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御言選集 [1965~1970]

文鮮明先生御言選集 19670621 - 原理大修練会「ノアの家庭を中心とする復帰摂理」の講義後におけるみ言

작성자대태양/김현수|작성시간22.02.16|조회수548 목록 댓글 0

原理大修練会「ノアの家庭を中心とする復帰摂理」の講義後におけるみ言

1967年6月21日


 蘇生、長成、完成というんですがね、人間の先祖、いわゆるアダムとエバがですね、長成完成基準で堕落したというのを何で証明するか。長成基準の完成基準において堕落したというのは勝手に決めたんではない。何でそれを証明しえるかという問題だね。それはアブラハムの祭壇の三つの祭物において、完成基準がなかった。そうでしょう。アダムが長成基準までは愛で、いわゆる相対基準を神の前にずうっと二人ともに育った基準がある。しかしその以後はそうなっていない。そこにおいて長成期完成級という基準が認められる。何のことかわかる?(「はい」。「もう一度」)。


 アダムとエバはね、神の前でもって二人で、長成期完成基準まで行ったその基準が残っておる。残っておるから、長成期完成級基準までは相対基準がある。地上にね。しかし完成基準からは相対基準がない。アダムとエバがね、堕落しない前には、神が認める夫婦関係の相対基準があったんだね。未来の神の認める相対基準があったんだね。堕落したから相対基準がなくなった。だから鳩も二匹、羊も二匹。ただ完成基準におきましては相対基準がない。平面的相対基準がない。立体的相対基準でもって新郎新婦の関係でもって復帰するんだね。横的関係ではなく縦的関係になった。だから縦的関係だから、その雌牛の上にいわゆる天があるわけだね。横的関係じゃなく縦的関係である。完成基準におきまして、縦的関係になっとるんだから、それは堕落した以後のことである。だから、堕落した基準が長成完成基準に相当する。何かわかる?(「わかります」)。わかる者はわかっていいし、わからない者はわからなくていい。聖書の根拠はここしかないよ。………………。君たち復帰原理で信仰の基台とか実体基台とか、メシヤのための基台とか、その内容がはっきりわかったらそれはもう易い問題だけどね。わからない基準で聞けば何が何やら、これがあれみたいだし、あれがこれみたい。


 君たちは今日勉強した中で、三つの重要な質問をするに違いないと先生は思ってる。誰が質問するか、これをずっと見てみようと思うんだね。
 (「生理学的な立場からその証明はできていますか」)。
 生理学的な立場から? まあそれはどういう立場なの?
 (「長成期完成級で堕落した事ですね、やっぱりこういう性的な芽生えというものがなければ、エバには堕落ということはないわけですね」)。
 それは堕落した以後のことだよ。堕落した以後の事で性的な芽生えとは?
 (「天使長とエバの堕落の関係があるわけですね」)。
 ここに?
 (「いえ堕落論の中に」)。
 ん?
 (「そうすると生理的な根拠は、医学的な根拠という」)。
 その医学的な根拠というそれの質問の内容が全然わからない。もう一遍、説明して言ってみな。

 この責任を果たしえない場合には、その次の人がその果たし得なかった分まで蕩減してから、自分の基準も立たす。だんだん二重三重になっていく。

 (「ノアの家庭において象徴的な場面がありますね。第一の鳩と第二の鳩と第三の鳩。そこなんですけれど、第二鳩がオリーブの葉をくわえていたというんですけれども、その時に結局イエス様が十字架にかかって、霊的救いをする予示であるといわれますけど、その時にはまだそういう事がわかっていなかったにもかかわらず、そういうことが言われているのはどういう事なのでしょうか」)。

 まあそういう象徴が現われている。だからイエス様はね、どの位置かというとアベルの位置である。アベルの位置は自分の象徴的献祭におきまして、自分の、万物を復帰するとともに、人間が復帰される象徴的献祭をするとね。その基台の上において実体的復帰をしなければならない。実体的復帰をするにはいわゆるヤコブ自体が復帰されると共に自分の父母が復帰される。二重の使命があるんだね。二重の使命を持っておる。こういう関係でもって蘇生、長成、完成から見ればそれはどういう段階かというと、蘇生の段階は万物を象徴する。長成の段階は子女関係、子供を象徴する。完成の段階は親を象徴する。そういうになっておる。これを神様の子供を中心として考えればアダムを象徴し、イエス様を象徴する。それから再臨の主を象徴する。そういうふうになるんですね。


