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文鮮明先生の講演

文鮮明先生の講演 - 93. キリスト教の新しい未来

작성자대태양/김현수|작성시간22.03.15|조회수289 목록 댓글 0

キリスト教の新しい未来
一九七四年九月十八日, ニューヨークマディソン・スクェア・ガーデン

 紳士、淑女の皆様、私は今夜この場に立ちまして、非常な喜びを覚えるものであります。そしてこの場に御来場下さいました皆様に心から感謝申し上げたいと思います。私達はこうして今夜、このマディソン・スクェア・ガーデンの印象深い情景の中に、神の名の下に一つに集わしめられたのであります。

 今晩、私は「キリスト教の新しい将来」と題して語りたいと思います。しかし、その本論に入る前に一つの前置きをしておきたいと思います。私は皆様がすでに知っておられるようなことを繰り返し言う為にこの場にやって来たのではありません。私はある新しいことを明らかに示す為にやって来ました。私は、神からの新しい啓示を皆様に分かちたいのであります。

 神は唯一であり、キリストは唯一であり、聖書は唯一であります。しかしながら、今日、キリスト教界一つをとってみても、そこには、四百種以上の異なった宗派があり、それらはすべて同じ一つの聖書を、非常に違った観点から、さまざまな解釈をもって見ているのであります。そして、今日の我我の関心事は、もはや、聖書に対する人間の解釈ではなく、神がどのように聖書を説かれ、何が本当の神の御意であるか、ということになってきています。この問題に対する解答は神から啓示というかたちでもたらされなければなりません。その啓示を、私は今夜、皆様に分かちたいのであります。このメッセージは、神から来たものであり、神の観点より示されたものでありますから、その内容は、人間の理解してきたものとは、違ったものであって、当然と言えましょう。ゆえに、それは皆様にとって、きわめて新しいものであると思います。しかし、我々が必要としているものは、新しい思想──神の思想な──のであります。なぜなら、人間は、すでに、自らが創り上げた思想のすべては、研究し尽くしてしまったからであります。私が今夜、皆様にお話しする為に、この場にやって来ました理由は、ここにあるのです。ゆえに、私は、神の霊が直接、皆様に語りかけることができますよう、皆様一人ひとりが、思いを開き、心を開いて下さるようにお願いするものであります。


 神の目的

 歴史を通して、世界のクリスチャン達は、一つの重大な絶頂の日、すなわち、聖書に預言されているところの主の再臨の日を待ち望んできました。これは、神の約束でありますから、キリストの再臨は、必ず成就されるのであります。

 では、なぜ主は、再び来られるのでしょうか? 彼は、神の目的を成就する為に来られるのであります。では、神の目的とは何でありましょうか? 神は、永遠であり、不変であり、唯一であります。そして神は一つの目的を待たれ、その目的もまた、永遠・不変・唯一なのです。神は初めに、すなわち、全天宙を創造される前に、一つの明確な目的を持っておられました。そして、その目的が、創造の根拠であったのです。神は、その目的を成就する為に、宇宙と人間の創造を始められたのであります。

 聖書によると、初めの男と女-すなわち、アダムとエバが創造された後、神は、彼らに一つの戒めを与えられました。その戒めとは、「『善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」(創二・17)というものでありました。神は、彼らに、御自身の与えられた戒めに従うよう求められました。神は、アダムとエバのこの戒めに対する従順が、神御自身の目的成就につながるということは、暗示としてしか示されなかったのでありますが、戒めに対する不従順の及ぼす結果については、非常に明確に示しておられました。神は、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言われたのです。不従順の結果として示されていたものは死でありました。

 しかるに、アダムとエバは、神に対して不従順を犯してしまいました。その結果が、人間の堕落であります。霊的死が人間に訪れ、神の目的は実現されなかったのです。彼らは、誤った選択をなし、その結果として生じたものは、神が、初めに意図されたものとは、全く逆のものでありました。彼らが不従順を犯した後、神は、この男と女とをエデンの園から追放するほか、仕方がなかったのでした。エデンの園は、地上の神の国の象徴的表現であります。アダムとエバは、もはや、神の国の住民としての資格を喪失してしまった為に、自ら創り出した邪悪なる王国、すなわち、生き地獄に投げ入れられてしまったのであります。


 地上天国

 もしアダムとエバが、神に従順に従ったならば、彼らは、地上に天国をもたらしたでありましょう。その天国とは、どのようなところなのでしょうか。アダムとエバは、完成されるべきものとして、罪なきものとして創造されました。そして彼らは神の戒めに従うことにより、成長し、完成するようになっていたのです。彼らが、完成された男性と、完成された女性になるまでの成長期間においては、彼らの関係は、兄妹の関係でなければなりませんでした。彼らは、兄姉関係というものの真の伝統を立てるべく期待されていたのです。

 神はひとりの男とひとりの女を創造されました。なぜでしょうか? 神は、彼らが完成の基準に達した時に、天的婚姻という祝福によって、彼らを天的夫婦として一つにすることを願っておられたのです。神は、このアダムとエバを最初の夫婦として立てて、神の国を出発しようと計画しておられたのでした。もし、それが実現されていれば、神の「生めよ、ふえよ」という祝福は、成就されたはずであります。神は、彼らに、神の子を生み殖やす力を与えられたはずであります。そしてそれらの子供達は、罪なき完全なものであったはずであり、それ以外の何ものにもなり得なかったはずであります。罪は決して、人類の中に入りこむことはなかったはずなのであります。子供を生むことによって、アダムとエバは、神を中心とした父と母、すなわち、人類の真の父母となったはずなのであります。

 もしアダムとエバが、この最初の、神を中心とした家庭を形成していたならば、そこから、神を中心とした民族、神を中心とした国家が生まれ、さらには、神のみが支配する神を中心とした世界が打ち立てられるはずでありました。そして、初めから永遠にわたって、完全なる世界となったはずなのであります。

 もし、このようなことが、その初めの時に成就されていたならば、我々は、今日、このような、多くの異なった民族や、異なった言語を持つことはなかったでありましょう。我々はすべてアダムの立てた一つの伝統の下に、アダム族という一つの民族に属していたでありましょう。そして、アダムの一つの言語が、我々すべての言語となっていたでありましょう。そして、実に、全世界が、神の下に一つの国であったはずなのであります。

