教養講座での御言
一九六五年十月七日
本部教会(東京都渋谷区松涛町)
教養講座。だったら昔でいえば、修身の時間だね。
(「天宙の大きさのことを」)。
自分の心の大きさもわからないのに、どうやってわかるの。
創造原理の解明
(「先生はいかにして創造原理を」)。
いかにして創造原理を? そんなこと聞くんじゃないよ。先生、困るんだね。
それより先に、神の存在をいかにして認めるか。そういう問題になってるんですね。神あってから創造原理はある。問題はそこから。神が存在するや否や。それが問題ですね。そういうことをいうと、結構、真剣になるよね。真剣になる。神がおるかというと、昔の過去のことをみんな思い出して、真剣になっちゃうね。真剣になっちゃう。だから神のことを考えるにはね、自分ということを考える。自分はどこから? お母さんから。ずっと上がるんですね。それがどこまで上がるか。人間の初めはどうなっているか? 人間はどうなっているか。神様が本当に造ったか、となるんですね。我々の先祖は誰なのか。それはわかりたいね。この世界にはあらゆる人類が住んでいる。その一番最初のその本当の直系はどこにいたか。そう思ったら神がおれば、自分の直系のその民族を愛したか、それとも他の民族を愛したか。それから自分という位置はどういう系統に立っているか。それがわかりたいんだね。そういうふうに、いろんなことがある。
そうして神が本当におったならば、人間とはどういう関係だろう。みんな打ち明けて解決しなければならない問題だ。あらゆる一から十までね。そういう問題が横たわっておる。それで神と自分との関係を結ぶには、いかなる関係を神は要求するか。歴史的関係か、時代的関係か、それとも未来の関係か、それ考えるよ。何の関係だろうか? それを考えるんだね。神はこういう考えを求めた。それはそうであるかどうかということをね、テストしなきゃならない。長い苦労の道があるんですね。神様と人間との関係。その関係は何を中心として、キーポイントとしておるかということをね。そこから問題を引き出して、その問題を解いて、神をわかり、自分の位置と自分の価値をわかって来た。だからもしも神がおれば、神自体は自分で希望を持つか。神の希望は何か? 神がもし我々の生活みたいにその事情があるだろう。神の事情は何か。神の喜ぶ神の心情は何を追及するか。そういうふうに神の希望を見い出す。どこに目的地点をおいているか。あらゆる問題が問題になってくる。それをみんなテストして聞いていったら、それ全部、神の希望やら、神の事情やら、みんな総合して結論を下すというと、人間になるというんですね。人間とその神との関係。それは何でもってつなげられるか。心情基準を通過しなければならないというんですね。その心情基準は民族的でなく、全体的基準としなければならない。全体的思想の基準から神の位置と、宗教的な、みな分別してね、それを解明していかなければならない。
だから最後に深い所に入って祈るというと、「宇宙の根本は何か?」、聞いてみるというと、答えは簡単である。「親子だ!」、親子。父母と子供だ。そういうような答えである。普通の人は、自分を産んでくれたその父母であり、生まれた自分たちだと思うんだね。そうじゃない。最初の基準として、人間と神が親子の関係であるというんですね。それは天的心情を、それから天的血統を中心とした子女として、親子関係が宇宙の根本である。そこまで入る。すると父母の神の子供か。君たちを産んでくれた父母が、自分を産んだということを否定できないように、本当に神は自分の親であるか。意識観念におきまして、それを否定できない子女の心情圏に、我はいかに入るか。それはそれを誰が否定しても、如何なる論法でもって否定しても否定できない。否定するほど明確だという、その圏内にいかに入るか。それが問題になるんですね。いろいろの問題じゃない。心情でなければならない。そうすれば、神に対してズーッと相対圏に入って、「神よ、御父様」と叫べば、宇宙のすべてがそこに集まる。「御父様」、その言葉は全体的な定義だ。自分のあらゆるものの表象の中心語として感じてくるんだね。そういうけんかい圏界にまで入らなければならない。だから、自分の心から、どういういかなるものがあっても、神が親であることを否定できない圏界。神様も自分に対してそうだと疑うことのできないその圏界をいかにしてたいじゅつ体恤するか。そこにおいて初めて親子関係であることを知る。しかし、悲しい道が残っているんですね。親であるということを知ったんだけど、親との因縁をたどって直接の関係を持つことはできない。そこには先祖たちのその過ちがあった。
だから宇宙の根本とは、親子だ。万物は何か、親が子供のために造った美しい庭園である。庭園だ。そして神をはっきりとわかれば創造原理というのは自然と出てくる。創造原理、私の心と体とは、こういう関係になっているんだね。神を中心とする相対基準になって四位基台を保ち得るんだね。それを永遠に永続的に関係を持つには、その授受作用をしなければならないんだね。そのように神をはっきり知れば、その原理が自然と悟れる。だから我は知りたくないと言ってもね、前に引っ掛かってくるよ。簡単なもんじゃないよ。
創造原理を知って、堕落論を知って、それから復帰路程をずっと解き明かしてね。君たち、その原理を習う時ね、原理が言葉だけと思うなよ。その道跡を先生がズーッと歴史と闘って行った足跡であり、闘いの跡である。これを考えなければならない。アダムの家庭といえばアダムの家庭じゃないよ。先生を中心としてエバが堕落したそれ以上の段階入らないと、エバの誤ったのを改め直すことできないんだね。いかにしてアダム、エバが堕落していったのかがわかるか。その限界を超えて行ったんだから。アダムの堕落による神の悲しみを慰めなければ、神の本当の喜びの基準を我々に授けることができない。だから蕩減基準を心情でもってみんな解決していかなければならない。だから心情におきまして歴史上に心情圏におきましては神の深い内心圏まで行って、そして神を慰めて、我々を相手にして下さる、そういう基準を造っておかなきゃならない。
神がいるとすれば、創造原理によって造られた。神が親であり、自分は子供であれば、その関係でもってすべてが創造原理によって、それなってるんだよ。なってるから、我々はその通り行かなければならない。生活しなければならない。そういうふうに動かなければ、心が苦しい。苦しいんだね。
創造原理とか、先生は捜す時にね、心身共に平安な道をたどっていけば、その原則の原理基準を通過すれば、ちゃんとわかる。だから今世界的思想家とかね、あるいは大科学者とかそういう人たちはね、自分たちの頭で発表するんじゃない。真心を尽くして自分もそれがいいから研究するんだね。自分が強くひかれつつ熱中した結果、世界的先駆者になったんだよ。自分たちもそれと同じように、食う時も寝る時も、目が覚めればその場で、それによって生活するのが一番楽しい。すぐわかるよ。
だから、その原理を勉強する時ね、その道を開拓した先駆者だ。先駆者としての闘いを先生一人でやってきた。素晴らしいものですよ。数多くの数千年の歴史の過ちを、結びつけられたこれをみんな解いてやって、一本の道を造っておいた。それは世界的な貢献である。人類歴史において最高の成功をした訳なんですね。それを霊界から勝利の基準を立たして地上を連結しておく。それから?
