第四章 肉体の死と霊(魂)の行方
人間の死の構造
いったん地上に生まれてきた人間は、他のすべての生物と同様、必ず死ぬ運命にある。ある人は若くして死ぬが、現在では七、八十年生きる人が多い。それでは一体死ぬということはどういうことなのだろうか。
現在の医学では、人間の呼吸が止まり、脈搏がなくなり、瞳孔が光に反応せず開いてしまい、さらに大脳の機能が停止して脳波が出なくなった状態を指して、生命の兆候がなくなったと称し、その人間を死亡したものと断定する。
それでは何が人間を呼吸させ、脈搏を打たせ、瞳孔に光に対する反射的反応をさせ、大脳の機能を続けさせており、何がそれらを停止させるのだろうか。医学的にはこれらに対しても、それ相応の納得できる説明がある。例えば、心臓に重大な欠陥ができて、手術をしても修復不可能であるとか、何らかの理由で、大脳や呼吸中枢へ酸素がいかなくなるとか、その他生命の維持に特に重要な器官である腎臓や肝臓に重大な障害が起これば、生命を維持できなくなって、呼吸や脈搏が停止し、瞳孔が開いたままになり、脳も機能を停止して、脳波も出なくなり、医師から死を宣告されることになる。
ところがこのような状態になって、医師から死の宣告を受けた人の中にも、時として生き返る人もいる。イエス・キリストは死者を甦らせたという記録が残っているし、最近でも大手術を受けている最中に、呼吸、脈搏、その他医学的に重要な生命の兆候がなくなってしまって、手術を行っている医師から死を宣告され、遺体安置所に送られる途中で、急に息を吹き返して、医師を不思議がらせるケースもしばしば起こっている。一体何が起こったのだろうか。
生き返った患者の話によると、呼吸、脈搏、瞳孔の反応、脳波など、生命の兆候がなくなっていた間に、霊が肉体から抜け出して、霊界を訪れ、すでに死亡していた肉親たちの霊と会って話し合い、そのうちの誰かから、「あなたにはまだ地上で果たすべき任務が残っている。ここへ来るのは少々早すぎたから、お帰りなさい」と言われて、戻ってきて、自分の肉体の中に入ったために生き返ったという。これはいわゆる臨死体験で、こういう例は実に多い。これは霊が霊界へ行っている間でも、肉体と何らかのつながりをもっていたからである。
しかしこれをみても分かるように、人間が死んだかどうかは、医学的にいうように、重要な生命の兆候が残っているか、いないかによるのではなくて、むしろ霊が肉体とまだ何らかのつながりをもっているか、それとも完全に肉体を離脱してしまったかにあるというべきであろう。完全に離脱してしまえば、その人は死亡したといえるが、そうでなければ、生命の兆候がなくなっても、まだ生きているとみるべきであろう。
臨死体験と幽体離脱
このような臨死体験をした人は意外に多い。一九八二年にギャロップ世論研究所がアメリカの成人を対象に調査したところ、八百万人がこういう体験をしていることが分かった。これは実に二十人に一人の割合である。一方宗教哲学者のカール・ベッカー氏は、十人に一人ぐらいだとみている。
このように臨死体験をした人は最近だけでなく、原始時代からあったらしい。太古の原始社会の人々は臨死体験の内容を、素直に信じていたようである。
日本でも古いところでは、聖徳太子(五七四―六二二)の腹臣の部下であった大部屋栖野古の臨死体験の記録が残っている。丹波哲郎氏著『守護霊と霊界の謎』によると、それは奈良朝時代から平安朝の初期にかけて、薬師寺の僧侶たちがまとめた『日本霊異記』の中に出てくるもので、その要旨は、つぎのようなものである。
三十三年乙酉(六二六年)の十二月八日に難破(現在の大阪市難波)に住んでいた大部屋栖野古が急死した。遺体に変わった香りがしていたために、天皇の勅令で七日間安置することにした。三日後に彼は生き返った。そして妻子につぎのように言った。「五色の雲が虹のように北の空にかかっていた。私がその雲の上を歩いていくと、芳しい香りがただよっていた。見上げると、道の行く手に黄金色の山があり、それに近づくと、顔面がほてって熱くなった。するとそこになくなられた聖徳太子が立って、私を待っておられた。二人でこの黄金の山を登ると、頂上に一人の僧がいた。太子はこの僧に一礼して、『この人は東の宮(日本)から来た私の従者です』と言われた。そしてその場から引き下がると、太子は私に『すぐ家に帰って仏像を立てる場所を造りなさい。私は生前におかした過ちを悔い改めてから、日本に帰って仏像を造るから』と言われた。そこで私はもと来た道を帰っていき、ふと気がついたら生き返っていた」。