 このように、神の御計画においては、すべての人々が、地上の神の国に生まれるべく定められているのです。我々は、地上において、天国生活を楽しむべき存在なのです。そして、地上での肉身の寿命が切れた時に、霊界にある神の国に上がり、そこにおいて永遠に生きることになっているのです。これが神の、初めの青写真でありました。その世界には、サタンも悪も、地獄も存在し得ないはずなのであります。神は御自身の子供の為に、地獄を創造されるようなことは決してなさいませんでした。善良な父親が、自分の子供が生まれるや否や、その子供の為に牢獄を建てるなどということはあり得ないのです。ましてや、神が御自身の子供の為に、どうして地獄などを必要とするでありましょうか。天国のみが、神の本然の目的であったのです。しかしながら、罪のゆえに、人間はその本然の価値を失い、塵のような存在になってしまったのです。地獄は、その塵のような存在を入れておく神の檻のようなものです。しかし、それは人間の堕落の後に初めて必要となったものなのであります。


 地上地獄──失楽園

 それでは、堕落した人間と、堕落した世界の状態を、さらに調べてみましょう。ヨハネによる福音書八章四十四節において、イエスは、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、……」と言っています。堕落により、人間は、サタンという偽りの父の下に、引き連れて行かれてしまったのです。人間は、その父親を取り替えてしまったのです。我々は、真の父、すなわち神を離れて、偽りの父、すなわちサタンと一つになってしまったのです。このようにして、初めの男と女とは、サタンの子となってしまったのでありました。サタンという偽父の下に、アダムとエバは、神の祝福も、許しもなしに、不法にも、夫婦として一体となってしまったのです。そして、彼らが子供を生み殖やしていくときに、その子供達もまたすべて同じ偽父の下に生まれることになったわけであります。彼らはすべて、神の子としてではなく、罪の子として生まれてきたのです。このようにして、アダム以後、時代から時代へと、罪の子を生み殖やし続けて、この堕落した罪悪世界が、もたらされてきたのでありました。

 我々が神を中心としないがゆえに、罪の世界、不信の世界、犯罪の世界、憎しみと争いの世界が生まれてきたのです。そして、この世界に住む我々も、我々の国家も社会も互いに、破壊し合いながら、何の苦痛も感ずることがないのであります。これが、まさしく、地上の地獄であります。実に、この世界の主人は、神ではなく、サタンなのであります。ヨハネの福音書十二章三十一節に、サタンがこの世の支配者であることが示されているのは、そのためなのです。我々は、この宇宙が神によって創られたということを知っています。我々は、神が人間を創られたということを知っています。しかし今、神は人間の主人ではないのです。なぜなら、人間が自らその主人を替えたからであります。人間は神を裏切り、偽りの主人サタンと結んでしまったのです。そして、このサタンが、ずうっと今に至るまで、人類の父となってきたのであります。


 救いとは復帰である

 全能なる神は、愛の神であり、憐れみの神であります。神の心は、御自身の子の生きながらの死に、深く痛まれ、悲しまれました。神は、いかなる人であっても、自らの力で罪の縄目を断ち切り、罪を取り除くことはできないということを知っておられます。神は、人間を救いに導くことのできるただ一つの力は、神御自身であることを知っておられるのです。そして神は、憐れみによって、この世界を救う決意をされたのでありました。

 救いとは、何でありましょうか? 救いとは、すなわち、復帰であります。医者は、患者を救う為に何をするのでしょうか? 彼は、患者を正常な健康状態へと復帰していくのであります。それが、治療であります。あなたは、溺れかかっている人を救う時に、どうしますか? 彼を水から引き上げて、乾いた陸地に帰すでしょう。それが救助であります。

 これと同様に、神の人間に対する救いとは、人間を異常な逸脱した状態から、本然の善なる状態へと復帰すること以外の何ものでもありません。ゆえに、救いとは、復帰なのであります。神は、地獄を天国へと復帰しようとされているのです。神は、御自身の決意を聖書において明確に示されています。「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」(イザヤ四六・11)。神は、行うかも知れないと言われたのではなく、必ず行うと言われ、人間とその世界を本然の姿に復帰するという御自身の絶対的決意を示しておられるのです。

 では、どのようにして、それをなそうとされているのでしょうか? メシヤによってであります。人類を救う為に、神はそのひとり子イエス・キリストを、救い主として、メシヤとして、この地に遣わされたのでありました。

 二千年前、イエス・キリストは生命の創造主として、この世界に来られました。彼は、すべての罪人達を、キリストのごとき人に造り変える為に来られたのであります。彼は、地上に天国を復帰する為に来られたのであります。

 それゆえにイエス・キリストは、その第一の福音として「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣言されたのであります。イエス・キリストの降臨によって、人々は事実その時、天国の入口まで来ていたのであります。


 メシヤを迎える準備

 しかしながら、神は、世界を復帰するべく、そのひとり子を遣わす前に、そのメシヤを迎えることのできる信仰の基台を立てる為に、個人から始めて、国家へと拡大して、その道を一歩一歩整えて、準備しなければならなかったのであります。

 結局のところこの世界は、今日まで、ずうっとサタンの世界でありました。もし、メシヤが、この地上に準備された基台もなく来られるならば、サタン世界は彼を殺してしまうに違いないのです。ゆえに、神は一つの国家、すなわち、御自身が支配することのできる一つの主権を打ち立てる為に、こつこつと、注意深く働いてこられたのであります。イスラエル選民は、そのメシヤを迎える為の準備の結果として生まれたのでありました。神は、イスラエルの国を、メシヤの「着陸地」として準備されたのです。イスラエルの信仰の基台の上に神の最後の勝利者Iメシヤを送ることができたのでありました。


 イエスは死ぬ為に来られたのではない

 未だかつて解かれたことのない、一つの歴史的な謎があります。イエス・キリストの降臨の四千年前に、神は、前に述べましたように、メシヤの為にイスラエル選民を準備しておられました。預言者を通して、神は選民に対してメシヤの為に備えるよう、あらかじめ知らせておかれました。神は人々の間にそういう期待を築き上げるように働かれ、事実イスラエルには、メシヤを待望する非常な熱意が見られたのであります。そして、その定められた時に、神は御自身の約束を成就されたのでありました。神のひとり子イエス・キリストは時至って、御自身の民の上に降臨されたのであります。

 そして、そこで何が起こったでありましょうか。歴史は事実を証すものであります。人々は彼を知りませんでした。彼らは彼を拒否し、彼に反対し、最後には彼を十字架に釘付けてしまったのであります。なぜなのでしょうか。キリスト教の教会は「その問いに対する答えは、神がイエス・キリストを十字架上で亡くなるべく遣わされたからと言うことができるでしょう。十字架は初めから予定された神のみ旨だったのです」と言うのです。

 では、そう言うクリスチャンに「イエス・キリストが今日、あなたのもとに再び来られたら、あなたはどうしますか」と尋ねてみましょう。すべてのクリスチャンは、間違いなく「私達は彼を受け入れるでしょう。彼を迎え、彼と一つになり、彼に従って行くでしょう」と答えるに違いありません。さらに、「キリストが現れたら、あなたは彼を十字架につけますか」と尋ねてみましょう。あなたの答えは「ノー」と言うにきまっています。

