愛天愛国愛人
2. 国民学校時代
絵や文学に興味を持つ
国民学校(小学校)時代、私の成績は優秀なほうだったと思います。クラスで常に一、二番でした。しかし、いわゆるガリ勉のように勉強した記憶はありません。ほとんど唯一の勉強の場は教室でした。あのころ、私は授業で受けたことは全部その場で覚えるという構えで、授業に臨んでいたのです。ですから授業以外で勉強した記憶はほとんどありません。
私はむしろ絵を描くことに興味を覚えていました。よくは分かりませんが、満州の大自然に魅せられていたのかもしれません。しばしば画板を持って、野外に写生に出かけました。風景に見とれながら、絵筆を走らせていると、自然に人々が集まってきて、私を取り囲み、「これはすごい。独創的だ」と褒められたことが幾度かありました。そういう言葉が励みになっていたことは確かです。
また、よく詩を書きました。新聞に詩を投稿して、しばしば掲載されたことを覚えています。自分の心に感ずる自然の偉大さや、内面的な苦悩を素直な言葉で表現すること、そしてさらにそれが評価されることに、ある種の快感を覚えていたのかもしれません。
国民学校の高学年のころ、吉川英治の『宮本武蔵』という大河小説を耽読しました。貪るように読んだ記憶があります。そして、「よし、この宮本武蔵のような修行をして、人間として大成しよう」と自分に誓ったことがありました。武蔵の「剣禅一如」という考えに、幼いなりに、惹かれていたのだと思います。相手と戦いを交える時、自分の剣の先に自分の体が入ってしまう。相手には自分の姿が見えなくなる。我にもあらず、彼にもあらず。まさに彼我一体の境地なのです。こういう世界に大変惹かれていました。
そのころ、川端康成の『伊豆の踊子』などにも大変感激しました。私がそういう小説を読んでいるものですから、親もひどく心配して、国民学校の校長先生にそのことを訴えに行きました。次の日の朝礼で校長先生から、「久保木君、君は川端康成の小説を読みふけっていると言うけれども、まだ早い」と注意されたこともありました。
今考えると、私は多感で感受性の強く、その上少しませていた少年だったと思います。そんな多感な私が、感受性の基礎を作る少年時代に、満州の大自然に囲まれて生活できたことは、本当に幸せでした。私にとって、絵を描くことも、詩を書くことも、大自然に息づく大いなる生命との出会いにほかなりませんでした。満州の自然の神秘は常に私を圧倒しました。私はそれを表現せずにはいられませんでした。強い衝動が私に働きかけていたのです。
韓国人や中国人の友人が多かった
私が五歳の時、父は仕事の関係でソ連・満州国境に近いチチハルに移り住むようになりました。初め父は単身でチチハルに赴任していましたが、私の国民学校入学に合わせて、私たちも父のもとに行き、私はそこの国民学校に入学するようになりました。それもつかの間、父の転勤で西安(満州にあった)の国民学校に転校を余儀なくされました。この町は、奉天(現在の瀋陽)から少し入ったところに位置して、撫順の北側にある炭坑町です。旧満州で一番大きな炭坑町は撫順でしたから、西安はその次ぐらいだったと思います。
この西安の国民学校は、中国人も韓国人もいましたが、日本人の数のほうが圧倒的でした。約九割が日本人なのに、私はどういうわけか、韓国人や中国人の子供たちと馬が合い、友人のほとんどは、日本人ではなく韓国人や中国人でした。
当時、中国人の学校もありましたが、ハイレベルの家庭や高級役人の子弟は、日本人の学校に来ていました。彼らの中には、立派な商売を営んでいる家庭もあり、私たち日本人の家庭よりはるかに裕福でした。私は、よくそういう家に遊びに行ったことを覚えています。
父の影響
私が韓国人や中国人と全く壁のない付き合いができたのは、父の影響だと思います。前述のように父は小さいころ、韓国で両班の方の世話になりました。学校にまで行かせてもらい、とても恩を感じていました。
父は銀行員でしたので、韓国人にはしょっちゅう銀行の金を貸してあげていました。人情家だったのです。ところが、相手は返さない。返せなかったのかもしれません。それで、父は律義な人間でしたから、自分の給料の中からそれを銀行に返していました。
私は父と母が喧嘩したのをほとんど見たことがありません。しかし、韓国人に金を貸したことに対してだけは、母は父に文句を言っていました。「何で、そういうあてにできない人に金を貸すのか」と言うのが、母の言い分です。父は取り合わないような風をしながら、「可哀想じゃないか。彼らに自分たちに近い生活をさせてあげられなければ、安心できないじゃないか」と言って母をたしなめていたのを記憶しています。父はそんな考えの人でした。