 だから、二番目の鳩は何を象徴するかというと、子供と共に親の位置を象徴する。だから二つの使命がある。子供の使命を完成せずして親の使命を全うしえられない。だから、イエス様は地上に来られて何の使命をするかというと、子供の使命を先にしなければならない。その子供の使命たるはアベルの使命と同様である。アベルは自分が信じられなかったら殺される立場に立つというんだね。その立場と同じである。だからそういう内容を象徴しておる。そこに勝利して親の立場に上がらなければならない。いわゆる地上が、その鳩を迎えるような基準に立っていなかったというんだね。二番目の鳩が。だから約束の基準を立たしたというんだね。


 だからその約束の基準はどういう約束の基準かというと、親と親の見る霊的基準の約束の基準しか立たせなかったというんだね。子供の使命は完成したんだけれど、子供の子供としての使命の基準はそのサタンの方から見れば………。こう考えなさい。アベルをカインが殺した。殺したとすれば、アベルの位置、アベルを神の方に立たせる実体基準は完成しなかったけれども、実体基準に立ちえるアベルの基準と、親の基準は決定される。立ちえる。それでノアが、なぜノアは自分一人で信仰の基準を立たせるかという問題だよ。アダムはそれができなかった。それはアベルがですね、そのアベル自体の基準と親自体の基準を立たすことができた。死ぬという基準でもってあらゆる忠誠を尽くしたという条件を立たせた。だから親の基準と子供の基準を立たせた。それでノアの時代におきまして信仰基台をノアが造れれば、その子供たちは信仰基台なくして実体基台に上がるというんだね。それがアダムの家庭と違う。


 それでハムとセツは信仰基台も何も造らなかった。それはなぜかというと、アベルがハムの基台、いわゆる実体基台として、そのカインを屈伏させるその中心の基準に立っておるから、いわゆるアダム家庭におきましてハムに対してセツが屈伏さえすれば親を中心として、子供を中心として一遍に復帰される。それはアベルが殺されたその基準においてそういう………。


 それでノアの家庭とアダムの家庭は違うんだよ。それからノアの基準を受け継いでアブラハムもそれを継いだというんだね。だから二重の使命がある。だからオリ|ブの木は子供の使命を全うするとともに、霊的親の基準を立たすことができた。
 (「セツでどうして失敗したのですか? セツの時に」)。


 ハムが親と一体とならなかっただろ? アベルの使命は親を復帰する使命なのに、アベルの位置にあるハムが親を復帰させてやるのがその使命とすべきなのに、親がその復帰の基準を立てて、それに応ずるような環境に立たしていたにもかかわらず、反対の立場に立ったんだから復帰できなかった。
 (「アベルの後にセツが立ちましたよね」)。


ハム。(「ハム」)。ハム、二番目の、二番目の。だからハムは何ですね、ノアが働かずして、そのテントの中に寝ておった時にね、兄弟を誘って、そして恥かしいと思って、着物を背負って後ずりして、親にその裸をおおったでしょう。それが問題になる。そのために実体基台が造れなかった。それで失敗した。だからこのオリーブの葉というのは二つの意味があるんだね。ひょっとすればイエスが殺されるという意味もあるしね。ある意味におきましては霊的父母の基準が完成される。まあ条件的基準だね。条件的基準。


 (「もしカインがアベルを殺さなかったらアダムの家庭において、復帰の基台ができるわけでしょう。その場合にはメシヤというのはどうなるんですか」)。
 メシヤは遠からずして来る。まあ、三代以内に来るんだね。その時は誰もいないから。しかしヤコブの基台はメシヤの基台を造ったんだけどね、直接来られる。なぜかというと、サタンの世界におきまして、その国家的基盤を造ってるから、そこまで待って来られなければならない。三代じゃなかったら七代を越えないというんだね。原理的見解がある。
 (「子孫から現われる?」)。


 子孫から現われる蕩減条件をもう一度やるんだね。メシヤたる使命を持つ人はね、全体的蕩減をやらせなければならない。
 (「胎の中にまでメシヤの血統を立てるのですか?」)。
 そういう基準も必要である。それは心情的条件でもできる。
 (「縦的摂理と横的蕩減についてお話下さい」)。
 今から今後習うよ。
 それから何か質問ない? 