 もしそうであるならば、二千年前のイスラエル選民達はどうだったのでしょうか。もし彼らがイエスを受け入れたならば──あなたが今日受け入れるように―彼らはそれでも、彼を十字架につけなければならなかったのでしょうか。いいえ、それは誤りだったのです。彼らはその無知ゆえにイエス・キリストを殺してしまったのです。

 神の選民がメシヤを受け入れることが、神の御意でありました。しかし、彼らは受け入れるどころか彼を十字架につけてしまったのです。そしてクリスチャン達は、それは神の御意であったと言って責任逃れをしてきたのでした。何という馬鹿気たことでありましょうか。これは我々の論理に合わないことであります。何かが恐ろしく間違ってきたに違いありません。それは何だったのでしょうか。


 無知がイエスを殺した

 人々はナザレのイエスがどういう方であるかを知らなかったのであります。彼らは、彼が神のひとり子であることを知らなかったのであります。もし、彼らが、イエスが神のひとり子、メシヤであることを明確に知っていたならば、彼らは彼を十字架につけはしなかったでありましょう。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ一・11)。

 また、聖パウロの証言に耳を傾けて下さい。「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」(コリントI二・8)。

 もし彼らが、彼が誰であるかを知ってさえいたならば、彼らは栄光の主を十字架につけはしなかったでありましょう。それは誤りだったのであります。イエス・キリストを殺しだのは人々の無知と盲目であったのです。

 世界のクリスチャンはイエスの時に実際起こったことが何であったかということの真相に目覚めていないのです。もし、神のそのひとり子を遣わす唯一の目的が彼を十字架に釘付けにすることであったとするならば、なぜ神は、まず始めに、イスラエルの選民を備える為に時を費やされたのでしょうか? 神にとってはそのひとり子を不信者やあるいは野蛮人達の中に送った方がずうっと簡単であったでありましょう。彼らはもっとすみやかに殺し、救いはもっとすみやかにもたらされたでありましょう。メシヤを殺す為ならば選民もイスラエルも何も必要ではなかったはずであります。旧約聖書において、神は繰り返しイスラエルが神の子の降臨によって栄光を受けるであろうことを約束しています。しかし、メシヤが来られた後、その選民の上に何が起こったでありましょうか? 彼らは罰せられ信じ難いまでの苦しみを受けたのであります。彼らの国は滅ぼされ、その民は世界中に散らされたのです。しかしそれはただ彼らが神の御意に適って生きなかったからなのであります。彼らは、メシヤを受け入れることが神の御意であった時に、彼を拒否してしまったのです。


 旧約聖書の文字の奴隷

 さて、そこで問題はイスラエル民族がイエスがどういう方であるかということをなぜ知らなかったのか、ということであります。信じていただけないかもしれませんが、神の選民がイエスをメシヤであることを認めなかった第一の理由は旧約聖書のゆえなのです。こう言えば皆様は驚かれるかも知れません。しかし、イスラエル選民は旧約聖書を文字どおりに解釈していました。彼らは聖書が一つの暗号であることを知らなかったのです。彼らは聖書を文字どおり、一言一言、一字一字解釈していました。言葉を替えて言うならば、彼らは旧約聖書の文字の奴隷になっていたのであります。

 それに対する証拠を挙げてみましょう。旧約聖書のマラキ書は、新約聖書の黙示録と類似した意味をもっています。それは、メシヤがどのようにしていつ来られるかというプログラムと終わりの時のようすを明確に示しています。マラキ書四章五節から六節に「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」という言葉があります。ではエリヤとはどういう人だったのでしょうか。彼はイエス・キリストより九百年ほど前に生まれた人で、旧約聖書によるとつむじ風の中を火の戦車に乗って天に昇って行った人であります。その為人々は、エリヤが旧約聖書の文字どおり、青い空から火の戦車に乗って再びやって来て、神の子の到来を告げるであろうと信じていたのであります。このようなことを人々は期待していたのです。

 しかし、エリヤは来ましたか。問題は、エリヤが彼らが期待していたような形ではやって来なかったということなのであります。イスラエル選民は、エリヤのその奇蹟的な再臨の知らせを何も聞いていませんでした。しかるにある日、彼らは、一つの並外れた宣言を耳にしたのです。ナザレから来たイエスという名のひとりの若い青年が、神の子メシヤであるとして、世に向かって宣言していたのです。それは実に信じ難い宣言でありました。

 そして、それに対する人々の即座の反応はどうだったでしょうか。「そんなことはありえない!」と彼らは言ったのです。「どうしてナザレのイエスが神の子であるはずがあろうか。我々はエリヤについて何も聞いていないではないか」エリヤが来なければメシヤは来られないというのであります。エリヤが再臨するというマラキの預言は、実にイエスの使命遂行の障害になったのであります。イエスの弟子達が、イスラエルの町々で福音を述べ伝え、イエスを神の子として証していった時に、人々は「もし、あなたの先生が神の子であるなら、エリヤはどこにいますか。聖書に、エリヤがまず来なければならないと書いてあります」と言って、彼らの言葉を拒否したのです。


 バプテスマのヨハネがエリヤ

 イエスの弟子達は、この質問に答えるだけの十分な備えがありませんでした。事実、彼らは旧約聖書の知識をもっていなかったのです。すなわち、彼らはガリラヤの身分の卑しい漁師であり、取税人であり、売春婦でした。そこで、困った弟子達はある日、このことについてイエスに教えを乞う為に彼のもとに行くことに決めました。マタイによる福音書十七章十-十二節にはこう書かれています。「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ』」。

 これは弟子達にとって本当にショックでした。そしてその時彼らはイエスが、バプテスマのヨハネのことを言われていることを理解しました。弟子達は、「バプテスマのヨハネがエリヤなのですか」と聞いた。するとイエスは「そうです」と言われました。しかしイスラエル選民は決して納得しませんでした。彼らは「そんなはずはない」と言ったのです。こうした事柄を現代に置き換えて考えてみましょう。二千年前のバプテスマのヨハネは非常に影響力のある人で、偉大な預言者、神の人としてイスラエル全土に大いなる信望を持った人でした。それはちょうど現在の、偉大なキリスト教の指導者であるビリー・グラハムのような人です。

 ところが、ある名もない青年が突如として現れ、世に対して自分こそ神の子であると宣布し出したとしましょう。あなたが聖書を学んでいる人であればきっとこう尋ねるでしょう。「もし、あなたが神の子ならば、聖書に、キリストより先に来ると記してあるエリヤはどこにいますか」。もしこの青年が「ビリー・グラハムがエリヤだということを知らないのですか」と答えたなら、あなたは、どんな反応を示すでしょう。

