自身の自由と家庭の自由と、どちらにより価値を置くべきでしょうか? 確かに彼は、自分自身の自由より、家庭の自由を大切にすべきです。しかし、個人は自分自身のために家族の利益を犠牲にしようとするかもしれず、例えば、若者がダンスに出掛け、一晩中外出している一方、家族の者は心配して、眠れないことがあります。それは、いったいどんな自由だというのでしょうか? 家族の平和と安寧を犯すとき、そのような「自由」は存在する権利がありません。同様に、家庭の自由は、国家の自由に奉仕しなければならないのです。家庭が国家の中で保護されるためには、その国家を尊重し、奉仕しなければならないのです。これは、宇宙レベルの自由まで、すべてに応用されることであり、宇宙レベルの自由は、神の自由に従属しなければならないのです。どの時点で、神の自由は確立し、安定するのでしょうか? 神御自身は、人類の盲目と無知のゆえに苦しんでこられたのです。
もし個人が、その家庭の願いに従わなければ、家庭全体が混乱します。もしある家庭が退廃的であるならば、社会全体はそのために苦痛を被ります。もしある国家が、自国の利益のために世界の利益に反して戦うならば、世界全体は苦痛を受け、その国家の方向性を変えることを余儀なくするでしょう。
神が御自身の創造された宇宙を御覧になるとき、宇宙が神御自身のことを考えないで、それ自体の自由を楽しもうとしているのを見るので、神は苦痛を感じられるのです。神は、他のレベルの自由を絶えず破壊する個人を、どのように扱われると思いますか? 神は、頭を軽くたたいて、「立派だ」と言われるでしょうか? いいえ、神はその人を正そうとされるでしょう。神は、より大きなレベルの幸福を破壊する個人の自由の中に、どのような喜びももつことができないのです。
多くの人々や家庭は、彼ら自身の利益のために熱心に祈祷します。神は、自己中心的な個人や家庭に祝福を与えることを鼓舞されると思いますか? 神は、このような人々には、その間違いを悟らせるために艱難を起こしたいとさえ思っておられるかもしれないのです。神は、悪なる神ではなく、神は何でも、常に善なることのためになされ、ですからもし、神がだれかに辛苦を与えるとするならば、それは究極的にはその人を助けるためなのです。
もし、だれかが「神よ、もし私が欲しいものを与えてくださらなければ、私は自分の足を切るだけです!」と祈るならばどうでしょうか? 神はその人を御覧になって、「さあ、そうしなさい。自己中心的な子よ」と感じられることでしょう。白人至上主義者が「神よ、この世界を祝福し、平和をもたらしてください――すべての黒人を追い払うことによって」と祈ると考えてみてください。神はこのような祈りを聞かれるでしょうか? 神は、絶対にこのような祈りを聞かれません! 神はこのような人を罰し、そのような恐ろしい考え方を正したいと思われるでしょう。
聖人とは、自分の行きたい所に行き、したいことは何でもするような人であり得るでしょうか? いいえ、聖人とは全く逆の人です。聖人は、自分のしたいことはほとんどできないのです。
この世の中には、文師は統一教会の最高の立場にいるので、最大の自由と、自分のほしいままにする自由とをもっているに違いないと考える人がいます! 指導者とはどういうものであり、どうあるべきかを正確に理解していないので、人々はそのように考えるのです。
現実は、どこへ行こうとも、私の家族、教会員、私の周りのものすべてに対して対応することができなければならないと感じているのです。たとえ外に出掛けて、芝生の上に座りたいと思う時でさえ、私は「犬が座りたいと思っている場所を取ってはいないだろうか? もし私がここに座ったならば、あり塚を壊してしまいはしないだろうか?」などと心配しなければならないのです。私がするすべての動作、私の足の動きに対してさえも、私は責任を感じざるを得ないのです。私は、このようにして全生涯を歩んできたのです。
神の自由は、より低い次元の自由と衝突するかもしれない
私はなぜ、このような生き方をしなければならないのでしょうか? 皆さんは、私が人生においてどんな喜びと意味を見いだしてきたと思いますか? 私は、明確な目標をもっているので、このような生き方をしているのです。私は、宇宙の自由と神の自由のために生きているのです。ですから私は、他の次元におけるすべての自由と利益と衝突してきたのです。
