第六章 各霊層へ入る資格
胎児は二百六十六日間、母親の液体で満ちた胎内で成長した後、それとは全く環境の違う空気で満ちた世界へ生まれてくる。したがって胎児はこの二百六十六日間に、空気の中で生きられるような体をつくり上げておかなければならない。それが十分できていない子供は、出産後間もなく死亡するか、あるいは自力で生きていけないために、病院で特別の保育器に入れられて手当てを受けなければならず、それでも一年以内に死亡することが多い。
人間が死亡すると、その霊はこれまで自分が支配していた肉体を脱ぎ捨て、霊界へ行って、永遠に生活する。地上での人間としての生活と、霊だけになって送る霊界での生活との間には、液体と空気との違いよりも、もっと大きな違いがある。ところが霊魂は不滅であって、地上の生活から霊界の生活へ移っても、霊界に適するように十分成長していなかったからといって、死滅することはあり得ない。十分成長していなければ、十分成長していない霊たちだけを収容する霊界層があって、そこへ行く。
霊界は、霊にとっては、自分が永遠に住むところであり、いったんある霊界層のある部落に落ち着いたら、その後自分の意思で勝手に移住できないのが通例であるから、どの霊も最初から最も平和で、最も幸福で、最も有意義に生活できるところへ行きたいと願うのは当然のことである。それは今さら言うまでもなく、第五章でみた上層天界である。
ところが上層天界へ入るには、一定の条件ないし資格が必要であって、その条件ないし資格は、その霊が地上で人間として生活している間に、自分で身につけなければならないのであって、死後精霊界へ入って、どの霊界のどの層へ行くかという場合に、コネとか、賄賂などは、全く論外である。
それでは人間として生活している間に、どういう目標を立て、どのようにしてその条件ないし資格を身につけたらいいのだろうか。
この問題に入る前に、スウェーデンボルグがかつて霊界探訪をしたときに、非常に古くから霊界に住んでいて、霊界のことなら一番よく知っているいわば霊界の主のような霊に会って聞いた話を紹介しておこう。スウェーデンボルグはこの霊界の主が霊界に入ったのは何万年か、あるいは何十万年か前のことだといっているから、いわゆる人間が地球上に出現した直後ぐらいのことであろう。
この太古の霊がいうのに、彼は何万年か前に天界を影のようにさまよい歩く数人の霊たちを見たことがあったが、彼らは普通の霊たちと違って、常に数人が一緒になっていた。しかも彼らはまだ地上に生きている人間の霊であるのに、一時的に肉体を離脱して人間界を離れ、しかも精霊界も素通りしてきた様子だった。実は彼らは近いうちに大洪水に見舞われて死ぬ運命にある人間たちの霊で、彼らが近く来る天界の様子を予め見ておきたいとのことであった。果たせるかな、その後間もなくエジプトでナイル河が氾濫し、家も畑も押し流され、何万という人々が死亡したために、彼らの霊が一度にどっと霊界に入ってきたという。
この太古の霊はさらに話をつづけて、「初めに天界に現れた数人の霊たちは、特に霊的開眼が進んだ者たちであったから、洪水による死を予感して、彼らの霊が一時肉体を離脱して、天界に現れたものであった。これに関連していえることは、人間界と霊界との関係が時代によって随分変わってきたことである。太古時代の関係は黄金時代とでも呼ぶべきもので、ついで白銀時代になり、それを経て青銅時代になったが、現在は鉄の時代になっている。この数人の霊たちのような例は、黄金時代はもとより、白銀時代にもしばしばあったけれども、鉄の時代に入った現在では全く絶えてなくなってしまった」と。