 (「はい。今のオリーブの話はですね。理屈ではわかったのですけど、そうしますとイエスは死ぬ運命にあったのかどうか。よくわからないのですが」)。
 それは地上におきましてカインが本当はアベルに服従すべき、その良心はその弟を殺すということはみな良心的には悪いということを知っておるよ。カインもね。知っておったでしょう。弟を殺すということは良心的には非常に呵責を感じた。だからこういうことになったように、まあ、イエス様がいいということは知っているんだけれど、その自分の癪にさわった関係とか、今までの兄の立場がみんな否定される、そうなった立場と同じだ。イスラエルの旧約聖書を信じていた環境がね、カインの立場とそっくりであるというんだね。だからその立場において信じなかったのは、そういう環境が現われている条件のあれもあるというんだね。


 (「アダム、エバが堕落した年齢とですね、今度の再臨の主に対しての真のお母様の年齢と同じというのはありませんか?」)。
 二十を越えたらいけない。堕落はね、堕落は十六だね、満十六、その年配でね、十六か十七の年配と思えば間違いないと思う。堕落の年齢がアダムとエバが堕落したと同じ堕落したんだろう。君たちがこう思ったら困るよ。アダムをみんな造っておいて大人になってからエバを造ると思ったら大間違いだよ。
 (「あの、人類復帰方法をとって、確かにアベル、カインにおいては延長してしまったんですけれど、ノアの時にですね、神がなぜ、小舟と洪水復帰摂理でもって、その計画を立てたのですか。復帰の方法が隠されているのでしょうか?」)。
 その方法が一番便利だから。(爆笑)。
 (「はい、ハムの堕落の動機と、人種問題と文化圏の形成について」)。
 今、ずっと習うよ。


 (「それから復帰原理じゃなくて堕落論に関係するところ、この霊的堕落というのは、瞬間的な堕落と言われていますが、これは……」)。
 あのね、霊的堕落といって瞬間的にこうやったんじゃないよ。エバにおきましては霊肉共の堕落だよ。何か知っている? エバにおきましては霊界共に堕落した。だから天使長が霊的存在だからそれを強調する意味において霊的堕落というのであって、エバにとっては霊肉共に堕落した。そうだろう? 
 (「持続したものだと考えていいのですか、繰り返されたというか」)。
 それはもう一回でもいい、堕落は一回で堕落したんだから。
 (「一回だけもやはり、汚れた血統といいますか、そうなるんですか」)。
 そう。
 (「ははあ」)。
 問題は何かというと、神が存在成立するところに、非原理の存在が存在し始めた、それが堕落である。
 (「そうすると一回だけの霊的堕落と、それから続いて肉的堕落が行なわれて霊的には堕落が起こり、こういうアダム、エバの関係ができてからも天使長との関係が繰り返されたということはこれは考える方がいけないのですか」)。(爆笑)。


 これを繰り返そうとなかろうと同じである。一回でも同じである。君たち考えてみなさいよ。サタンは一体何か、アダムとエバは一体何か。アダムとエバは将来におきまして、神様御自身の体である。アダムは体を持った神様である。なぜ肉体をつくったか。万物世界は実体を持っておる。実体物を主管するには実体を持たなければならない。だから実体をその主管するためには実体の中心物を造らなければならない。主管するには神自身が造った本人でなければ主管できない。機械を造った人でなければ機械を主管する事ができないというんだね。だから神御自身がアダムの心の中に入って、整然として中に住みながら、アダムをその肉体、体として万物を直接主管する。だから人間それ自体が実体を持った神様である。わかる? だから、エバは誰か。神様の奥さんであったというんだね。アダムは誰か、神様自身である。外的神様のその奥さんであったというんだね。そういうに考えるというと、エバは天使長に貞節を犯させた。そういう立場に立ったというのは、神様に対しての姦婦というんだね。姦婦、知っている? これは教会の幹部じゃないよ。旦那さんを持っている奥さんがですね、外の男と関係する。その旦那さんをさておいて、こっそり外の男をとるのを姦婦という。その女から愛される外の男が姦夫の立場だ。そのもとの男にとっては、死にきれない立場にある男の立場が姦夫だというんだね。だからサタンは何かというと神の姦夫の立場に立つ。だから愛のいわゆる仇である。神はなぜ、サタンを許すことができないか。この基準に立ったその姦夫を許すというと、天地創造のすべてが破壊になってしまう。それを許す方法はないというんだね。いくら愛であっても。君たち考えてみなさい、愛というふうに進んでみれば絶対に許せない。だからサタンは何かと言うと、神の姦夫である。


