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人間の正体と霊界との関わり- 3 - 7. 人間と霊との相互関係

작성자대태양/김현수|작성시간22.02.10|조회수570 목록 댓글 0

第七章 人間と霊との相互関係

 天界あるいは地獄へ入った霊は、地上で生活している人間とは全く没交渉になってしまうかといえば、決してそうではない。天界や地獄にいる霊の中には、地上の人間に重大な関心をもっているだけでなく、人間のほうは気づいていないかも知れないが、絶えず人間に働きかけ、影響を及ぼしているものもいる。その中には単に働きかけているだけでなく、重要な関係を、かなり長期にわたって結んでいるものもある。

 このように人間に働きかけ、影響を及ぼしている霊、あるいは長期にわたって関係を結んでいる霊の中には、善霊もいれば悪霊もいる。善霊の中には通常守護霊とか、協助霊と呼ばれる役割を果たしているものがある。一方悪霊には、地縛霊とか憑依霊などがある。

  守護霊

 守護霊というのはある人に常についていて、その人が危険に陥らないように守ってくれている霊である。守護霊になるのは大抵その人の身内あるいは先祖の霊であるが、終始同じ霊がその人の守護霊としているわけではなく、時々交替することがある。また必ずしも身内とか先祖の霊に限ったわけではない。子供のころ肉親も及ばないほど強い愛情をもって世話をしてくれた人が死亡した後、その霊が、たとえ血のつながりがなくても、その子供の守護霊になっている場合もある。

 守護霊も、霊であって、もはや人間ではないから、三次元の空間やこの世の時間の制約を受けない。このために自分が守護している人が今日、あるいは明日、どんな危険な事故にまき込まれて命を失いそうになるかを予め知っている。そういう場合に守護霊は、その人が事故にまき込まれないように守り、導いてくれるのである。

 具体的な例を挙げるならば、ある飛行機が墜落事故を起こして、乗員、乗客が全員死亡するということは、霊ならば予め分かっているはずである。その場合、守護霊が自分が守っている人に急用をつくらせるとか、その人を急に病気にさせて、その飛行機に乗せないようにするということがしばしばある。それは勘とか、第六感とか、霊感という形で本人に伝わってくる。そしてその人が霊の窓を十分開いた謙虚な人であれば、守護霊がさせようとすることを受け入れて、事故に遭わないですむが、我が強くて傲慢な人は概してこういう第六感とか霊感が働かないから、守護霊の意思に従わず、事故にまき込まれてしまう。したがって守護霊にしてみれば、その努力が無駄に終わるわけである。

 守護霊は一人の人に対して常に単数だとは限らない。霊界から見て、この人は特別に重要な任務を帯びていると考えた場合には、複数の守護霊がつくことが多い。複数といっても、二人や三人ではなくて、数十人の場合もあって、彼らは力を合わせて、その人を守ってくれるのである。

 またそれとは逆に、守護霊が全然ついていない人もいる。元来肉親が非常に少ないとか、性格的に内向性で孤独な人には守護霊がつき難い。これはその人にとっては不幸なことであるから、平素から性格を明るくし、人づき合いを良くしておくほうがいい。

 しかし自分は守護霊ががっちり守ってくれているから、何をしても安心だといって勝手に危険に近づいたりしていると、守護霊は嫌気がさして、懸命に守ってくれなくなる。自分の安全を保つ第一義的な責任は何といっても本人にある。しかし、守護霊にその危険を回避させてもらう手はずを整えてもらうためにも、平素から守護霊に対して謙虚に、感謝の気持ちをもち続けることが大切である。

 守護霊は事故からこの人を守ってくれるだけではない。本人の健康についても関心をもっていて、食事についても、こういうものを食べて、こういうものは控えるようにとか、酒やタバコは絶対にやめるようにというような希望をもち、それを何となく本人に伝えているが、本人にはなかなか分からない。しかし分からない人でも、こういうものは食べてはいけないとか、これ以上酒を飲んだり、タバコを吸ったらいけないということを、それとなく感じている。これは守護霊のおかげである。ところが肉体的要求に負けて、好きだからつい食べるとか、飲んでしまい、その結果、健康を害なってしまう。こうなると守護霊も嫌気がさして、それ以降は守護霊としての働きを鈍らせたり、やめてしまったりする。したがって守護霊にしっかりと守ってもらおうと思えば、やはり健康の維持ないし制約も、第一義的責任が本人にあることを自覚して、まず本人がその責任を果たすよう平素から自重、自制、努力すべきである。

