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한국유교학회 논문

日本儒教の異質性の再検証

작성자樂民(장달수)|작성시간18.10.24|조회수31 목록 댓글 0

日本儒教の異質性の再検証


土田健次郎*


<목 차>
Ⅰ. 日本に儒教は入ったのか
Ⅱ. 漢文の言語的特質
Ⅲ. 儒教における学派結合
Ⅳ. 日中における礼の差異
Ⅴ. 忠孝一致論
Ⅵ. 忠孝の方向性
Ⅶ. 思想表現の提供と地域性の保存


<국문요약>
쓰다 소키치(津田左右吉, 1873년∼1961년)는, 일본에서 유교는 관념적인 것
으로, 지식으로는 받아들여졌지만 실제로 일본인의 정신생활과는 관련이 없
었다고 하였다. 그러나 일본 에도(江戶) 시대에는 다수의 유학자가 존재하였
으며, 대량의 유학 서적도 간행되었다. 또 일본에서도 유학자들은 ‘한문(文言,
고대 한어)’으로 표현 행위를 하는 것이 보통이었다. 하지만 쓰다(津田)는 한
문의 언어적 특질 때문에 엄밀한 논리성은 보증되기 어렵다고 했다. 확실히
한문에는 여러 가지 해석을 허용하는 곳이 있어서, 남송의 朱熹는 구어의 어
록이 한문으로 바꿔 써졌기 때문에 여러 가지로 해석이 되어버린 점을 비판
하기도 하였다. 한문은 표현의 간결성, 對偶性, 운률의 조화를 중시하기 때문
에, 지극히 세련된 양식미를 가지기는 하지만, 글쓴이가 말하려고 하는 내용
을 정확히 그리고 상세히 모두 표현할 수는 없다. 단지 이러한 성격은 한문이
언어로서 시공을 넘어선 보편성과 표리를 이루는 것으로, 유교의 문헌이 일상
언어와 동떨어진 한문으로 씌어져 있었기 때문에 중국에서 태어난 유교가 언
어도 정신적 풍토도 다른 일본에 유입될 수 있었던 것이다.
또 유교와 불교는 교단 결합의 방식이 다르다. 그것이 불교와 유교의 일본


* 日本 早稻田大學 敎授.
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유입 상황에 차이를 낳았다. 일본에서는 승려가 다수 중국에 유학하여, 중국
으로부터 법통을 전해 받았지만, 유교를 배우기 위해서 중국에 유학한 사람은
거의 없었다. 유교는 불교와 같이 비일상적인 장소에서 교단을 형성하지 않으
며, 스승으로부터의 전수도 반드시 필요한 것은 아니기 때문이다. 도학자(宋
學의 사상가)에게 도는 만인에게 공개되어 있었던 것이다. 그러므로 書院에서
도학을 배운 사람은, 본인의 경지가 높지 않아도 지방관으로서 부임한 장소에
서 문하생을 모아 도학을 강의하였다. 그리고 각각의 학통은 끊어져도 전체적
으로는 여기저기에서 강학이 행해지는 상태가 지속되었다. 도학이라고 하는
학파는 그러한 강학의 집단인 것이다. 그러나 일본에서는 유교 학파가 생기
자, 그것이 ‘종가’로 변해 일본적인 전달 양식을 보이기 시작하였다. 원래, 에
도 시대 초기의 유학자들 중에는 불교의 승려에서 변신한 사람들이 많았다.
그리고 그 불교나 유교가 일본식라고 하더라도, 일본 사상의 문맥 안에서 불
교 대 유교라고 하는 구도가 된다는 점이 중요하다. 즉 일본 유교를 관찰하는
하나의 시점은, 일본 사상내부에서 유교라고 하는 틀이 어떻게 작동하였는가
를 보는 것이다.
일본 유교의 이질성을 문제 삼을 때 반드시 등장하는 것이 禮이다. 예를 들
면 시공을 넘어서 변경해서는 안 되는 ‘3년상’도 일본에서는 1년이면 된다고
하였다. 그래도 일본에서는 그것을 예로서 자각하였는데, 문제는 그것이 예라
고 하는 의식을 성립시킨 유교 나름의 ‘유형’이라는 것이다.
이 예의 문제와 함께 중요한 것은 일본에 있어서의 충효관념의 특수성이
다. 특히 충효의 상호 관계와 충효의 방향성에 그것이 나타나 있다. 쓰다는,
일본에서는 孝보다도 忠이 중시되는 경향이 있다고 했다. 그것은 일본에서 公
의 관념이나, 가족의 존재방식의 특수성과도 관련되어 있다. 일본의 가족은
가업의 계승을 중시하고, 그것을 위해서는 양자를 들이는 것을 용인한다. 이
러한 가업의 관념은 사회전체에서 각각의 가문이 차지하는 위치를 부여하게
되었다. 그래서 등장한 것이 충효 일치론이다. 충효 일치론은 중국에 없는 것
은 아니지만, 일본에서 특히 두드러지게 되었다. 근대에는 충효 일치야말로
일본 유교의 정화라고 하는 논의도 행해졌다. 또 에도 시대는 막부와 번과 황
실이라고 하는 복수의 권력이나 권위가 존재해서 그것들 사이에 균형이 이루
어져 있었지만, 충성의 대상을 일원화하는 유교 정통론의 영향으로, 충성의


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대상을 일원화하도록 요구되었다. 그 결과 황실을 정통으로 삼아 그것에 충성
을 다한다고 하는 생각이 널리 퍼졌다. 거기에 또 도통론이 더해져 황실이야
말로 정통이며 도통이라는 황통론이 널리 퍼져 그것이 막말의 존황양이론이
되었다. 이것은 유교의 이론이 사상적인 상황을 추진한 중요한 사례이다. 다
음에는 충효의 방향성 문제인데, 이것은 일본 유교에서, 아이가 부모에게 효
를 다하는 동시에 부모 쪽도 아이를 사랑하는 것이 요구된다고 하는 쌍방향
성을 가지는 경향이다. 또 일본에서의 충에 대해서는 그 정서적 경향이 언급
되는 경우가 있다. ‘군신관계’라고 하는 것 보다는 ‘주종관계’라고 말하는 편
이 낫다고 하는 논의도 있다. 또 군신관계에 대해서는 신하의 일방적 충성을
주장하는 일방적인 경향도 일부에서는 눈에 띈다.