悪なる人は、彼らの関心の領域と利益がいつも衝突するので、善なる人が好きではありません。善なる人は最高の利益、究極的には神の利益のために常に前進しますが、これは、自分自身の利益のためにより大きな目的を犠牲にしようとする悪なる人の意向と、いつも衝突するのです。
私は全エネルギーをかけて、アメリカの若者たちを教え、指導してきましたが、聞く耳をもつ者たちは、自分たちの以前の生き方を変えました。そのような少しの変化が、アメリカの大多数の人々が行きたいと思う道と、矛盾することになるのです。多くのアメリカ人にとって、個人や家庭レベルの利益が、唯一の価値あることなのです。現在、統一教会の人たちは、神と世界の利益のために、一時的にそれらのより小さな利益を犠牲にしているのです。それゆえに、社会は声高に不平を言い、彼らが変わったことに強く反対するのです。
神の支配と神の自由を築くためには、それと矛盾するすべてのより低い段階の自由は、犠牲にならなければならないというのが事実です。迫害は、だれかが神的レベルの自由に向かって進もうとするときにはいつでも、自動的に起こる現実なのです。「あなたは、神の自由を称賛すると同時に、なぜ個人や家庭、そしてあらゆる他の自由を尊重しないのですか?」と、皆さんは尋ねるかもしれません。しかし、そのようなことは不可能です。すべての他のレベルの自由が神の自由を犯すときには、人は神の自由に従わなければならないのです。もし、世界が神の方向や神の自由に反する方向に進んでいるのならば、だれかが、それを正しい方向に押し出さなければならないのです。ですから私たちは、このような生き方をしているのであり、現在受けているような迫害を受けているのです。今、人々は私たちをひどい軽蔑を込めて「ムーニー」と呼びますが、同時に私たちは、神や宇宙の目から見れば、高められているのです。
なぜ、私たちは困難な道を行くことを選択するのでしょうか? 実際に、理想とは、このような方法でしか実現されないので、私たちが歩んできた道以外の選択はないのです。宇宙の自由と幸福は、私たちが神の幸福と自由を保証したときにのみ見いだされるのです。最高の存在の利益と自由が保証されるときにのみ、すべてのより低いレベルの存在は、永遠の幸福と自由を得ることができるのです。神のレベルの自由と幸福が一たび達成されたならば、神はあらゆる段階のすべての人々に対して、真の宇宙的平和と幸福をもたらすことができるのです。
これが、私の全生涯を導いてきた信念なのです。最初のうちは、だれも私を理解しませんでした。しかし、しだいに多くの人々が、私が教えていることの真価を評価できるようになったのです。敵の領土にやって来た神の大使として、私は生きてきました。私が他の人々と違うために、「権力」の全勢力が私を調査しました。多くの国々が私の活動を阻止しようとし、今なおアメリカ政府は、私を犯罪人として投獄しましたが、別の領域は、幸福で興奮しているのです。全天界は、私が神の自由である最高レベルの善を築き、それを維持するために働いていることを理解しているので、私を援助したいと切望しているのです。もし神御自身がこの地上におられたならば、きっと逮捕され、裁判にかけられ、投獄されたでしょう。しかし、一たび神が自由を得ることができるならば、地上に神の国をつくることができるでしょう。その時点で神は、本当に幸福で自由な世界の中で、神の民と共に幸福に暮らすことができるでしょう。
裁判所が私に、出頭して裁判に出席するように依頼した時、私は報告しない自由があったでしょうか? 私は収監を避ける自由があったでしょうか? いいえ、今文師は迫害を受ける自由があるのです。それは、私が願っている自由でしょうか? いいえ、それは何度も受けた苦痛に満ちた苦い経験ですが、しかし私はこのようなすべての体験を耐え忍び、真の自由、真の喜び、真の成就を獲得するために、迫害を克服しつつあるのです。二つの要素の間に対立があるときはいつでも、より公的な要素が最終的には優位になり、勝利し、そして前進するでしょう。宇宙の原理はこういうものなので、最も公的な基準をもっている人が勝利するのです。公的な基準がより低い人は、衰えていくでしょう。
教会は公的生活の訓練場であるべき