このように臨死体験をもつ人は、時代や社会や文化を越えて無数にいるけれども、ムーディー博士はその体験の内容に、つぎのような共通点がみられると指摘している。第一に、まず霊が肉体から抜け出して自由になったと感じた瞬間に、自分が死んだような感じをもち、第二に、苦痛から解放されて、平和な気持ちになり、第三に、肉体から脱けだした霊が暗いトンネルのようなところをしばらく通った後、明るいところへ出る。第四に、自分の霊が自分の肉体から遊離して、自分の(仮死状態の)肉体のすぐ上から、その体や、医師たちが手当てを行っている様子とか、あるいは肉親たちがそれを取り囲んで悲しんでいる様子などを見下ろし、第五に、すでに死亡している肉親や友人の霊に出会い、第六に、ある霊に、自分が行くべきところへ連れていってもらう。第七に、霊界の野原、河、建造物、庭園などをみせてもらい、地上の言葉では表現のしようもない美しさに心を打たれ、また出合う霊がすべて親切で愛情をもって接してくれるので、自分はその中に溶けこんで嬉しく、この上なく幸福な気持ちになる。第八に、そのうちにある霊が、あなたは地上でまだなし遂げなければならない仕事が残っているからと、地上へ帰ることを勧めるが、自分は霊界が余りにも居心地がいいために、帰りたくないといってごねる。第九に、ついに帰らざるを得ないような気持ちになってくる、というような経過をたどるのである。
さらにこれは共通しているとはいえないまでも、多くの霊が体験することがある。それは霊界で、何人かの協助霊たちが集っているところで、自分の一生のことが細大もらさずスクリーンのようなところへ大写しに写しだされ、それを見せられることである。つまり霊界では、その人が地上でしたことが、すべてどこかに記録されている。このように霊界には全人類の記録が蓄積されているエネルギー源があって、心理学者カール・ユング(一八七五―一九六一)はこれを集合的無意識と名づけている。また各人の霊も潜在意識の中に、すべてを記憶している。
こういう内容の話を科学者、殊に科学万能主義に取りつかれた医者が聞いたら、どうであろうか。いくら話すほうが真剣に話しても、医者はこの患者が単にたわごとを言っているにすぎないとばかり聞き流して取り合わないであろう。それはまだいいほうであって、中にはこの患者は頭がおかしくなったからといって、精神科医のところへ行かせたり、時には宗教的な幻覚にとらわれているとばかり、牧師のところへ回したりする。話すほうにしてみれば、非常にはっきりした体験で、生々しい記憶として残っていることである。それを話した結果、たわごととばかり軽くあしらわれたり、精神病患者扱いにされたり、牧師のところへ回されたりするのでは、たまったものではない。
いや、こういう態度で接するのは医者ばかりではない。家族や友人の中にもたくさんいる。こういう傾向はこの二、三百年間、科学が進み、多くの人々の心が科学に囚れるようになって以来、ますます強くなってきた。したがって多くの臨死体験者は、その体験をあまり話したがらなくなったのである。
ところが一九七五年秋『かいまみた死後の世界』という本が出版され、これがアメリカで長期にわたって超ベスト・セラーになっただけでなく、多くの外国語にも翻訳されて、世界の人々が読むようになって以来、臨死体験に対する一部の科学者、医者、一般の識者の態度はかなり変わってきた。
その著者はレイモンド・A・ムーディー・ジュニア(Raymond A. Moody, Jr.)で、彼はアメリカのバージニア大学で哲学を学んで博士号をとり、ノース・カロライナ州のある大学で三年間哲学を教えていたが飽き足らず、医学部へ入りなおして精神科の医者になった。このために彼は臨死体験をした人々と直接接触する機会に恵まれるようになり、それに興味を覚え、臨死体験をした百数十人の人々と面接した結果をまとめた。これがこの本である。
哲学者であり、科学者であり、また医者でもあった彼が、当時こういう本を出すことには、かなりの勇気が必要であったから、彼はできるだけ冷静に客観的にこれらの人々の体験を分析して記述している。面接された人々の大部分はアメリカ人であったから、彼らの多くはキリスト教の影響を強く受けていた。そしてその多くの例は、右に述べた九つに上る共通点をもっているが、多くの例外も含んでいる。
しかしこの著書が一般だけでなく、一部の科学者や医者に与えた影響はかなり大きく、このために臨死体験者がその体験を担当の医者だけでなく、一般の人々に語っても、以前ほど嘲笑されたり、気違い扱いされなくなったから、臨死体験の内容は以前よりは自由に語られるようになった。
そこへもってきて、一九八八年にはさきに述べたフロリダ州の精神科医ブライアン・ワイズ博士の『前世療法』が出版され、アメリカの医者、有識者の間では輪廻転生を信ずる人が多くなってきた。彼ら自身がこれを信じなくても、少なくとも臨死体験とか、輪廻転生ということに対して、真面目な態度で接するようになった。
そういう空気のところへ、アメリカでは臨死体験をした人たちの体験記がいくつか出版された。その中で特筆に値するものに、『Embraced by the Light』(光に抱かれて)と題するベティ・J・イーディー女史のものと、『未来からの生還』というダニオン・ブリンクレーとポール・ペリーの共著があり、両書とも広く読まれ、殊にアメリカの読者の間に霊や霊界や死や死後の世界に関する関心を高めたが、それと同時に臨死体験中に、その人の霊と肉体とがどのような関係になっているのかという疑問がクローズアップされてきた。
さきに述べたスウェーデンボルグはしばしば幽体離脱を行って霊界を探訪したが、一回するのに二、三日から、長いときには数日にも及ぶことがあった。その間彼の肉体は一見仮死状態に在って、生命の兆候もほとんどみられなかったという。