유교라고 하는 틀에서 사상표현이 행해지는 것은 일본에서도 효과를 가져
왔다. 효든지 충이든지 유교 이전의 일본에도 유사한 가치관이 존재했었다.
그러나 그것이 유교에 의해 사상적인 표현을 얻었을 때에는, 그때까지 관습적
으로 행해지고 있었던 것이 명확한 표현과 이론을 획득하여, 그것이 토대가
되어 다음의 사상적 표현이 생겨났다. 그 표현은 유교를 넘어서 국학을 비롯
해 다른 학파에도 영향을 주었다. 유교는 일본을 비롯해 각지의 정신상황에
명확한 사상표현을 부여해주었다. 또 때에 따라서는 그러한 정신적 상황에 포
함된 요소를 확장한 것으로, 그 내용에 지역적 특색이 있다고 하더라도, 유교
나름의 효과를 초래했다고 말할 수 있는 것이다. 감히 역설적으로 말하자면,
유교의 존재에 의해 각 지역이 원래 소유하고 있었던 생활 감정이나 가치관
은 각각의 특색을 유지하면서 전개되고, 성숙할 수 있었던 것이다.


주제어: 儒敎, 孝, 禮, 忠


Ⅰ. 日本に儒教は入ったのか
以前、津田左右吉(1873年~1961年)は、日本には儒教が入らなかっ
たと言った。津田のこの主張は、彼の膨大な著作の随所に見られるが、
比較的コンパクトにまとめたものとしては、『シナ思想と日本』(岩波
書店、一九三八)を挙げることができる。そこで津田は日本の古代につ


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いてこのように言う。「ただ事実に於いて存在した道徳を一つの思想体
系として構成することができなかったために、儒教の道徳説が知識とし
て尊重せられたのである」p.14。そして「このとは平安朝及びそれから
の時代となっても同様である。その教は政治及び道徳の規範として知識
社会の間に尊尚せられた。しかし実際生活に於いて曾てそれの実現せら
れたことが無かった」と続ける。
これに対しては、このような反応が可能である。まず江戸時代には多
数の儒者が存在した。そして大量の儒書も刊行された。もし日本に儒教
が入らなかったとすれば、このような大量な儒者や儒書をどのように考
えるのであろうか。
津田が強調したのは、日本における儒教は観念的なもので、知識とし
ては受け入れられたが、実際の日本人の精神生活とは無縁だというもの
であった。ここには津田は思想観がある。津田は、思想というものは、
実際の精神生活の中で意味を持たなければならないという強固な考えを
持っていた。その津田が日本思想史を著述した時、彼が使用した資料は
文学であった。『文学に現はれたる国民思想の研究』がそれである。ま
た津田が江戸時代で評価した儒者としては貝原益軒と熊沢蕃山がいて、
彼らについては『蕃山益軒』を書いているが、彼らを取り上げた理由
としては、彼らが和文(日本語)で著作したということも挙げている。
日本人の精神生活は日本語でこそ表現しうると考えたのである。江戸時
代の儒者は漢文で著作するのが普通であった。あれだけ日常道徳の意義
を説いた伊藤仁斎ですら、その著作はほとんど漢文であった。その漢文
著作をさらに啓蒙化する時に日本語が用いられたのであって、それはあ
くまでも第二番手の仕事であった。
なお本稿の「漢文」とは中国語の「文言」あるいは「古代漢語」のこ
とであって、日本ではこの言い方が一般的なので、日本儒教を問題にす
る本稿ではこの語を使用する。


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Ⅱ. 漢文の言語的特質
津田は漢文という言語自体に対して低い評価を行っている。それは漢
文の言語的特質から、厳密な論理性が保証されづらいというものであ
る。実際に漢文は複数の解釈を許容するところがあり、それが膨大な注
釈を生み出した原因にもなっていた。
中国人にとって、大きく言えば中国語は三つの層がある。まず各地で
日常的に話された口語(方言)、次に官僚が使用する口語の共通語(官
話)、そして漢文である。相対的にではあるが、方言は地域と時代の両
方によって、官話は時代によって差異を見せる。それに対して漢文の方
は会話に使用されたこともあり、また若干の時代性も無かったわけでは
ないが、基本的に経書を始めとする古典の用例に範を取る文章語であ
り、常にこの規範が参照され、またこの規範に立ち返るがゆえに、地域
のみならず、時代をも超越する。
このような三つの言語の層を、『易経』繋辭伝上の「子曰、書不尽
言、言不尽意。然則聖人之意、其不可見乎。子曰、聖人立象以尽意。設
卦以尽情偽。繋辭焉以尽其言。変而通之以尽利、鼓之舞之以尽神」とい
う文章をもとにして言うなら、口語である前二者は「言」、漢文の方は
「書」に相当することになろう。ここで「繋辭焉以尽其言辞」と言うこ
とからすると、『易経』の場合は「書」で「言」を尽くせるということ
なってしまうが、これは『易経』が特殊の言語であることを言うので
あって、一般論としてはやはり「書不尽言」ということなのであろう。
つまり漢文では口語による表現内容を表しきれないのである。漢文は表
現の簡潔、対偶性、韻律の諧調を尊ぶために、極めて洗練された様式美
を持つが、ともすれば作者の言おうとする内容を正確かつ詳細に表しき
れないのである。
漢文では意味の取り方が複数生じてきてしまうのであるが、口語の方
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にはこのような現象は少ない。たとえば朱熹は、程頤の「心生道也」と