 あなたは、間違いなくこう言うでしょう。「そんなことはあり得ません。どうしてビリー・グラハムがエリヤであると言えましょうか。彼は青空から降りて来なかったではないですか。彼はノースカロライナの生まれであることは我々皆が知っています」。あなたはこうしたことを認めることはあり得ないでしょう。

 まさに、これと同様の不信仰が我らの主イエス・キリストに対してなされたのです。人々は、パプテスマのヨハネがただ、天から降りて来なかったという理由だけで、彼が、エリヤであることを認めることができなかったのです。二千年前の選民達は、エリヤの再臨の預言が、聖書の文字どおり実現されなければならず、したがって天より降臨しなければならないという信仰に頑なに固執しました。彼らは旧約聖書の文字の奴隷だったのです。


 失敗者、バプテスマのヨハネ

 それでもなお、イエス・キリストは、嘲笑する大衆の罵声を受けながらも力と権威をもってイスラエル全土で伝道を続けました。人々はそういう人間をそのまま問題にしないわけにもいきませんでした。彼らは、自分達が正しいという確信を欲しました。

 そこで彼らはパプテスマのヨハネのところに行って尋ね、彼らがいろいろな疑問に最終的な決着をつけようと決心しました。そして、ヨハネ福音書の一章十九-二十一節にあるように彼らはそのごとく行ったのです。彼らはヨハネに尋ねました。

 「『あなたはどなたですか』……彼は告白して否まず、『わたしはキリストではない』と告白した。そこで、彼らは問うた、『それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか』。彼は『いや、そうではない』と言った。『では、あの預言者ですか』。彼は『いいえ』と答えた」。

 このようにバプテスマのヨハネはすべてを否定しました。彼は「私はエリヤではない」と言いました。彼は預言者としての立場さえも否定したのです。誰もが彼は神の預言者であることを知りかつそう認めていました。しかし彼は「私は預言者などではない」と否定しました。なぜでしょうか。

 彼は当時の状況を判断しイエス・キリストが彼の属する社会から除け者として扱われているのを知っていました。イエスは負け犬のように見えました。そこでヨハネはイエスの側に立つまいと決心したのです。彼はすべてを否定する方がずっと得策であろうと考えたのです。そうすることによってバプテスマのヨハネはイエスを隅の方に追いやり、彼を誰からも擁護されない大イカサマ師に仕立ててしまったのです。ヨハネに否定されたイエスは、このことに関してヨハネ以上に頼みとする人はいませんでした。

 それでは、なぜイエスは十字架につけられたのでしょう。第一に彼は、聖書の文字どおりの解釈の犠牲者となったのです、第二に、バプテスマのヨハネが使命成就を失敗することによって捨てられ、ついには十字架につけられたのです。

 我々はマタイ十一章一-三節に、牢獄で首をはねられるのを待っていたヨハネが彼自身の弟子の中の二人をイエスのもとに遣わして次のような質問をさせたのを知ることができます。

 「『来たるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」(マタイ 一一・3)。

 これはイエスが神の子であるという信仰を持った人のする質問でしょうか。バプテスマのヨハネは以前にヨルダン川でイエスを(神の子としての)証をしたことがあったのです。

 「わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」(ヨハネ一・34)。

 ところが、その同じ人間がその同じ口で今度は「あなたは本当にメシヤなのですか、それとも誰か他の人を捜すべきでしょうか」とイエスに迫ったのです。この質問はイエスにとって失望をもたらしたことでしょう。ヨハネは、なんと信仰の薄い人間だったのでしょう。


 ヨハネの使命成就を願っていたイエス

 バプテスマのヨハネの使命は、メシヤの使命を成就する為に非常に重要なものでした。神は「主の道を直くし、備えられた民の心を整える為」に特別にヨハネを送ったのです。それが、キリストに先立つ者としてのヨハネの使命でした。イエスは。ハプテスマのヨハネが使命を成就することを心から頼みとしていました。ですからバプテスマのヨハネその人が、イエスのもとに来て「あなたは本当にメシヤですか」と言った時、それは、彼がイエスをナイフで刺したより以上の苦痛をイエスに与えたのです。

 イエスがどんな心情であったか、あなたは想像できますか。彼の心は打ちのめされたのです。怒りに震えたに違いありません。イエスはこのあまりに心外な質問に対して「イエス」とも「ノー」とも答えられませんでした。その代わりにこう言ったのです。

 「わたしにつまづかない者はさいわいである」(マタイ一一・6)。

 これは、彼の惨めな失敗を知ったイエスのヨハネに対する慰めの言葉でした。イエスは本当はこう言いたかったのです。「哀れなヨハネ、失敗した男よ。あなたはもはや私に対する信仰を失ってしまった。あなたは神の子に躓いてしまったのだ。かわいそうなヨハネよ」。

 したがって、イエスはマタイ十一章十一節でこう言われたのです。「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」。

 ヨハネは、天国では最も小さい者も彼よりは大きいと言われるところまで落ちてしまったのです。イエスのこの言葉の意味は今まで定かではありませんでした。クリスチャンは、バプテスマのヨハネが、その使命を失敗した人間であることに気づかなかったので、この言葉の真意を理解できませんでした。今夜我々はその真意を知ることができるのです。

 バプテスマのヨハネは神の子を直接に証するという使命ゆえに、女の産んだ者の中で最も大きい者でした。それまでのすべての預言者達も同じような使命を与えられてきました。しかし、ヨハネより前に来た預言者達は彼らと主の間に時間的隔たりをもってメシヤを証してきました。

 ヨハネはイエス・キリストと同時代の人として生まれたのです。ゆえに、キリストが姿を現した時に「生けるキリスト」を証する特権を持っていました。彼の使命に関する限り、バプテスマのヨハネはすべての人のうちで最も偉大な、栄えある人物でした。かくして、イエスは彼を、女の産んだ者の中で最も大きい人物であると言われたのです。

 しかし、彼の使命の成就という点では、ヨハネは最も小さい者であり、すべての人のうちで最も惨めな敗北者でした。彼より前に生存したすべての預言者達は、霊界では天国にいました。彼らはイエス・キリストが誰であるか知っていました。しかし、ヨハネは知りませんでした。彼は疑ったのです。彼は懐疑的になり、とうとうイエスの身分が分からなくなってしまいました。遂には、神の子であると自ら証したことさえ確信できなくなったのです。彼は失敗者となり、したがって天国にいるすべての者のうちで最も小さい者となってしまいました。