 それでは身内の中で誰が自分の守護霊になっているのか。このことは誰しも知りたいところであろうが、本人には直ちには分からない。しかし守護霊は通常その人のすぐ斜め後ろについているから、優れた霊能者には霊視することもできるし、また守護霊の言うことを霊聴することもできる。

 ところがこれとは逆に、ある人を故意にこういう事故にまき込ませようという霊もいる。例えば一群のテロリストが、一九九三年二月、ニューヨークの百十階建てのワールド・トレード・センターを爆破したことがあった。その地下駐車場に爆弾を積んだトラックを乗り入れて爆発させ、その付近にいた数名の人々を死亡させた。その中には平素地下鉄でこのビルに通っているのに、この日に限って、自動車で行き、ちょうどその時間に地下駐車場に車を入れた途端に、事件に遭遇して亡くなった人もいた。それは運というよりも、多分に悪霊の仕業だといえよう。

  協助霊

 人間にはそれぞれ向き、不向きがあり、自分が得意とする分野、不得意な分野がある。例えば図画が生まれつき好きで上手な人、音楽、その中でもバイオリンが好きでたまらない人、科学が好き、物理学に特に秀でているなど様々である。

 そしてそれぞれの分野で世界的に認められた業績を残すような人々は、しばしば、その分野に向くような素質をもっているといわれる。特に若いころからこういう素質を発揮する人たちは、しばしば天才と呼ばれる。生理学的、あるいは解剖学的に、その人の大脳のどの部分が殊に大きく発達しているから、というような説明をする人もいる。中にはその人の家系にこういう分野で活躍した人がいたから、その素質を遺伝的に受け継いだのだという人もいる。

 なるほど音楽家の家系には、音楽で秀でる人が多いし、絵画の分野、科学の分野でもそういう傾向があるが、これにはまた環境も多分に影響しているのではないだろうか。音楽家の家庭に生まれた子供は、物心がつく前から、否応なしに音楽を聞かされているし、画家の家庭に生まれた人は、小さなころから多くの絵画に接しているだけでなく、絵の描き方をも自然に見て学ぶし、科学者の家庭に生まれた子供の多くは、小さいころから、科学的な話を親から聞かされて、自ら科学的なものの見方、考え方に親しみを感じるようになる。

 こういう人々はある一定の水準まで、その特技を伸ばすことができるが、中には世界的に認められるような水準に達する人もいる。例えばバイオリニストの中には小さいころから先生に習っていても、先生が教えるよりも早く上達するだけでなく、他のバイオリニストにできないようなテクニックを発揮する人がいる。

 こういう人については、霊的に二通りの説明ができる。一つは霊的遺伝である。その人の前世か前々世に素晴らしいバイオリニストがいて、その人が輪廻転生しているのだというわけである。すでに述べたように、霊には潜在的記憶力があって、その霊の前世のことも、前々世のこともすべて記憶している。そしてその記憶を常時思い出せるわけではないが、折りに触れてそれがいろいろな形でその人の行動に現れてくる。さきに述べたアメリカの精神科医ワイズ博士の診断を受けたキャザリンさんには、それが神経的障害という形で現れていたわけである。

 文字どおり天才バイオリニストの場合も、前世か前々世に優れたバイオリニストがいたとすれば、その人はその霊的遺伝を受けたといえる。これを別の面からいえば、天才と呼ぶこともできるわけである。

 もう一つの説明は、協助霊が協助し、教えてくれているということである。一部の霊能者はそれを特に協助霊という別の霊がいるのではなくて、守護霊が教えてくれているのだという。しかしたとえ守護霊であっても、この場合には、守護という守護霊本来の役割ではなくて、その人の能力を伸ばすために、協助という役割を果たしているのであるから、一つの霊が二つの役割を果たしていると考えてもいいし、二つの霊が別々の役割を果たしていると考えてもいいであろう。

 つまりかつて有名なバイオリニストだった人の霊が協助霊となって、様々のテクニックについて随時ヒントを与えているのである。そして恐らくそのような天才は人一倍勝れた音楽に関する第六感ないし霊感でそれを受け止め、それが知らず知らずのうちに身についているのであろう。したがってこのような人は特に先生に教えてもらわなくても、先生が教える以上のテクニックを協助霊から教えてもらっているのであって、こういうケースの人も一般に天才と呼ばれるのである。

 しかし人間にも得意、不得意があるように、霊にもそれがあって、すべての守護霊がバイオリンの奥技を教えられるわけではないから、やはり守護霊は守護霊、協助霊は協助霊と分けたほうが適当であろう。