いう語を問題にする。この語は「心は、道を生ずるなり」とも「心は、
生の道なり」とも読めてしまう。朱熹は後者を正しいとする1)。朱熹は、
この語はもとは口語で記録されていたのであるが、それを漢文に変えた
ために誤解を生ずるようになってしまった、と考えていたようである。
この語が収められているのは『程氏遺書』巻二一下「附師説後」であっ
て、朱熹「程氏遺書目録」原注では「胡文定家本。除復重、得此数章、
以其辞意類師説、故以附其後]と書かれている。つまり「師説」に似て
いるから、『程氏遺書』巻二一上「師説」のすぐ後につけたというので
ある。ちなみにこの「師説」は程頤の晩年の弟子の張繹の記録であっ
て、漢文で書かれている。朱熹は「張思叔多作文、故有失其本意処。不
若只録語録為善](『朱子語類』巻九七 第七条)と言うが、ここの
「作文」とは漢文に直すということであって、先の『易経』流に言え
ば、朱熹は、張繹(思叔)が口語を「書(漢文)」にしたことで、
「意」を失ったとしているのである。
ところで朱熹が問題にした程頤の「心生道也」の語は、先に述べたよ
うに『程氏遺書』巻二一下所収に見えるのであるが、この箇所は朱熹
「程氏遺書目録」原注によると「胡文定家本」、つまり胡安国(胡文
定)の家に伝わったテキストであった。このような胡安国一族が伝えた
語録では、「胡氏本拾遺」である『程氏外書』巻七もそうであって、こ
の語録についての朱熹の原注でも「胡文定家本、又有別本、文其言而毎
章冠以子曰字者、今亦取其不見於諸篇者附于此」とある。つまり胡氏の
系統に伝わった語録は、いずれも「文之」とあるように漢文に変えてし
まっていたのであって、張繹の語録との共通の姿勢を持っていたのであ
る。なお口語を漢文に変えた例としては、他にも張栻のものとされてき
た「程氏粋言序」で「河南夫子書、変語録而文之者也」と言われている
1) 土田健次郎『道学の形成』(創文社、2002)序章第2節の2。なお本書の韓国語
訳は、成賢昌訳『北宋道学史』(芸文書院、2006)。
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ものがある2)。なおこの「河南夫子書」について、朱熹は「胡明仲文伊川
之語而成書。凡五日而畢。世傳河南夫子書乃其略也」と言うように、胡
寅(明仲)が五日間で漢文になおした(『朱子語類』巻九七 第一
条)3)。
つまり「心生道也」という語は、口語で帰されている時は誤解のしよ
うがなかった。それが漢文になおしたために、複数の読み方が可能にな
り、混乱が起こったと考えられるのである4)。
このように「書」は「意」を尽くせないのであるが、それでも「書」
が権威を持つのは、それが時空を超えた普遍的な言語だからである。口
語語録の意義を強調した朱熹ですら心血を注いだ主著の『四書集注』
は、一部先人の語録の引用などの口語をまじえているものの、基本的に
は漢文であった。つまり「不尽意」である「書」を主著には用いている
のであって、それは表現の一義性やニュアンスを犠牲にしても時空を超
えた普遍的な場に参画することを求めたことを意味する。
先に述べたように、中国では「語」と「書」の間には距離があった
が、それゆえ「書」は時空を超えた普遍性を獲得しえた。それは日本や
朝鮮もそうであって、「書」と「言」と「意」の相互の間隙は中国を含
めた東アジアの知識人が共有する問題であり、同時にその間隙の存在ゆ
えに「書」は普遍言語になりえたのである。しかしそれは同時に日常的
な生活感情や心性から離れることでもあった。津田は日本の儒教の多く
2) 『河南夫子書』と『程氏粋言』の関係については、A.C.Graham, Two Chinese
Philosophers Ch’eng Ming tao and Ch’eng Yi ch’uan, Appendix1”Workes of the Ch’eng
Brothers”, p.147, Lund Humphries, London, 1958。なお『程氏粋言』は楊時の作、
その序は張栻の作とされているが、Graham氏が言うように疑わしい。
3) 宋代にはまだ文言と白話が明確に分けられていなかったという議論があるが、
少なくともより文言的か否かという意識は存在した。文言と白話については、
例えば呂叔湘「文言与白話」(『国文雑誌』3巻1期、1944、『呂叔湘語文論
集』所収、商務印書館、1983)
4) 以上の内容は、土田健次郎「漢文と中国語―『程氏粋言』をめぐって―」
(『新しい漢字漢文教育』50、2010)。
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が漢文で書かれ、それが日本人の精神生活と距離を持ったことの一因と
するが、普遍的表現の獲得には、犠牲にするものもあったということな
のである。
現代人は、文語よりも口語へ、さらに口語から言語以前の精神状況へ
と遡及することによって、より根源的であり普遍的なものを把握しえる
と考えがちである。しかし現代では古典の権威の消失に象徴されるよう
に、時空を超えた表現の場が喪失されてしまっていて、個人の内面へ遡
及していく思想表現は、ともすれば個人的モノログに終わりがちにな
る5)。中国の士大夫社会では、現実の生の不定型な姿を文化的に脚色して
いくことによって普遍的文化を成立させていた。津田は、漢文で記され
た中国思想を現実生活から遊離したものとしたが、これはこのような中
国の思想言説のあり方を直感的に捉えていたからである。
Ⅲ. 儒教における学派結合