黄金時代から白銀時代にかけての太古の人間は素直な心をもっていて、心を神に向けて常に開いて、宇宙や霊界のことを素直に受け入れて生活していたから、霊的な生活を送っていたといえる。ところが現代の人々は世俗的なこと、物質的なこと、さらには外面的な知識や学問などに重要な関心を寄せて、霊界や霊的なことを素直に受け入れなくなってしまった。世俗的、物質的、表面的なことは霊的にみれば程度の低いことであって、こういうことに心を奪われる余り、霊界のことから遠ざかってしまった。霊界に対する人間の関心がこのように変遷したことを、この太古の霊は、黄金時代から白銀時代、そして青銅時代を経て、鉄の時代と表現したのである。このために現在では、死後上層天界へ行ける霊は非常に少なくなったそうである。
さて太古の霊がいった「現在は鉄の時代」という現在は、スウェーデンボルグの時代を指して言ったわけである。彼は一七七二年に死亡している。つまり科学万能時代に入って百年ほどたったころである。ところがそのころと、それから二百年以上たった現在とを比べてみると、人々の関心、生き方はさらに大きく変わってきており、一層物質偏重の科学万能主義に落ち込んでいる上に、ここ三十年ぐらいを見ると、殊にアメリカ社会ではリベラリズムという風潮が世を圧し、何が何でも自分の権利を主張し、肉体的欲求を追い求めるフリー・セックスや麻薬の時代に入っているから、現在は恐らく鉄よりさらに下がった鉛か石の時代とでもいうべきであろうか。
霊格の高さ
特に科学万能主義時代でなくても、科学は言うまでもなく、自然、物質という表面的なものを重点的に研究するものであるから、人間の霊も物質的、肉体的な面ばかりに興味と関心を集め、霊的、内面的なものから遠ざかる傾向が強くなってきた。つまり肉体的、物質的、表面的な食欲、性欲、知識欲、蓄財欲、名誉欲、権力欲、支配欲のような欲求を満足させようとする余り、神を崇い、隣人を愛し、義務を優先させ、他人のために犠牲になるというような霊的、精神的、内面的な面がおろそかにされるようになった。
これに反して太古の人々は素直な心で霊的なものを受け入れ、霊的なものに敏感であったから、霊は肉体を厳しくコントロールしてきた。したがって霊格も高かった。こうして彼らは常に霊界と相通じ合うものをもち、霊界に根をおろしていたが、科学万能主義時代の人々は肉体的、物質的なものを優先させ、霊的なものを軽視ないし無視しているから、霊界と相通じるものが少なくなってしまったのである。
これでは上層天界へ入ることはおろか、中層天界へも入りにくくなる。それではどうしたらいいのだろうか。それにはまず第一に、心がけを変えて、外面的、表面的なものに対する興味と関心を極力抑えて、内面的、精神的、霊的なものに対する関心を深めるとともに、それを実行に移す以外にない。
霊界では霊界の太陽の熱と光と霊流とを受けて、霊たちが命を続け、知性を働かせているが、霊界の太陽は言い換えれば、創造主である神の愛であって、上層天界ではそれが最も強くかつ豊かであり、中層、下層へと下がるほど、その程度は減少していくから、上層天界に入りたいならば、神の強く豊かな愛を全面的に受け入れられる資格を身につけておくこと、つまり天界の太陽の光と熱を受け入れられる素質を身につけ、愛の人間になっておくべきである。
エデンの園におかれたアダムとエバは神の命令に背いて、善悪を知る木の実を食べた。その直後、神がエデンの園に姿を現したときに、アダムとエバは、神の前に立つことができず、自ら木の陰に身を隠した。そしてエデンの園から追放されることになったのである。
つまり神の命に背いて霊格を下げた二人は、パラダイス(エデンの園)である上層天界の太陽の光と熱と霊流、つまり強い神の愛に耐えられず、居心地が悪くなって、自らそれを避けて、木の陰に、つまり上層天界以下のところへ身を隠したわけである。
エデンの園時代からかなり下がって旧約時代になると、時代も文化的水準も社会も変わってきたから、神の命令は「善悪を知る木の実を取って食べてはならない」という表現から変化して、モーセの十戒という形をとってくる。さきにも述べたようにモーセの五書は旧約聖書の中でも、特に一語一語に至るまで神の言葉を伝えたものだと信じられており、十戒はその中の出エジプト記に出てくる。これは神がモーセを通して、イスラエル民族ひいては人類に与えた戒めである。