これらについて彼は『天界と地獄』の中でつぎのように述べている。「私の肉体の感覚に関しては、私はまさに死につつある人のように、無意識の状態におかれた。しかし私の内部の生命(霊的生命―筆者註)は、思考力も含めて、少しも害なわれていなかったから、私は何が起こっているかを感知し、記憶しておくことができた。それは丁度死から甦った人のようにである。しかし肉体的呼吸はほとんどなくなったが、もっと内部の霊の呼吸は続いており、これが肉体の呼吸に僅かながら結びついていた」。
さて現代医学では、大脳に十五分間も酸素が補給されなければ、大脳はとり返しのつかない障害を起こし、正常な機能を果たさなくなるというが、右に述べたような臨死体験の多くや、スウェーデンボルグの幽体離脱による霊界探訪の大部分は、優に十五分間以上に上り、ある場合には数日間にも及んでいるから、この間大脳には医学的には酸素が補給されていなかったわけである。ところが彼らが臨死体験、あるいは霊界探訪を終えて、その霊が元の肉体の中に戻ってきて、生命を復活させても、大脳には障害が現れていない。
臨死体験や幽体離脱では、霊が肉体から抜け出して霊界を訪れるといったが、霊が完全に肉体から離脱してしまったわけではなく、肉体と常に一種のつながりを維持していたといわれている。このつながりを保っているものは、一部の人が霊糸または幽糸と呼んでいるものである。これは霊的な糸であって、肉体の一部でも、物質的なものでもなく、エネルギーのようなものだと考えたらいいだろう。したがって科学的方法で捉えることはできない。つまり霊糸ないし幽糸が正常に生きている人の場合とは程度の差こそあれ、常に肉体と霊とのつながりを維持していて、霊が肉体に常に何らかの影響を及ぼしていたからこそ、肉体は呼吸、脈搏などをほとんど停止し、大脳の活動が休止しても、大脳は重大な障害を受けなかったわけである。
これを別の例で説明しよう。原子の構成をみると、プラスの電気を帯びた陽子の周りをマイナスの電気を帯びた電子が回っており、そうすることによって、原子は一定の性質と質量を保つことができる。ところが電子が少々その軌道を変えて楕円形を描いて回っても、それで原子は死んだわけではない。それは電子が楕円軌道のうちで陽子から一番遠いところに在っても、陽子は電子に対してプラスの力を及ぼしているから、原子は死なず、その性質を維持するわけである。
同様に臨死体験あるいは、幽体離脱をしているときには、肉体は霊に対して正常の位置を占めているのではなくて、いわば楕円軌道のかなり遠いところ、つまり霊から遠く離れたところに位置しているけれども、なお霊は肉体にある程度の影響力を及ぼしているからこそ、肉体は死なない。つまり霊と肉体とは依然結びつきを維持し、人間としての生命を保っているわけである。
それではどういう状態になったときに、人間(の肉体)は完全に死ぬのであろうか。その例としてもう一度原子の構造を考えてみよう。原子を構成しているプラスの電気を帯びた陽子が電子を引きつけておく力を全く失えば、電子は陽子の周囲を回る軌道から外れてしまって、陽子は裸になり、原子としての性質も質量も失ってしまう。つまり原子は死んでしまう。
人間の場合も同様に、主体である霊が肉体をまとっておく力を放棄して、肉体が霊から完全に離れて、霊糸によるつながりをももたなくなった瞬間に、それは人間としての性質を失って、その人は死んでしまうのであって、呼吸その他の生命の兆候がなくなった場合とは限らないといえる。
ただし霊の力が完全に及ばなくなってしまえば、原則として、呼吸、脈搏などは停止し、瞳孔の反射作用もなくなり、脳波もでなくなるから、医学でいう生命の兆候がなくなったときというのは、科学的にはある程度正しいといえよう。
ある程度という条件をつけたのは、それが常に正しいとは限らず、例外があるからである。
イーディー女史の『Embraced by the Light』(光に抱かれて)によると、ある人が例えば突然交通事故その他の思わざる事故に遭ってひどい外傷を受けた場合には、肉体が死んでしまう前に、つまりまだ心臓が鼓動し、脈搏も打ち、呼吸もしているのに、霊が急いで肉体を抜け出す場合があるし、火事にまき込まれたときも同様に、霊が早く肉体から抜け出して、肉体の苦悩を和らげることがあるという。こういう場合には霊が抜け出た後でも、肉体には惰性的に生命の兆候が残るのである。
これに類した別の現象もある。つまり脳波が停止して、死亡したはずであるのに、まだ呼吸、脈搏などが打っているという奇妙な現象で、これはいわゆる植物人間と呼ばれるものである。
最近医術が発達したために、四、五十年前だと、当然死亡したはずの病人が、生命維持装置をつけられて、人工的に呼吸を続け、栄養も血管を通して摂らされて、生かされている植物人間の例がしばしば問題になる。この場合には、この患者には人間としての意識や感情は全くなく、人が呼びかけても反応を示さない。
老練な医師はこうして生かしておくようなことはほとんどしないが、若い医師の間には、患者を死なせなかったということを手柄にしようとして、生命維持装置をつけて、植物人間になってもいい、生かしておこうという人がしばしばいる。