このような漢文による思想表現という問題が、日本儒教にはまず存在
する。そしてその次に考えておくべきなのは、儒教における学派のあり
方の問題である。
儒教と仏教とでは、教団結合の方式が異なる。それが中国仏教の日本
流入と、中国儒教の日本流入の様態の差になっている。(なお日本の仏
教も儒教も、一部は朝鮮から流入しているが、事情は同じである)。
仏教では非日常的教団を形成し、そこで師から弟子に伝授していく。
そこでしかるべき教団に接触し、その教えを確かに受けたという証明が
必須になるのである。その意識からも、日本から中国へ僧侶が多数留学
し、中国から法灯を伝えた。それに対して儒教はそうではない。そもそ
も儒者で、儒教を学ぶために中国に留学した者は稀である。それは儒教
5) 土田健次郎「中国近世儒学研究の方法的問題」(『近世儒学研究の方法と課
題』(汲古書院、2006)のp.6 7。
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は、仏教のように非日常的な場で教団を形成もしないし、師からも伝授
を必ずしも要求はしない。もっとも前漢の経書の伝授のようなものも無
かったわけではないが、たとえば朱子学や陽明学はそういうことは必須
としない。
道学者(宋学の思想家)にとって、道はむしろ万人に公開されている
ものであった。それを受け継げる可能性の遍在は、経書の権威と、人の
本性の善性によって保証されていた。自己の善なる本性をもとに普遍的
な言語である漢文で書かれた経書を学習することで、等しく聖人を目指
せるのである。
朱熹は禅宗の師資相承を否定するが、それは禅宗のように真夜中に弟
子を呼び寄せて衣をわたして法の伝授をするといった密室性に対するも
のであった。道は万人に公開されているものなのである。朱熹は二程兄
弟を尊崇したが、その道を完全に伝授しえた者として認めた師はいな
かった。しかしそれでも朱熹は道学の継承者として自己の学団を構成で
きたのである。
 ただ道学はその形成当初にあっては、その宗教結社的性格が批判さ
れていた。当時の道学批判で注目されるのは、道学が「程子」という教
祖を持ち、「程子の語録」という経典をありがたがり、結社を作るとい
うことであって、それは新興宗教を思わせ、「喫菜事魔」とまで言われ
た。(なおこの語はマニ教を指すと言われていたが、実際には当時の怪
しげな宗教を指す語である6))。
 朱熹はこのような道学に対して、士大夫社会に於ける市民権を与え
ようとし、そこで作成したのが、経書の注釈書である『四書集注』で
あった。この書は、朱熹にとって、道学系の四書解釈の決定版を出すと
いう意味を持っていたが、同時に漢文による経書の注釈書の作成は、他
者のみならず、自己をも納得させるものであった7)。
6) 竺沙雅章「喫菜事魔について」(『青山博士古稀記念宋代史論叢』所収、省心
書房、1974)。
30 儒敎思想硏究 第45輯
道学は書院で講学するという一種の結社性を持つものであるが、同時
にそれは公開されたものであった。それは、道学の学派としてのあり方
に関わっている。そのあり方とは、道学内の個の学団は必ずしも連続
性を維持したわけではないが、道学自体は存在し続けるというものであ
る。
 道学の書院に集った者の中には科挙合格のための知識や情報を求め
た者もいたが、その中心はあくまでも聖人になることを目標に、自己陶
冶を開始した人であった。しかしこの集団の指導者が、聖人であるこ
と、あるいは聖人からの学統を継承する証明を得た者であるわけではな
かった。程頤でも朱熹でも自己が聖人の境地に到達したとは考えていな
かった。またおそらく死ぬまでの間に到達できるという確信も無かった
であろう。朱熹が孔子以後聖人になったと認めた者は一人もいなかった
のであって、誰でも聖人になれるが、実際には聖人とは無限値に近い存
在であった。ただ万人が聖人になりうる可能性を持つ以上、人間は聖人
を目指すことが要求され、かくて聖人に到達する過程自体が目的化され
ていた8)。二程や朱熹の存在は弟子たちには絶対的でありながら、その程
頤や朱熹も聖人に向かう途上の人なのである。それゆえ書院で道学を学
んだ者は、当人が発展途上の人であっても、集団学習である「講学」が
熱心に勧奨されたこともあって、たとえば地方官として赴任した場所
で、機会を得られれば門弟を集め道学を講じた。その場合、禅宗のよう
に師匠から認可を得る必要はなかった。彼らの学団は常にこのような道
学者を輩出し、講学の種撒きと収穫を繰り返していった。道学とはその
ような講学集団の束全体なのである9)。
7) 以上については注1所引の『道学の形成』第終章。
8) 土田健次郎「孔子に学問は必要だったのか」(『孔子全書』3 月報、明徳出
版社、2000)。
9) 以上については、土田健次郎「道学という学派―『道学の形成』上梓に際して
―」(『創文』2003年1 2月号(NO.450)、2003)。
日本儒教の異質性の再検証 31
このような道学が日本に入るということは、日本で自立的に道学者た
らんとすればよいのであって、別に中国の道学者から印可を受ける必要
は無いのである。
しかし日本で儒学の学派ができると、今度はそれが日本的伝達様式を
見せ始める。
アメリカの人類学者フランシスシュは、インドのカスト、中国
のクラン、欧米のクラブに対して、日本における社会的結合のモデルを
家元制度に見た10)。家元制度とは、芸能などで代切れ目無く技芸が伝
授する家のことで、本来はその家の親子の間で伝授されるべきである
が、現実にはそれが困難なので、随時養子まで取ってもその家を連続さ