 同じことは、画家、彫刻家など、他の芸術の分野の人についてもいえるし、平素から難問題を抱いて、何とかしてこれを解決しようと考えめぐらしている物理学者、化学者、数学者、発明家などについてもいえることである。その人が謙虚な人であり、霊的な窓を広く開けている、つまり第六感ないし霊感を研ぎ澄ましている人であれば、思いもよらなかった画期的で、創造的な着想ないし解決策がふと頭にひらめいてくるもので、それは多くの場合、夜中から明け方にかけて起こるのある。

 学者の場合には、これが学界をあっといわせるような新しい学説に発展し、また発明家の場合には、世界の人々をうならせるような新しい発明品を生むことになる。このようなひらめきないし着想は、協助霊が教えてくれるものであるから、その人は第六感あるいは霊感を通して受け止めているわけである。

 このことについて、ベティー・イーディー女史は臨死体験のときに、ある協助霊から聞いた話として、つぎのようなことを述べている。「この地上の人生でわれわれが経験する創造的着想は、多くの場合、目に見えない霊感によるものである。多くの重要な発明や技術的開発は、最初天才的な霊によって霊界で創られたもので、それを地上に住む人々が様々の発明や発見をするために、霊感として受けとるのである。霊界とこの世との間には、切っても切れない重要な機能的結びつきがあって、地上でわれわれが進歩を遂げるためには、霊界からの助けが必要である。私は霊界の霊たちも、あらゆる方法で私どもを協助してくれることを喜びとしている事実をみてきた」と。

 それもそうであろう。霊界では地上で何が行われているか、誰が何をしているか、全部分かっているだけではない。地上で人間として生活しているときに、音楽家だった人、画家だった人、彫刻家だった人、科学者だった人、発明家だった人の多くは、時間、空間の制約を受けない霊界へ行っても、大体において同じような仕事や研究を続けて、地上での業績の上にさらに業績を積んでいるのであるから、霊界のほうが余程進んでいるはずである。それだけではない。

 スウェーデンボルグによると、霊界へ入ると、霊はこの世に生きていたときよりもはるかに高い理性や英知をもつことができる。霊はこの世で生活している間は、肉体に結びつけられているために、自然界に属しているから、霊的にものごとを考えても、それが自然的な概念にならざるを得ず、そのためにその考えは純粋で鋭いものでなく、大ざっぱで、粗雑で、あいまいなものになってしまうという。

 ところがその人が死亡して、霊が霊界へ行くと、自然的概念を通さなくてすむようになるから、その理性、英知ははるかに純粋で鋭くなるだけでなく、自然的概念を通すときに取り逃がしていた無数の霊的概念をとり入れておくことができるようになる。

 以上のような理由から、霊界での真、善、美、つまり科学、倫理、芸術は地上のそれとは異質的なほどかけ離れて進んでおり、優れている。臨死体験者の多くが見てきた天界の美しさ、壮大さは、この世の言葉ではとても表現し切れないというが、このことは芸術の面、美の面でも、霊界のほうが地上より余程進んでいることを意味しているとみて間違いないであろう。

 また霊界にいる協助霊が地上のわれわれを協助することを喜んでいるというのも、そのとおりであろう。これは当然協助霊としては、地上の真、善、美の向上に協力したとして自分の功績になるからである。

 さてこうして協助を受けた人々の中には、あれは自分が考えたものであり、自分が偉いのだといって威張り散らす人もいれば、天から第六感ないし霊感によって授かったものして謙虚な態度で、感謝している人もいる。

 そこで注意してみていると、前者に属する人々には、その後ほとんど新しい着想ないし発見がないが、後者には引き続き素晴らしい業績を上げる人が多い。それは前者のような態度をとる人には、もう協助霊が協助しなくなるのに対して、後者には、引き続き協助してくれるからである。

 さて先に、人間は夜寝ているとき、殊に明け方近くに、協助霊が協助してくれると述べたが、それは、人間が寝ているときには、その肉体が休んでいるから、肉体の五感は休止に近い状態にあって鈍くなっているのに対して、霊の五感は逆に鋭くなっていて、協助霊の働きかけに敏感に応じ易い状態になっているからである。

 それではただ寝て待ってさえいれば、協助霊が協助してくれるかといえば、そうではない。協助霊は通常、平素から汗を流し、涙ぐましいばかりの努力をしている人に対して協助するのである。よく天才は大変な努力家であるといわれるが、こういう人に協助霊は協助の手を差し伸べるのであって、平素あまり努力もせず、のほほんと暮らしている人には協助しないから、こういう人には天才的ひらめきが湧かない。