 だから堕落した人間は何かというと、サタンの息子、娘だから、姦夫の子孫である。それを思えば天の神様は煮えくり返ってしまう存在たちである。一遍でもってみなやってしまう気持ち、気持ち悪いくらいのそういう者たちを今まで引き連れながら、これを復帰しつつ来ておる神様の心情はいかばかり辛いか。だからもしも堕落しなかったら直接、我々は神の直接血統を受け継いだ子女である。こういうふうになっておる。 しかしサタンは許されないけれど、子女たちは皆許してやろうというんだね。子女たちを皆許してやった時には、アダムがこの天使長を許してやるという心持ちになったら、カインはどうにもこうにもできないというんだね。だから完成時代におきましてはこういう限界まで、まあ、現われる事ができるというんだね。そういうになれば地獄も解放される。神はそれはできない。わかった?(「はい」)。サタンが何か。神様の姦夫だ姦夫、わかるだろう。(「はい」)。あれみなさいよ。これ漢字というものは啓示的だ。「姦」というのはこれ三つの女でしょう。三時代において女がこういう事をやって来た。アダムの時代、イエスの時代、再臨の時代。(笑い)。そうだよ。君たちよくわからないだろうけど。


 だから漢字というのは実に面白い、漢字というのはね。面白いのがね、天という字、二人ですね。夫も二人である。(爆笑)。笑うなよ、男は天地共に主管する。天といえば天………………天だよ。天のお父様じゃないの。仁。そんなことは余計なことで、漢字はいいところがあるんだね。


 (「先程の続きになりますけれども、天使長とエバとの関係がエバにおいては霊的なものだというふうに、おっしゃいましたけれども、そうすると霊的な堕落というのは人間においては、どういうものをいうのでしょうか?」)。


 霊的な堕落というのはね、霊界が塞がってしまったというんだよ。霊界の関係が自分と関係がなくなってしまったというんですね。神を中心としては霊的関係が塞がってしまった。肉的堕落は神を中心として肉的関係が切れてしまう。そういうとわかるだろう。霊的堕落は何かというと、霊界関係が落ちてしまった。肉的堕落は神を中心とした肉的関係が切られてしまった。内容はそれなんだよ。霊的関係といっても、決して別の問題じゃないよ。神の方から、霊的関係が塞がってしまった。肉的関係が神と直接肉的関係を持つ時、この彼らが肉的関係を持つことができなくなった。それは誰によって? アダムとエバによってである。


 (「神を中心として肉的関係が切れてしまったというのは、これは具体的にはどういう事なのか。これは堕落性がサタンによって、罪を犯しての………」)。
 だから罪を犯したんだから切れてしまった。肉的堕落、堕落というのは、肉的堕落とは肉が落ちてしまったこと。堕落したということは落ちたという意味だね。別にない、別のことないよ。こういうに思えよ。霊的堕落は霊的に切られた。肉的堕落は肉的に切られた。それは霊的堕落は天使長のために霊的関係が切れた。肉的関係はアダムにとってエバのために切れた。


 (「それまでの信仰生活において、霊的堕落というのは異性に対して淫らな思いを持つことが霊的堕落に繋がるのであると、そんな………」)。
 そんな思いを持って行動すれば、そういうになっちゃうよ、自然と。一時になっちゃう、一時に。だから霊的に切られるよ、肉的に切られるよ。天の方から、何らの関係もなくなる。同じ結果になる。もともと人間はね、霊的関係を中心として神と一体という関係があり、肉的関係において一体関係がある。それ皆切れてしまった。そのかわり悪霊を中心としてそうなっているんだね。わかった? サタンは何か。だから今まではサタンを許す方法がなかった、許す方法がない。もしも、あれをその許すといって天の神様の愛は人間と関係を絶対に持つことはできない。だから、君たちは天のお父様というのは、ああいう関係をみんな無視して、元の基準に立って、お父様というんだ。生まれてみたのにね、今おやじと、お母さんというものは、本来、自分のお母さん、お父さんを殺した子供たちである。そういう立場なんだ。本当の自分のお父さん、お母さんがあるのに、こいつらが、入って来てみんな殺して、自分たちがお母さん、お父さんみたいになっておる。それ許せるか? 許せない。そういう立場なんだ。だから自分の親に対して、自分の親戚とか、自分の兄弟関係におきましてもみんなそういう立場になっておる。だからそれを一度切らなければならない。 君たちは、心情的革命という事を言うでしょう? 心情的革命、何だ、心情的革命が何だ、これを意識的革命とか、心情的革命。統一教会の外の団体とか宗教と違うところは何か。心情的革命をなすんだからそれが違う。しかし心情的革命とは何か? 何だ心情的革命とは。いかにして心情的革命をするか、いかにすれば心情的革命はなるか。それを考えてみる。君たち今心情を持っておる。自分の親に対して、兄姉に対して、自分の心情関係に対して、心情的関係を持っているよ。その心情を革命する。自分が親になっておるその子供に対しての愛の心情、夫婦としての関係としての心情、今までの堕落圏内のあらゆる家庭を中心とした親戚関係のあらゆる心情の革命。これ以上の心情でもってこの心情を打つ。それ以上の心情は何か。堕落圏内における堕落したサタンから受け継いだその心情ではなくして、それ以上の心情は神からもともと始まるべき心情である。その心情はサタンの心情をゆり動かす、その心情でもって打つ。打った場合に二つの手で、今までの堕落圏内の心情を打たれなければならない。だんだんとその複雑になる。そういう基準でもって、自分の親戚圏内において「我は勝利せり」、そういう者でなければ神の子供になりえない。今までサタンの世界におきましては、心情を中心とした観念はどういう観念か。同志愛。自分の家族あり、自分の子女あり、自分の兄弟あり、自分の親戚関係だけ愛する、それを第一愛の主体として考えたその心情圏である。それ、神の愛は何か? 自分の関係する者ではない。世界を愛す。国のこと、自分の子供より自分の子女より自分の夫婦関係より、自分の父母より以上愛する心を持つのが、これが革命された心情の持ち主が持つべき心情である。だから今まで義人聖人たちは、どういう心情でもってこの世の中で善をなそうとしたか。自分の家庭を犠牲にし、自分のは犠牲にし、自分の子女関係、自分の父母関係、すべて自分の心情関係とか、すべてを無視して国家なら国家、世界なら世界、万人のために、万人のための愛情を持って、自分に属しておる、その心情圏を審判して立った人たちが歴史的人物であった。