せていくものである。中国では別に程頤や朱熹の子孫の家系が道学の
「家元」になるということは無かった。中国では血族の連続は徹底して
血の原理であって養子を取ることも忌避された。それに対して日本で
は、家が特定の職掌を担いつづけるといういわゆる「家業」の観念が強
かった。そしてその家業を継続するには、養子を承認しなければならな
かった。中国で家の存続が重要なのは、祭祀の継続のためであるが、日
本では身分制の中での家職の存続が第一であって、そのためには同姓養
子のみならず異性養子も行われた11)。
日本の江戸時代における儒教の学派は、時代の推移とともに、この家
元のような形を取るものが増え始めて。たとえば伊藤仁斎は一族でその
学問を伝え、山崎闇斎学派は血筋は必ずしもつながってはいないが、学
10) Francis L.K.Hsu, Clan, Cast, and Club, Princeton,N.J.:Van Nostrand & Co. 1963、及
び"Japanese Kinship and Iemoto", 1970。日本語訳は、フランシスシュ著、
作田啓一浜口恵俊訳『比較文明社会論』(培風館、1971)。
11) 江戸時代の武士の実例を数量的に研究したものには、諸田玲子『継承の人口
社会学―誰が「家」を継いだか―』(ミネルヴァ書房、2001)がある。また広
く日本を含めたアジアの養子については、『シリズ家族史2 擬制された親
子―養子―』(三省堂、1988)、特にその中で上野和男「東アジアにおける養
子の比較研究」などの研究がある。
32 儒敎思想硏究 第45輯
派を綿と伝えていった12)。闇斎の弟子の浅見絅斎などは「学脈」など
という言い方をし、また闇斎の弟子の佐藤直方の一派は学脈系譜を作っ
た。この学脈系譜は、明治時代になって楠本碩水によって増補修訂され
『崎門学脈譜』となり、さらにその後継者たちが補訂をして刊行してい
る。いわば儒教の学派にも家元化現象が見えるのである。
このように時代とともに家元化現象が見られるようにはなるが、その
開祖は、中国の儒者から印可を受ける必要はなかったのであって、その
時点で日本的展開が開始されたのである。そもそも江戸時代初期の儒者
の中では、仏教の僧侶から転身した者が目立つ。藤原惺窩や山崎闇斎
は、その代表であろう。江戸時代初期に儒教が儒教として自己主張する
時には、仏教を批判することが多かった。そしてその仏教が日本流仏教
ではあっても、日本思想の文脈の中では仏教対儒教という図式になるこ
とが重要である。つまり日本儒教を考える一つの視点は、日本思想内部
で儒教という枠組がいかに働いたかを見ることであって、それは日本儒
教が中国儒教といかに異同を持っているかということに、時に優先する
ことさえあるのである。
日本の儒教の最盛期と言えば江戸時代であって、この江戸時代の儒学
隆盛の源には仏教の中での儒教研究と博士家の儒教研究があり、思想的
には前者が重要である。五山などの仏教の補助学としての儒教から、儒
教としての儒教への脱皮が、江戸時代の儒教の発端であった。江戸時代
初期、儒教側は三綱五常を協調し、それを否定する思想として仏教を批
判した。室町時代後期には明末の三教合一論を五山の禅僧が享受してい
たが、それは心の場では仏教、儒教、道教は一致するという性格のもの
であり、藤原惺窩でも山崎闇斎でも当初はそれを摂取していた。そして
闇斎などはそこから儒教の独立を図ったのであって、その際には明代的
な心法からの脱却があった13)。一見単純な三綱五常といった日常道徳の
12) 土田健次郎「朱子学の正統論道統論と日本への展開」(吾妻重二黄俊傑
編『国際シンポジウム 東アジア世界と儒教』、東方書店、2005)
日本儒教の異質性の再検証 33
強調は、その基盤に明末的心学への理解と反発があったのであって、単
なる原始的日常重視ではなかった。そもそも仏教と儒教の基本的な差の
一つに、前者が教団の中で非日常的な儀軌を行うのに対して、後者はあ
くまでも日常の中での礼の実践を説くことがある。江戸時代というの
は、いわば啓蒙の時代であって、それまで秘儀とされてきたものも、一
般に公開されていった。それは神道でも仏教でも見られる状況である
が、儒教はもともと日常での実践を本意とするのであるから、儒教の動
向は、時代の情勢とも適合していたのである。そして日常道徳を徹底し
て軸にすることを理論的に言えれば、儒教として認知しえたのである
が、その道徳の内容となると、中国とのずれも出てきたのである。
Ⅳ. 日中における礼の差異
日常の行為の規範として儒教が重視するのは、礼である。しかし日本
では生活環境や風習が異なり、中国と同じ礼を施行するのには無理があ
る。そこで日本流に礼を変改したのである。日本における礼と中国にお
ける礼との違いは以前から種に論じられてきた。その中で最も要領よ
くその内容をまとめたものとしては、渡辺浩『日本近世社会と宋学』
(東京大学出版会、1985)がある。たとえば三年の喪はいかなる時代で
も地域でも実践すべき最高の礼であるが、日本では一年あまりというこ
とで通用した14)。問題なのは、一年であっても礼と認知できれば礼なの
であって、儒教として主張できたことである。その理論づけとしては時
処位の論や水土の論が有名であるが、ここで問題になるのは、礼として
13) 惺窩が明末の三教一致論者の林兆恩を尊崇していたことは知られているし、
闇斎は僧侶時代に明代の三教一致論の影響を受けていた(「闢異序」)。江
戸時代初期の仏教と儒教の関係については、土田健次郎「近世儒教と仏教―闇