クリスチャンとして、皆さんの基準は、どれだけ公的なものでしょうか? 私たちの教会の公的基準を、それぞれレベル別に分けてみましょう。もし皆さんが、自分の教会の基準が可能な限り最高のものだと本当に確信をもっているならば、自分の明言した言葉を守り続け、忍耐してください。皆さんは、だれのためにそれをしなければならないのでしょうか? それは、単に自分のためだけではなく、公益のためです。もし皆さんがそのような公的目標達成のために、無私になって本当に前進するならば、神は常に皆さんと共におられ、助けてくださることでしょう。
私たちは、最高の目的のために生きることにおいて、ナンバーワンになりたいと願っています。オリンピックの試合において、多くの競技がありますが、最も名誉ある競技は、間違いなくマラソン競技でしょう。それは、人間の精神と肉体の最高の試験です。他のどの競技もこれ以上の忍耐と強靭さを要求するものはありません。マラソンで金メダルを一たび獲得すれば、その人は他のだれからも称賛されます。同様に、最高の公的人生を生きる競技においても、だれもが金メダルを獲得したいと思うでしょう。ゴールは高く、公的生活は、アメリカの一般的な方式とは全く逆の生き方なので、それを獲得するためには、信じられないほど多くの障害を克服しなければなりません。
時々人々は、楽な道で勝利しようと、ごまかすことがあります。マラソンでたとえ42キロ走ったとしても、もしその人がごまかして、たった10メートルでも背負われて行ったなら、彼は勝利の誉れを得ることはないでしょう。たとえ5メートル背負われて行って、降りてまた10メートル戻って走り始めたとしても、そのようなことは認められません。なぜなら、競技の規則が犯されたからです。別の言葉で言えば、ごまかそうという思いがあったので、勝利は失われたのです。皆さんは競技の規則とか宇宙の規則を犯すことはできないし、そうであれば勝利者になることもできないのです。
クリスチャンとして生きる私たちの目的は、神の心情を慰めることであり、神とイエス様が満足される世界をつくることです。私たちは、その目的に到達するために安易な道を行くことができるでしょうか。あるいは自分のしたいことを何でもめちゃくちゃにすることができるでしょうか? 文師は、そのゴールに向かって走る統一教会のマラソンレースのコーチです。コーチは選手たちに、容易なスケジュールを与えるべきでしょうか、それとも、目標を達成できるように一日の一刻一刻、彼らを押し出すべきでしょうか? どのようなコーチが一番良いのでしょうか?
統一教会は、強力なコーチの指導のもとにあり、それは確かなことです! 教会員たちがこのコーチから2、3年訓練を受ければ、彼らは変わらざるを得ないのです。人々は、その変化に気がついています。文師の強力な指導のもとで、彼らがとても魅力的で人目を引く人間に変わっていくのを、人々は見ており、「私はあのような義理の息子がもてたらいいのに!」と言うのです。人々は、実際に教会員の一人に会うまでは、ムーニーのあらゆる悪口を言っています。最初彼らは、自分の出会った人だけが、いい人だと思うかもしれませんが、もう一人もう一人と、次から次へと、出会うのです! そして教会員たち全員が、こんなにも良い人たちであると理解した時に、人々は完全に自分の考えを変えるのです。
キリスト教の牧師の皆さんは、どうでしょうか? 動機が自己中心であるときでさえも皆さんは、信徒たちのすることには何でも安易に同意しますか、それとも、昼も夜もなく彼らを教育し、公的善の意識まで彼らを引き上げる努力をしますか? おそらく、皆さんの会衆の中には、皆さんの訓練に反対し、拒否する人もいるでしょう。皆さんは、キリストと共にある最終的な幸福と友愛に至る最善の方法として、公的な生き方を選択するように彼らに教えるべきです。自分の利己的欲望のみに従って生きる人は、単に自分の墓穴を掘っているのです。
私たちは公的目的のために生まれている
本当の勝利というものは、公的行為をなす、公的心情をもった人によってのみ達成されるのです。「公的」という言葉は、「無私」という言葉と同意語です。たとえ迫害のただ中にあったとしても、私たちは、なぜ公的な生き方を追求しなければならないかを理解するようになりました。私がたとえアメリカ政府によって収監されたとしても、どうしてなおも私に従う何千人もの若者がいるのか、人々は全く理解できません。私たちの公的路程において、牢獄とは単に、私たちが克服しなければならないもう一つの障害にすぎないのです。皆さんは、皆さんを打ってくる障害と攻撃を常に克服しながら、自分の全生涯を正義と公的価値のために生きることができると決意できますか?