 したがって協助霊から協助を受けた地上の人間は、自分にはそれがどの霊か分からないけれども、協助霊に対して、常に感謝の気持ちをもち続けなければならない。こういう態度をもち続ける限り、協助霊のほうも協助することに張り合いを感じて、引き続き協助してくれるから、協助を受ける芸術家、科学者らの業績は引き続き伸びることになる。

 

  夢と霊

 人間は守護霊に守ってもらい、協助霊から教えてもらったり、助けてもらったりしている。これらは善霊である。ところがこの他にも様々の霊が様々の働きかけを人間にしている。その中には人間を堕落させ、人格や霊格を下げさせて、自分たちの仲間に引き入れようとする悪霊たちもたくさんいる。

 ところが誰でも経験することに夢がある。夢と霊との関係はいまだによく分かっていないが、これを霊界からの働きかけだとみる人もいる。ある人が夢をみていても、第三者がその夢を観察することはできないが、夢をみている人の脳波の形が変わったり、その人がやたらに眼球を動かしたり、その他の体の部分を動かしたりするので、その人がいま夢をみていることが分かる。しかしその内容は分からないし、また内容を細部まで完全に覚えている人も少ない。

 夢の研究で有名になったのが、オーストリアの医者であり、また精神分析の草分けでもあったシグモンド・フロイト(一八五六―一九三九)で、彼は夢は抑圧された潜在意識の発散ないし現れであると解釈した。例えばある夢は抑圧された性欲などを変態的に満足させるものだと考えた。しかし夢は、何分にも科学的方法では捉えられないために、この研究には進展がみられなかった。

 このようにフロイトは夢を抑圧された欲求を変態的に満足させるものだと考えたが、抑圧された欲求というのは、性欲のような人間的、肉体的な欲求であって、これを抑圧していたのは、内面的で霊界と通じるその人の霊であったはずである。つまり善霊が抑圧していたのであって、それを夜中に夢で満足させようとする場合、夢が霊的作用によるものであったとすれば、その作用を及ぼした霊は悪霊であると考えられる。もちろんフロイトは霊の影響までは考えていなかった。

 夢に霊の影響を認めようという考え方は、原始社会のころからあったが、科学が普及した過去三百年ぐらいの間は、これも下火になった。殊にフロイトの時代は科学万能の全盛期であったから、霊的なものの存在の可能性を考えようというよりも、頭からそれを否定し、学問から排除しようという傾向のほうが強かった。したがって原始社会の人々は、夢に霊的な意義を認めていたけれども、学問の世界では、それを全く受けつけなかった。学者の間のこういう考え方ないし態度は二、三十年前ごろまで続いたから、夢の研究も一向に進歩しなかった。ところが最近ではまた一部で、霊的な作用ないし意味を重視する動きが盛んになってきた。

 旧約聖書をみると、イスラエル民族は夢で神のみ意を予知できると信じていた(創世記二〇・3、二八・12、列王紀上三・5、ヨブ記三三・15)。ところが逆に、夢にこと寄せて、神から啓示を受けたと称するものもいる(申命記一三・1)として、夢をやたらに霊的なものと結びつけることに警告を発している箇所もある。

 最近ではワイズ博士の著『前世療法』の影響もあって、自分の前世に興味をもつ人が急に増えてきた。そして多少ともこういうことを研究している人の中には、各人がみる夢は前世に関係したものが多いから、それらをすべて克明に記録しておいて、比較し総合してみたら、自分の前世が分かるはずだという人もいるが、催眠術によって霊的な潜在的記憶を想起させることと、夢とは基本的に異なるものであって、同列に論ずることはできないはずである。

 しかし夢の中には、旧約聖書の中で指摘しているように、霊的な意味をもったものもあるだろうけれども、全くたあいないものもあるし、またその中間的なものも多々ある。夢には極めて非論理的でつじつまが合わないものが多いから、これを重視することは危険であろう。霊界からみて重要であると思われるものは、協助霊や守護霊には人間の第六感ないし霊感を通して伝達する方法があるから、夢を通す必要はないわけである。

 このようにみてくると、夢は夢として、その内容を記憶しておいても少しも差し支えないけれども、これに余り重要な霊的意義をもたせることには危険が多い。ましてや夢を通して神の啓示を受けたというような受け取り方は、十分気をつけるべきであろう。神の啓示という重要なことになると、夢でなくて、協助霊による霊感を通して受けとると考えるのが順当な考え方ではないだろうか。