モーセ五書の中には合計六百十三の戒律があるが、このうち二百四十八が……すべしという積極的戒律で、三百六十五が……すべからずという消極的戒律の形をとっているが、十戒はその中でも最も基本的で重要なものである。仏教にもこれに類似した教えがあって、仏僧を志す人はこれを遵守するように何度も教え込まれる。これも十の戒めから成るので、仏教の十戒と呼んでおこう。それではまずモーセの十戒の内容をみてみよう。
モーセの十戒は今から約三千二百年ほど昔、モーセが当時エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエル民族を率いてエジプトから脱出する途中、シナイ山の山頂で神から直接受けた戒めで、その内容はつぎのとおりである。
一 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
二 あなたは偶像を彫んで、それを拝んではならない。
三 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
四 安息日を心に留め、これを聖別しなさい。
五 あなたの父母を敬いなさい。
六 殺してはならない。
七 姦淫してはならない。
八 盗んではならない。
九 隣人に対して偽りの証言をしてはならない。
十 隣人の家を欲しがってはならない。また隣人の妻、男女の僕や召使い、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない。
右のうち一から四までは霊的生活に関する法則であって、人間の神に対する態度ないし関係を規定したものであり、五は親に対する態度を定めたものである。しかしあなたは父母を敬いなさいというのは、同時に父母が子供から敬われる人間であるべきだという意味を暗示したもので、これに七までを含めた四つは市民生活に関する法則である。
また六から十までは、人間の住む社会が正しく、平和で、かつ円満なものであって、人々が幸福に暮らせるように、人が隣人に対してとるべき態度を定めたもので、このうち八から十までの三つは道徳生活の法則である。
この十戒は現在でも立派に生きている。殊に一九六〇年代にアメリカでリベラリズムの風潮が強まり、悪霊が働く余地が増えてきた時代では、なおさら真剣に受けとめなければならないものである。
一方仏教の十戒はお釈迦様以来伝えられている教えであって仏教では仏祖正伝と呼んでいるが、戒めの形をとっているところから仏戒とも呼ばれ、仏門に入る人は師匠から厳しくこの戒めを教え込まれる。これは僧侶が自らの戒めとして守ることを自分に誓うだけでなく、他人にもこれを守らせるというものである。
それは
一 人をはじめあらゆる生きものを殺してはいけない。
二 人のものを盗んではいけない。
三 道ならぬ愛欲を犯してはいけない。
四 偽わりの言を口にしてはいけない。
五 酒に溺れて、心身を乱してはいけない。
六 他人の過ちを責め立ててはいけない。
七 自分のことをほめそやしたり、他人のことを悪くいってはいけない。
八 物品をもってするにせよ、心をもってするにせよ、施しを惜しんではいけない。
九 怒りのあまり、自分の平常心を失ってはいけない。
十 仏、法、僧の「三宝」を汚したり、不信の念を起こしたりしてはならない。
このようにモーセの十戒と仏教の十戒の内容はほとんど同じだといっていいくらい似ている。そしてそれは宗教、宗派を越えて、人間が平和に、幸福に、有意義に地上で生活するためだけでなく、人間一人一人がその人格および霊格を高めて、死後天界(天国)へ入るために厳守しなければならない基本的な戒めであって、それに背いたら、その人格、霊格は落ちて、アダムやエバと同じ運命をたどることになる。
