1999年2月に結婚。普段は大人しいが、自宅に「ヘヴィメタルーム」がある位、ヘヴィメタルに造詣が深い。高嶋曰く、「その部屋は『鶴の間』[9]だ」との事。
- 家族に対し他人から見ると暴言とも取れるような発言の数々を行っている。「母のようにはなりたくない」「(辛口トークをするのは)あいつのせいだ」[3]、コンサート後にCD販売やサイン会で一般客に混じって並んでいた母の番になり、気づいた高嶋が「このクソババア」と言ったところ、母の方でも「あら、案外恐い人ね」と客のふりのまま応答して次の人に順番を譲った、高嶋の父の加齢臭のことを「死臭」と呼ぶ[7]など。
- また家族と仲が悪いと受け取れる発言も行っている。「母親が嫌い」[7]、父親とは犬猿の仲で年に1、2度大きな喧嘩をしてしまう。出産前後も大喧嘩していたさ中で、高嶋は周囲に出産の件を父親に絶対話すなと言っていたが、どこかで情報を嗅ぎつけた父親が病院に孫を見に来ていた(その後、この大喧嘩については和解済)[5]など。
- その一方で家族間協力的な話や家訓を重視するような発言をしたり、家族会議を頻繁に行ってる様な発言もしている。前述の「焼肉話」、後述の「子供かわいい話」や「母親育児協力話」など。
- 実家での家族間の会話も「笑わせてなんぼ」だとかで、内容に「オチ」がないと、「私の貴重な時間を無駄にして!」と、突っ込まれる。
- これらの事から家族とは『喧嘩するほど仲が良い』的な関係と思われる。
- 『めざましクラシックス』に参加していた軽部真一とは家族ぐるみの付き合いがある。軽部が高嶋の家に遊びに行った際に、高嶋の子供を一言も褒めなかったところ、帰った後で高嶋の母親が「あの人、変」と発言(軽部の子供もほぼ同時期に生まれた為、自分の子供と張り合ってしまい意地で「かわいい」と言わなかったとの事。その顛末を高嶋が軽部に電話し「今度はかわいいと言う」とちょっと反省していた)[5]。
[編集] 幼少・学生時代
- 小さい頃から男の子を泣かせて遊んでいた。小1の時にはクラスの男子全員を泣かすという快挙を達成。泣かす理由は特になく、「あいつ、未だ泣かせてないから、どれくらいで泣くか試してみよう」程度のものだった。
- 小3の時、ケンカのし過ぎで声が枯れ(嗄声)、医者から「3ヶ月大声を出さなければ治る」と言われた。しかし、3ヶ月もたずにケンカし、現在の声になった。その影響で、カラオケでは世良公則やもんたよしのりが得意のレパートリーだとか。
- 小学生の頃、埼玉銀行のキャラクターモデルとして、緒形拳とポスターやカレンダーなどのグッズにて共演の経験がある。
- ミッション系の小学校のため、夜寝る前にお祈りすることが決められていたが、小3の頃はクラス全員が「明日はちぃちゃん[10]に意地悪されませんように」とお祈りしてから寝ていた。
- 小学生の頃、担任に「先公」と言ったら、母親が学校に呼び出された。呼び出された母親は「先公と言われたくらいで親を呼んでいたら教師なんか務まらないでしょ」と言った。以後、母親が学校に呼び出されることはなくなった。
- 学校の勉強が大の苦手で、運動(体育)が得意。中でも水泳が得意であり、「河童のちぃちゃん」とも呼ばれていた[6]。そこで「将来はスポーツ選手になろう」と思って、小学生の頃祖母に相談した所「スポーツ選手は、一生現役で活躍出来るとは限らない。手に職をつけて、一生仕事が出来る様な事を目標にしてみなさい」とアドバイスされ、ヴァイオリンで身を立てようと決意した[11]。但し、後述の様な理由や動機も、別の番組で語っている。
- 小学校から大学までの一貫校だったため、成績が悪いと姉妹校へ進学する時の推薦がもらえなかった。そこで、推薦がもらえなくても他の高校へ行けるようにするために、ヴァイオリンを始めた。とはいえ、弦楽器において国内では追随を許さぬ名門校へ進学していることから、面白おかしく話しているふしもある。