 しかしもし霊が夢に影響を及ぼしているとすれば、それは霊的な立場から、その人の利益を考えている善霊の仕業かも知れないし、自分たちの仲間を増やそうという意図から出た悪霊の仕業かも知れない。以下に述べる地縛霊、浮遊霊、憑依霊などの例は、いずれも霊自らの欲求や利益だけを追及して、人の利益を全く度外視している点で、明らかに善霊たちだとはいえないだろう。

  成仏できない霊

 大部分の霊は死後霊界へ入っていくが、中には少数ながら、精霊界には入ったが、霊界で安住の場所を得られないで、いろいろな形で迷っている霊、つまり成仏できない不幸な霊もいる。それらはその迷い方ないし成仏できないでいる状態によって、三種類に分けることができる。すなわち地縛霊、浮遊霊、憑依霊であって、こういう霊がよく幽霊の形をとって現れてくるのである。

 まず地縛霊であるが、これは自殺とか、交通事故などで、全然予期しないまま、つまり心(霊)の準備ができていないまま、突然死んだ人、あるいは殺された人たちの霊の中で、死んだという自覚がもてない霊、あるいは死後霊界があって、そこへ移って永住するのだという予備知識を全くもたないまま死んだ人々の霊のうち、霊界の安住の場所へ行く途中で迷い、自分が死んだ場所にしばらくとどまっている霊のことである。これがその土地に縛られているという意味で地縛霊と呼ばれる。

 こういう霊は他の人々を自分と同じ運命に陥れようとして、自殺に追い込んだり、交通事故その他の事故に遭わせたり、あるいは幽霊になって出て、自分を殺した人、自分を自殺に追い込んだ人を呪って、その人に仕返しをして、恨みを晴らそうとするものである。こうなると、それは悪霊になる。

 しかし中には自分が生前住んでいた家、あるいは家のある部分が余りにも居心地がよくて忘れられず、そこを離れたくないとか、死んだ息子や娘に対する愛着が強くて、その墓の側にいつまでも居たいという霊もいる。こういう霊は時にはその場所に地縛霊としてとどまっていることがあるが、彼らは人からいたずらされたり、侮蔑されたりしない限り人に悪さをすることはないから、悪霊とはいえない。

 こういう地縛霊については、すでに自殺などについて説明したとき詳細に述べたので、ここではこれ以上説明する必要はないだろう。

 地縛霊に似たような霊で、何らかの理由で霊界の安住の地へ入っていくことができないが、一定の土地に縛られているのではなくて、動き回っているものがある。それは浮遊霊と呼ばれる。

 浮遊霊は死んで肉体を離脱したけれども、霊界での自分の安住の場所まで行けず、ある一定の場所にとどまっていたり、時には方々へ移動したりする霊のことをいう。死亡したときに縁故者もなく、したがって十分供養してもらえなかったとか、死ぬことなど全く考えていなかったのに、突然何らかの事故で死亡したために、この世に対する未練がかなり残っている霊が浮遊霊になり易い。

 さらに生前の性格をみると、落ちつきがなく、気が散り易く、自分のこと、家のことをろくにしないで、家に落ち着いて居られず、遊びまわっていた人は、死後浮遊霊になる素質があるから、こういう人は平素から余程気をつけて、そういう生き方を改めておくほうがいい。

 浮遊霊は特定の人に対して恨みを抱いているわけではないから、ある人に働きかけて恨みを晴らそうというようなことはしない。また生前自分が住んでいた家が余りにも居心地がよくて、そこを離れられない霊のように、自分が通っていた学校とか会社や団体が懐かしく、忘れられないという浮遊霊もいて、時折その学校や会社や団体を訪れては、何年も後の人たちの記念写真に一緒に写ったりすることもある。

 しかし霊にとって浮遊霊でいることは決して安定しているわけではないから、浮遊霊も何とかして他の多くの霊のように霊界へ入って、安住の場所を見つけたいわけである。いわゆる成仏したいわけである。ところがそれには地上に生きている人の助けを借りなければならない場合がある。そういう霊は霊を感知し易い人を見つけて、幽霊となって現れて、遺族に対して、もう少し十分な供養をして欲しいという伝言をするようなことがある。浮遊霊のほうは真剣なのだから、それを頼まれた人は、そうしてあげるほうがいい。
 最後の憑依霊というのは人間にとりつき、程度の差こそあれ、その人の霊に代わって、自分がその人の肉体をコントロールしようとする霊のことで、これに完全にとりつかれると、とりついた霊が生前言っていたこと、していたことを、そのままの言い方や所作でしたりする。またその人に自動書記といって、自分の書きたいことを自分の書体で書かせたりする。このために、その霊の生前を知っている人は、それが生前のその人ではないかという疑いをもってしまうことがよくある。