 パプテスマのヨハネは首をはねられるという最期を遂げました。もし、彼が天命を行い、世人に対してイエス・キリストこそ神の子であると証をし、宣布していたが為に首をはねられたとしたなら、彼は栄えある最初の殉教者となり得たでしょう。しかし、ヘロデ王の個人的な愛情問題のスキャンダルに関わったという理由のみで彼は首をはねられたのです。

 そういうことはヨハネのなすべきこととは全く関係がなかったのです。神の子に仕えることが、彼の唯一の使命でした。しかし、ヨハネはこの聖なる使命から離れて、無意味な破廉恥とさえいえる死に方をしたのです。この真実は、それがたとえいかに心苦しいことであっても言明されなければなりません。

 もし、バプテスマのヨハネが偉大な信仰者であったなら、その結果はどうであったでしょうか。彼は実際、神の子イエス・キリストの第一弟子とたっていたでしょう。もし、イエスが王であったなら、パプテスマのヨハネは首相になっていたでしょう。それこそ、神がヨハネに予定した地位でした。その場合には、イエスが選んだ十二使徒、七十人門徒、百二十人の弟子達はすべて、ヨハネ自身の弟子の中から選ばれたでしょう。ヨハネはイスラエルの選民と神の子の間に、統一と融和をもたらす仲立ちとしての役割を果たしたでしょう。そうなれば、その情況のもとで、誰が敢えてイエスを十字架につけたでしょうか。誰もいません。十字架による刑は決して起こらなかったでしょう。

 あなたはこう言うかも知れません。「文先生、あなたは何の権威によって話されているのですか。なぜあなたはそんなに確信を持っておられるのですか」と。

 私はまさにこれらのことを言う権威を持っています。神が私にこの真理を示されたのです。私はイエスに会いました。イエス自身が私にこの真理を示されました。そして私は。ハプテスマのヨハネにも霊界で会いました。彼自身、この証の真実性を証言してくれました。このような特別な霊的体験をした後、私が現実の世界に戻った時には、私がそれまで読んでいた同じその聖書が今度は、全く新しい意味をもつようになりました。たとえ、あなたが今、私が話したこれらのことを真理と認めることができなくても、少なくとも是非の判断を保留すべきだと思います。いつの日か、我々すべてが真理を知るようになるでしょう。最終的には我々はすべて死んでいくのです。誰もが霊界に行き着いた時、そこでは真理が太陽の光のごとく輝いています。そこでは誰一人、真理から逃れることはできません。その日にこそ我々は全き真理を目の当たりに見るでしょう。

 しかしながら、この地上に生きている間に、真理を受け入れるほどの謙虚さを持ち得る人は幸いです。真理と神に対するこの地上の知識があなたの永遠の生命を決定するのです。


 イエスは天の雲に乗って来ると思われていた

 イエスがメシヤとして受け入れられなかったもう一つの決定的な、三つ目の理由があります。それは、二千年前選民イスラエルはダニエルの預言に従って、神の子が天の雲に乗って来ると思っていたからです。

 「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の実に乗ってきて、……」(ダニエル七・13)。

 しかし、イエス・キリストは天の雲に乗って奇蹟的に現れては来ませんでした。彼は、ヨセフの妻である女マリヤから生まれました。人々は言いました。「どうしてこのイエスが神の子などと言えようか。彼は私とかあなたと全く同じ人間に過ぎないではないか」。

 これこそ選民がイエスを見捨てたもう一つの動かし難い理由でした。

 ダニエルの預言はイエスの伝道に非常な困難をもたらしました。我々はヨハネの第二の手紙の七節にこのことを見ることができます。そこで使徒ヨハネはこう警告しています。

 「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」。

 これは、キリストが肉体をとって来られたということだけで彼を見捨てた、イエス・キリストを信じない人々に対して、二千年前にヨハネが述べている言葉です。彼らは、誰かこの世のものではない者が天の実に乗って現れることだけを待っていたのです。ゆえにイエスを受け入れませんでした。ヨハネはこれらの人々のことを「そういう者は反キリストだ」と言って厳しく糾弾したのです。このような歴史的真実が、キリスト教の世界から隠されてきました。現在、初めて、このイエスの伝道にまつわる、これらのすべての情況が白日の下に明らかにされたのです。

 ではなぜ、この時に、こういう真実があからさまにされたのでしょうか。それはキリストの再臨が近いからです。そして神はイスラエルが犯したのと同じ過ちをクリスチャンにさせたくないからです。天の父からの明々白々なる真理の啓示によってのみ、すべてのキリスト教会は一つになることができるのです。そうです、真理が我々を一つにするのです。もし、我々が真理を知るなら、その真理が我々を誤った不一致から自由にするでしょう。そして神の明白なる真理が今、明らかにされているのです。


 十字架、それはイエスの二次的使命

 十字架の死は全く神の子の本来的使命ではなく、予定された路程の変更されたものでした。それは二次的使命だったのです。それは変貌山上で決定されました。このことに関する記述がルカ九章三十-三十一節にみられます。

 「すると見よ。ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」。

 イエスの第一弟子の。ヘテロが、イエスから彼がエルサレムで苦しみを受け、十字架につけられるであろうということを知らされた時。ヘテロは、マタイ十六章二十二節にみられるように、激しく反対しました。

 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」。するとイエスは彼に強く追ってこう言われたのです。

 「『サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」(マタイ一六・23)。

 クリスチャンはイエスが十字架上で死ぬ為に来られた証拠として、この件をよく引用します。多くの人がこう言います。「イエスの言われたことを聞きなさい。彼は死ぬ為に来られたと言われた。だから、彼はペテロを咎め、彼をサタンと呼んだのだ。なぜなら、ペテロはイエスが十字架につくのに反対したからです」。

 しかし、現在、その解釈は一つの核心的な点を見落としています。イエスは、神がその御計画を変更され、イエスの使命を変えられたことを知った後に、ペテロを咎めたのです。イスラエルがイエスを拒んだので、神は地上天国実現というイエスの本来的使命をなすには、民の協力が必要である以上、Lもはやイエスがそれを続けることができない、ということを知っておられたのです。

 それで、イエスの伝道の終わりの時点になって、神は彼に霊的救いという限られた目標のみを達成するように願いました。イエスはしたがってこの二次的目標達成の為の準備をしていました。しかし、哀れなペテロは、イエス・キリストの使命がこのように変更されたことについて何も知らなかったのです。

 イエスは、ペテロの慰めと聞こえる言葉が、その時にはすでに神の御意と何の関係もなくむしろ妨げとなったので彼を「サタン」と呼んだのです。ペテロは無知蒙昧から語ったのです。しかし、イエスは、この二次的使命を失敗することは決してできませんでした。というのは、そうなれば、彼が来たことが全く無に帰してしまうからでした。`