御父様の幼少時代
(「先生はいつ頃から神を考えていましたか」)。
先生は小さい時からね。普通の子供たちと違ってたんだね。神秘的な素朴なところ。人よりも自然の方に抱き込まれて、何かその一日を朝から晩までズーッと過ごした。そして人々の使う言葉を、話をすると、ああいう人たちのあれは良くないねということを感じるんだね。ああいうふうに話をすれば気持が良い、ああいう話は気持が悪い。関係ないのに、言葉を聞いたらそれが響いてくるんだね。その深さによって、その人が善なる立場に立って語っているか、悪なる立場かわかる。
若い時もそうだったんですよ。だから村の人たちもよくわかっている。それで自分のその娘をお嫁に行かしたい。そういう時、先生のところに来て、旦那さんになる人、お婿さんになる人の写真を持ってきて「この人はどうか」。先生が良い人と言ったらね、見ると同時につき合いたい。しかし悪い人は見ると同時に嫌う。わかるんだね。まあそうだったんだね。
だから子供の時でもね、子供と友達を造るのが嫌だった。何か気が向かない。それよりも真を尽くして道の道を行くとかね、天に対する姿勢、真を尽くすという人だったらね、その人の、その周囲に座って見ていると気持がいい。そうなる。山なんか行ってもね、いい所と悪い所がある。わかる。こう行ったらへりがあるなと思ったら間違いなくへりがある。そういうふうな触覚、感覚作用というのが、ちょっと違ったんだね。それから「ああ明日は雨が降るな!」と言ったら、そうなるよ。家庭の家族たちが病気になるんだったらね、その徴候を感じる。人はそういうおもしろい器官を持っているよ。君たちもそうなんだよ。君たちも。みんな、いらない事を考えてみんな頭に詰め込んで生きているんだからね、そういう器官がみんな塞がってしまう。だからいつも修養して行けばさ冴えてくるよ。頭が冴えてくる。ある時には遠くからお客さんが来る。電波が来るんだね。今はそういうことを考えないからね、そういう気持を持たない。今も深く祈ったら、君たちの感じた事がみんなわかるよ。
だから相当祈りをしたんだよ。それで苦労なくして求める事はできない。苦労なくして事は成せない。君たちは「統一教会に何月に入って、我は悠々とした統一教会の青年である」と。先生はそうは思わなかったね。今でもそうである。今でもそうである。「私は統一教会の絶対的権限を持った先生である」、そうは思わない。一番近い、一番近い親の心。座ったら近寄ることが嫌じゃない。夜通して話して一番近づくのがいい。もっともっと。遠い所に離したその子供たちをね、失なったのを捜して来た、そういう気持だね。だから座ればその人が良い人だったらね、その人を抱き込めてね、そうして話したい。そういうふうになっているんだね。だから話すことはたくさんある。一から十まで。だから夜通して話してもね、飽きない。実におもしろい。真心尽くしてその自分のやったことが、夜通して聞いてやるよ。簡単明瞭に、そうじゃない。いい気になってね、自分の本当のやったその経験をね、体験した話を先生はよくわかる。年取ったお婆さんが夜通し話しても、額をつけて良く聞くんだよ。先生の一生涯の最高の使命が、それしかないように聞いてやるよ。神様がそうなんだ。神様はそういう人を好むよ、そういう人を。君たちの親もそうでしょう。君たちが大きくなればね、段々離れて行く。それは悲しい。親にとってはね、いくら成長しても子供の心情をいつも欲しがる。それが慕わしいというんだね。しかしそれが遠ざかるというと、親は寂しく思うのが親の心である。
天の神様もそうである。君たちがどこかで働いて来た、伝道して来た、いいことがあった。「はあ、今日こんなことがあって、こんなことをやって来ましたよ。本当ですよ。淋しい。僕も淋しい。神様、淋しいです」と言って涙を流すというと、神様も流すんですよ。君たちはそういう祈りをする? 「神様、御父様、寂しかったでしょう」。実に父に対面して話をする気持だ。何か遠い所に座って、そうじゃない。先生が祈る時にはね、子供みたいに、よく祈ったよ。転がりながらね、歌を歌いながら、ある時にはもう踊ったり何とかしてね、「お父さん、こういうことも悪くないでしょう」と言ってね、祈るんだよ。祈りというのは、歌で祈るのが一番感動的だね。歌で、自分で歌のいい曲を一つ選んで、それに合わせてずっと歌詞をつけながら祈るんだね。ズーッと詩篇みたいにね。そしてその声でもって感動する。自分が歌うのを、自分が忘れて聞く段階に入る。そして神秘的境地に入る。最高の経験は、神の心情を中心とした所に最高の経験がある。子供がね、親のひざ膝の上で踊りを踊っているのが最高の経験だ。親にとっては最高の経験だ。「お母さん」、もしも子供がね、「お父さん」。話の知らないその段階において、その子供が、「お父さん」。こういった経験がない。そういうふうになるというと、あらゆる事についてはその環境というのがね、自分の心に何パーセント合うか、すぐわかる。そして合わない時の空気が、自分に合うようになったら、君たちのその雰囲気的にみんな包まれる。そういうふうに、そういう環境におるすべての人が、自分知らずにそうなるんだね。
霊界と先生
それからその先生の性質というのはね、一つやるんだとしたら絶対やめない。自分がやると言ったら、これのために生まれ、これのために食べ、これのために働く。一回手をつけてやれば、先生は、最後までやる。そういう性質がある。だからこういう道を始めてから、君たちは何年も経たないうちにみんな放りっぱなしにして行くだろう。君たち、首をかけて祈ってみな。「お父さん、私死にますよ。教えてくれなかったら」。「死ね、死ね」と最初はそう言うんですよ。本当に真心をもって知りたいと祈れば、先生はどういうことをやったか、みんな見せてあげますよ。
そういうふうにして開拓した。それをわかろうとしたら、その未知の世界、霊的世界でわかったのは、数多くの霊界を総動員して先生に反対して来るんだね。相撲取りみたいにね、一騎打ちみたいにして、最高の勝利を決定するには、力でもってやらなければならない。実力でもって勝利しなければならない。神の補助、神が助けてやれば、サタンの方からざんそ讒訴する。闘わなければならない。勝利を決定したんだから、数多くの霊能者は先生を証明しなければならない。先生をなぜ証するか。そうするその動機があったんだから、その動機を基準にして、その雰囲気とかそれを無視することはできないんだからね。やった基台がなければならないんだね。霊界の統一圏を立たさなければ、地上の統一圏が立たない。そういうふうになっている。だから霊界についてはね、そういう全部説明すれば限りがない。
四十年間。今は先生は何才かな。(「四十六才」)。四十六才か。君たちはもう先生よりももう良くわかってるんだね。先生、歳忘れちゃった。四十四かな、今から一才に向かって回れ右したいね。四十六年話してもね。だから見ればね、何が違うか? 違うものがあるんだね。何が違う。だから霊界の方ではもう関心持っておるよ、先生に対して。「今日はどこに寄った?」。君たちよりも熱心だね。統一の聖徒たちは、先生を眺めながら、先生の行く所で待っている人が多いんですよ。それより以上の霊界は真剣である。君たちは何でもない。話が遠いその距離にあるからね。ピンと来ないんだね。ピンと来ないでしょう。
先生の生涯
(「もし、よろしかったら、先生の生い立ちをお話し願いたいんですが」)。
死んで霊界に行ったらね、先生の生涯を知れるよ。詳しく説明してやれば、君たちの蕩減条件が大きくなる。聖書がイエス様の生涯を記録しなかった。なぜかというと蕩減条件になる。だから先生の生涯は話せない。それでも聞きたい? それでは全世界の人々の蕩減基準に責任を持つか。自信ないのにそんな、でかい事言うんだからね。もしもできるんだったら、先生が忘れて、こういう観念が残っておれば、それは皆さんに残るというんだね。できるんだったら忘れたい。先生はもっと苦労したよ。人間としての体力で耐え切れる苦労は、今のいかなる人にも、比べものにならない苦労をした。いかに苦労したか。それ以上の苦労をした。精神的苦労、肉体苦労、誰にも負けない苦労した。だから先生は、生まれてから健康体を持って生まれたね。無理しておる。いかに無理し続けてもね、パパッとそれを整理する方法があるからね。だから大きな仕事するにはね、体が健康じゃないとね。だから女は健康な男、男は健康な女を、結婚の相手にもらうんだね。かわいい、きれい綺麗な人はね、だいたい体質が健康体じゃない。
だから君たちは先生とつき合ってみれば、先生はわからない。ある時はこうであり、ある時はああで。十年同じく住んでも先生はわからない。ある時は子供みたいに、ある時にはやさしい。ある時には怖い。いろいろな日があるんだね。あるいは一日話もしない。あるいはパーッと笑う。先生はどこへ行っても知り得ない。先生はやりたいようにやるよ。しかしそれは環境に反するような気持はしないんだね。自然に、それは合うんだね。そういうふうになる。
直系と傍系の歴史
(「復帰原理と日本の歴史、あるいは直接原理に出てこない歴史について」)。
それは立場が違う。国家的歴史の蕩減圏の一部を担当して発展して来る。だからそれはいろいろ違う。しかし全部を合わせて一つの目的圏を補うその歴史観を確認できる。だからある部分の歴史を背景を持っている。