仏戒の表現は極めて平易で、誰にでも分かるが、知らず知らずのうちに、これを犯している人が随分多い。例えばその六には、他人の過ちを責め立ててはいけないとあり、七には、他人のことを悪く言ってはいけないとあるが、かなり善良だと自他ともに認めている人の中にも、この二つに背いている人が非常に多い。知人、友人と顔を合わせると、世間話の中で必ず第三者のことを持ち出して、その人の悪口を言わなければ気がすまない人が多く、人の悪口を言えば、自分の心の中で何となく優越感と満足感を覚える。悪口を言わなければ、何か重要なことを言い忘れたような物足りなさを感じる。こうして他人の悪口を言うことが身に沁みつき、その人の本性になっている。こういう人は殊に女性に多く、しかも西洋人よりも、日本人に多い。したがって仏戒にしても、モーセの十戒にしても、言葉の上っ面をなめるだけでなく、絶えず吟味して、反省してみるべきである。
問題は平素から素直な心をもって、霊の窓を大きく開き、神ないし霊界に根をおろして、霊格を高めておくべきであって、このことは特定の宗教とは関係がない。スウェーデンボルグも指摘しているように、霊界に入ることと特定の宗教との間には全く関係がない。
彼によると上層天界、つまりパラダイスには数万年ないし十数万年前の太古の人たちの霊がたくさんいるが、このことをみても、太古の人々がその心を素直にし、霊的なものに大きく心の窓を開き、霊格を高めていたのであって、宗教らしい宗教は当時なかったから、宗教と関係がないことが分かる。
こういうとある特定の宗教に熱心な人の中には不満に思われる方も多いであろう。またキリスト教信者の人が臨死体験でみてきた霊界、霊界で会ってきた霊たちと、仏教信者の人のそれとの間にも、相当の違いがある場合が多い。それは、クリスチャンはクリスチャンとしての予備知識をもち、特にそういう観点から天界をみるので、天界でキリスト教に関係がありそうなことが眼につき易く、またイエス・キリストに会えるという期待感から、イエスと会ったという人が多い。
同様に仏教徒は仏教徒としての関心をもって、霊界の様々なものをみるから、そういうものが特に眼に入り易く、またお釈迦様に会えるという期待感から、お釈迦様に会ってきたという人が多い。
キリスト教は愛の実践という動的な面が強いのに比べると、仏教は座禅を組んで、自分の心から雑念を追い払って悟りを開くという静的な面が強い。したがって両者の眼に映る霊界も、それぞれの特徴を示す。しかしそれは眼に映るということだけであって、実際の天界は同じ一つのもので、それぞれ異なる面をみてきただけの違いである。
われわれが住むこの世界には様々の宗教があり、また一つの宗教の中にも、多くの宗派がある。宗教家の中には、それでも満足できず、自分の権力欲も手伝って、新しい宗教、新しい宗派をつくろうという人がいるから、いつになってもいわゆる新興宗教は後を絶たない。その上世相が悪化すればするほど、新興宗教も雨後の竹の子のように増える。そして指導者である僧侶や牧師は、一人でも多くの信者を集めようとして、日夜努力するし、集まってきた信者に対して、こういうことを信じ、守れば、死後霊は天国へ行くとか、極楽浄土へ行くが、守らず、それに反すれば地獄へ行くと力説して、彼らを離脱させないようにする人もいる。
新興宗教というものはできて年月が余りたっていないから、時代、社会、文化の批判ないしふるいに余りかけられていないのと、宗教であるために、信者はえてして教祖に対して正常な批判力、判断力を失ってしまって、彼のいうことを絶対視してしまう危険性がある。一方絶対視された教祖の中には、自分が神か神の側近でもあるかのような錯覚に陥って、そのようなふるまいをする人もいるから、余程冷静に客観的に判断しなければならない。スウェーデンボルグもこの点について『天界と地獄』の中で警告している。
このような例は枚挙にいとまがないほどあるが、世間をひどく騒がせたアメリカの例を一つと日本の例を挙げておこう。
アメリカではディビッド・コレシュという二十歳代の男に率いられた新興宗教団体が一九九三年四月十九日、かなりの武器を集めてテキサス州ウェコに立てこもったところを、連邦検察局およびアルコール・タバコ・火器取締局の職員に包囲、攻撃された結果、彼らは本拠に放火して、教祖はじめ八十名近くが死亡する事件が起こっている。日本では地下鉄サリン事件で有名になったオウム真理教の例がある。