 そういう人たちが今までサタンの歴史圏内におきまして歓迎され得なかった。誰からもみんなに反対され、歴史が通過した後に、「ああ、あの人は良かった」、そういうふうにして、過ぎ去った後に讃える、その瞬間個人を讃えるようにして歴史的人物として………。神はなぜそのような人たちを、そういう環境においてそういう辛い、そういう惨めな生涯を終えるようにしたか。それは万民の心情圏を造らないと、蕩減の道を歩かなければならないから、そういう使命を与えた。だからイエス様を、イエス様のそのいわゆる心情革命された心情圏に立って万民を愛する。天宙を愛する。その愛する心は自分の兄弟が問題じゃない。自分の父母が問題じゃない。自分の親戚関係が問題じゃない。これを凌駕し超越した基準を通して、世界のために世界を愛せんがために、世界をその兄弟とせんがために、万民を兄弟とせんがために、天宙を父母とせんがために、自ら死んでいった。その心情はサタン圏内におきまして心情を中心として、阻む事もできないし、塞ぐこともできない。


 だからそういう立場に立つ者じゃなければ、心情革命をなした事ができない。わかる何か? わかる? (「はい」)。だから統一教会の違ったところは何か、そういう場面が短期間内になす。だからこれこそ、心情世界を革命した人たち。


 だから神はサタンの心情を打つんだね。打って神の心情を立たす。その神の心情を立たすのは自分を中心として立たすのではなくして、世界を中心として立たせる。そういう世界とならないというと、この世界は平和な世界になりえない。今までの心情世界におきまして世界の平和とかなんとか讃えているんだけど、それはできない。枯れ木のようになって、今、現代の結果の世界を造った。それ以上の世界は造れない。だからこれを心情革命なしえる、思想と世界を、世界を愛する世界的心情を中心になしえるような各自があい集まる所に天国が形成される。そこにおいて自分一個人の民族とか一個人のその男女関係のその関係でもって云々する所ではない。そこは天宙を共にして万民を共にして云々する所である。そういう所に神がいましたもう。そこから天地を造る。復帰、新しい天国の建設が始まる。だからそういう基準じゃなければ、未来の世界は絶対、統一とか天国とかなりえない。これを自信を持って、世界の果てまで殉教の心情を中心として、あらゆる妨げる者があっても、サタンがあっても、それを打ち抜けて、その勝利のパターンを原理を持ってこそ初めて心情革命を世界的になさしめる、その指導的位置に立つ。その指導的位置になりえたらこそ、神の子女となる。我々はそのために集まった。