それはどの部分かというね。どこからどこまでそれが果たせられておるか? あらゆる民族の路程はサタンの原理型をたどって行くんだからね。それを反対に回して行けば原理になっちゃうよ。方向転換すれば原理になっちゃう。だからみんなサタン側の歴史というものを造って、その背景にはその一部の責任も因縁も残っておる。そこに功を天の方に果たしておる。それがあるから歴史がつながる。世界的なその運勢がね、それ背景として連絡することができる。全体的摂理がつながる。それがなければ、現世の位置が神と関係を持つことができない。
(「そのつながりの関係で、イスラエルの歴史、あるいはキリスト教史と日本歴史の関連もある程度のつながりがありますか?」)。
直系か傍系の立場でみんな関係がある。だから時代の流行、世界の流行がなぜ起こるか。それは歴史の背景因縁があってね。そして流行して何するか。傍系の立場においては、直系の立場とつながるために世界的流行が起こる。頻繁になると関係を持つようになる。だから今後の世界歴史は、人類が往来すればする程、良いものを中心として統合される。悪いものは淘汰されて、いいものが残るんだ。そうなっているよ。一番日本の生活がいいといってもね、それより以上のいい生活基準が現われて来たら、みんな吸収される。そういうふうにして文化の交流と共に、その一つの善なる良き世界観が自然と残って来る。統合の軌道に乗るわけなんですね。いいことは残る。より良いことは多くの人が慕う。みんなそれを基準として進んでいきたい。そうなるんだからね、善の方に段々一つとなって、こういうふうな形でね、つながって行く。
(「すると、日本民族の通って来た復帰路程、第二次世界大戦における日本の国家的位置の意味などについて」)。
だからね、二千年の歴史をイスラエル民族を中心として摂理して来たんだけれどね、ある国は三百年の歴史、あるいは五百年あるいは一千年、それみんな違うんだね。そうして時代の目的基準に向かってみんなが発展して行く。それは単位が各民族により違う。それから民族としての蕩減条件によっても年限が左右される。その全体がいかなる天の摂理にあって、善なる蕩減条件を、全体的摂理の基準に果たし得る条件を残したか、それによっても左右される。だからその国におきまして、あるいはその中心とする国家的その英雄とか現われてくる。その各国でも違うんだね。年限も違うんだね。それはそういう英雄とかそういうものが現われてくるのはね、何のために現われてくるか。その国家をある方向に統合させるべく大なる進歩を来たさんがためにそうして現われてくる。そして大なる進歩をもたらして何するか。神の摂理に歩調を合わせんがために、そういう英雄とかそういうのが現われてくるんだね。
それが国家的その英雄も現われてくるし、東洋だったら日本の国家的英雄が生まれて東洋に対しては東洋的英雄も生まれてくる。それは世界的英雄も生まれてくる。そういう連絡をつくように発展させて行く。だから君たちは知らないんだけどね、復帰目的を完成するために今君たちが知らなくして蕩減の使命を全うしてくる、あらゆる民族がある。いろんなことをやるんだよ。君たちが理解できないことやるっていうんだよ。
釈迦と神
(「お釈迦様は神様を知っておられるんですか?」)。
神様を今は知ってるよ。
(「今は知ってますけれど、昔は?」)。
昔の時代におきましては、はっきり知らないんだね。
ほんとうは神様がわからないんだよ。あるかないか、わからない。なぜかというと、神様を呼ぶと、「何だ」と心の中から答えるんだね。それがわからない。聞いてみればね、良心、心の中から話す。自分で「君、こうしてはいけない」。自分が自分に話すように感じるんだね。
だから釈迦もそういう境地に入ったね。「天上天下唯我独尊」と言ったのはそこである。神様は別にあるんじゃない。そうなんだよ。神様がいたら、「何だ」、自分の心の中で答えるんだね。それが自分だと思ったんだけど、大間違い。そこをはっきりと区別をする。君たちもそうですよ。通じればね、口で話す。「何だ、あいつ」。話してね。自分知らずに話したのが、自分が話したように感じるんだね。霊人体、その自分の中に神様が入って話したのもわからずして、自分が話したように意識圏が働くんだからね。それ分別できない立場に対して、そういう過ちに至る。自分で話したんじゃない。自分のその意識圏を動かすような、自分が動機の立場に立っているような、自分の自身の立場で、始めたように思う、その基準に立って、そういう神が別におるんじゃないと思うんだね。しかし、ないんじゃない。おる。そういう霊的経験をあげれば、たくさんあるんですよ。だから自分も知らずして行動もするんだね。自分がするんじゃないよ。霊人体に入って、自分の心を動かして、自分が無意識のような状態で、自分がやってるように感じるんだね。それまでの間、良心が自分でずっと説教する。自分がやるんじゃないよ。女の人たちはそれよく経験すると思うんですがね、自分で一人ごとをズーッとする。
だから今、現代のノイローゼ現象とかね、それみんな霊的現象になっている。中間的な、自分で一人ごとを言う、そのことがよくあるんだね。そういう結果が現われてくる。それは自分が言ったんではなくして、霊人体が良心の作用して話す。釈迦なんか、その基準をはっきり分別できなかったんだね。分別するにはどうするか。今一時間前にそういう現象が起こった。しかし、今のままでしてはいけないんだね。自分のかんかつ管轄圏内におるんじゃない。限界にある。いかに要求してもそれは現われてこない。それは向こうの要求によって現われてくるんだから、他の存在に違いない。そういう体験をしたら、すぐわからなきゃならない。それを分別しなければならない。
世界大戦
(「第一次世界大戦と第二次世界大戦の時に、サタン側の国と神側の国とはどういうふうにして考えたら」)。
一つの歴史解決が決まるには、原理的基準を正さなきゃならない。堕落したら堕落した基準、もともとの基準を現せなくては、蕩減復帰することはできない。だから世界大戦というのは、世界的問題だ。世界的問題というのは、平面的には一時的問題だけれど、歴史の関係から見れば、六千年の最後の問題という、そういう観点に立つんだね。それである期間において現われて来て解決させようとして、因縁の長い歴史を因縁をもって現われてくる。そうすれば、それはただではできない。ある蕩減の条件に一致しないと。そういう内容が一致しておる。
愛の神
(「神様が愛であられるということについて」)。
君たちはね、神を愛する先生であることをよく知っている。天の御父様と先生が、ある時に抱き合って表現することのできない心情圏に入るのを、先生はよく知っている。君たちには説明してやっても理解できないんだね。神様に近寄るというと、その愛の力というのは無限に感ずる。あらゆる人物を救いたい。瞬間に無限の存在を感じて、数億の細胞がその愛の感覚で、四億以上すべての感覚まで瞬間にそういう動きをするんだね。だから表現ができない。だから神はどれくらい愛しておるか。「御父様!」、その時の接するその心情の境地というのは、先生しかわからない。神と先生しかわからない。それがあるから、いかに何があっても、その境地に入ればね、酔っちゃうんだよ、酔っちゃう。酒で酔うんじゃないよ。心で酔ってしまう。いい気になってね。今でもその境地が慕わしい、恋しい。乙女が恋人に会うようなね、そういう心持ちである。
だからそれを思うとね、いつも思春期、思春期の気持だね。そういう気持だね。愛がなければね、愛がなければ心が年取って、老いてしまう。愛があれば若々しい青年である。そうなんだよ。世の中には年取ったとき、その思春期のその思いが出てくるでしょ。天的その心持ちや心情がそれが重なって。電車に乗ってもどこに行っても。そうなればね、祈らなくてもいいよ。神が共に生きておる、すぐわかるよ。祈らなくてもいい。そうすると神が共に来ておる。わかるよ。ある所をずっと通過してみながら、そういう所がどういう所であるか、その感度のその強さの範囲によって、その時代がどういう時代であるか、国なんかも通ってみると、この国がどうなっているかわかる。人間はそういうふうになってるよ。君たちわからないだろう。だから世界一周ズーッとすればね、日本がどういう立場におるか、それがわかっておるから計画を立てた。
弱肉強食
(「弱肉強食という現象と愛の観念について」)。
愛の観念はね、子供として神をはっきりわかる段階において距離がある。その距離を埋めるのにはね、時間がいる。その時間を短縮するには、虫を千匹取って殺しても短縮される、そうすればそれ殺しても罪じゃない。神の愛の道が短縮されるその目的のためには、あらゆるものを犠牲にしてもOK。神の愛の目的を完遂するにも、短縮させる。期間を短くさせる。時間を短くさせる、目的を早くする、ある基準を立たせるという場合にはね、あらゆるものを犠牲にしてもそれを完成するならば、神はそれを喜ぶんだね。だからいうまでもなく祭物を供えて、あらゆる動物を犠牲にしてそしてやってる。それは何のためにやっているか。神の愛の目的を完遂するための距離とか時間を短縮させる要件を立たすために。それは犠牲じゃない。
(「実際に動物を殺す行為は、どう考えたらいいんでしょうか」)。