歴史を経た宗教には時代に合わなくなった教義もあるけれども、歴史やもろもろの文化のふるいにかけられ、長年の批判に耐えて残ってきているだけに、危険性も少なく、真理に通じるものがあるので、安心できる。
その一方で死後、霊が三途の川を渡るとき閻魔大王が待ち構えていて、地上生活で嘘をついた霊からは、その舌を抜き取るとか、ここで天国へ行くか、地獄へ行くかが決められるということなどが、おとぎ話のように伝えられている。しかしスウェーデンボルグはじめ、多くの、殊にキリスト教の影響を強く受けた人の臨死体験の中には、このおとぎ話のような経験をしたり、光景をみた人は一人もいない。仏教徒の中には、確かに三途の川を見たという人もいる。
このように霊界へ入るに当たって問題になるのは、その人が地上でいかに霊的であったかということであって、宗教的である必要はない。
宗教的というのは、ある宗教あるいは宗派に属していて、その指導者である牧師ないし僧侶の教えを忠実に守るとともに、その教会やお寺の行事に積極的に参加する状態をいうのであるが、霊的であるというのは、自分の心、良心、魂、つまり霊の命ずるところを聞き、それに従って生きることである。このことは反面で肉体的、物質的、表面的なことを抑えることである。
この世に住む人々の中には、肉体的な欲望、物質的な欲望、巨万の富を築こうという欲望、世間的な名誉欲、権力欲、支配欲を満たすことばかりに狂奔しているものがたくさんいる。
しかし言うまでもなく、その人が死亡し、その霊が精霊界へ行くときに、一生かけてためた富は一文も持参することはできない。精霊界へ行くときには地上で集めた物質的なもの、名誉、社会的な地位などは何一つ役に立たない。大邸宅や富などは、何一つ霊界へ持参できない。また権力欲、支配力にとりつかれて一国の大統領、総理大臣、大会社の社長になって、権力や名誉をほしいままにした人でも、そのような現世的、社会的地位や名誉は何の役にも立たない。
大統領や総理大臣や社長になるのはよくないという意味ではない。それが国家や国民に奉仕するため、つまり自分を犠牲にしてでも、人のために、社会のために尽くすという隣人愛に徹し、その結果、人から推されてその地位に就き、その後も奉仕の精神を貫いていれば、まだいい。
ところが歴史をみると、そうでない人が余りにも多い。現在の大国の大統領の中にも、権力欲からなったとしか思えない人もいる。また自分の権力欲を満足させるために、諸外国を攻撃して、大帝国を打ち立てようとした人もいる。ナポレオンやヒットラーなどがその例であって、彼らは、一時世界にその名声を轟かせ、権力をほしいままにし、歴史に名を残したけれども、そうするために、何百万、何千万の人々の生命を奪い、住み家を焼き払って苦しめ、犠牲にしている。彼らはそうすることによって、彼らの霊格を著しく低下させ、とても霊界の太陽の光と熱と霊流に耐えることはできなくなったはずである。
またある大学の教授が新しい発見をし、それによっていろいろな賞をもらおうと、あるいは有名大学で難しい講義をしておろうとも、そういう発見や講義の内容は霊界ではすでに分かり切っていることであって、特に目新しいことではない上に、そのようなことは霊的にみれば皮相なことで、それによってその人の霊格が高まるわけでもない。したがって霊界からみれば、それは威張るに値することではないのである。
それとは逆にこの地上に生活しているときに、何ら特別の知識も地位も、権力もなく、また一時的に有名になった芸能人やスポーツ選手のように、ちやほやされることも全然なかった無名の庶民であっても、霊の窓を広く開けて、素直な気持ちで霊界と通じ、そして自分を犠牲にして他人を愛し、他人のために尽くした人の霊のほうが、霊界でははるかに高く評価され、尊重されるわけである。