 さあ、それが果たしてできるか、できないか。それができなかったらまだ、君たちはそういう所を尋ねて行かなければならない。だからイエス様もそうでしょう。十字架につけられる間際の立場に立って、神に祈るのは万民のために祈った。自分の家庭関係とか、自分の親戚関係とか、自分の弟子のために、………………。自分の近い者を打って世界を愛しえる、有り余るその愛情の位置に立っていた。ここにおいて新しい世界が出発された。これがこの次の時代、今の時代はもっと昔より罪が多いよ。悪い時代である。………………。善なるものじゃない。却って悪である。この圏内において、いかなる悪の圏内におきましてもその環境を審判しえる、いわゆるその革命しうる心情を通じ、いつも確信を持って行くかというのが、天の子女になりえるかという問題の一つだ。統一教会だったら、それを短期間内になす。一週間以内にできる。万物の創造は一週間、いわゆる六日目になした。七日の過程を通過して、一週間以内にそれを確認しえる能力があるかないかという問題を中心的に考えた場合に、あるというのはこれは世界平和の今日になる………。わかった?(「はい」)。わかった?(「はい」)。伝道もそのためにやるんだよ。「おう、こういう事をやったら、おう、祝福されるんだから、やむをえずやらなきゃ」、とんでもない考えを持っておる。やっておる。それは自分のためにやる。天地、万人のための幸福か? 自分のためにやる。神を利用して、先生を利用して、この御旨を利用して、自分の勝利の圏を要求する者である。そうだろう。(「はい」)。え?(「はい」)。だから、そういう基準が立たないというと、世界は神の世界にならないよ。


 それを先生は、はっきり知っている。心情革命というのはこれだね。神の心情を持って、サタンの心情を打ったら、サタンの心情はだんだんとみんなやられちゃう。一時において彼が思いは敵みたいに、仇みたいに思える。本当にそうなるんですよ。なるんですよ。そういう心情の内心の動きがなければ、統一教会は嘘だ、嘘。君たちは……嘘つきするんだから、教会にノコノコやってくる。それがなしえるんだから問題は大きい問題である。そうなっているの? どうか、そうなっているの、なっていないの? 心がそういうその、責めかかりながら、その、誘うんだけど、君たちがもう動かなくなっている。その事自体が仇である、怨讐である。


 その心があると、絶対その心はそれ以上尊いものはない。それをもしも、奪われるその危ない基準があったら、何を基準とし、それを奪われたか。先生もそういう闘いがあった。父母もあったもんじゃない。それだけこれ取れなかったら、もう、世界もみんな天国どころじゃない。地獄になっちゃう。それを攻めて取り返す。それは華々しい基準を持って、生涯の勝利場に向かって、突進、驀進するんだ。統一の勇士の持つべき御旨である。


 君たち、心情革命とか何とか言って、何もその言えないでしょう。具体的な方法はこの方法である。わかる?(「はい」)。わかる?(「はい」)。だから毎日の生活圏内におきましてそういう心情基準が先だって、私のつくる生活環境を押しても堂々と行ける者になっておるか、なっていないかというそれがそれ自体が私を天国へ行く人としているか、地獄の方にしておるか。天国がそこここにあるんじゃないよ。君たちの生活圏内に天国地獄が交代に、替わり番こしておるんだよ。だから、心情を基準として、一部はある行動とか能力のその立場を、乗り越えるのは、踏ん張って、命がけで。


 だからすべて多からず、これを大きく動かす一つの足場として利用する、利用していく、そういう心持ちで我々はやるんだね。ま、こういうふうに言うと、はっきりまあ、先程の問題にしみついて来るだろう。心情革命は統一神しかない。


 だからそういうふうになるには、天の神様が天のお父様がいかなる道を辿って来たか、これはもう人類を思っては………。そういうふうに真剣に、そういうふうに姦夫の息子である君たちを救うために六千年待ち望みながら、待ちに待って、そしてあらゆる反発を受けながら、忍び忍んできた、天の神様、お父様である。すぐに顔を上げるような気持ちになれない。千遍万遍殺されても、生きて、報いようのない不足の自分である事をつくづく感じる。だから深い所へ行く程、謙遜にならざるをえない。頭が上がらない。だからこの肉心を持つ………。そういう気持ちあるから、サタンが屈伏するんだね。


 ………堕落圏内の血統を受け継いだその子孫として神の心情を中心として、我々を迎える、神の新しい心情圏がある。その心情圏を我々は相続しなければならない。わかる? 問題じゃない、死ぬことなんか問題じゃない。どうせ死んだ者と生まれた者である。それを生活圏内に体験している、そういう体験をする人間こそ、心情革命をなされたという証明である。そういう者は間違いなく天国に行かれる。天の息子であり娘である。その心がない者は、これまだだめだ。目が覚めた時、自分のお母ちゃん、お父ちゃん、自分の奥さん、旦那さん、自分の子供、それが、先に浮かんだらそれはいけないことだね。我々は兄弟だ。我々は至る所でそういう闘いをやっている。御飯を食べながら、仕事をしながら、自分の直接関係している兄弟とか子女の問題とかそれは思いもよらない。しかし我々、兄弟に対しては、思わざるをえない心情がいつもある。そういう人たちは天のアベルになって生活する者であり、そういう所にはサタンの侵入はない。わかる? (「はい」)。本当にわかる?(「はい」)。これで終わり。