時には皆さんは、困難をかわすためにもっと安易な道を探して、より実用主義的に考え始めます。また皆さんは別な方法で見つめ、しばらくしたら最終的目的を達成するために努力するが、今のところ、自分のしたいことだけを何でもしようと考えるかもしれません。私は、そのような近道について昔考えたことがありますが、安易な出口はないという結論に至りました。私たちは、みなそれぞれ「公的目的のために生まれたのだから、私は公的道を一歩一歩歩むのだ」と考えなければならないのです。
皆さんは、私の両親が、息子を生まなければならないから、娘を生むことは拒否すると決めたと思いますか? 女性は、前もって自分の子供の生まれる日を選ぶことができるでしょうか? 子供が、自分の性格がどういうものになるのか決められるでしょうか? 子供は、自分の両親の愛を命令することができるでしょうか? いいえ、両親の愛は、ほとんど子供のコントロールを超えています。自分が生まれたのは、自分の意志ではなく、だれか他の人の意志によるものです。皆さんは自分では管理できない条件、すなわち両親の愛を通して受胎し、成長するにつれて環境によって人間形成されたのです。ある不可思議な力が、明らかに私たちの生涯に働いているのです。
おそらく皆さんは、ある映画スターのように見えるかもしれません。しかし、自分で、自分の容姿をつくることはできないのです。私たち一人一人の背後には、私たち以上にもっと大きな何かが存在していることを、皆さんは理解しなければなりません。この兄弟は、2.7 キロの赤ちゃんから、90キロの大人に成長するために、どこで物質を得たのでしょうか? 彼は、自然のおかげを被っているのであり、自然は、彼に惜しげもなく栄養を与えたのです。皆さんが今吸っている空気は、自分自身のものですか? 太陽の光は自分のものですか、食べている食物は自分のものですか? 生殖器官でさえも、自然から来ているのです。実際に、自分のものは何もないのです。皆さんは、それらのものが皆さんに借りられている間の管理者にすぎないのです。正に生まれたその瞬間から、自分のものというものは何もないのです。成長するにつれて、皆さんは、両親、自然、社会、国家などの恩恵をますます受けてきたのです。もし自然が、人類に貸しているものすべては、自分のものだと主張することを決めたとしたら、どうでしょうか!
野菜は、皆さんがそれを食べるに値するか否かについて、何か意見を言うでしょう。そういう意味において、私たちはみな公的監視のもとにあるのです。公に向けて造られた宇宙において、自分のためにのみ生きるということは、どんなに危険なことでしょうか。それはマッチを擦りながら、爆弾の上に座っているようなものです! もちろん、自由にマッチを擦ることができますが、しかし、世間の人々は憤慨して、あなたを公的善を破壊する者だと言うでしょう。
もし利己的な人が椅子に座ったならば、その椅子は、その人を蹴飛ばしたい衝動にさえ駆られるでしょう! もしその人が、頑固にその椅子を自分の所有物だと信じているならば、彼の周りのその他のものはすべて内側を見て、彼はその椅子に座るにふさわしくないと感じるでしょう。利己的な態度というものは、完全に自然に反しているのです。このようなすべての考えを心にもって自分の人生を振り返ってみると、過去において自己中心的に生きたために、皆さんが周りの万物に非難されているように感じるのはもっともなことだったのです。しかし皆さんは、今自分は変わりたいと思っているし、公的人生を生きたいと思っていると、万物に言うことができるのです。
アメリカにおける私の使命の背後にある動機は、公的善を追求することです。私はこの国のために、私の心情、魂、財産を投入してきましたが、それは、アメリカが世界救済のための神の摂理にとって非常に重要だからです。私の公的位置とは、アメリカは、多くの小国家が依存している自由世界の中心であり、そのアメリカが危機的状態にあるので、この時にアメリカ以外の国々がアメリカを支える必要があるということなのです。
歴史は、アメリカが文師をどのように扱ったか、本当の審判を下すことでしょう。現在の状況にかかわらず、アメリカ人のより公的心情をもった団体が、今日までなしてきたことのゆえに、文師を称賛し、尊敬する時が来るでしょう。たとえどのようなことがあろうとも、私たちは日日、正義の道を歩いているのです。私たちは、強く雄々しくなければなりません。私たちには、何も恥ずべきことはないからです。
神の心情は究極的な公的レベル
人生において、絶対的な自由というものはだれももっていません。私たちは、自分がどれだけ長く生きるのかを決めるのではありません。偉大で影響力のある人物であろうとなかろうと、だれでもこのような宇宙の法則のもとに生きているのです。私たちは、死の瞬間を決して知らないのですから、最高の公的基準に従って生きることによって、各々が準備しなければならないのです。