前章で述べたように、天界における支配的な力は、万物の創造主に対する愛と隣人愛の二つである。これは人間の社会でも実施できることである。つまり社会的に高い地位、名誉ある地位につこうがつくまいが、人間社会で生きている間に、創造主に対する愛と隣人愛とに徹して生き、それによって自らの霊格を築き上げた霊が、上層天界に入る条件、資格を満たした霊であるといえよう。
逆に人間として生活している間に、地獄の支配的な力になっている自己愛と、表面的、世間的、肉体的愛にとらわれて生きた人の霊は、おのずから地獄へ行かざるを得なくなる。
人生は霊にとって修業の場
このようにみてくると、ある霊がどの層の天界あるいは地獄へ入るかは、その霊が人間として生きている間に、霊界および霊的なことにどれだけ心を開いてきたかということと同時に、その霊の霊格が、どのくらい高いかによって決まるが、霊が霊的なことに対して素直に心を開いていたか、どれだけの霊格をもっているかは、その霊が人間としてこの地上に生活している間に決まるのであって、いったん霊界へ行ってしまえば、もっと上層の天界に行きたかったと思っても、もう遅いのである。つまり地上で人間として生活している間だけが、将来霊となってどの層の天界に入っていくか、どの層の地獄へ落ちていくかを決定する修業の時であり、訓練の時である。
太陽の熱と光と霊流の強い上層天界へ入れる資格は何といっても、最も強い神の愛を受け入れることに耐えられるかどうかで決まるのである。そのためには霊自体が地上で生きている間に、常に天界の善霊たちの影響を受け、天界と結ばれるとともに、創造主に対する愛と隣人愛とを実践しておかなければならない。
人間は不完全なものであって、応々にして過ちも犯す。そして神の命令、モーセや仏教の十戒に反することもある。しかしそれで悲観してしまう必要はない。神は愛の神であると同時に、寛容な神であり、慈悲の神であり、赦しの神でもあるからである。しかし神が赦しの神だといって、無条件に赦してもらえると考えて、安心しているのは間違いである。
赦しの神も無条件に赦すはずはないのである。聖なる神は罪と妥協しないからである。そこで本人が罪ないし過失を犯したら、このことを自覚した上で、悔い改め、そしてその償いをしなければならない。そうすれば神は赦してくださるのであって、悔い改めもせず、罪の償いもしないものを赦すことはないのである。しかもその償いはこの地上で行うべきであって、いったん霊界へ行ってしまってからでは遅すぎる。
具体的な例を一つ挙げるならば、ある人が殺人という重大な犯罪を犯し、検察側から告訴されて裁判になったとしよう。ところが検察側は殺人の目撃者も、また殺人に使われた凶器も発見できず、一方被告側は腕利きの弁護士を立て、ついに最後まで殺人の事実を否認し続けた結果、無罪になったとしよう。
しかしこの被告は自分の肉体の記憶だけでなく、霊の記憶、つまり潜在意識の中でも、自分が殺人をした事実をはっきりと覚えているから、裁判で無罪になって喜んでも、良心が咎めているはずである。一方霊界では、殺人事件をはじめ、この人がしたことが一部始終記録されているから、この人は霊界をごまかすことはできない。その上この人は裁判で勝ったことによって、罪を自覚して、悔い改め、その償いをする機会を失ってしまっただけでなく、裁判で嘘をつき通したという、もう一つの重大な罪を重ねたことになったわけである。
つまり殺人という事実によって、この人は自分の人格、霊格を著しく下げただけでなく、嘘をつき通したということによって、さらに人格と霊格とを下げてしまう結果になった。これでは人格、霊格ともにゼロよりも、大きなマイナスになったはずである。
また弁護士の中には、自分が弁護する被告人が実際に殺人を犯したことを知りながら、それを隠蔽するどころか、裁判官や陪審員に誤った印象を与えることによって、被告の無罪を勝ち取り、内心弁護士としての自分の能力を自負して喜んでいる人が多いが、こういう弁護士も決して霊界をごまかすことはできず、そのような嘘偽の印象を与えて自分の霊格を下げたことになった。弁護士はあくまで真実を明らかにし、被告に対する罰を軽減してもらうことだけを考えるべきである。