そんな父の姿に影響を受けたのだと思いますが、私は小さいころから、日本人とか中国人とか韓国人という意識は全くありませんでした。見下すことも、卑屈になることもありませんでした。心と心が通い合う同じ人間として、接していたように思います。
韓国の友人たちと五十年ぶりに再会
第二次世界大戦が末期に近づいてきたころ、私たち家族は北京に住んでいました。その時こんなことがありました。韓国の友人たちが、反共軍に入ろうと私を誘うのです。当時韓国人にはいろいろな情報が入ってきていました。それは日本人に入るものとは違った情報です。そのころ、中国共産党の八路軍という軍隊が抗日戦で活躍していました。この共産党の軍隊を討伐するために、いろいろな部隊が当時作られたのです。
韓国の友人たちが、その討伐軍に入ろうと誘うのです。日本軍から戦車一台を盗んで持っていけば大尉になれるとか、機関銃なら少尉だとか、小銃なら何々だという情報を友人たちは知っていて、それを盗んで共産党をやっつけようじゃないかと言うのです。私なども、その当時から、反共的気分でいましたから、すっかりその気になって、友人たちとともに共産党征伐軍に参加する予定でした。
ところが、その直前になって、日本人は日本人だけで結集せよという命令が出、日本人は天津から船で日本に帰るというのです。それで、そのまま私たち日本人は天津に行くことになり、友人たちとは別れざるをえなくなりました。
数年前、私はその時の友人たちとソウルで五十年ぶりに再会しました。これも本当に不思議なことですが、ソウルにいた私の知り合いが、一人の韓国人と仲良くなりました。その知り合いがその韓国人からいろいろ話を聞いてみると、私から聞いていた終戦当時の話ととてもよく一致するので、彼は私に連絡をしてきました。その韓国人と会ってみないかというのです。驚きました。会ってみると、なんと大陸で別れたあの時の友人だったのです。名前は鄭さんと言います。
その後、そのころの友人が続々と現れてきました。本当に懐かしいものです。別れた後どうなったかと私が尋ねると、「久保木がいなくなったので、みんな気力がなくなってしまった」と言っていました。彼らの中の一人は泣く子も黙ると言われた海兵隊の少将になっていました。ほかに大韓航空の支店長。もう一人は銀行員。これらの韓国の友人たちは、私が北京に四年ほどいたときの友人です。私はそのころの友人で、韓国人の友人のことは覚えているのですが、日本人の友人に関しては全く覚えていません。こういうことも、韓国と深い関係を持った父の代からの因縁だったのかもしれません。
満州での生活
ソ連・満州国境近くのチチハルという所は、九月の終わりころには凍り始めるような大変寒さの厳しい地域です。一年の半分以上は雪と氷の中で生活をしなければなりません。かといって、その生活は決して暗くて陰鬱なものではありませんでした。スキー、スケートはこの地域ならではの楽しみでした。スキーをするにも今のように道具が揃っているわけではありませんので、自分たちでスキーの板を作ったものでした。
スケートは特に徹底していました。学校のスケートリンクは十月には滑り始めることができました。学校に行くのに家から、もうスケートの靴を履いて出ます。授業中もそのまま履いています。そして、休みのベルが鳴ると一斉に走り出して、そのままリンクに向かいます。そんな風にして、朝から晩までスケートをして遊んでいました。母も、子供のころから満州にいたので、スケートをよくやりました。スケートの選手権大会で全満州一位になったこともあります。母はいつも颯爽と滑っていました。
満州の冬には、すべての生命が凍てつくような厳しさがあります。生存を許さない自然の迫力を感じます。氷点下三〇度を超えることもしばしばです。そういう中で、逞しくそして楽しく私たちは生活していました。冬が長く厳しければ厳しいほど、雪解けの春は待ち遠しいものです。最後の雪を溶かす春の陽光を忘れることができません。冬の長靴をしまい込んで、短い夏靴に履き替えて、春の日差しを浴びながら野原を駆け回った記憶が昨日のことのように瞼に浮かびます。
都会のような安逸な環境では、決して味わうことのできなかった自然の神秘と恵みを幼心に感じていました。その後の波乱に満ちた激動の私の人生において、満州で経験した厳しい自然環境での生活実感が大いに役立ったことは否定することができません。辛くて苦しい困難が長く続くような時、私は「やがて必ず春は来る」と素直に信じることができました。そして、常に春は確実に訪れたのです。