 ところがとりつかれた肉体の主人公である霊にしてみれば、たまったものではない。自分が追い出されまいとして、それと藤するから、苦しくなる。そして気持ちが悪くなったり、頭痛がしたりする。しかし憑依は一時的なことが多く、何分間か、あるいは何時間かの後には、自然に出ていってしまう。もちろん例外もたくさんある。それについては後で述べる。しかし同じ霊が同じ人の肉体に何度も何度も憑依してくることもある。それは前世の因縁が原因であることもあるが、大抵はその人の霊がおとなしくて、弱々しく、情緒が不安定な場合である。こういう人には憑依霊がとりつき易く、一度憑依に成功すれば味を占めて、何度でも同じ人にとりつくのである。

 なお霊能者の中には、自分の肉体をある霊に憑依させる、つまり自分の肉体をある霊に一時的に貸すことができる人がいる。そういう霊能者のことを特に霊媒と呼ぶ。憑依して出る霊は、その霊媒の霊的な高さによって異なるといわれるから、イエス・キリストとか釈迦のように非常に霊格の高い霊に憑依してもらおうと思っても、なかなかそうはいかない。

 憑依して現れる霊は一、二分で退去することもあれば、数分以上とどまっていることもある。そしてこの場合も、その霊は生前と同じものの言い方、所作をして、その場に居合わせた人の質問にも答えてくれる。

 こういう霊は特定の人に恨みをもっているわけでもないから、余程無礼な扱いをしない限り、害を加えるようなことはない。

 しかし中にはしぶとい霊もいて、いったんある人に憑依したら、何日も、ある場合には何年も退去しないで、居座ってしまおうとする。こうなるとその霊は悪霊であって追放、除霊しなければならない。つまり魔よけ、あるいはやく払い、英語でいうエクゾシズムが必要になってくる。アメリカでは二十年近く前に、これを主題にした映画が作られ、世間に大きな話題を提供したことがある。日本では一部の霊能者がこれを行っているが、しぶとい霊の除去は、霊のほうも必死になってしがみついていようとするので、除去するほうも相当の力が要る。またその間に相手は暴力に訴える可能性があって、窓から飛び降りたりしかねないから、余程の注意が必要である。

 アメリカや西洋では、カトリックの神父の中にこれを特技とする人がいて、最近でも年に五、六回はエクゾシズムをしている記録がある。

 こうして悪霊が除去された瞬間、その人の霊は元の状態に戻るから、その人は憑依される以前と全く変わりない、正常な元の自分に戻る。

 これらは憑依霊がある人の肉体と霊とをほとんど完全にコントロールした場合であるが、憑依霊がある人の肉体とその霊をごくわずかしかコントロールしない場合もある。その場合にはその人の考えや意思が多少憑依霊に影響されるが、その人の平素の態度、行動には余り大きな変化が現れないから、第三者も、その人が憑依されていることに気づかず、また本人もその自覚をもたない場合もある。

 ところが憑依霊はその人の考えや意思にある程度影響を及ぼし、憑依霊の意図するようにその人を行動させることが多い。こういう憑依霊も大体悪霊であるから、憑依した人にそれとなく悪行をさせることになる。俗に魔にとりつかれたというのがこれである。こういう憑依霊がティーン・エージャーにとりついた場合に、麻薬に手を出させてみたり、酒、タバコ、フリー・セックスにかり立てたりする。こうして彼らをだんだん堕落させて、いずれはこういう憑依霊が本来行くべき地獄へ、彼らを駆り立て、彼らの仲間を増やそうとするのである。

 このように、良きにつけ、悪しきにつけ、他の霊に憑依されたり影響を受け易い人は、概して情緒が不安定で、自分に確信がなく、付和雷同型、さらにまた陰気なタイプの人に多い。常に冷静で、ものごとに確信をもち、外部から付け入るすきを与えないようなタイプの人、また放心状態に陥ったりすることがない人には、悪霊は付け込みにくい。

 憑依され易い人は信仰心を強くして神の力を借りるとか、常に守護霊に感謝するだけでなく、憑依されないように守護霊にお願いして、自分の霊を強くしておくことが望ましい。放心状態は外部の霊に侵入する絶好のすきを提供することになるから、地縛霊や浮遊霊がいそうなところを通る場合とか憑依されそうな場合には、特に自己をしっかりと堅持しておくべきである。