 イエスを受け入れれば神の国は実現していた

 もしイエスが、イスラエルの民によって受け入れられていたなら実際には何が起こったか、ということを考えてみましょう。実に、彼はその国の王になっていたでありましょう。そうなれば、イスラエルの王として、彼は彼の弟子達と、ヤコブの十二の部族と、すぺてのアラブの部族とを含むアブラハムのすべての子孫とを統合したことでしょう。彼らのすべては、神の子を中心とした一家族となったはずであります。

 イエス・キリストは、イスラエルの選ばれた民族を中心として神の主権を打ち立てたでしょう。神の国の憲法が、イエスの時代に発布されたでしょう。神の主権が現実化された無敵の国家が建てられたことでしょう。神の下にある一つの国家、それは、人類始祖、アダムが打ち立てるべきであったのですが、それは後のアダム、イエス・キリストを王として実現したことでしょう。ローマ帝国でさえ、神の王国の前にはひざまずいたでしょう。これが、イザヤ書九章七節の預言なのです。

 「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」。

 イエスが死んだ後でさえ、彼の弟子達は、何も持たず苦しみを受け血を流しつつ、ローマに向かって進軍しました。しかし四百年以内に、ローマ帝国はこの何も持たない軍隊の前に崩壊しました。もしイエス・キリストが十字架につけられず、生きてこの聖なる軍隊の指令官であったなら、その時には全ローマ帝国はイエス自身が生きている間の神の下に入ったことでしょう。

 当時、偉大なるローマ帝国は世界の中心でした。神の救いの御計画は全世界を復帰することでした。一旦、神の王国がローマにできたならそれが全世界に容易にもたらされるように神はローマをすべての国々の中心として備えられました。もしイエスが、ローマ帝国に彼の王国の建設することができたなら、その時、ローマの力と影響によって、イエスが地上に生きている間に、世界の隅々までイエス・キリストの福音が述べ伝えられたことでしょう。そうなれば、彼の生存中にイエスは、地上に神の王国を現実化したでしょう。イスラエルの国は、神の王国の栄えある中心となったのです。今日、キリスト教はもはや存在しなかったでしょう。ローマ・カトリックも、長老派教会もメソジスト教会も、キリスト教会も存在しないでしょう。これらのうちのどれも必要ではなかったでしょう。あなたが既に目的地に着いていればその為の車は必要ないからです。

 我々は既に、神の王国の市民となっていたでしょう。キリスト教の歴史には流血とか、殉教者はなかったでしょう。そして、教会の尖塔には十字架はなかったはずです。そうなれば、キリストの再臨の理由もなかったのです。なぜならばメシヤの使命は既に完成されているだろうからです。

 しかし、悲しいかな、現実はイエス・キリストの反逆に合いました。アダムとエバの従順なくして神はエデンの園にその御理想を実現することはできませんでした。そして、イエス・キリストも選民の協力なくして、地上天国を建設することはできなかったのです。


 十字架は霊的救いのみをもたらした

 それでイエスは、彼の第二番目の使命であった霊的救いに移ったのです。選民であるイスラエル民族の無知蒙昧の為に、イエスの犠牲が必要になり、仕方なく神はそうされることを許されたのです。そこが十字架の重要なところなのです。神はサタンに払う身代金として、イエスが十字架でなくなられることを許されたのです。それと引き換えに、イエスの復活の時に、神は身体の贖いはできなくとも、魂は要求することができたのです。ですから、神の勝利は十字架にあったのではなく、復活にあったのです。これがキリスト教の救いなのです。

 イエスの十字架と共に、キリスト教も十字架にかかりました。主が苦境におられる時、誰も彼に信仰を立てなかったのです。誰もがイエスを裏切ったのです。あのペテロでさえ、イエスを否定したのです。しかし、イエスの復活と共にキリスト教も息を吹き返したのでそれから四十日間というもの、イエスは散り散りになったキリスト教の残骸を集められ一つにまとめられました。それが今日のキリスト教の始まりであったのです。そうなのです、我々の救いは勝利された復活からきているのです。

これは、サタンの力の及ばないキリスト教の勝利なのです。しかしイエス・キリストの身体は犠牲として、また償いとして取り去られてしまいました。御自身の肉体を取られたゆえ、人間の身体についても同様に諦めざるを得なかったのです。ですから我々の救いは魂の贖いのみをもたらし、限界があるのです。この理由は、二千年前に肉身の贖いがなされなかったからであります。この世は未だにサタンに蹂躙されています。この世界では未だに罪は私達の身体をとおして荒れ狂い、私達を支配しているのです。聖パウロは、ローマ人への手紙七章二十四I二十五節で苦悩のうちに次のように叫んでいます。

 「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」。

 聖パウロは主の恵みの中に生きた人です。しかし彼のような人でさえ、心では神に仕えることができても、身体は罪の律法に仕えていると告白しているのです。彼の肉体は救われていなかったのです。依然として、罪の中で苦悩していたのです。それは私達にとっても同じです。キリストを受け入れることによって我々は霊的救いを受けました。しかし、私達の肉体はキリストが再び来られて、我我を罪の束縛から解放されるまで、サタンの支配する罪の法則に仕えているのです。

 再臨の主は全き救い、すなわち霊的な救いと肉的救いの、その両方を与えることのできるたったひとりのお方であります。今日のキリスト教は霊的救いを与える力しか持たないのです。その当時のイスラエルと違って、キリスト教は実体的な国の基盤を持っておりません。ですから、キリスト教における神の支配圏は霊的な国のみであります。したがって人間の最も大きな希望はメシヤの再臨なのです。これはアメリカの希望であり、世界の希望でもあります。アメリカ──このユニークなキリスト教国は今、目覚め、メシヤの到来の日に備えなくてはならないのです。

 アメリカのキリスト救国は今日、二千年前のイスラエルと同じ霊的な立場に立っております。アメリカはメシヤが二十世紀に足を下ろす場所に定められているのです。神は世界に救いの手をさしのべたいのです。しかし、そうする為には、神はまずアメリカから着手していかなければならないのです。アメリカの役割は二千年前のa ローマ帝国のそれと同じです。ローマがその当時の世界の中心であったように、アメリカは現代の世界の中心です。イエスはローマに目をつけられました。ですから、キリストが来られる時、彼はアメリカに目を注がれるのです。


 再臨はいかになされるか

 今日、我々は論理なくしては何事も信ずることができません。神は真理であり、真理は論理的であります。無知には完全というものがあるはずがありません。キリスト教の祈りだけでは、ニール・アームストロングをして月を踏ませることはできなかったのです。科学的真理が必要だったのです。私自身は、かつて科学部の学生でありましたし、神が科学の神でもあるということを知っています。このように神の言われることは二十世紀の人間にとって、科学的であり、論理的であり、説得力のあるものでなければなりません。