心が許さなかったら、やらなくていいよ。引っ掛かったら、やらなくていいよ。それから、いかなるものも二重目的を持っておる。植物それ自体には植物として目的を持っていると共に、この全宇宙的な目的圏をまた持っておる。だから自分一個人としては、それが実を結んで、そういうその平常なその段階を通るのが、自分の個人の目的なんだけれどね。第二の目的完成をするには、自分を犠牲にしても自分が行かなければならない目的の道である。誰でもそうでしょう。二重目的です。個人としての目的、「何やったらいいんだね」、そういう自分の喜ぶそのことをやったらいいということではね、次の目的が果たし得ない。自分のやりたいことを、あるいは自己を犠牲にしてもその目的に一致すればその目的完成するというと、個人の目的は自然に完成した結果の基準に入る。個人の目的完成を主としてやるというと、次の目的圏に到底入ることができない。二重目的になっておるから、食べられるのも善なる大なる人間に、かえって自分たちが食べられてから早く二重目的圏を成し得るけんかい圏界に進んでいく。そうなるよう、それに対して多少犠牲にしても奉仕しなければならない。
(「動物と動物同士においては」)。
動物同士も同じだ。みんな同じだ。この原則は同じだ。それはもうそう造ってあるよ。君たちの牙とかそういう歯、歯なんか見てみな。みんなその動物を取って食うようになっているよ。鷲なんか見てみな。小さいものを取って食うようになってるよ。
(「それは取って食べて良いのですか」)。
それは取って食べなければどうするの? 死んでしまうよ。神はそのように造ったよ。
(「動物同士が殺し合うこと自体がですね、神の愛のその目的と相克しないんでしょうか」)。
もしもそういうふうにすれば、この世の中でなされてることは、みな罪である。なぜか。飼育している豚も、みんなが一段階低い生物である。別に差がないよ。だから動物は動く生物だからね。植物は切ったらすぐ水が出るよ。涙が出るのと同じだ。違わないよ。一段階、一段階、低い段階にあるんであってね、その生命力は持っている。しかし、二重目的を持ってるんだというんだね。
(「一番高いものが一番低いものを取って食べてもいいんでしょうか」)。
それを基台としなければならない。それを土台とするには、それを自分に引き寄せなければならない。だから高い基準を造るには、そこに入る基礎がなければならない。それが犠牲だ。
(「じゃ、世界は犠牲社会ですね」)。
それは犠牲ではなくて、建設だ。建設するには、犠牲にしなきゃならない。家を造るにしても、あらゆるものを犠牲にする。しかし、それは犠牲とは言わない。建設だ。
(「建設のためのプロセスである」)。
プロセス。全体目的を完成するための方便である。
だから先生は、青年たちを訓練するのに、山に連れて行ってね。確かに山の鹿なんか、本当にかわいんですよ。非常にかわいい。それはもうある時は、抱き合って、そのまま話していたい心持ちがする。しかし青年たちを訓練する。鹿なんか一つ犠牲にして、百人の青年がそれによってたえなる勇気を得て、天的に利益を帰たらす。そういう場合には、供え物になってもらう。
永遠性と唯一性と不変性
(「それから人間が人間として生まれる以前にロゴスとして、神の源泉の中に実在していた、その事に関しまして」)。
その話す前に、話するその認識の基台がどこにあるか。それはあるよ。ただ言葉を言う前に、心で決めて、決定した結果を伝えてやるのが言葉に違いないというんだね。心にあったものを表現し、伝えてやるのが言葉である。
(「創造されたものは永遠性と唯一性と不変性を持っているわけですが、しかし形あるものは崩壊しますでしょ。それと唯一性と不変性との関連性について」)。
それは元素によって違うんだよ。あるものは元素がいくつ集まっても、元素を中心として見た場合には、それは唯一性、不変性を持っている。だから人も永遠の元素を持っているから、永遠の存在として、唯一にして不変性を保つ事ができるんだね。だから地球にある元素の中から、何割が主の元素となっているか、それによって性質が違う。太陽系に属している惑星とか衛星とかも、その元素の強さが違うんだね。
(「形と永遠性という問題について」)。
永遠性というのは本性よ。木なら木、ポプラの木ならポプラの木というその木を中心としては永遠性を持っているよ。唯一性を持っている。不変性を持っているよ。
(「そうしますとですね、現象として現われている現象自体がですね」)。
それはもう変わる。
(「変わるということは、無形なるものになるという可能性はないんですか。無形なものに帰って行くということはあるんですか」)。
無形なものに変わるとは?
(「無形なる神御自身からですね、現われてきた有形なるものは変わりますね」)。
変わる。変わるということは、大きくなって集まったものが分解してね、一つの固体に帰る。それの反復作用をしている。その元素自体が神の二性性相自体に帰る事はできない。
(「再び逆行する事はできない?」)。
その内容の逆行性は持っておるんだけれどね、そこに帰るには、大きな距離を超越しなければならない。しかし、全体的な変化はないっていうんだね。
(「有形実体世界は、全部無形に造るという事は考えられる」)。
つながってる。つながっておるんだけれどね、そこには我々が見たらその距離が近いように見えるんだけれど、遠いその因縁でつながっている。大きい距離でもってつながっている。
(「無形なる神御自身から生じたものが有形なるものである。現象界である。現象界の中に無形実体世界と有形実体世界とがあって、無形なるものが生まれて、それが再び無形なるものに循環されるということは?」)。
それはあり得ない。それが循環されて行くとなくなる。それは存在の限界を認めることができない。なくなってしまう。そうすると元素がなくならなければならない論理になってくる。そして地球も、ある日みんな無くなってしまう。宇宙の物体世界がみんな無くなってしまうという論理になる。元素は元素として永遠の存在である。
しかし、それが一個としてそれ自体が存在のその元素力を持っているのではなくて、そこには無形なる神の力が中心となって、それが固体になる。一個のその元素となっているというんだね。そこには我々も知らないんだけれど、力を借りて力を込めた力の限界がそこに入っている。元素が違うに従って力の加えられた方向性が違う。
人間が最高の存在である根拠
(「宇宙には人間と同じ生物か、それとも高等生物がいるんでしょうか」)。
ああ、いない。それは遠からずして証明されるでしょう。火星に何がいるか? いない。なぜ言えるかというと、我々が生きているこの地球というのは微妙になっている。一気圧になっている。この気圧の圏内においてこそ生物は存在し得るというんだね。それがこの地球の神秘である。この気圧がちょっと薄くても存在できない。ちょっと強くても存在できない。
(「人間が宇宙の最高存在であるという根拠は」)。
人間が神の心情を知ってこそ、自然とそこに入ればね、私が左へ行けば全部が左へ動いて行く。南に行けば全部南にすべてのものが向くというんだね。だから宇宙の中心であるというんだね。万物の霊長である。何で霊長か。神の心情基準と自分が一致すると、私が北の方に行くと、すべてのものが北の方に向く。南の方に向けば、南の方に向くというんだね。だから先生がここにいなくても、霊界の方ではみんな地上が中心になってるよ。統一教会の食口たちは先生がどこに行っても、そこに向かって寝たい。自分知らずにそうなっちゃうんだよ。だからそういう基準が神の愛と共に果たし得るから、その基準を持ってからこそ、初めて万物の霊長たる権限があるわけです。それがなければ何にもない。だから釈迦がそういう境地に入ったのもね、神の愛の頂点に初めて入ってみるというと、そういうのを体験した。だからそれがあるから神の心情と一致したその基準があれば、あらゆるその愛に因縁を持っておるものはこれに向かう。なぜかというと、盆栽に花がある、この花ですね。光が二つ。一つは明るい光。一つは薄い光。どこを向くか。明るい光に向くというね。薄い光をさておいて明るい光に向かう。これは自然現象である。神の心情圏というのは明るいその生命の根源である。そうなるというとすべてのものは向きがある。そういうふうになっている。神の心情を中心としての人間の万物の霊長の権限がある。
地球と宇宙
(「太陽系の中に変化が起きて、人類自体が危機に面するということはありますか」)。
今から四年前か五年前か、ある学者が、「地球に何か彗星が正面衝突するんだから、地球星がみんな破壊してしまう」。そういう間の抜けた事を言うなよ。そういう存在が来ても、地球は、その反発力で押す力を持っている。君たちも、自分知らずに、危ない事があればその反動力が生じる。そういう作用をしている。正面衝突して根本的実体がなくなるという事は不可能だ。この地球が同じ運動をする以上は、その熱度はそう変わらない。我々の血液が、三十六度五分という基準を保つのは、血液循環が同じ速度で動いてるから、同じ温度を保っている。太陽系を中心とした地球が公転する早さと、それ自体の公転する軌道と、二十四時間という自転する速さが変わらなければ、地球のその熱は変わらない。それがわからないんだね。運動の速度が変わらなければ、同じ軌道の速度もそれ自体を保つ。だから太陽の回る速度が一定でなければ変わる。
(「地球自体が、いくらか傾斜してますが」)。
それは全体的影響でそうなっている。自分一個体の基準でなっているんでなくて、全体の影響によってそうなる。それは台風とか、地震がぼっぱつ勃発する。それは、地球自体によってそうなるのではない。引力の関係によってそうなる。なっちゃう。何百年何千年のその統計をとってみれば、それが一致する。
(「地球と同じようなものが、広大な天宙の中にある可能性はあるんでしょうか」)。
そこに人があると?