 今は何だな、君たちは原理もある程度までわかるんだから、こういうことを言うんだよ。何も知らない奴らを集めて来てこう言ったら、「何だ、あの、真理とか何かありっこない」。しかし、歴史的に考えてもそうだな。あらゆる基準とか、日本の武士道から言ってもね、そうでしょう。国家の非常時において、国家を救うためのそのある武士がね、国家に忠を尽くさなければならない。そういう路程を辿ろうとする時に、自分の奥さんとか、自分の子供が、「私をさておいて、どこへ行きますか、お父ちゃん、私の大学の問題をどうなるの? 結婚の問題どうなるの?」と言って父ちゃんにそういう事を言った時は、その公的責任を持っている武士はね、「ああ、君たちの言う事は本当だ、まず私の行く事はこれはどうでもいい」。父ちゃんは自分の環境を皆切ってしまって、愛するその奥さんがあっても、奥さんの首を切ってでも、国家のために尽くし抜く。それが天の方に近い、心情的におきましては、天にその立ちえる心情であるというんだね。そうでしょう。世の中もそうでしょう。そういう所がもっとそれよりでかいのが天的心情だ。この世の中の公的、公程を行く、英雄たちといっても、それは理解できるもんだね。だから今まで歴史的人物たちは皆犠牲の道を歩まざるをえない。そうだろう。だからわかったら、行なえ。絶対行なって滅びない。絶対滅びない。それは先生が証明している。死のうとしても死なない。乞食になろうとしてもなれない。立派な人間になろうと思わなくても、自然と自分も知らずのうちにそういうになっちゃうんだね。神が私を、自分を愛するということだけわかれば心配ないというんだね。私が神を愛すると共に神が私を愛する、そのことをはっきり知っておけば絶対心配するな。いかなる極限場だね。いかなる曲がり道を曲がり、変転万相のその路程を引っ張り、あるいは行き帰り行くとしても、絶対滅びる道に行かしてやらない。そう路程を通過して、自分の祖先に最高なる、その成功地に神は引き連れて行って、その場に立たせて神は、立たせながらそれ以上の祝福を、自分の子孫のために祝福してやる神であることは間違いないというんだね。自分の素質から願う、最高の成功はそれもちろんだけど、成功したその基準に立たして、まだ、より以上の自分の子孫までも、祝福されえるその基準でもって、祝福して行く、その方が神である。間違いない、間違いない。


 こういうことを考えるから問題が起こるんだよ。まあこのくらいの数がこういう精神でもって、全国的に広がって、オッサー、オッサーとやればね、日本は時間の問題だ。問題ないよね、問題ない。それなら。みんな、自分の若い時代をもう、思春期とかそういう問題も忘れてみんな、ありっこない女の子が、年が三十過ぎても、それがありっこない、今何歳かと十二歳というに思って行くような気持ちを持ったら問題ないというんだね。「三十歳を越えているんだから、花ざかりの時代も過ぎたんじゃないの、花が落ちて桜の花が落ちて、もう蕾ができたというくらいの年齢になったのに、何だこういうことをしていて、いつ終わるか」とね。結局そういう疑い出したら、それが自分自身ながら行く道を塞いで、自分一人が滅ぶのはこれはもういいかも知れないけれど、自分のために数多くのそういう開拓の人たちがその倍苦労する。


 他人までその被害を犯させた。だからそういう者は許されないんだね。だから先生が心配するのは地方に伝道に行った者が三年半ぐらいになったら、みんな後ろをそっと回って見るような段階に入るんだけれど、日本はどうか。最初はもうどうやら何やらいい気になっていたんだけど、行ってみると辛い。「ああ、親が恋しい」とか、「自分の家が恋しい」とか、何とかね、一人ながらいろいろなことを考えるんだね。昔はそういう考えをしたら、それを追い出す時間を費すんだけれど、まあのこのこやってずっと苦労がやって来ると、辛い立場に立つと、いろいろなことやって集まって、こういうのあるかないか、こういうふうな集めて頭の中で考え出して「これがいいか、あれがいいか」考え出すんだね。


 きっとそうなるよ。だから、七年間はこうだというんだね。こういう七年、人間は七年間変わらず、七年間はおいてみなければならない。だからこういう心情的基準をはっきりした人だったらね、行かなければならない。自分が天国へ行かれるか行かれないか、自分をはっきり知る。聞く必要ないよ。