さてこうなると、本人は再び人間としての意識を取り戻す可能性はほとんどないだけでなく、その家族にしてみれば、いつまでもこのような状態におかれることは莫大な費用がかかり、心労が嵩むばかりであるから、当然のことながら生命維持装置を外してもらおうという希望を起こす一方、これは殺人になるのではないかという重大な倫理および法律上の問題に当面することになる。
この場合、霊的にはどう判断すればいいのだろうか。これは先の原子の例で言えば、陽子が電子を引きつけておく力を行使せず、その結果電子が陽子の周囲を回る軌道から離れた結果、原子が死んでしまったように、人間の主体である霊が自らまとっている被服である肉体をまとっておく力を放棄して、霊と肉体とが完全に分離してしまう、つまり人間として死のうとしているのに、生命維持装置という人為的な方法によって、人間の主体である霊の意思に反して、霊と肉体とを分離させないで、植物人間という状態にしたとみていい。こうして本来動物であるはずの人間が、植物になり下がったのであるから、生命維持装置を外しても、霊の意思に背くことにはならない。つまり殺人行為にはならないはずである。
つぎに少し横道に入って、復習のようなことになるが、さきにイエス・キリストが伝道の中でしばしば語った「生」と「死」の意味について、人間が神の管理圏にとどまっているか、そこへ戻ってくることを「生」といい、逆にサタン圏に入っていくことを「死」と述べた。このように新約聖書にあるイエスが説く「生」と「死」というのと、ここで論じている人間の死とは別の意味であるから、両者を混同すると、つじつまが合わなくなる。この「生」と「死」の概念が第六章「各霊界層へ入る資格」では重要な問題点になる。
ところでこうして人が死ぬと、通常その遺体は土葬にするか、火葬にして、元の土に戻すわけであるが、霊は一体どうなるのだろうか。
これに答える前に、先に臨死体験をした人々の多くが霊界で「あなたにはまだ地上で果たさなければならない任務が残っているから、もう一度戻りなさい」と言われて戻ってきたと述べたが、霊界では予めそのようなことが分かっているのか、あるいはそういうことが予め定められているのだろうか。この点について考えてみよう。
人間の運命
キリスト教の葬式のときに、牧師が好んで引用する聖書の句に旧約聖書の伝道の書第三章一節以下がある。それは「天の下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、……神のなされることは皆その時にかなって美しい」である。
例えば小麦を植えるには予め定められた時期があって、その時期を外ずせば小麦は予め定められたほどの実をつけず、したがって収穫も減るから、小麦にとっても不本意であろう。したがって小麦は予め定められた時に蒔き、定められた時に収穫するようにすべきであり、またそのように定められている。
人間もそれぞれがいつ生まれて、いつ死ぬか、また各人はどういう任務を託されているかは予め定められていて、それは天ないし霊界では初めから分かっている。しかも地上で誰がどういうことをしたかも、霊界では分かっており、そういう情報が集積されている。
また最初に天と地を創り、最終段階で人間を創られた創造主は、さきにも述べたとおり、すべてのものに原理、原則を貫かれており、一つの意図ないし目的をもって万物を創られたのであって、万物はそれぞればらばらに、気まぐれに創られたものではない。お互いに何らかの関係をもって創られているに違いない。それがどういう関係をもったものであるかは、現在の人類の知識ないし知恵をもってしては、到底計り知ることができないが、しかしわれわれは時としてその片鱗と思われるものに接することができる。それは占星学ないし占星術であり、四柱推命であり、手相である。
さて科学万能主義者でなくても、占星術とか、四柱推命とか、手相というような言葉を聞いただけで、その内容を少しも知ろうとしないで、頭から馬鹿にしてかかる人が多い。しかし占星術や四柱推命や手相の歴史は何千年と続いており、その間に様々の歴史や文化のふるいにかけられながらも、いまだに残っているところをみると、感情的に拒否できない、何か真実なものがあるに違いないのである。それだからこそ、現在でもこれらは洋の東西を問わず、一部で盛んに行われているのである。
占星術にしても、四柱推命にしても、ある人、あるいはある国家の生年月日と姓だけで、その人ないし国家の性格や運命を占うものであるが、よく当たる場合が意外に多い。例えばアメリカで発行されている雑誌『占星術』(Horoscope)は一九八六年一―二月号で「大変化を予想させるソ連の占星」と題する論文を掲載している。この論文は一九一七年の革命につづいてレーニンらがクーデターを起こして権力を握り、ソ連を建設したのが同年十一月七日であったことから、その日の天体の図表として、さそり座、しし座、水がめ座などの中に、もろもろの惑星が占める位置からみて、ソ連の地位は不安定なものであり、かつ世界で最も強圧的な国家になっていることを指摘した後、冥王星(死または生まれ変わりを表す惑星)が、さそり座(ソ連の太陽を表し、ソ連の出生図表のかなめに当たる)の中に入ってくるために、ソ連は生まれ変わるか、死ぬかの時点に差しかかるとして、ソ連の崩壊をその四年も前に指摘している。当時ソ連の崩壊を予想した評論家は極めて少なかった。