 さて、キリストの再臨がいかになされるかを語ることによって今夜の話の頂点に移りたいと思います。聖書のマタイによる福音省二十四章三十節を読んでみますと、

 「そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗ってくるのを、人々は見るであろう」とあります。また、黙示録一章七節には「見よ、彼は、雲に乗ってこられる」とあります。ところが、テサロニケ人への第一の手紙五章二節には「主の日は盗人が夜くるように来る」となっています。ある預言書には、主は天の雲と共に来ると言っており、また別の預言は盗人が夜来るごとく来る、と言っています。これら二つの預言は少しく矛盾しています。もし彼が盗人のごとく来るなら、同時に雲の中に現れることなどできません。では一つを取って別の預言を捨ててしまいましょうか。

 二千年前のイスラエルの選民は神のお告げが象徴で表されていることが分かりませんでした。彼らは神のお告げを文字どおり解釈したのです。それは重大な誤りでした。我々クリスチャンが新約聖書を読む時には、同じ過ちを犯してはなりません。我々は神の側に立って聖書を読むべきであり、比喩や象徴の真なる意味を知るべきであります。二千年前、すべての人々が、エリヤが青空から現れることを期待していました。しかし、彼はそのようには来ませんでした。また、彼らはメシヤが天の雲と共に来ることを期待しましたが、そのようには来られませんでした。今日、クリスチャン達は再臨の主が雲に乗って来ることを期待しています。しかし、あなたにはこの時代にそのような期待が裏切られないという保証がありますか。


 主はいかに来られるか

 では、天の雲に乗って来るというのと盗人のごとく夜来るという、二つの可能性を謙遜に、そして心を開いて受け入れてみることにしましょう。もし、あなた方が主が雲に乗って来られるとのみ考えているならば、肉体を持った人の子としての到来というのはあなた方の期待に添わないでしょう。あなた方はきっと二千年前ユダヤ教信徒達が犯したのと同じ罪を犯すようになるでしょう。けれども、もしあなたが謙遜であって、肉体を持った人の子としての主を敢えて受け入れるならば-それは主が盗人のごとく来ることのできる唯一の方法なのですが-あなたは見失うことはありません。どのような方法で来られようとも、主にお会いすることを確信するでしょう。もし、あなたが主を全く見失うということがあるなら、それは彼が盗人のごとく来られた時のみでしょう。もし、彼が雲に乗って来るなら心配するには及びません。誰でもその時、彼を見るからです。テレピ放送がこれを確かめてくれるでしょう。

 しかし、私は皆様に、神は彼の息子を文字どおり雲と共に送りはしないだろうということを言わなければならないのです。

 主の再臨を待ち望んで空を見上げていても失望するばかりです。彼はもう一度、肉身を持った人として来るからです。これは神の啓示であります。聖書の重要な預言を読むことによってそれを証明させて下さい。ルカ福音書十七章二十節には、

 「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない』」とあります。誰もが天の雲を見るでしょう。しかし、イエスは「我我は御国の到来は見ないだろう」と言われました。ユダヤ教信者達はメシヤの到来を見たでしょうか。いいえ、見ませんでした。なぜなら、彼は肉体を持った人の子として来たからです。

 次に、イエス・キリストの最も驚くべき発言をみてみましょう。たいていの人は「聖書はそう言っていますか」と聞きます。ルカの十七章二十五節を見ますとイエス様はこう言っておられます。「しかし、彼(再臨の主)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」。

 主がもし、天使のラッパの音と共に、力と大いなる栄光のうちに雲に乗って来られるなら、誰が敢えてその方を拒絶したり、苦しませたりするでしょうか。あなたでしたらそうしますか。これはイエスの語られた言葉です。その方は苦しみ拒絶されるのです。なぜなら、その方は肉体を待った人の子として来られるからです。最初はその人をキリストとして認めることは難しいでしょう。全キリスト教会、そして全キリスト教献身者達は天の雲に乗って主が来られることを待ち望んでいます。彼らは空を見上げ、そのお方の現れるのを待っているのです。しかしもし、その期待が外れ、ちょうどイエス様がこの世に初めて来られた時のように、人の子として突然現れたのでしょうか。

 まず初めに、人々は彼を拒絶し苦しみを与えるでしょう。最初はキリストを受け入れはしないでしょう。多くのクリスチャンは、石を取って彼に向かって投げるでしょう。また多くのクリスチャンは、その方を不敬な者とか異端者と呼び、また悪魔に取り憑かれていると言って非難するでしょう。これらは二千年前、イエスに対してなしたと同じ罪であります。

 しかしながら、イエスは十字架にかかるために再び来られるのではありません。彼は栄光の主として来られるのです。この世を審判し、善と悪を分け、神の国を創る為来られるのです。神の義が地上に広がるようにされるのです。ルカ福音書十七章二十六-二十七節を読んでみますと、「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした」これが人の子の時のあらましです。そして、これは主が肉身を持って人の子として来られる時起こるのです。

 ひとりの人間として、来臨されるイエスは天国を唱えるでしょう。しかし、誰も耳を傾けはしないでしょう。きっと彼を笑い嘲り、あらゆる悪いことをやるでしょう。そうして主が審判の座に引き上げられるまで、この世は、その常のごとく肉欲的なもの-食い、飲み、めとりなどを続けるのです。世が彼を審き主として認める時はもう遅すぎるのです。方舟は閉まり、審きがまさに始まらんとしているでしょう。

 さあ、イエスが言われているこの一節を聞いて下さい。

 「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさぱいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ一八・8)。

 イエスは、キリストが戻られた時、地上に信仰があるかどうか問われました。なぜでしょうか? 歴史は繰り返すかも知れません。二千年前、イスラエルには、凄まじいほどの信仰がありました。彼らは朝に昼に夜にユダヤ教会で祈りを捧げました。彼らは絶えず経典を読み、襟にそれを印し毎日暗唱していたのです。また、彼らは十戒を守り、あらゆる律法に従いました。農作物の十分の一を捧げ、断食に断食を重ねました。それでも、神の子が現れた時彼を認めることができず、十字架につけてしまったのです。イエスは信仰を見たでしょうか? イエス・キリストの目には、地上に信仰が全く見られなかったのです。

 ですから、彼が再び肉身を持った人の子として現れる時、地上に信仰が見られないかもしれません。何百万ものクリスチャンや何千もの教会は、人の子の到来を決して見ないかもしれません。なぜなら主が肉身を持って来られるからです。