 神に祈る必要もないよ。皆わかっている。何祈るよ。祈るのは自分が働きながら、ちょっとやる相手がでかいから、「ちょっと助けて下さい」、そういう立場で祈るんだよ。何、自分の死ぬくらいまで力を精一杯出してみないで「神に助けて下さい」。そこでは神はびくともしないよ。やるだけの力精一杯やってみて、祈るんだよ、祈る。始める前から祈ったってしかたがないじゃないの。だからやらずして祈るな。自分のために祈るな。向こうの相手のね、ある部落の人たちの部落のためには祈ってやったらいいよ。それはいくらでも夜通しながら祈ってもそれは神は、サタンの方も何の讒訴もできない。神は喜ぶというんだね。「神自身の心に相似した立場に立って祈ってくれる、これは有難い乙女よ」といってね、「男よ」とね。しかし、「こういうふうな摂理になってきたんだけど、ああいうでかい奴らがあるんだけど、ああ怖くて行かれません」。そんなのは祈る必要もない。祈りは力尽くしてやりながら、自分の力が足りない場合、神を呼ぶんだよ。だから自分が自分を試験してみるんだね。自分の実力はどのくらいあるか。神との協助なくして我々はこれくらいやれるか。やれる、と思ったらやるんだよ。死に物狂いにやるんだよ。第一回戦法に向かって失敗、第二回戦法失敗、第三回戦法失敗、やってもまだやる。そう考えてやる。そりゃ、そのくらいやるんだよ。自分がやってからこそ神の前に堂々と言う、「こういうことをやって勝利しました。どうか、神様いかがですか、どうぞお捧げしますからどうぞ」、こういう態度がいいんだ。初めから目をつむって、これは目をつむって、これは行かれない。そんな者たちは長く行かれないよ。先生は難しいことがやって来ると全然祈らないよ。その時はのこのこ遊んだり、山に行ったり、野原に行ったり、そういうことする。祈りも何もあったもんじゃない。自分もハラハラする心情で……そうだよ。まあ、神から見ればどういう人を信ずるか、というんだね。初めから嘆く、祈る者と、責任を持ってやむをえない場合に「神様、助けてくれるんだったら助けて、そうでなくてもよろしゅうございます」と、そういう気持ちでおればね、祈ろうという考えを持つ前にみんな協助してくれるんだね。本当なんだよ。本当。君たちそうふうにやってみなよ。そうやれずして、みんな神を先に立たしてそのああいうふうに動かそうというそういう奴は不孝者である。


 もう十二時になったよ。あの時計は実際先生には慕わしいな。間違いなく十二時になりつつあれば、「どうか、準備してお帰りなさい」とね。しかし、ここに座っている皆さんはそうじゃないんだね、目が真丸く輝いて、「帰っちゃいけません」と。


 今日はね、読売ランドへ行ったんだ。子供がね、「お父さん、今日は何とかしてああいう所に連れて行かして下さい」とね、東京に来てみんながなんだな、今日は連れて行ってみようとね。もう車が込んで行く時も一時間以上かかった。帰りもそうだね、帰りも。


 一つ聞いてみよう。この中で心情革命がなされているという人たちは手を挙げてみな。(「はい」)。その基準に立ち得ないといけない。君たちはその基準をずっと思い、毎日、反省するんだね。この基準に立っているか、いないか、それによって君たちは天の子女の位置に立っているか、いないかということになる。それを考えればね、わしは天国に行かれるか、中間霊界に行かれるか、下の方に行かれるか、自分ながらによく知っておるよ。よく知っとるよ。自分がどういう所に行くか、はっきりわかる。だから特に子供を持った人たちがね、どこそこの大学に留学させた、その子供に涙を流したという父母があったらね、我々兄弟のために三倍やらなければいけないというんだね。神は一人の堕落したその一人の息子、一人の娘を求めるために、三時代を労しながら、涙ぐみながら、涙しながら、今までその求めて来ておる。それを考えると、自分の子女以上の心情でもってその兄弟たち、我々その天の御旨のために働くその若者のために涙を三倍以上流してやらなければ、蕩減条件にならないというんだね。それみんな原則があるんだよ。君たち何も知らないけどね。そういうのをずっと中心としてみれば、本当に神の前に立っている人たちはそうないんだね。そういう基準でもって、日本の兄弟たちはね、そういう基準で持って、はっきりした基準でもって、この世界を睨みつけて、進むんだよ。わかった?(「はい」)。余り遅くなったら君たちは明日の講義の時間に祈る者が多くなる。(爆笑)。みんな先生の話す時は自分も知らずにいい気になっておるんだけれどね、帰った時にはちょっとこたえるよ、朝起きる時に。さあ、これぐらいにしましょうね。久保木、祈って終わりましょう。

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