  霊障

 霊的能力が特に鋭い人は別として、一般の人々には、霊がどこにいるかはよく分からない。旅行先でたまたま泊まったホテルの部屋で、かつて自殺あるいは殺人事件があったとすれば、死んだ人の霊がその部屋にとどまっている可能性は大きく、旅行者の中には知らないで、その霊と一夜を明かすことになりかねない。鎌倉や京都のような古戦場には、戦死者の霊がいまだに残っている場合が多い。またある家には、たくさんの霊がいるにもかかわらず、その家の住人はそれに気づかずにその霊たちと一緒に住んでいる場合だって、決して少なくない。その場合、応々にして、そこに住む人は頭が痛いとか、背骨や腰骨が痛むとか、胃が痛むことがよくある。それはそこにいる霊の影響によることが多い。

 ところがこういう霊を侮辱したり、霊に対して暴言を吐いたり、非礼を行うと、たちまちそのたたりが現れて、その人は交通事故に遭うとか、体に重要な支障を来すことがある。

 埼玉県のある墓地のそばに、墓の石碑を刻む若い石屋さんがいた。結婚して間もなくのことである。彼はその墓地の中の三つの墓から、すでに立っている石碑をある夜秘かに盗み取って、それを刻み直して、別の石碑として売っていた。そのうちに迎えて間もない新妻が体の不調を訴え、医者に診断してもらったところ、相当進行しているガンにかかっていることが分かった。彼女の家系にはガン患者が出た記録がない。治療の効果も上がらないまま、病状は悪化していく。心配した墓石屋さんはある霊能者を訪ねた。その霊能者がこの墓石屋さんを霊視したところ、直ちに彼が三つの墓から石碑を盗んだ結果、これらの墓に埋葬されていた霊たちがかんかんに怒って、この人の新妻に霊障を起こしていることをつきとめたが、その霊たちの怒り方が尋常でなく、あまりにも激しいために、この霊能者の力ではどうにも霊障を取り除くことができないという。この人は愛する新妻を、こうして失ってしまったのである。

 これほどひどい例ではないにしても、霊的障害を受けて健康を害している人は決して少なくない。その中にはやはりガンにかかり、医者から末期的症状で治る見込みがないといって見放されている人もたくさんいるが、こういう人の中で霊能者に霊視してもらい、それが霊障が原因であることが分かり、それを起こしている霊の誤解によるとか、余り深刻なものでないことが分かれば、その誤解を解くとか、その霊に陳謝したり、その霊に供養を尽くすことによって、その霊障を除去することができる。そうすると、医学的にどうにも手の施しようがないといって見放されていたガンが治るので、医者たちは不思議がる。こういう例は、洋の東西を問わず、たくさんあって、霊能者の体験記にも枚挙にいとまがないほど出てくる。

 ここにも科学万能主義に立脚した現代医学の限界がみられるが、医者もレイモンド・ムーディー博士の『かいまみた死後の世界』やブライン・ワイズ博士の『前世療法』などの著書をきっかけとして、もう少し人間の精神的、霊的側面を考慮に入れた診断、治療を考えるべき時期に到来している。

 日本ではよく「病いは気から」といわれる。これは気持ち、精神のもち方、霊の状態によって、肉体が病気にかかったり、かからなかったり、かかっている病気が治ったりすることをいうのである。肉体が病気にかかっても、気持ち、精神、霊という内面的なものが健全であれば、そのことが肉体に力を与えて病気を治せるというわけである。

 最近アメリカの一部でも東洋医学が見直されている。例えば医者からあと三カ月といわれたガン患者や、胆石で苦しんでいる人で、西洋医学では切開手術以外に治療法がないのに、気功の先生にかかったら手術をしないで、簡単な治療だけで完治したという例が多い。これも気のもち方、精神的な面、つまり霊が肉体に影響を及ぼして病気を克服した例であって、それを技術化した気功は、中国四千年の医学的経験の積み重ねである。

 しかし病の程度によっては、自分だけの気持ち、精神、霊の力ではどうにもならない場合がある。こういう場合にはすでに述べたように、自分よりももっと強い霊力をもった霊能者の力か信仰の力を借りなければならない。