 では最後にマタイ七章二十二節-二十三節を読んでみましょう。

 「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。

 これはどういうことでしょうか。なぜこれら主の名を尋ねる献身的なクリスチャンが悪を行うとして非難されるべきなのでしょうか。どんな悪事を犯したというのでしょうか。歴史をとおして、多くの重大な罪が神の名の下に犯されてきました。それは生命の創造主を殺そうと企んだ祭司であり、長老でありました。彼らはそれを神の名においてやったのです。

 キリストがもう一度肉身を伴った人の子として来られる時、まず第一に、彼は二千年前来られた時と同じように扱われるでしょう。しかし彼は十字架を繰り返す為に来られるのではありません。この時は、神の力が明らかに現れるでしょう。再臨の主は本当に審きの場に着かれ、審き主として審判されるでしょう。

 彼がその座に引き上げられる時、誰もが彼を見るでしょう。彼が誰であるか、誰でも間違いなく、はっきり知るでしょう。そしてすでにそのお方を非難したり、拒絶したりした人達はそのお方になした悪事の為に泣き叫び、深く悲しむようになるでしょう。しかし、その時はもう遅いのです。主は彼らにこう言われるでしょう。「あなた方を全く知らない。不法を働く者どもよ行ってしまえ」。

 主は来られます。そして主は、人として来られるのです。そのうえ神の力と栄光を持って来られるのです。そしてこの世を審判されるのです。柔和な者達だけが祝福されるでしょう。傲慢な者達は消すことのできない火を見ることでしょう。`


 神の目的は成就される

 第一のアダムとエバ──御存知のように神は創造の始めから、地上の天国を最初のアダムとエバと共に造る計画でした。彼らがもし神に対して本当に従順であったなら、彼らは完成し、また神は彼らに天的な結婚をもたらし、神の意志のごとく地上に最初の家庭を造られたでしょう。この家庭は地上天国の基となり、アダムとエバは人類の真の父、真の母となられたでありましょう。エデンの園というのは、そういう国の象徴的な表現であります。そして、この世は神の喜びの世界になったでありましょう。

 このとどのつまりは、仔羊の婚宴の話として、黙示録に預言されています。再臨の主はその仔羊であり、その完全なるアダムであります。主は完全なるアダムとして来られるのです。そして彼は完全なエバを復帰されるのです。それから彼は引き上げられ、人類の真の父母となられるのです。そしてついに、神の喜びは完璧なものとなるのです。

 第二のアダムとエバ──しかし第一のアダムとエバは失敗してしまいました。しかし神の理想は変わりませんでした。神は始めに計画されたように神の国を実現し、喜びの世界を創ろうと決心されました。そして、聖書の歴史で四千年後に、神はもう一人の完全なアダムを通じて地上の神の国を復帰しようと計画されたのです。イエス・キリストがその完全なアダムであります。聖書のコリソト人第一の手紙十五章四十五節には、イエスは「最後のアダム」、すなわち第二のアダムであるとあります。彼は失敗した最初のアダムの代わりに二千年前に、完全なアダムとして来られたのです。

 アダムの復帰では、神の国はできません。花嫁であり、母親である第二のエバがいなくてはなりません。ですから神は、この第二の完全なるアダムであるイエス・キリストに彼の嫁となる人、完全なるエバを復帰する予定でありました。これがエデンの園で失われた第一の家庭の復帰でありました。

 第三のアダムとエバ──しかしながらイスラエル選民の反逆の為に、これは達成できませんでした。それにもかかわらず神は御自身の意志を成就することを決心されたのです。そうしてキリストの再来を約束されたのです。

 イエスが亡くなられてから、約二千年がたちました。そして今、神はもう一度第三のアダムの立場で神の息子を送られるのです。歴史をとおして、神は常に三度目でその目的を果たしてこられました。数字の三が完成の数であるというのは本当です。この時、神は完全なるアダムとエバに天的な結婚を挙げさせて、神の長い間の理想を確実に成就され、地上の天国の基を敷かれるのです。

 十字架にかけられる少し前、イエスはペテロにこう言われました。

 「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・19)。

 この地上で失敗したのです。罪はこの地上で犯されたのです。ですからそれは、この地上で償われ根絶やしにされなければなりません。イエスは私達にこう祈るよう言われました。「み国が来ますように。みこころが天に行われる通り、地にも行われますように」。


 地上に天国実現

 地上が問題なのです。それがなぜキリストが地上に帰って来られなければならないかの理由であります。世の終わりがくる時、神はすべてを破壊され、日は暗くなり、星は落ち、僅かひと握りのクリスチャン達が空中に引き上げられ、キリストと共に至福千年を迎えるということを多くのクリスチャンは信じております。

 しかし、もし神がそうされるなら神は失敗の神になってしまいます。というのは神の本来の御意が、この地上においては決してなされないからであります。サタンの為にこの地上を見捨てることになるからであります。それではサタンは事実上の勝利者となってしまって神は敗者になってしまうからです。そのようなことは決して起こらないでしょう。神は全能であらせられます。神はこの地を諦めることは決してされないでしょう。神の国はそう計られたゆえ、なるのです。このニューヨークもまた神の国となりましょう。もしあなた方がメシヤの訪れを見るなら、あなた方は神の国の住民となれるでしょう。彼はあなたの希望であり私の希望であり、アメリカそしてこの世界の唯一の希望であります。

 しかし、もし私達が彼を見ることができなかったら、その時はキリスト教にはもはや希望がなくなるでしょう。キリスト教は衰えるでしょう。その神霊の火は消えてしまうでしょう。教会は古い遺物の墓と化してしまうでしょう。その時には、この世は暗い運命を持つようになるのです。

 皆様、今夜私は神の命令によって、ここマディソン・スクェア・ガーデンに来ました。聖書の使徒行伝二章十七節にはこうあります。

 「『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るのであろう』」。

 我々は、新しい時代の誕生というとてつもない時代に今生きているのです。天国は非常に近づいております。そしてもしあなた方が熱心に神に求めるなら神はあなた方に答えてくれるでしょう。直ちに神に尋ねなければなりません。「文師が、真実を語っているかどうか、どうしたら分かるでしょうか?」と。どうか私や誰か他の人にその答えを聞かずに、神が直接あなたに答えるようにして下さい。心静かに、そして神に熱心に、心を込めて尋ねて下さい。祈りのなかで神と対決して下さい。神は答えられるはずです。

 人類にとって新しい希望は、メシヤであります。主の大いなる、かつ恐ろしい日はすぐそこに近づいているのです。その日がすばらしい日か恐ろしい日かは、あなた方次第です。もしあなた方が救い主に会うなら、あなた方にとってその日はすばらしい日となるでしょう。しかしもし、救い主に会うことがなければ、あなた方にとってその日は本当に恐るべき日となりましょう。

 神の祝福がありますように。御静聴ありがとうございました。カムサハムニダ! ありがとう。そしてよき晩でありますように。

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