おのずから決まる行き先
人間は生きている間に様々なことを考え、何かをしようと決意し、それを実行に移す。それは全部大脳皮質に刻み込まれるだけでなく、嬉しいこと、楽しいことを考えたり実行すると、体全体が嬉しく楽しい姿になるし、人を憎んで怒りを覚えると、顔面だけでなく体全体に憎しみや怒りが行きわたる。つまり人間は一つの有機体であるから、考えたり、決意したり、実行したことは、それがどんなものであっても、大脳皮質に刻み込まれるだけでなく体の末端にまで刻み込まれる。
このために、常に善良で、正しいことを考えたり、謙虚で感謝の気持ちをもって、そういうことを行動に現している人の顔は、おのずから温厚で謙虚なものになり、体つき、歩き方までがそのようになるし、常に威張り散らしたり、怒りっぽい人の顔つきはそのようになり、体全体にそういう雰囲気が自然にただようようになる。体の末端にまで、それが刻み込まれるからである。人相見や手相見がよく当たる理由はここにある。つまりそれが逐一、面相や手相や骨相にまで、刻み込まれるからである。
それと同時にそれは逐一霊界にも記録として残され、人の霊が臨死体験にしろ、死後にしろ、霊界へ行ったときに、生涯の回顧(ライフ・レビュー)として、大映しに映し出されることがある。したがって霊界では誰も、どの霊も、ごまかすことができない。
こうして地球上に住む人は全部、誰がどの程度創造主への愛や隣人愛を実践し、それを身につけてきたか。誰がどの程度自己愛を強くもち、世間的な、表面的な、肉体的な愛欲に溺れたか。誰がどの程度までモーセの十戒、仏教の十戒を忠実に守ったか。これらのことは、その人自身の霊もよく知っているし、霊界でも分かっている。
したがって、人が人間としての生涯を終わって死んだときには、その総決算はすでにでき上がっていて、それによって誰が天界のどの層に上がって行くか、あるいは地獄のどの層に落ちていくかが決まってしまっているわけである。
ところが時には、下層天界にしか行けないはずの霊の中に、上層天界に入ろうとするものもいるが、そのような霊は上層天界へ入っていっても、上層天界の太陽の光と熱と霊流がその霊にとって強烈過ぎて、耐えられず、結局居心地が悪くなって、本来その霊が行くべきはずの下層天界に落ちていくことになる。
またもっとひどい例で、地獄へ行くはずの霊の中に、下層天界でもいいからというわけで、下層天界に行くものもいる。ところがそのような霊は天界の太陽の光と熱に当たると、自分の本性が出て、他の霊たちには奇怪で、醜悪で、時には怪獣のようにみえる。したがって彼らも自らを偽り、天界を偽ってまで、下層天界にいることができなくなって、本来行くべき地獄へ落ちていくことになる。
地獄では地球上の太陽の光がかすかに通すところもあるが、天界の太陽の光も熱も霊流も届かないから、そこにいる霊たちはお互いに人間の姿にみえるから、この点ではごまかして天界にいるよりも、居心地がいい。
人生の目的
ここで人生の目的をもう一度明確にしておこう。地上の人生は七、八十年であるが、この間にその人の霊が肉体の死後、永遠にどのようなところに住むことになるかが決まる。つまり肉体というものは、霊が永遠の生命の中で、わずか七、八十年といういわば一瞬間着用している服のようなものであって、七、八十年たって服がぼろぼろになると、それを脱ぎ捨てるのであるから、七、八十年間の人生の主体はあくまでも霊である。
しかしこの間に、霊が成長し、霊格をつけ、それを高めていくためには、肉体も成長し、人格も高まっていかなければならない。つまり肉体の成長、発達は、それ自体が目的ではなくて、霊を健全に成長させ、発達させるためである。健全な精神は健全な肉体に宿るのであって、霊が主体であるから、肉体はどうでもいいというものではない。しかし肉体の要求を不必要に満足させて、食べ過ぎるとか、遊び過ぎるとか、寝すぎるとか、性欲を満たし過ぎると、かえって肉体の健全な発達を害なうことになる。肉体が不健全になると、同時に肉体をそうさせた霊にもそれが反映して、霊も不健全になる。