 こういう見地から、イエス・キリストが行った死人を甦らせたとか、足なえを治したとか、盲人の目を開いたという奇蹟も、ある程度説明できる。

 イエス・キリストの霊能力は抜群であったに違いない。死人を甦らせたのは、恐らくこの人が何日間か臨死体験の中にいて、その肉体と霊とはまだ霊糸によってつながっていたに違いない。しかしその霊糸はいつ切れてしまうか分からない。そういう状態にあったとすれば、イエス・キリストのような超霊能力者は容易に霊界をさまよって戻るべきかどうかと迷っていたその人の霊を呼び戻すことができたのであろう。これは一般の人々からみれば、死人を甦らせたようにみえるわけである。

 足なえや盲人の例も恐らくイエス・キリストが容易に霊障を除去することができ、その結果治ったものと考えられる。

 さきに述べたように、神は原理原則を堅持しておられるので、右の例の中で、ある人がほんとうに霊から完全に切り離されて死亡してしまっていて、肉体、殊に大脳が腐食していたとすれば、それを甦らせることは原理原則に反することであるから、いかに超人的な霊能力をもっていたイエス・キリストにもできなかったことであろう。

 右にみたように、霊は人間のように時間、空間という限られたワク組みの中にいるのではなくて、時間、空間の制約を越えたところにいるのである。そして満足に霊界で安住の場所を見つけられないでいる地縛霊や浮遊霊はもちろんのこと、天界または地獄へ入っている霊の一部のものは、絶えず人間に働きかけているのである。そして上中下の層のいずれかの天界へ入っている霊は、守護霊あるいは協助霊として、われわれを守り、助け、導いてくれている善霊であって、主としてわれわれの身体の上のほう、つまり肩から上のほうに働きかけてくれる。ところが悪霊は、自分たちと同じような運命に陥れてやろうとか、自分たちの仲間を増やそうという目的で働きかけてきて、われわれ人間を不幸にさせたり、病気にさせたり、堕落させたりするが、彼らは主として体の下のほうへ働きかけてくる。つまり善霊はわれわれの霊、精神、良心という内面的なものに働きかけてくるが、悪霊は肉体的な欲求、外的な欲求に付け込んで働きかけてくる。

 われわれが精神ないし良心では、食べ過ぎてはいけない、酒を飲み過ぎてはいけない、タバコや麻薬を吸ってはいけないと制止しようとしても、悪霊はもっと食べさせ、もっと飲ませ、もっと吸わせようとする。

 以上で万物の創造主である神が、どのような意図で宇宙全体と地球上に住む一千万種に上る生物、さらに人間を創られたか、また人間の主体が霊であり、死後その霊はどうなるのか、さらに死後その霊が永住する霊界の構造がどうなっているのかなどの概略を説明した。そして霊界には一般に天国と呼ばれる天界と地獄とがあり、その両者はまたそれぞれ三つの異なる層から成っていて、それぞれの層の特徴がどういうものであるか、また人生を終えた人の霊が天界の中でも一番高い位置にある上層天界に入るには、どういう資格ないし条件を備えていなければならないかをも説明した。

 そのような資格ないし条件は、その霊が人間としてこの地上に生活している間に備わってくるものであるから、それは第一義的にはそれぞれの霊の問題である。しかし人間は地球上で社会生活を営んでいて、そういう資格ないし条件を身につけるためには、その霊(人間)が住んでいる社会の影響を多分に受ける。

 上層霊界の最大の特徴は、創造主に対する愛と相互愛ないし隣人愛に徹底して貫かれていることであるが、人間が住む地上の社会もそういうものであれば、その人間の霊も自然にその特徴に染まり、死後上層霊界へ入れる条件をおのずから身につけることができるから、第二義的には人間が住む社会の世相が問題になってくる。

 地獄の最大の特徴は、自己愛(自我)と地上的、物質的、表面的なものに対する愛、つまり富、財産、肉体的な欲求、社会的地位、権力などに対する愛で貫かれているから、人間が住む社会がこのような特徴を強くもったものであれば、その人の霊もおのずから、そのような特徴を身につけることになり、死後地獄へいくことになる。

 地上における人間の住む社会といっても、様々なものがあり、その特徴は時代によっても違う。社会といっても、人間は一応人間が構成する国家のワクの中に住んでいて、国家によって様々の特徴がある。イエス・キリストが教える主の祈りの中に「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という句がある。つまり人間の創造主である神は、そのご意思が地上に実現すること、つまり神のご意思が実現している天国のような状態が地上にも実現することを願っておられる。そこでつぎの章では、現在の日本とアメリカとを中心に、現在の世界の世相が霊界あるいは万物の創造主である神の創造意図ないし願いに照らして、どういうものであるかを考えてみよう。

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