生年月日についても、生まれてくる子供が自分で勝手に決めることはできない。卵子が受精した後、二百六十六日という目安は一応あるけれども、予定よりも二、三日から一週間以上も早く生まれることもあれば、遅く生まれることもある。それはその人の運命に合致するように、霊界から何らかの力、眼にみえないエネルギーが働いたためではないだろうか。こういうとまた馬鹿にしたがる人も多いであろうが、馬鹿にするのなら、その前に働かなかったという証拠を示してもらいたいものである。先に何度も述べたように、霊界から何らかの力が働いたということは、科学的方法を超越した問題である。
名前にしても同様である。太郎にするか、一郎にするかは、「親である私が決めたのであって、霊界が決めたことではない」と言い張る人も多いであろう。しかしどっちにしようかと迷ったときに、太郎にするように仕向ける霊的な力がその人に働かなかったという証拠は、これまたないのである。
いずれにせよ、生年月日と姓名だけから、その人の性格、運命などを割り出す占星術にしても、四柱推命にしても、不思議によく適中するものであるから、人間の性格や運命も相当の程度までは予め霊界で、あるいはすべてを所管する創造主によって定められているのであろう。
手相もその人の性格、運命だけでなく、趣好、行動を常に反映するものであって、ある人が結婚したけれども、この結婚は極めて幸福な結婚であって子供が何人ぐらいできるかとか、あるいは逆に極めて不安定であって必ず離婚するということなどは手相に現れているから、手相の専門家にはかなりの程度まではっきり読めるものである。
日本の著名な手相研究家である門脇尚平氏のところへある人が手相を見てもらいに来た。この人は日本からブラジルへ移住することを決意し、日本にある家、屋敷まで売り払って、ブラジルへ渡航する直前にやって来た。手相をみた門脇氏は「あなたの手相には、あなたがすぐまた日本へ帰ってきて、日本に住むと出ていますよ」と言って、この人を半ば驚かせたが、事実そのとおりになったという。
科学的な考え方しか信頼しない人は、どう言われても、占星術や四柱推命や手相に対して興味を示そうとせず、頑迷に心を閉ざしたままでいるが、同時にその人は、この世界に在る霊的なもの、精神的なもの、宗教的なもののように、内面的な、つまり人間にとってよりはるかに重要な側面を理解できないまま人生を終えることになりかねない。
さてこのように霊界では、創造主によって、各個人がいつ生まれ、いつ死に、どんな任務を果たすように期待されているか、予め定められているから、スウェーデンボルグのように自分の意思によって霊界を探訪できる人は、自分が死ぬ一年も前から、自分が何年何月何日にこの肉体を脱ぎ捨てて霊界に移住するか、つまり死亡するかを知ることができ、友人や知人にもそれを知らせておくことができたのである。
このように各人は霊界では死ぬ日まで予め定められているのである。それが病気によるものであろうと、交通事故によるものであろうと、予め霊界で予定されたものであるから、われわれとしてはそれを尊重し、かつ甘受せざるを得ない。
死ぬということは家族や友人たちと離別することになるので、この点では悲しいことではあるけれども、霊の立場から見れば、ちょうどこれまで母親の胎内で生活していた胎児が、胎内から出て新しい世界に生まれ変わってきて、新しく両親、兄弟姉妹に迎えられるのと同様に、霊も古くなった肉体を脱ぎ捨てて、霊界に生まれ変わり、そこですでに亡くなっている身内の者たちにも会えるし、新しい友人に迎えられて生活することを意味する。霊界では予めその時期を知っていて、待ち構えているのである。ところがこれを知らずして、その時期が来る前に、それに反抗し、背く行為をする人もいる。それが自殺行為である。
自殺は大禁物
霊界では、誰がいつ地球上に生まれ、地球上でどのような任務を果たし、いつ死に、その人の霊がいつ霊界に来るかは、その人が生まれる前から予め決められていると述べた。したがって霊界の予定に反して、地球上でその人の死ぬ時が来る前に、その人を殺すことは、後に述べるモーセの十戒も、仏教の十の戒めも厳しく禁じているところであり、それは天に背いた大罪に値する行為である。
ところが中には、自分の生命を断つ人、つまり自殺をする人もかなりいる。最近では日本でもアメリカでも増えている。つまり天から決められ、与えられた尊厳な自分の生命を自ら中断させるわけである。自分の夫に愛人ができて、自分は踏んだり、蹴ったりのひどい仕打ちを受け、将来に対して希望がもてなくなったとか、末期的症状の病気にかかり、肉体的苦痛、精神的苦悩に耐えられないとか、老齢期に入り、身体の自由を失って病床に伏し、これ以上他人に迷惑をかけたくないとか、借金取りに追いまわされる貧困生活が嫌になったとか、学校で同級生からいじめられるが、相談にのってくれる教師も友人もなく、孤独に耐えられないとかで、いっそうのこと死んでしまったら、このような精神的、肉体的苦痛から解放されて、あとには何も残らない。親に対しては申し訳ないが。こうして、どういう方法にしろ、自殺をする人が後を絶たない。