皆さんの家庭は、個人としての皆さんよりもより高い公的段階にあります。社会は、皆さんの家庭よりも上です。国家はさらにより高く、世界は、皆さんの国家よりもより公的です。神は世界よりももっと公的であり、神の心情は、公的心情の究極的領域なのです。なぜ神の心情は、公的人生の最高の基準なのでしょうか? 全宇宙を愛で包み込むことのできる他の心情、あるいは心は存在しないからです。
なぜ神の心情、すなわち公的人生の最高の基準に一回で飛躍することができないのかと、質問する人がいるかもしれません。しかし、そこには近道はないのです。巨大な樫の木は、何年も前に小さなどんぐりから出発し、それが小さな新芽を出し、若木になったのです。若木が、一晩で大きな木になると決めることができるでしょうか? もちろんできません。木が若い時には、多くの危険、例えば干ばつなどにさらされ、そして木が成長すると、他の危険、例えば風や光などにさらされるのです。木は完全に成長するために、自然の法則に従わなければならないのです。同じ意味で、人生において、個人が従わなければならないある段階があるのです。個人は、家庭のために生きるようにならなければなりません。家庭は、社会のために生きるようにならなければなりません。社会は、国家のために存在します。国家は世界のために存在するのです。これらのものはすべて、神と神の心情のために専心することによって、調和を見いだすようになっていくのです。
個人が、一たび最高の公的段階に到達すれば、その人は、最高の個人的成就を見いだすのです。その人は自動的に、すべてのものは自分とかかわっていることを悟ることができ、努力しなくても、自分が宇宙の一部であると感じることができるのです。このような存在と共にあれば、皆さんには、何の矛盾も闘争もなく、環境との調和があるのみです。このような世界において、皆さんは、本当に自由であり、永遠の自由を享受することができると言うことができるのです。それが、私たちの人生の究極的目的なのです。そのような時に、皆さんは本当に自分が宇宙の中心だと悟るようになるでしょうが、しかし、自分で自分をそのような位置に押し出してきたためではないのです。皆さんがそこにいるのがふさわしいがゆえに、宇宙がその位置に皆さんを押し出すのです。
人々は心の中で、自分たちが宇宙においてそのような中心的位置にある運命にあると、かすかに理解してはいますが、大概環境の中にある他のすべての要素を否定することによって、その中心的位置を得ようとしているのです。彼らは目標に至る最短距離を行って、刹那的な満足感を得たいのです。もしだれかがただボタンを押して、自動的に調和した平和な世界を見ることができるのなら、なんと素晴らしいことでしょうか。しかし、それは不可能なことです。私は、60年前に私の道を出発し、全生涯、闘い続けています。今日においてさえも、闘いと旅は終わっていません。私は、その道を一歩進むごとに、その目標に近づいていることを知っていました。これが、多くの人々が私に従ってくる理由なのです。確かに、私よりももっと素晴らしい説教者がいますし、もっと居心地の良い教会もありますが、しかし、統一教会のメンバーはこのようないいことをすべてあきらめても、通訳を使わなければならない東洋人の話に耳を傾けるのです。それは、彼らがここで最も公的な人生を発見したからなのです。
人の価値は、その人のなした業績の種類で決定されるものではありません。動機、思考、心情が、皆さんの価値を決定するのです。皆さんの思考が100 パーセント公的目的であるときは、どんな扉でも開かれることでしょう。新婚カップルでさえも、最高の公的基準をもった人に、自分たちの家の扉を開きたいと思うでしょう。
アメリカの大統領が、皆さんの家に来ると約束したとしましょう。何が、そのことをそんなにも栄誉あることにするのでしょうか? 大統領は、私的個人として来るのではなく、その国の最も公的な立場にある、国家の長として来るので、それで大統領が来ることは、その人にとってとても名誉なことなのです。大統領は非常に公的な立場にいますが、神の世界では、さらにもっと公的な位置があるのです。神の観点から見て、最高に公的目的のために生きている人は、明らかに宇宙のすべての人々に迎え入れられるでしょう。この意味において、白人、黒人、黄色人の間には何の違いもありません。人種に関係なくすべての人々は、そのような公的な人の訪問を名誉に思うことでしょう。地獄と天国でさえも、自分の家の扉を開いて、公的な人を待つという意味においては同じです。最も公的な人は、たとえ通常はドアに鍵をかけてあるような所へでも、どこにでも行くことができるのです。この意味において、公的な人は完全な自由を享受するのです。