斎学派を中心に」(『日本の仏教』第Ⅱ期第1巻、法蔵館、1998)。
14) 言うまでもなく、「三年の喪」は二十五箇月か二十七箇月である。
34 儒敎思想硏究 第45輯
意識される時にはいかなる枠組が意識されたかということである。
礼には、集団儀礼と個人の礼という二面がある。さらに別の分け方を
すれば、非日常的な場での礼と日常的な場での礼とがある。宗教では儀
礼がある。それは集団でも個人でも、多く非日常的な場で行われる。そ
れに対して儒教の礼の本領は、特別な祭礼の類はともかくとして、日常
的な場での礼が中心に位置する。
この日常的な礼に関しては、その礼が自己目的的に礼であることが重
要である。もちろん礼には天下全体の調和や安定という目的があるのだ
が、礼を施行している時は、礼を礼として行うということに集中し、そ
の際には敬という心境が重視される。敬とは尊いものに対する崇敬の念
であるが、それを日常の場で維持し続けるのである。これは日常に宗教
性を持ち込むとも言えるかもしれないが、むしろ瞬発的に起こる宗教的
情感を、日常生活の中で安定的に均質化しているとも言えよう。
日常の場における敬の感情の持続の中で自己目的的に行われる作法
は、儒教的な「礼」として意識することができる。これは神や仏を礼拝
し、神や仏からその見返りを求めるというような礼ではない。対他関係
の中での礼は、もちろん相手を意識しているのであるが、その場合でも
相手からの見返りを求めるのではなく、それが礼であるから行うので
あって、その意味で自己目的的なのである。もちろん儒教では父祖の霊
に対しての祭礼も行うのであるが、重要なのは、そのような場における
礼と、日常の自己目的的な礼とが連続していることである。
かかる礼の枠組を使用することで、日本儒教は中国や朝鮮とは異質な
礼の内容を礼として打ち出した。それは日本における仏教には無いもの
であり、それゆえ儒教なのであった。
筆者は、以前「類型の共有」と「内容の分岐」で日本儒教を考えるこ
とを提案した15)。礼という類型の共有によって、日本儒教は儒教である
15) 土田健次郎「東アジアにおける朱子学の機能―普遍性と地域性」(『アジア地
域文化学の構築』、雄山閣、2006)。
日本儒教の異質性の再検証 35
と観念できたのである。中国に留学した仏教僧が中国で学んだ儀範を日
本に持ち込み、それを非日常的な空間である寺で保存していくという必
要が儒教には無かった。江戸時代の儒教は、仏教を批判し、儒教として
の自己主張をすることから始まったが、その時に意識されていたのは日
本の仏教であり、日本思想の文脈の中での仏教対儒教なのである。
なおこれに付随して言えば、日本における儒教には、「自覚された儒
教」と「自覚されない儒教」があることは、筆者が以前から問題にして
きた16)。前者は儒者たちの言論活動の類、後者は例えば日本では仏教の
ものと思われている位牌が儒教の神主であることなどである。また日本
仏教の三回忌が実際には二年後になされることは三年の喪の影響である
ことも知られている17)(この三回忌まで喪に服し続けるのではない点は
儒教と異なる)。位牌は宋代ごろに禅宗が取り込み、それが日本の南北
朝時代頃に日本に仏僧によって渡った。それゆえ日本では仏教のものと
一般に見られているのであるが、これが定着するのは江戸時代中期頃だ
と言われている。この「自覚されない儒教」の領域は、他宗教や習俗と
混淆している場合が多いが、同時に「自覚された儒教」である礼の方に
もその要素があることを忘れてはならない。
朝鮮王朝時代の朱子学者は『文公家礼』の忠実な施行に心を砕いた。
朝鮮儒教が中国儒教の類型のみならず時には中国以上に内容をも継承し
ようとしたのに対して、日本儒教は類型の継承に力は入れるが内容の需
要には無頓着な点が目立つ。中国儒教と朝鮮儒教、中国儒教と日本儒教
は、それぞれ連続して見えるが、朝鮮儒教と日本儒教とを対比すると、
その差が大きく感じられる。日本の朝鮮儒教研究者の中には津田左右吉
のように日本儒教は儒教ではないという論者がいるが、そのような議論
が出てくる原因もここにあろう。
16) 注14所引の「東アジアにおける朱子学の機能―普遍性と地域性」。
17) 道端良秀『仏教と儒教倫理 : 中国仏教における孝の問題』(平楽寺書店、
1968)。
36 儒敎思想硏究 第45輯
Ⅴ. 忠孝一致論
礼の問題は具体的であるだけに、日中の差ということで議論が重ねら
れてきた。ただ日本儒教と中国儒教を比較していくと、最も重要な問題
として立ち現れてくるのは、忠孝である。忠孝は儒教で最も重要な実践
道徳であるのは言うまでもない。この忠孝についての議論にはいくつか
の場面がある。その中で日本儒教の異質性を考えるうえで特に重要なの
は忠孝の相互関係論と、忠孝の方向性の議論である。
まず忠孝関係論であるが、忠と孝が衝突した場合はどちらを重視する
のかという議論は儒教でしばしばなされた。
中国では両者が等しく重要であるとされながらも、孝が優先する傾向
があるのに対して、日本では忠の方が孝よりも重いということが言われ
ことがある。津田左右吉は「儒教の道徳思想では親子がもとであり
君臣がそれに次ぐものとなっているが、武士の思想としては、親子は一
世、夫婦は二世、主従は三世ということがいわれるようになったのでも
知られる如く、主従の方が親子よりも重いものとせられたので、そこか
ら、孝を百行のもととする儒教道徳に対して、日本では孝よりも忠が重
いと説かれるようにもなった」(『シナ思想と日本』p.85)。