ところがいったん自殺してみると、後に何も残らないどころか、自分には霊があったことが分かる。そして肉体的な苦痛からは解放されたけれども、神と天に背いた霊のほうは地獄で受け入れてくれる部族もなく、ただ地獄の底を独りでいつまでも歩くことになる。その上これまで経験していた以上の厳しい悲惨な試練を受けなければならない。自殺して初めてこういうことが分かるが、そのときはもう遅い。死んでしまったら、元へ戻れないからである。このために自殺した霊は例外なく後悔している。これは自殺した人の霊と接触した霊能者たちが等しく認めるところである。
それだけではない。自殺した人の霊の中には霊界で受け入れられず、行くところがないために、自殺した場所に地縛霊としてとどまっているものも多い。こういう地縛霊は時として幽霊になって、かつて生きていたときに、自分を侮辱し、自分に苦痛を与え、自分を自殺に追い込んだ人を呪って出たり、あるいは特に関係のない人に一時的に乗り移って、交通事故を起こさせたりする。
さらに残った身内のものを同じ運命に誘いこもうとして、交通事故で死なせたり、木登り中に足を踏み外させて転落死させたりすることがしばしばある。このように自殺者はその子供、孫、曾孫というように、一族三代にわたって累を及ぼすとさえいわれている。
アメリカでの例であるが、ある女性が熱愛する男性と婚約していたが、結婚直前に、その男性に別の女性が現れ、結婚の夢が破られて落胆のどん底につき落とされた結果、婚約者は自殺した。その男性は比較的まじめで仕事も熱心で将来を嘱望されていた。そして、新しくできた女性とデートをし、結婚への話を進めようとすると、自殺した女性が、新しい女性に見えるようにその男性の斜め後ろに幽霊となって現れて、結婚を妨害する。この男性にはこういうことが二度、三度と重なって起こったためについにどの女性とも結婚できず、その結果、自暴自棄になって大酒にふけるようになり、かつてはあれほどまじめで仕事熱心であったのに仕事も身につかず、ついに一生を棒に振ってしまった。こんな実例は枚挙にいとまがない。自殺した女性は、霊界で安住の場所も得られず、自殺した後悔も手伝って、こういう形で自分の恨みを晴らそうとしたわけである。こうして自殺者の霊は自ら負い切れない重い後悔をし、自殺直前の苦痛よりも耐え難い厳しい試練と苦痛を受けるだけでなく、残った人たちにも悪影響を及ぼすのである。
アメリカ、コネチカット大学のブルース・グレーソン教授は緊急精神科医で、特に自殺者の研究を専門にしている。『かいまみた死後の世界』を書いたレイモンド・ムーディー博士はその後の著書『The Light Beyond』(日本語訳『光の彼方に』)の中で、グレーソン博士の研究内容の一端を紹介している。それによると、自殺を計ったが死に切れず、しかもこのとき臨死体験をした人は、それ以後もう自殺をしようと思わなくなるが、自殺をしそこなった人で臨死体験もなく、したがって自殺したら、その後自分の霊がどういう目に遭うかということを知らない人は、その後何度でも自殺を試みると述べている。
その一例として挙げられているのが、どちらかと言えば余りできのよくない暗い性格の若い男性のケースで、彼は催眠薬を大量に飲んで自殺を計った。そしてまず肉体的な苦痛を感じ、死が近づいてきたという恐ろしい気持ちに襲われた。ついで心臓が停止した。ちょうどそこに医学の心得のある人が居合わせて、しばらく人工呼吸をして彼を蘇生させた。その間彼は臨死体験をしていた。
彼が語ったその内容はつぎのようなものであった。とてつもなく恐ろしい生きものが尖った爪の生えた毒手を伸ばして、彼をつかみにかかる。それはまさにダンテが描写した地獄そのものであった。そして多くの善良な人々の臨死体験に出てくるような、肉体から抜け出すとか、光に導かれるとか、身内の人たちに出会うとか、霊界の壮大さ、美しさというような積極的な良い面は何一つ出てこなかった、と。
この臨死体験をして以来、この男性は性格が別人のように明るくなり、人生を積極的に生きるようになって、もう自殺などしようと思わなくなったという。こういう好結果が得られた人もいるけれども、実際に自殺した人の霊は、この臨死体験の内容のような目に遭うのである。
このようにみてくると、何としても自殺はすべきではないのである。自殺者の多いのは中学、高校生。これについで老人である。日本でも中学、高校生の自殺が問題になっており、それを防止するために教師は生徒に向かって「命は大切なものである」ことを強調しているようであるが、それだけでは自殺防止の効果は余り上がらないだろう。それよりも人間の霊が霊界ないし創造主と常につながっていること、さらに自殺によって精神的、肉体的苦痛から逃避できるどころか、それ以上の苦痛、試練を受けなければならないことを説くほうが、はるかに自殺防止の効果が上がるだろう。
いずれにせよ自殺の第一の原因は、将来に対する希望を失ったことであり、第二は、現在の自分に存在意義と価値とを見いだせなくなったことである。つまり自分と創造主である神、自分と霊界とのつながりを見失い、浮草のような心境になった人である。