神の人間創造の目的は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」であって、神はこれを見て喜ばれることであった。つまり人間は社会的な生物であって、平和で安全で幸福に暮らせる人間社会を構成し、それを繁栄させていくことを創造主は願っておられる。そのためにはおのずから様々の規則ないし戒めが必要であって、その基本的なものの一つとして十戒が与えられているわけで、人間は最少限これを守らなければ、その霊格を高めることはできない。
さて先に、ぐれて人生が面白くなくなった若者の中には、親に向かって「人が頼みもしないのに、なぜ勝手に生んでくれたのか」と言って、親に食ってかかる見当違いがいることを指摘したが、右のように述べると、「神の創造目的がどうであろうと、それはわたしの知ったことではない。わたしは地上に生きている間に勝手にしたいことだけをし、楽しみたいことだけをすればいいのだ。戒めなど誰がつくったか分かりもしない堅苦しいことに縛られるのは嫌だ」という気持ちを起こす人もいるであろう。
しかし一つの会社をとってみても、その会社には設立目的があって、その目的を効果的に達成するために様々な規約ができており、社員はその規約を守らなければならない。ところが、「わたしはそんな目的は知ったことではない。そんな規約を守るのは嫌だ」という社員がいれば、その人はその会社という社会から辞めさせられてしまい、相手にされなくなってしまう。
会社でなくて団体でも同様である。ある団体へ入って、その団体の規約を守らなければ、いずれその団体から除名されてしまう。人間社会でも、その規範や戒めを守らなければ、人間社会から追い出されてしまう。
アフリカの自然動物園へ行くと、都会の動物園では到底見られないような生きた動物の生態が観察できる。そして猿、象、ライオン、その他多くの動物は常に団体をつくって行動している。団体をつくり、社会をつくることによって、より安全に、効果的に生きていけるからであるが、団体をつくることによって同時に一種の規則のようなものができており、それぞれそれを守らなければならない。
ところが時たま、猿が一匹だけで行動しているのを目撃することがある。それはその猿が団体の規則を守らないために、団体から総すかんを食って追放されたものであって、こうなると他の団体に入ろうと思っても、入れてもらえないために、一生独りで淋しく暮らさなければならなくなる。それはもう本来の猿らしい猿でなくなっているのである。
このように人間も人間社会の規範、戒めに従わず、勝手な行動をすれば、人間社会から追放されるが、それだけではすまない。その霊もそのような性質を帯び、いずれ霊界に行っても、同じようにどの部落にも入れてもらえず、独り淋しく永遠に暮らさなければならなくなる。
したがってそれぞれの人の人生は、神の創造目的に従い、各人が創造目的の一環であることを自覚して、人間社会の善良な一員でありながら、その人間社会をも健全に発展させていくことを心掛けていくべきである。
人間はいつ生まれ、どのような任務を与えられ、いつ死ぬかは、霊界で予め決められていると述べたが、その人がいくらじたばたしても、これはどうにもならないことである。しかし神は神の姿に似せて、人間に創造力を与え、自由を与え、同時に責任を与えられたのであるから、人間は与えられた自由の範囲内で行動し、その範囲内で最善を尽くしてその任務を全うし、それに対して責任をとらなければならない。人間が神の創造目的に合致した生き方、つまりキリストの言う「生」の生き方をすれば、天界に行き、それに背いて「死」の生き方をすれば、地獄へ落ちるが、それを決定し、実行する責任は、地上で生活している各人にあるのである。