たとえば忠と孝の重さを比較する場合、しばしば言及されるのは、
「為人臣之礼、不顕諫。三諫而不聴、則逃之。子之事親也、三諫而不
聴、則号泣而隨之」(『礼記』曲礼下)についての議論である。この君
主を三度諫めて聞き入れられなければそこを去るが、親の場合には従う
とする語は、親子関係を君臣関係以上に宿命的なものとしているのであ
るが、この語に対して日本の儒者には君主のもとを去ることを否定する
議論がある。君主を諫めるという行為は、儒教で極めて重要であって、
日本でも古代から儒教が意識される時にはこの諫言が話題になっている
場合が多い。日本では中国のように「諫官」という専門の官職は設けら
日本儒教の異質性の再検証 37
れなかったが、儒教では臣下一般の務めとした。諌言の種類がいくつも
あることは『白虎通』諫諍などに見えるが、山鹿素行などは細かく議論
し、その必要姓を強調している(『山鹿語類』1「納諫言」)。
諌言自体は中国でも日本でも重んじられたのであるが、問題は日本儒
教では、君主のもとを去るということ自体に対する否定が前提としてあ
ることである。戦国時代には武士が主君を変えることがあり、また多く
の主君から声がかかることを、その武士への評価が高いこととする考え
までもあったが、儒教はそれを否定するのであって、武家の慣習と儒教
は時に齟齬する。その齟齬がまた儒者にとっては、儒教の存在感の示し
所でもあった。そして主君への忠誠の絶対化の極端な場合は、日本の儒
家神道のように、天皇への絶対服従の立場から、中国式の諌言を取らな
いこともあった(吉川従道『神籬磐境之事』)。この吉川神道の議論は
このようなものである。まず忠を尽くすのには二つのポイントがある。
その一つは清い心で仕えること、もう一つは「隠忠」と言い、君のため
には不義を行い、そのために自分や子孫が汚名を受けても顧みないこと
である。また君を諫めるのにも二つのポイントがある。その一つは周囲
と調和しながら行い、もし君を諫めても君が聞き入れなければ、一時は
君と心を同じくし仕え、機会を見てまた諫めること、もう一つは「諫
順」と言い、君を諫めたが聞き入れられなくてもそのまま君に従って行
動し、何回でも機会を見て諫めはするが、君とともに不義を行った結果
身が亡んでも悔いないことである。この姿勢の基本は、君が不義の行為
を続けようと、諌言しながらもあくまでも君に仕え続けることであっ
て、そこが中国のように不義を行う君と訣別するのとは異なっていると
言うのである。
ここには、日本における公と私の観念も関係する。日本では公の観念
が外へ外へと拡大していくという指摘がある18)。この考え方が個の家
族を超えた上位の集団への献身を容易にしていた。つまり家族よりも社
18) 田原嗣郎「日本の「公私」」(『文学』56 9.10、1988)。
38 儒敎思想硏究 第45輯
会への献身を、より公的なものとして評価するのである。中国でも家族
を「私」、社会を「公」としていたが、道学が天理を「公」と人欲を
「私」とし、意識のうえで公であれば、その結果としてなされる行為は
全て公であるとしてから、身内への献身も公であるという理論づけが可
能になった19)。また特に重要なのは、理論以上に現実には、孫文が嘆い
たように、中国では家族が砂のように敷き詰められた社会であって、そ
れを統括する国家意識が希薄になるという現象があったことである。
日中の公私に対する考え方に差がある原因としては、先にも触れたよ
うに、両者の家族のあり方の違いがある。
日本における家族の特色として、しばしば家職ということが言われ
る20)。家は単なる血統だけで存立するのではなく、職掌の継承でもあ
り、それゆえ社会の中で位置を得られるのである。その家職を維持する
ためには、親から子への継承だけでは無理が生ずるため、養子を取るこ
とがなされ、それに対して儒者が批判を加えることがあった21)。儒教で
は養子を否定するからである。それに対しては儒家神道家の跡部良顕
『日本養子説』のように、日本人はみな天皇の末裔だから養子をとって
も他人ではないという議論まであった。
このような家職という観念は、社会の中にそれぞれの家を位置づける
ことになる。つまり社会全体の中でそれぞれの家が独自の意味を持つの
である。江戸時代では士農工商の身分制度の中で各人がそれぞれの家の
職務を果たすことが重視された。日本には科挙が入らず、武士は武士、
農民は農民のままであり、それもあって個の家は自己の職分の積極的
19) 中国の公私観を論じたものでは、溝口雄三『中国の公と私』(研文出版、
1995)。
20) 滋賀秀三『中国家族法の原理』(創文社、1967)、有賀喜左右衛門『家』
(至文堂、1972)など
21) この江戸時代の養子をめぐる議論については、渡辺浩『近世日本社会と宋
学』第2章第3節(東京大学出版会、1985)が幅広く要領よく整理を行ってい
て有益である。
日本儒教の異質性の再検証 39
な意味づけが必要であった22)。中国でも、道学(宋学)の理一分殊の思
想が社会活動に適用されると、やはり一見分業の主張のような議論が出
てくる。ただ中国の士大夫の場合は、一人の人間が時に官僚になり、時
に在野にありという具合に種の社会的地位になることがありえるので
あって、道学は、その中で常に全力をあげることで分を全うし理にかな
うように教える。つまり日本のように、基本的に身分が固定しているの
とは異なるのである。日本には科挙が入らず、一人の人間が身分の上下
をする機会が少ない。むしろそれぞれの人間が生まれながらの身分の中
で固定的に分業を全うすることが求められるのである。