(「ええ、当然地球というものがあるなら、そこに」)。
この地球星より以上の地球星があるとすれば、そこを中心として神は創造目的を完成している。
だから君たちは霊界に行けばね、ある天使たちとね、人と姿は同じである。「どこから来たか?」。「私は火星から来た」、「木星から来た」と、そう言うんですよ。「火星に人がおったか。向こうから降って来た」、そう思う。そうじゃない。霊界におる天使たちだ。これは全宇宙が我々の活動舞台になっている。あるいは太陽にも行かれるよ。いくら火の中に入っても我々の霊人体は焼けない。遠い宇宙が自分のものになるよ。何千億光年という長いその膨大な宇宙があっても、霊は、一瞬に全宇宙を活動する。光なんか問題にならない。地球を十遍回るよ。宇宙に行ってくるよ。素晴らしいもんだ。
だから、我々に活動のけんかい圏界として造ってやったんだから、神は我々に霊人体を造ったのは、そういう目的でもって造った。壁があっても霊人体はスーッと通過して何の差しつかえない。星とね、太陽と地球ぐらいの間だよ。何千万人の霊人体が一列に並んで壁の中をフッと通過しても、この地球の間で引っ掛からない。
(「先生は、太陽系の中のどの星に一番、ひ惹かれますか」)。
太陽に惹かれるんだね。
返す美について
(「私たちは天国の愛を感知するためには、まず美を返さなければならないと思うんですけれども、美とは日常生活において具体的にどういうふうに現して行ったらいいのでしょうか?」)
自分が相対的立場にいつも立たなければならない。神に対しても、自分の心の中にしまっておかなきゃならない。そして自分自身がその基準から離れているんじゃない。いつも関係を持っているということね。それはいつでも考えるんだね。天を向くにしても、いつもそれにはべ侍るような気持が必要だね。だから子供は美しい。親から見ればなぜ美しいか。いつでも抱かれるそれ自体になっている。何の限界もなくてね。そういう自分自体の基準をいつも保ってね。相対位置を保って関係を持って神に抱かれるような、いつでもその準備を全うし得るという、その基準から美の位置が決定する。愛は動的であり、美は静的だ。動、静が初めて調和を来たすんだね。
神と人間と宇宙と天宙との関係
(「全天宙の縮小体が人間だとするならば、人間自体の肉身と霊人体を研究するならば、全天宙の秘密が解けるようになっているでしょうか」)。
それ自体で秘密は解かれるんじゃないよ。対応関係になってる。対応関係はね、実体とあるいは形象と象徴基準でも対応できる。
だから人間は小宇宙である。小宇宙の性相において、そういう形を持ってる。だから宇宙に対して対応すべき基準を持っておるというんだね。だから、地球上には、流行というものがある。伝染しなくても、ある日が来たら、ズーッと南までそういう病気が起きる時があるというんだね。それはなぜか。それは地球とか引力の関係でそうなってるんだ。ある時にはね、ひどい時には、いろいろな病気が一時に全体的に地球上に影響してくるという。それはなぜか。対応関係において、対応するその基準が、一回、二回、三回ぐらい差がある。対応を受ける対応基準が病気になっていると、そこに支障を来たす。そういうふうになっているんだね。みんな対応関係になっている。だから地球上におけるあらゆることが地球自体から起こるんじゃなくて、その太陽系の変動の力において、引力の作用によって左右される。人間は対応する性相を持っておる。
(「光と太陽との関係、ならびに人間の生命との関係ですね。太陽の光がなければ、人間の生命はあり得ない」)。
光だけじゃない。光だけでなく、空気もなければ、あり得ないね。水もなければあり得ない。みんな、それは環境の要素だ。そして光と人間の生命とどういう関係か。それらがなかったら、生命が存在しない。それをみんな環境要素として、新しく造ってから生命を造った。だから、あらかじめ、それらを要素として生命が現われるようになってるよ。そうでなければ、何もない。
(「それからですね、全天宙のその力を自分の中に結集するためには、いかにすればいいか?」)。
結集してどうするの?
(「その力をですね、一刻も早く神の国の建設源泉の力にしたい」)。
太陽自体の公転する力、その自転する力を、みんな君の頭の中に引き込むというのか?
(「太陽系だけじゃなくて、全天宙の力を」)。
その力を入れて、どうするっていうんだ。宇宙を引っ張っているすべての力が、君に落ちたらどうするの? それは問題じゃない。人間が宇宙全体を引っ張って動くよりも、心情的に引っ張れば何でもない。一つの心情でもって百パーセント動かすんだ。それがもっともっと貴い。
(「物理的に結集せしめるには」)。
物理的に結集せしめるにはね、そういう動機の基準を自分自身が持たなければならない。まず百の力を集めるには、百の力の主体の要素を保たなければならない。そうすると、まず自分自体が、全宇宙のすべての力を引き寄せるプラスの要素の主体の位置を決定し得る主体になっているか。そうなっていない。そういう力の作用を来たらす、その基台の命令位置に立つ事はできる。神の心情基準に立てば、命令する位置に立つ。それはもっといいかも知れない。神と万物が働く立場に立っているんだね。しかし神の位置の身代わりになって全宇宙を指示する、それ自体の位置に立つことは認めない。そうすると、この世を中心として、太陽系がひっくり返って、またここから始めて回り出さなきゃならない。
(「物理的には、わかりました。心情的にはですね、大先生を中心に」)。
先生のその貴い所は、宇宙の万有引力のすべての基準の中心になっているということではないんですよ。その宇宙を造った宇宙の主人である神様、それは目的圏内にあるすべての万物を造ったその意思、意識を持っている主のそのすべての意識の観点を作用し得るその相対位置に立っているから貴いんだ。そうすると、その場を主管して、そして目的観念の喜びとか、嬉しさを感じると、それが平和の要素たるものだけが私に関係を来たすというんだね。嬉しいとか良いとか、そういう関係だけが私に関係を持つようになっている。それがもっと必要なんだよ。
霊界を通じて見ればね、神の愛する子供になったら、天宙すべてを動かすことができる、そういうふうになるんですよ。しかし、そういう太陽系や地球が回るのを反対に回す、そうはいかない。それは何かというと、そのすべての目的基準をその相対的に適用して主管するその力は我々に許すというんだね。それは何でもって? 心情圏をもって。それは神は東の目的観念を持って向かって進んでおっても、それに対応し得る西の目的のためならば、その権限を我々に下さるというんだね。だから心情圏を中心として、心情でもって神を動かす。宇宙すべての力の基準になっている神自体を行ったり来たりさせる。神は時間とか、あらゆる物体を超越したその基準の価値と権限を持っているんだからね。自分はどこにおいても、神自体の心情に通じたら、その距離の関係でなくなってしまう。私との距離は遠いんだけれど、霊界では距離の関係がなくなっちゃうんだね。だからいくら遠くしても、ここである。そういう対応は心情を中心とした基盤において来たされる。そういう神も動かす基準に立つという結果になるわけだね。宇宙の根源たる神自体を動かす。
だから、占星術、そういう人たちはね、そんなことを時々考えるんだね。「おお、私が命令したら太陽系が反対になっちゃう」。霊界と通じる人はそういう事をよく言うんですよ。「世界はこのようになれ!」。一晩でそうなると思ってる。そうはならない。霊力を通して、この岩から何十里の山のその峰まで飛ぶんだよ。そういう限界を超えて、そういう事をやると、蕩減条件を払わなければならない。それ自体に何百年とか、そういう地上の時において、そういう行動を許す時期がある。そういう手段においてそういう事をしてもね、そこに蕩減条件を払わなければならない。非原理の活動をしたら、それに代用する蕩減を払わなければならない。だから霊能者たちは、奇蹟をしたりそういう事をしたら、それはいい現象なんだけど、奇蹟をして大衆に奇蹟の結果、利益になったらいいんだけど、必ず自分がそれを補わなければならない。そういう蕩減の基準が現われるんだね。
個々人の出発の原点