若い自殺者の自殺原因は前者である。つまり将来に対する希望を失ったという空白へ、自殺という動機が入り込むわけである。そこでこれを防止する方法は、さきに述べたグレーソン博士の研究結果が示唆している。つまりこれまでの多くの臨死体験者の体験内容を知らせ、この世での自分の生涯を霊界あるいは天の意思と結びつけ、天の意思に沿うように全うすれば、天国が待っているという将来への光りと希望とをもたせるとともに、自殺者の霊的運命が例外なく、この世の苦しみよりもはるかに厳しく悲惨で苦しいものであって、永久に浮かぶ瀬がなくなることをも警告すべきであろう。
一方老人の自殺原因の多くは自分の存在価値観の喪失である。多くの老人には病苦もあろうし、孤独感もあろう。さらに年老いて立ち居ふるまいや用便に人手を借りなければならないということは、人間としての尊厳を傷つけられる気持ちになるし、またこれ以上他人に迷惑をかけたくないという遠慮もあるであろう。そしてどうせ死期が迫っているのだから、病気によって肉体が受ける苦痛から一日も早く解放されたいという気持ちも働くことであろう。
しかしせっかく七十年ないし八十年間、地上で生活し、その間様々の苦労も経験したであろうし、他人に愛情をもって接し、奉仕もして、自分の霊格を高める訓練をも積み重ねてきたはずであるのに、ここへきて自殺することによって、高めてきた霊格を一挙に台なしにして地獄をさまよう結果を招くことは、全く惜しむべきことである。こういう老齢の方々は自分の先祖たちの墓参りをしたり、様々の供養をして、その霊を慰めてもきたであろうから、霊の存在はある程度認めているはずである。しかし自殺が自分の霊格を失墜させて、受け入れてもらえる霊界がなくなるだけでなく、自分の霊が地縛霊になって、他の人に害を与えることになるかも知れないことまでは知っていないであろう。
またどんなに高齢で、病床に伏している人でも、その生命は神ないし霊界から定められ、預けられたものであり、病床に在りながらも、自分では気づかない霊界から与えられた任務を様々の形で果たしているものである。それは自分が積極的に活動していなくても、自分が生きているだけで、周囲の人々に様々の影響を与えており、その影響が、周囲の人々を危険から救ったり、貴重な霊格向上の機会を提供したりしているのである。そういう隠れた任務があることを考え、また自殺が自分の霊に与える致命的な影響をも考えて、自殺を思いとどまらせるようにすべきである。
自殺と関連して、最近起こっている二つの問題に触れておこう。一つはアメリカで問題になっていることで、ジャック・ケボルキアンという病理学を専門にする医師が行っている自殺幇助の問題であり、もう一つはアメリカだけでなく、日本およびヨーロッパの一部の国々で問題になっている安楽死ないし尊厳死の問題である。
ケボルキアン博士は末期ガンその他激しい苦痛を伴う病気にかかり、治る希望がない患者が自らの意思と力で自殺できるような装置を考案し、これをすでに四十人の患者に利用させて自殺を遂げさせたもので、これが実施されたミシガン州で法律問題になっている。それは医者に自殺を幇助する権利が憲法上認められているのか、それともそれは殺人として起訴されるべき犯罪かどうかという問題である。
この装置は操作が非常に簡単で、重病患者でも自分で操作して、死をもたらす薬品が患者の血管に入ってくるとか、あるいは一酸化炭素が発生して、それで死ねるようになっている。
ミシガン州の検察当局は、この装置によってもたらされた死が、ケボルキアン氏の行為の直接しかも自然の結果であったということが証明できれば、彼を殺人容疑で告訴できるとしているが、一方ケボルキアン氏は「あれは生命を終わらせたのではなく、苦悩を終わらせたのであって、このほうが重点なのだ。州としては末期的症状にかかっている人が、避けられない死を早める権利に対して、とやかく言う正当な理由はない」と述べている。
しかしすでに述べたように、自殺行為自体が霊界ないし天が定めた予定に背く行為であるから、これは霊界ないし天からみれば重大な犯罪であることには間違いない。そしてその動機が苦痛から早く逃避させるという一見もっともらしいものであったとしても、ケボルキアン氏のしたことはこの犯罪を犯すことを容易にしたことであり、共犯者の行為だということになろう。
それでは医者としてこういう患者に対してはどうすべきかといえば、それは苦痛をできるだけ和らげるような医学的手当てを施すことであろう。しかしこれが少し行き過ぎると安楽死ということになる。日本でも一九九五年に問題になったケースがある。東海大学付属病院の医師が末期ガンの患者の苦痛を見かねた家族の依頼で、その患者に塩化カリウムを注射して死に至らしめたことに対して、裁判所はこの医者に執行猶予付きの有罪判決を下している。
アメリカのオレゴン州では、一九九四年十一月、このような安楽死法案を認めるかどうかの住民投票が行われた結果、投票者の多数がこれを認めることに賛成したが、これに反対した人々が、これを憲法違反であるとして裁判所に提訴したために、まだ実施されていない。
これは患者が安楽死を望んでいることを自ら二度以上にわたって明確に表明し、二人以上の医師が患者の症状を診て、治癒の見込みがないだけでなく死期も近いことを認め、さらに患者の苦痛を除去したり緩和する手を尽くし、他に打つべき処置がなく、また家族もそれに同意しているという条件がつけられている。この場合に医師が薬物を投与するなどの方法で積極的に生命を短縮させる、つまり死なせるわけで、これが安楽死と呼ばれている。