天の最高裁が私を弁護する
アメリカの最高裁判所は、最高で最終的な裁判所でしょうか? いいえ、天国には、別の歴史的な、優れた最高裁判所があり、そこでは神御自身が裁判官です。その法廷では、神と歴史が、文師は無実であるだけでなく、名誉ある人であると判決を下したのです。評決では既に、文師がどのような公的人生と基準に生きてきたかについて、結論に達しているのです。
大部分の人は、地上にしか裁判所がないと思っていますが、私は天の最高裁判所があることを知っています。地上にいるすべての人は、いつかは、天の最高裁判所に直面しなければならないのです。私には恐れが全くなく、正義の道は、常に勇者と強者のためにあるのです。皆さんは、神の最高裁判所の審判を通過することが、容易だと思いますか? 私は、皆さんが栄誉ある者として判決を受けるのを見たいのです。それで、私は皆さんをアフリカや南アメリカ、未開のジャングルに送るのであり、そこで皆さんは最高の公的心情をもって、公的目的のために苦労するのです。こういう意味において、私たちの生き方、私たちの価値体系は最高です。何ものも私たちに勝るものはないのです。
普通、裁判所に行かなければならないときは、だれでもとても気分が悪いものであり、もちろん裁判所に行く前に、素晴らしい朝の礼拝をしたりしないでしょう! 私に対する起訴が申し渡された時、私はアメリカ国外におりました。私は、戻ってくる必要はなかったのですが、しかし、私はその告訴問題に応対するために即座に飛んで帰ってきたのです。私の願いは、真の正義を勝利させることです。ですから私は、国家的レベルの法律を回避することができなかったのです。私は、すべての障害を越えていかなければならないので、このような告訴に敢然と立ち向かったのです。歴史を通して、正義の人は、同じ道を行きました。私は、正義の旗が掲げられるためなら、どこへ行こうとも、たとえ牢獄に行こうとも構わないのです。私は、決して孤独だと思うことはありません。なぜなら私は、歴史を通じて苦悩し、迫害を受けてきた正義の人々と共にあるからです。神の関心は、常にそのような正義の立場に向けられているのです。
たとえ、どんなことであろうとも、決して自分のために弁解してはなりません。あごを高く挙げて、正義の道を歩み、強く、雄々しくありなさい。たとえ私が皆さんの中にいなくとも、きょうの説教が、皆さんのこれからの人生の指針となるでしょう。たとえ、文師がもはやここにいなくとも、この説教の精神は、永遠に生きるでしょう。アメリカの正義心のある人々がこの道を選択し、私の教えを模範として従う時が来るでしょう。その時アメリカは、再び正しい方向に動いていくことでしょう。私は、現在私に反対しているアメリカ人に焦点を合わせているのではありません。私の道をたどるであろう未来の正しいアメリカ人のことを考えているのです。こういうふうに私はアメリカを見つめ、そして間違いなく、そういうことが起こるでしょう。歴史の審判のゆえに、彼らの人生が悲惨にならないようにというきょうの私の祈りは、私を糾弾する人人のためにあるのです。神よ、彼らを許し給えと、お願いしているのです。
皆さんは多くのことを忘れるかもしれませんが、このことだけは、決して忘れてはなりません。すなわち私たちは、公的人生を生きるように運命づけられており、このために生まれたということです。皆さんが公的善のために生きたかどうかの判決は、だれがするのでしょうか? 神が審判するのであり、神の審判だけが歴史を通して有効なのです。一人一人は、自分の全生涯の公的記録をつくっているのです。そしてそれは、最終的な天の法廷で判決を受けるために記録されているのです。
その法廷では、サタンが検察官であり、イエス様が弁護士なのです。そして、神が裁判官です。だれでも、最終的にはその法廷に呼び出されるのです。公的人生は、神の法廷での皆さんの最終的審判のための準備であり、皆さんが「無実」であり、宇宙の名誉市民とみなされるための土台なのです。皆さんの一日の一瞬一瞬の行為がすべて記録され、その最後の法定で審判されるのです。その判断の基準は、皆さんが公的目的のために生きたかどうかなのです。
公的人生を歩みましょう。きょうの説教を、次の言葉で締めくくりたいと思います。私の教えに本当に従う皆さん一人一人は、名誉ある者として判決が下されることでしょう。皆さんの公的人生は、全人類と来たるべき全世代のための、希望ののろしのように光り輝くことでしょう。私は、皆さんにそのような希望と光ののろしになっていただきたいのです。
神の祝福が、皆様にありますように。アーメン。