(「仏教におきまして、例えば、身体障害者でもって生まれるということは、両親自体にもその原因があるけれども、両親のその過去における業の結果であると」)。
そうじゃない。だから今問題になっている、輪廻説だね。
(「輪廻説は正しくないという事はわかりますけれども、そういうその現代にそういう形でもって生まれてくるということは、自己自身に何らかの原因があると認めなければ」)。
それは、再臨の復帰のために生じてくる。それはそれだけ見たら、そういうふうに見えるんだよ。そのつながりをもって見たら、その全体性を基準として見れば、みんなつながっておる。そういう現象が起こっても、それはそれ個人の目的じゃない。全体目的のためにそういうように現われてくる。
(「現われてくる。それがそういう形で生まれた事と、神御自身とは関連性があることはわかりますけれども、問題はその原因の問題ですね」)。
ある人があることをした。その子供なんかに、そういう現象が現われてくるよ。子供が五才の時にある人が現われ、「自分は誰それである」と言っても、さらに五年目、あるいは十年目にそういう現象を起こしてみるというと、他の人が現われる。一人じゃなければならないのに、なぜ多くの人に変わって行くか。それは我々のその再臨復帰のために、そういうふうになって行くというんだね。それをわからない。
だから、生まれてくる自分自身が、一個人自身のために生まれるんじゃない。全体的関係をもって生まれてくる。全体目的を完成せんがために、そういう現象圏に我々は入る。
(「問題はその、そういうような状態でもって現われた現象自体は、その人自身の責任は全然なしでしょうか」)。
責任はあるよ。だから生まれてくる者は、責任をもって生まれてくる。それは過去の人と現代の人は、つながってる。
(「過去というものと、その現実の家庭がどういうふうに」)。
だから我々が言うのはね、先祖たちの恵沢というものが問題になってくる。恵沢がその大きいか小さいかによって、現代のその家庭に問題が起きてくる。現代の家庭に問題が作用する。現代の家庭に私は立ちたいんだけれど、そうもいかない。だから自分たちの先祖のその善の恩恵の基盤によって現代は左右されていく。
(「問題は、その原因に近い家に生まれる人とですね、原因と関係ない父母から生まれるのと、それの違いの原因はどこにあるんですか」)。
それは、原因の位置が違う。完成の位置から遠い所にあれば、それは長い期間を要する。それで蕩減条件を多く要する。位置が違ってくる。だから位置が問題になってくるんだね。
(「問題は、その生まれて来たその個体がですね、個体自体が偶然ということよりは、自分自身の意思でもって生まれるんじゃなくて、生まされて来て、そういう所に生まれてるわけですね。そうするとそういう所に生まれなければならないという原因は?」)。
それは、親の背負ってる背景が原因となる。親が違う親であったら、その二つ合わせた違う結果を持って生まれてくるんであって、それは原理的になってる。だから結婚という問題は重大な問題になるよ。
(「そうすると、自分自体が意思を持って生まれたんじゃなくて、生まされた」)。
生まされた動機を持っている。自分自身が親の動機によって生まれたんだから、動機を受け継いでいる。良い種を持って生まれたら、良い結果になるしね。悪い種なら悪いその結果になるわけです。だから、自分は原因に左右される。遺伝方式によってそれは自然と遺伝されるようになっている。
(「そうすると、そういうとこに生まれて来たそれ自体の責任の問題はどうなるんですか」)。
責任はだからね、もしもね、あるものは米であり、あるものはあわ粟であり、あるものはとうもろこしである。そんなふうに考えればいいよ。だからそれは、それぞれの組織の器官から生まれてくる。だから、完成するにはいかにするか。完全なる基準を復帰せい。みんな人は違うんだね。みんな、米を造るんじゃないよ。あらゆるその天性を通してその系統の組織を中心として完成しなけりゃならない。
(「そうすると粟に造られたものと、米に造られたものと千差万別、神がそれやるんですね」)。
もともと神の創造基準において左右される。神から、それは左右される。
(「神御自身のはっきりわからない事はですね。責任の問題。なぜ、そういう所に生まれなければならないかという必然性と、その人自体の責任問題ですね」)。
自体の責任、自体はもうその生まれたくて生まれたんじゃない。環境においてそれもう生まれるようになっている。その目的はね、父母にあるというんだね。父母が責任持つ。
なぜ堕落したかという、それが問題だ。堕落しなかったらそんな事を聞かないよ。なぜそこまで入るのか。堕落したからそういうことを問題にせざるを得なくなった。そういう質問するより、なぜ堕落したか。そういう問題だ。だから堕落問題が問題だ。だから我々の先祖に対して、我々はやってるわけだね。そうでなかったら、そんなにならないっていうんだね。
(「先祖が堕落しないと致しまして、千差万別の父母に生まれますね。そこで、そういう両親の元に生まれるという事のためには、ロゴスとしてあった自分自身がですね、それと何らかの対応性か、何かその関係性がなければ生まれない」)。
絶対的になっておる。なぜ最高の価値に生まれないで、普通のものに生まれるかという、問題はそこだろう。普通がなければ最高が決定できない。最高の基準から見れば、それは、いいように思うんだけれど、最高の立場は責任が重い。苦労が多い。それに働く作用が半減してしまう。そうなってしまうというと満足できない。だから高いという、その立場は幸福な立場じゃないよ。大きいといっても、それがいいことばかりじゃないよ。だから位置問題は関係しなくていいよ。その基準におきまして神から本来の天性を受け継いだその基準を、百パーセント自分を通して、結果の基準に達するか達しないかという問題であって、そういうように出発の基準に対して我々は言う必要はない。だから我々の人格の、その創造的人格の価値を、価値といえばね、いくら下回っても、惨めな立場に立って生まれても、その者の完成がなければ、全体の完成は不可能である。その完成という基準から見ればみんな平等である。
それがあるから、美しい。みんな大きいものばかりでやれば、美がない。情感の美が現われて来ない。みんな合わしてそこにおいて、人間の味わい、人間の美というのが現われてくる。
(「そうするというと、最後のその千差万別の決定圏はやっぱり神にあるんですか」)。
そうそう。科があるでしょう。その科の決定権は科自身が決定するんじゃなくて、神自身がそういうふうに創造したから、生まれてくる。そうでなければ、存在圏を失ってしまう。
(「父母の価値に比例する。肉体が生まれ出るというのはすでに知っているんですが、そういうものの所に自分が入り込まなければならない理由は」)。
もちろん自分自身が責任を負うようになっておるんだけどね、産んでくれたんだからね、生まれて来たよ。生まれてきたのは、自分自身の基準において生まれてきたんではなくて、父母によって生まれて来たよ。そうすると、生まれたその主体性が自分にある。自分が主管するんだね。自分が出発するよ。自分が出発するというと、それは父母のその善なる基台に従って新しい出発をしなければならない。
(「あの生まれてくる、両親から生まれて来た場合には、両親のその責任を自分が負ってくるわけですか」)。
子供は、父母に似て生まれるんだからね。
(「問題はその際に、問題はそういうものと無形なる自分がそういう両親と結び付かなければならないという」)。
無形なるものじゃないよ。有形な立場に立ってるよ。父母がおれば無形じゃないよ。そういうのは無形じゃないよ。そういう人たちは、アダムとエバが無形の他は、有形の父母があってからは無形じゃないよ。実体から生まれるのは無形じゃないよ。その遺伝法則によって自然と生まれてくるよ。常に法則に従うんだね。原理原則に従って生まれてくる。
(「人類の始祖からは有形の父母が連綿と続いておりますが、問題は自己自身です。有形なる肉身に生まれる以前ですね」)。
以前においては、父とそのお母さんの所の因縁を持っているんだね。何もない。あるものは何もないというんだね。だから、その実体がないんだね。
(「実体が全然ない」)。