- 学生時代、ヴァイオリンの練習をしているフリをする為、テープに以前練習した時の曲を録音しそれを流して練習をサボってたことがあり、それを兄に見つかったことがある。「母に言いつける」と言われたが、受験生の兄が勉強をサボっているところを写真に撮り、口止めした。
- 高校時代はファッション誌の読者モデルをやっていた。
- 桐朋学園時代のあだ名は「悪魔」。イェール大学留学中は日本の知り合いがいないにもかかわらず、「デビル」とあだ名がついた事に、当人も驚いた。
[編集] 音楽活動
- イェール大を卒業後、マイアミのプロ交響楽団に所属し、楽しく曲を演奏する気分・手ごたえを感じてきた。
- 日本に帰国後、1995年にチェロ奏者・大藤桂子と共にチョコレート・ファッションというユニットでCDデビューした。曰く、アメリカにいる時、「直ちに帰国するように」と説明なく連絡が入り急遽帰国した所、父がデビューまでの段取りを既に設定していたという。大藤とのコンビは程なく解消し、セカンド・アルバム以降は実質的に高嶋のソロ・プロジェクトとなる。
- チョコレート・ファッションのCDが売れず、キャバレーにキャンペーンで行った時、酔客達はほとんど演奏を聞いていなかった。そこで、「誰でもクラシックに興味を持ってもらえるようにしよう」と考え、現在のように面白く自分の事やクラシックの事を話すようになった。
- チョコレート・ファッションの演奏曲が『金子柱憲・高田純次ゴルフの王道』で採用されたことが縁で高田純次と同じ事務所に入る。ホリプロからもオファーを受けていたが、高田純次の笑いを取った。
- 女子十二楽坊は14人いるが、『高嶋ちさ子12人のヴァイオリニスト』も14人いる。これは女子十二楽坊を見習ったもの。疾病・事故などのアクシデントがあっても12名で演奏できるようにした。
- プロのヴァイオリニストは演奏中、楽譜を見ないが、12人のヴァイオリニストの中でどうしても下を向いて楽譜を見る人がいるため、「そんなに下を向くなら、まぶたに眼を描いとけ!」と叱ったことがある。
- 日本でプロデビューして各地でコンサートを開催しても、当初は何百人単位で埋まる座席が十数人しかお客が来ず、「デビューしたばかりだから名も知られず実力もまだまだと解っていても、精神的に辛かった」「この先、どうなるんだろう」と、不安・焦りと背中合わせだった。
- 日本国内でのデビュー時の苦い想いもあり、又責任感もあり、一時期は依頼されたコンサートを全て引き受けていたが、ある日突然右腕の自由が利かなくなった。頚椎ヘルニアによると思われる状況だった様で、治癒後は仕事をセーブする様にしたと『わたしはあきらめない』(NHK)で告白した。セーブしつつも、引き受けた仕事は真剣にベストを尽くす、としている。
[編集] 育児
- 育児は最初の頃、すべて自分でやっていたがそれが原因で腱鞘炎になってしまった。その反省からベテランのベビーシッター2人と母親に頼み、手に負担が掛かる部分の育児をやってもらうようになった。(コンサートなどの仕事に影響が出ないようにするため)。子供は父親(高嶋の夫)似であまり泣かない。高嶋の生活リズムに子供が合わせられている部分があるが、うまく適応していてそれほど手間が掛からない。子供にはチェロなどバイオリン以外の楽器をやらせたいと考えている(今使っているバイオリンは引退したら売って老後の資金にしたいとの事)[5]。
- 他人から自分の子供が「かわいい」と褒められても肯定してはいけない、それに対する返事の言葉も決めている(もちろんオチ有り)と家族会議で決定し実践している[5]。
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