現在法律上安楽死を認めている国はオランダだけで、ここでは年に二千件以上の事例があると伝えられている。
これに対して尊厳死というのは、患者がいたずらに延命治療を受けることなく、自然に死を迎えようというものである。つまり末期的症状の患者に対して治療を行わない。要するに栄養の補給も行わないことによって早く死を迎えさせようというもので、これも考え方によっては安楽死であるが、安楽死の方は薬物などによって積極的に生命を短縮させるわけであるから、これを積極的安楽死といい、尊厳死のほうは消極的安楽死と呼ばれている。
さきにも述べたように、若い医者の中には、死なせなかったということを自分の手柄のように考えて、もう霊が肉体から抜け出して霊としては霊界へ行こうとしているのに、その肉体に生命維持装置をつけて植物人間にしてでも人為的に死なせず、したがって霊を霊界へ行かせないというのでは、その人を植物にまで格下げするわけであるから人間としての尊厳も何もあったのもではない。したがってこういう場合にはいたずらに生命維持装置をつけなくても、尊厳死ではなくて、むしろ自然死と呼ぶべきであろう。
さて、自殺の幇助にしても、安楽死にしても、肉体的苦痛というような肉体的な面ばかりを重視して、本来人間の主体である霊的な面を無視してしまっている。ここに自殺の幇助や安楽死などに殺人の容疑がかけられる根本原因がある。霊界から見るとなおさらそうであるから、その前に肉体の苦痛を霊的に緩和し、癒すことを考えるべきである。
霊魂不滅と霊の行方
人の霊ないし霊魂は不滅であるという考え方は原始社会時代からあるが、霊魂死亡とか、霊魂滅亡という言葉はない。古代ギリシャ、ローマ時代には哲学者、識者の間でも、霊魂不滅は真剣に論じられた。彼らは、肉体の死後、霊魂は地上で生活していた時の状態を一種の鏡に映したような状態で生き続けると考えた。ユダヤ教の信者たちは、善良な人々の霊は肉体の死後、神の国に入って生活すると考えてきたし、ユダヤ教の流れを汲むキリスト教徒たちは、肉体の死後、霊は復活して、天国で生き続けると信じている。またイスラム教では、人々は地上で生活している間にどれだけ善行を積んだか、あるいは悪業を重ねたかによって、その人の霊は死後それに相応した所へ行って、その報いを受けると教えている。
一方仏教やヒンズー教では、肉体が死亡すると、その霊はいったん霊界へ行くが、何年か、あるいは何十年かの後には再びある肉体の中に宿って、地上での生活を送る、つまり輪廻転生すると信じている。そして地上の生活を何度か重ねて、その霊が永久に至福、喜悦の状態に入ると、もう輪廻転生をしなくてもいいようになると信じている。
それぞれの宗教がこういう考えを教える裏には、それぞれの宗教が少しでも多くの信徒を増やしたいという気持ちも隠されていることであろう。
このように多少なりとも宗教心をもっている人たちは、霊が死と同時になくなってしまうものではなくて、一般に霊界と呼ばれる霊だけが住む世界へ行って生き続けるものと信じている。いや、このように信じる人々は自ら宗教心をもっているといったほうが正しいかも知れない。
ところが過去三百年間に、科学万能主義にとらわれた人々が増えてくると、こういう人たちは人間が肉体と霊とから成ることすら認めようとせず、人間は科学的方法によって捉えられる肉体だけから成っていると信じがちになった。
しかし実際はそうではない。肉体だけでは逆立ちしても、生きた人間にはなり得ない。肉体と霊とが結びついてこそ、初めて生きた人間になるのである。そして肉体と霊とが完全に分離してしまえば、その肉体自体に全く欠陥がなくても、死ぬのである。そして物質から成る肉体は土に還っていくが、霊のほうは不滅であって永久に死ぬことはないから、どこか、つまり霊界へ生まれ変わるのである。
さてさきに、植物、動物を含むすべての生き物は、虫けらもそうであるが、物質と霊ないし魂あるいは精が結合していると述べた。そして人間の場合と同様、その霊、魂、精が樹木や草の物質面、動物の場合には肉体と完全に分かれてしまえば、その生きものは死ぬのである。それではこれらの生物が死んだ後、その霊あるいは魂はどうなるのだろうか。
霊魂不滅という場合には、人間の霊のことを指しているのであって、他の生物の霊は原則として、含まれていない。したがって人間の霊はいずれ霊界へ行って永遠に生存し続けるけれども、動物、植物の霊ないし精は極めて希薄なものであって、死とともに消えてしまうといわれている。スウェーデンボルグもこのことについて『天界と地獄』の中で、「人間の霊は動物の霊と違って、神の流入を受け入れられる部分があって、この部分を通して、神は人間をご自分のほうへ高め、ご自身と結びつけようとされているが、動物などの霊にはそのような部分がないから、神とは直接関係がなく、したがってその霊は肉体の死とともに滅びてしまう」と述べている。
したがって霊界へ行くのは、原則として人間の霊だけである。それも元をただせば、「神が自らの息を人間(だけ)に吹き込まれた」からであって、これによって人間は他のもろもろの生物とは基本的に異なる生物になっているのである。