母と父が一つになってからこそ、子供が生まれる。それ以前には何もない。形も何も、どういう形であるか、決定権がない。形があって生まれてくるんじゃないよ。原理原則によって、男と女がね、一つになってから自分という存在が始まるんであって、それ以前にはない。精子とかいう基準はあるんだけれど、それが自分じゃないんですよ。鶏の卵みたいのがあるんだけれど、それは自分じゃないよ。それはお母さんとか、父に左右されて変わっていくよ。だから自分じゃないっていうんだね。父母から原理原則の基準を通して自分という存在が生まれ、そこから自分が始まる。
奇蹟
(「奇蹟の問題ですけれど、原理から離れた奇蹟はあり得ない。すると、ラザロの復活は」)。
死んだ人間を生かすにはね、霊人体を再び呼んでみて入れたら復活するよ。霊界へ行って『おい、来い!』。
(「それには期間があるわけですね。やっぱり限界がある?」)。
肉が腐ってしまったらできない。肉体が腐ったらできない。三日間とか、死んでから生き返らせることが可能な時機であれば、霊人体を引き寄せてみればそうなるんだね。それは安いもんだよ。ほんとはね、そういう必要性がないんだね。神が一度呼んで逝けば、それを戻すには、それ以上の価値基準を、天の認める基準を立たせなければならない。復活させたために、それによる天的利益を来たらすという、そういう場合は、それを蕩減条件として、あるところにおいては、それに比例した犠牲者が出るんだね。一人は生かすんだけど、その一人のために三人、四人が死んでいったかもしれない。だから奇蹟ということは、いいんじゃないよ。現在、この場では良いように思うんだけれど、それに対しての、蕩減されるものが生じる。そういうことが多いんですよ。だから滅多に先生はやらない。
こういうことがあるんですよ。これは事実である。ピョンヤン平壌にね、あるお婆さんが先生の所に訪ねて来た、霊界から命令されて、先生のところに訪ねて来たんです。統一教会に入ったわけだね。そのお婆さんはね、たくさんの奇蹟をした。病人を直したり、そのびっこを立たしたり、いろいろな事をやった。そのお婆さんがね、北の平壌で、あらゆる市町に噂が伝わってね、みんなが頼ってくるんだね。一年、二年、数年やった。神がある段階に入るというと、「そういう協助の祈りをやるな」と。しかしある一人の女が、ある日訪ねて来たんだね。その女はどういう女かというと、一人の息子を持っている。息子一人しかいない。そして家庭は裕福だ。その一人子がね、肺病になって死にかかっている。そういう段階だ。だからそのお母さんとしては、一人しかないからね、全身を尽くして、治す方法の道があればどんな事でもやるという立場に立ってるんですね。そしてお婆さんが祈れば、いかなる病気でも治るということを聞いて、訪ねて来た。夜に訪ねて来たわけですね。それで頼むには、「この息子が助かるよう祈って下さい」。神の許しがなければならない。それでそのお婆さんは百日間祈ったんですね。この話を聞けばかわいそうでたまらない。何とかして治す道ないかと、自分自身が百日間祈りに行ったんだね。祈りに行く時には体を聖めて、そして聖い水を持ってきて百日間、ある段の上において祈るんだね。なんとかしてその人の命を助けたい。それでずっと三カ月、百日間祈るんだね。九十九日間まで何の返事もない。今まで毎日直接指導した神がね。だから九十九日間すればね、明日になると百日間になるという、そういう明け方にその天の方から話が聞こえてくる。「君は本当にその子供を生かしたいと、願うか」とね。「はい、それが願いだから、何とかして助けて下さい」。そうしたらね、「私のやった事には不平を言うな」、そういう命令があるんだね。「私のやった事には不平はしないか」。そういう問いに対して「はい」と返事したね。そうするとそこのコップに入れたその水が湧き出した。「この水を誰にも途中話しないで、その息子の所に持って行って飲ませなさい。明日から息子が歩けるようになるから」。
その命令を受けてその水を持って行って飲ました。それが夜三時頃の事だったというんですね。そしてその自分の目的を果たして、その子供が治るようになったんだからね。このお婆さんは帰りますといってね、朝飯を作ろうとして自分の家に帰って来た。帰って来て奥に行ってみると、自分の息子がね、二人の息子がいる。長男がね、朝早く帰って来て言うにはね、「お母さん、腹が痛い」。それで自分の部屋に入って三十分位もしないうちに、三十分以内に死んでしまった。その時そのお婆さんはわかったんだね。「ああ、自分の子供があの青年の身代わりとして逝った」。それからこのお婆さんはそんな事になったんだからね、気を回した。「今までずっと祈って真心込めて祈ったのに、神様はそんなことした」。すると、神はそのお婆さんに対してあからさまに言った。「君はどんな事をやっても、悔いはないと言ったはずだ。これが条件だ」。そうして自分の子供をその青年の命の身代わりとして連れて行ったことをわかったお婆さんは、半分、気が抜けたね。
それで方々立ち回った。ある所の十字路を、のこのこ自分の息子の事を考えながら歩いて行った。そうすると自分の息子が、その前に現われて言うには、「お母さん、どこへ行きますか」。お母さんに忠告するんだね。「なぜお母さんは誰それの青年のために祈って、そしてその命の身代わりとして私が霊界に行ったといって、なぜ、気が転倒して行動しますか。絶対そんな事するな」。そして言うにはね、「僕が地上においていくら人間として善を積んで天の方に奉仕していっても行かれない、貴い所へ来っている」。
なぜそういう所に行ってるかというと、青年が行く所にプラス自分の行く所を合わせた高い所にいる。二人の善の目的を完成した基準。「しかしお母さんが毎日泣いてるから、この霊界で自分は堪り切れない。これ以上の十字架はない。私に対してそういう自分の子供として考えたら、自分は困る」。そしてその子供が現われて、それから変わったわけですね。「自分が悪かった」。そしてその子供が言うにはね、「今その生かした子供を、自分より以上愛さなければ、私の霊界におけるその発展に支障を来たす」。それで約束した。
だから天的使命を持った人たちは、責任を持っている人たちは、祈ってやればそうなるんですよ。しかし、生命を身代わりとしてやる。蕩減原理はそうなっているから仕方がない。そういう特別の奇蹟をする以上は、特別の犠牲を払わなければならない。
だから先生も相当引っ掛かるんだね。あるものを許したい。あらゆるその攻撃から許したい。しかしそれは天の方が許さない、そういう場合にはね、情でもってその許したら引っ掛かる。そういうのがあるわけだね。
聖書にある第二の死
(「聖書にある第二の死というのはどういうことでしょう」)。
第一の死と第二の死。第一の死は何か知ってる? 第二の死は? 霊界の死。
(「あの第一の死の状態にある人たちが、そのまま霊界に行ったのが第二の死ですか?」)。
霊界に行っても、その形において霊界の地獄の獄があるんですね。そういう、入る門があるんです。それはどういうものか。再臨のメシヤが来られて心情的原理の基準を正したのにもかかわらず、その原理の基準を侵した場合に入る。これは今までの歴史的なサタンよりも悪いというんだね。これは恐ろしい事だ。その人たちはサタンが救われた後、もしも救われる道があったら救われるというんだね。だから我々の所は怖い、恐ろしい所なんですよ。もしも祝福されて堕落した場合には、その法に引っ掛かる。今後の罪は何か。神の聖なる血統を汚した以上の罪はない。血統を知ってる? もしも先生が祝福してやったら、堕落する前のアダムとエバが神に祝福されて善なる先祖になる基準に立つよ。そしてその先祖から生まれた基準がその子孫の善なる血統圏を持っている。しかしその血統が再び堕落すると、これは侵される。だからそれが問題になってくるんだね。だから我々の生活の時になったら、男女共同は許さないよ。今復帰の世界に近寄ってみんな混じる時期になったんだから許すんであって、これを分ける。そういう時期が来るかもしれません。世界はみんな男女が、もう、交りあってるんだね。だからこれを分ける。だから堕落したその女の歴史が過去があったんだから、それを真の男に合わせる。だから、自分の生涯を清い血統とし、その子孫を清い血統の存在として産む。そして産んでからその子供がさらに清い血統を残し、また三代の血統圏を清い血統圏としていかに保つかということは重大な問題だ。
だから我々堕落の血統を受け継いでるよ。血を受け継いでいるんだ。それが善なる神よりの血統圏を受け継いで永遠に積み重ねていけば、それが子孫伝来の重大な立場だ。だから一度結婚すれば離婚という事はない。今日式を挙げて明日から一緒に住めば、一生涯二人で住むよ。我々はそうなんだ。再び、もしも特別のケースだったら、先生がある方を決めてやる。そういうことを考えれば、それはきびしいよ。
なぜかというと、六千年、全人類が汚したその血統を生み変える。このために今までいかに苦労したかは、これはもう、いいしれない辛いことである事を神は知っている。だからその基準を再び元返すというのは許されない。
先の者と後の者
(「マタイ伝の、先にあるものが後になり、後なるものが先になるということは」)。
そういう人もおる。今のキリスト教、今の既成教会の牧師たちが先になってるんですよ。君たちは後になってるのに、後から来たのに先になってる。
(「この教会の中ではどうなんですか」)。
この教会の中でもそうなんですよ。働きによって。働かない者と働く者によって。それは前に入って何もしない。そして厄介な者になっている。そういう者は後、後、後。だから君たちは、ここにおいて今、修練と共に、君たちも競争している。先生が祝福すれば、先生が認めれば、それが問題になる。国の大統領が、首相が何かを決定すれば、政府の大臣になる。直接に全体の責任を持った基準に初めてなるんであって、君たちには権限はない。先生がノーと言えば、それは永遠にノーだよ。先生が一番、生死の問題の決定圏を左右する。
神の目的は全体を救うのが目的である。ある段階に行けば、乞食みたいに個人伝道という時期は過ぎて行きます。ある段階において、ある団体の一人が立つというと、そのすべてが復帰される。百万人を指導する団体だとすると、百万人が復帰される。こういう現象ですね。
その他の質問に対して
(「先ほどの事に関係しますけれど、両親が結ばれなければ、神と自分の関係はどうなんですか」)。
両親もないよ。
(「自分自身が生まれる時にですね、両親が結ばれる。結ばれる以前における問題と、その無形なるロゴスが原点からあったという事のこの関連性は」)。
ロゴスはアダムを造るためのロゴスだ。
造ってからロゴスの実体になっておる。実体によってロゴスの復帰現象を来たして再創造の行程を築いていく。生まれる前のその子供と、生まれたときの子供といかに違うか。腹の中の子供と生まれた子供といかに違うか。結局、問題はその問題になっちゃう。腹の中から生まれて呼吸をしないというと、霊的基準が立たない。二つの世界の連結を結ばないと、永遠なる存在は立たない。これは原理である。
(「霊人体はどこから」)。
呼吸すると共に、霊人体の生命圏が、新しい霊人体の基準が始まって、霊人体がより存在の基台を確定する。
(「ロゴスの自己というのは、胎内の中にある胎児なのか」)。
それは創造する時のアダムの構造に対する考え、アダムを造るという考えであったという事を考えられるよ。
(「そうしますとですね、アダムとエバができてから後の子孫自体のロゴスというのは」)。
だからロゴスの実体になっている。実体から枝みたいに繁殖している。
(「例えば身体障害の子供が生まれたとなると、それは全体的と個人的のそういう二重目的の中にあって、それは蕩減条件の中にあってそういうものが発展した。そうすると現世におきまして、それを早く解決する方法ということはどういう事ですか」)。
救いの道をたどるというんだね。それを補なわんがために神様はね、救い主をよこした。神に導くべき人々をよこすんだね。そこに早くつなげないと。すなわち自分のすべてを切ってしまって、そこに救い主に従って、その自分自身がある父母から生まれたんだけど、父母の因縁でではなくて、救い主に接ぎ木したもとの因縁につながるというんだね。だから今までその救われる道につながるという関係を持つ。だからあらゆる宗教を立たして、そうしてそういう因縁を連結して最後の基準までずっと引き連れてきたのが神の摂理である。だからイエス様も、オリーブの例えがあるでしょ。真のオリーブと偽りのオリーブとなんとかね、切って接ぎ木しなければならない。いかなるものの所にも、その枝を持って来て、イエス様の人格をモデルとして、自分の切ってしまった茎の所に接ぎ木しなければならない。そうしたら自分によって新しい実が結ばれる。
(「堕落した子孫を持ったとしたら蕩減条件を持って生まれて来ますけれども、霊界に行った場合はどういうふうになりますか」)。
霊人体は肉身を土台として形成される。
(「そうしますと、身体障害の時に形成された霊人体というのは、別に身体障害ではないんですか」)。
身体障害ではない。それはその基準におきまして霊的基準におきまして左右される。
霊的基準におきまして左右される。君たちそれ自体がね、厳然として立っているといっても、霊的には身体障害者になっている。それと反対だ。
(「偶然と自然とについてですけれどね。私たちに自由があるという事はまさに、自己主管するということは自由があるという事ですね。自由があるということは神もサタンも干渉できないという事ですね。それではどういう時に、私たちはその自己意識圏内を脱却して、神の霊の世界に入るのでしょうか」)。
自己意識の限界は、どこがその重要な基地、求めるその世界になっているか。肉心だ。だから自己意識としてもね、二つの方法がある。神の方を中心とした自己意識か、肉心を中心としての自己意識か。そういう二つがあるということをわからなけりゃならない。肉心の自己意識だったら敢然と切ってしまわなけりゃならない。その環境を脱却しなけりゃならない。しかし、神を中心とした自己意識があるんですね。そうしたらそれを保護してやる。そうしたらいいというんですね。
(「それは必然になるわけですね」)。
それは必然だ。それは永遠性を保つ必然性である。
(「本心に帰するものが必然で」)。
良心は変わるよ。良心の位置は変わるよ。本心は変わらないんだけれど、良心は環境に支配される。もしも悪い事して、いいことを言ったらその良心も動かされるよ。良心も。
だから二つの境界に立って、一つを踏破、討伐しなければならない。打たなければならない。そういう闘いは、やまないんだね。
(「適当に考えてしまうんですね。僕たちの生活で。これは神様が与えてくれたものだ、あるいはこれは自分がやったものだと、適当に考えてしまう」)。
原則がないんだね。原理がわかるにしたがって、その原則がはっきりなってくる。
(「その本心を啓発するためには、やはり祈りでしょうか」)。
祈りだね。肉心に制裁を加えて、修行すればね。
(「人間の責任分担ですか。それとも祈りを強くするということは、人間の本心を神の心情に引き立てるということが人間の責任性ですか」)。
堕落した人間の責任である。堕落しなければそれは必要ない。それ自体が生活圏内がそうなってるから、努力しなくてよい。
さあ、十二時になったよ。一日中話したんだ。舌がもう太くなったな。
そうしたら、もうそれは不幸だな。先生にとって不幸だ。不幸知ってる? そういう事をいろいろ聞くというと、先生は昔に帰っちゃうよ。そうすると君たちも見えないんだね。異なった人間に見えちゃうよ。調子の悪い時が多いんだね。真剣になっちゃうからね。君たちが君たちの顔に見えないんだね。そう見れば、ここがこういうふうに見える。そういう時間を長く持つというと、一旦向こうへ行ったのをこちらに引っ張って来て、それを正常に見なければならないというと疲れるんだね。昔はそういう人たちを集めては絶対話しなかった。今は時が時だからね。それをしても何の差し支えがない。だから、ある面、こっちからピーッと見ればね、頭がこういうふうに見えるよ。そうしたら、いくら教えてもそれは、時が来ない冬に種を蒔くのと同じである。そういう人はいくら話しても、口を閉じた方がいい。そういう人は自分の答えをしないというと気がすまない。いろいろな人がおる。だから、世界の人類を全般的に見た場合にはね、アメリカのあの人たちは、善の基準が立ったアメリカの国民性だ。だから、ああいう世界的祝福を与えた。背後に数多くの善の犠牲が多い。
歌おうかな。何の歌? その気持を変えるのに。
(『赤とんぼ』)。