そもそも士大夫の理念とは、あらゆる政治的文化的な場で自己実現で
きる人物である。実際にはそのようになるのは難しく、士大夫の自己主
張の場は複数できるようになるのではあるが23)、それはともかく、理念
としては全方位的人間であった。
ところで江戸時代の職分論は、仏教でも(鈴木正三)や儒教でも見ら
れるが、その中でも中江藤樹の「すぎはい」論は重要である。その藤樹
は家を超えて、宇宙の根源である太虚へ尽くす孝を説いた。そして世界
全体を一つの家のように見ることで、人がそれぞれの職分を尽くすこ
とを求めた。このような社会全体の中での各人の職分の重視は荻生徂徠
などにも見える。
この全体への志向の思想的結実は、藤樹の場合は孝の思想であった
が、このような孝は、実は内容的には忠と重なるのである。つまり藤樹
のような孝へ修練していく思想は、儒家神道などに見える皇統への忠に
収斂される思想と、同じ相貌を呈していくのである。
忠孝一致論は、中国にも無いわけではない。例えば『礼記』『礼記』
祭統に「忠臣以事其君、孝子以事其親、其本一也」という語もある。し
22) 江戸時代の職分論については、佐久間正『徳川日本の思想形成と儒教』(ぺ
りかん社、2007)など。
23) 注5所引の「中国近世儒学研究の方法的問題」。
40 儒敎思想硏究 第45輯
かし全体的には忠孝一致論は幕末の水戸学にも見られるなど(会沢正志
斎『新論』「国体上」、徳川斉昭『弘道館記』の「忠孝無二」を解説し
た藤田東湖『弘道館記述義』下)、日本の方が多いと思われるのであ
る。そのためこの忠孝一致論は、日本近代において日本的特質として強
調されたこともあった。例えば井上哲次郎は、『国民道徳概論』(三省
堂書店、1912)の中で、日本の家族制度には個別家族制度だけではな
く、総合家族制度があると言い、前者に家長あるのと同じく後者には天
皇がおり、また後者は中国には無いものとする。(中国には家族よりも
広く宗族があるが、国家全体が一家族という発想は無かった)。そして
井上は、それゆえ後者の孝は同時に忠になるゆえに、日本道徳の粋は忠
孝一致であると主張したのである。
なお江戸時代は政権(あるいは権威)が複数存在した。幕府と藩と皇
室である。それによってバランスを保っていたのであるが、それが儒教
の正統論の影響で、忠誠の対象の一元化が求められるようになった。
朱子学の正統論は、朱熹自身のものとされる「資治通鑑綱目凡例」に
見えるが(『資治通鑑綱目』自体は朱熹の門弟によって完成された)、
それは天下を統一して二代続けば、たとえ地方政権であっても正統の王
朝と認定するというものであった。この論法を使用すると、日本では皇
室が正統の王朝にならざるをえないのである。本来正統論とは、どれが
正統の王朝かを認定することによって、忠誠の対象を一元化するもので
あって、その結果、皇室への忠誠が浮上せざるをえなくなるのである。
そこにまた道統論が加わった。道統論は道の正統性の主張であり、中
国では堯、舜、禹、湯、文王、武王までは正統と道統が重なっていた
が、王者ではなかった孔子以後、正統と道統が分離してしまった。この
ような分離を儒教にとっての痛手とする考えもあるが、むしろ儒教の担
い手を王者に限らず万人に開いたという意味では、儒教にとってマイナ
スではなかった24)。日本では皇室が伝える三種の神器が徳の象徴と解釈
24) 「道統論」については、注1所引の『道学の形成』終章。また余英時氏は朱子
日本儒教の異質性の再検証 41
されるようになり、皇室が道統を請け負おう存在と見られる状況が出て
きた。ということはかかる考えを採る者にとっては、皇室の皇統は、正
統であり、しかも道統であることになったのである25)。なお中国では、
異民族王朝の元から、正統と道統を合わせた治統という観念が登場した
が、それは道統論を唱える朱子学を庇護するということで時の朝廷が主
張しえたのである26)。ともかくも日本では儒教的教養の流布によって、
知らず知らずのうちに忠誠の対象の一元化への志向が高まり、そこに外
国からの圧力が加わることで国家としてのアイデンティティが求めら
れ、かくて幕末の尊皇攘夷思想になっていくのである。なおこれと関連
して、日本では朱子学者にしろ陽明学者にしろ、当人が聖人になれると
いうことを強調するよりも、人徳を磨いて社会に溶け込むとか、儒家神
道のように心境を清浄にして神の降臨を待つとかいう方に流れていくよ
うに思われる。それは道教の内丹の受容に関してもそうであって、自己
が神仙になることよりも、心身の健康増進に止まっているように見え
る27)。近代の内藤湖南は『支那論』附論「清国の立憲政治」(文会堂書
店、1914)で、中国人の強い自立性を言っている。より広い調査が必要
な話であるが、日本では個人それぞれがそのまま完全な存在になるより
も、社会の中での意味づけを求めているという傾向があるということを
とりあえず言っておきたい。
学では孔子以後は「道統」ではなく「道学」と見なしたとするが(『朱熹的
歴史世界:宋代士大夫政治文化的研究』上、下、允晨文化実業股份有限公司 
2003)、筆者は、朱子学では孔子以後も「道統」と見ていたと考えている
(「宋代士大夫の営為はいかに研究されるべきか―余英時『朱熹的歴史世界―
宋代士大夫政治文化的研究』をめぐって―」(『中国―社会と文化―』24、
2009)。
25) 注11所引の「朱子学の正統論道統論と日本への展開」。
26) 土田健次郎「『治統』覚書―正統論道統論との関係から―」(『東洋の思想
と宗教』23、2006)。
27) 土田健次郎「日本における養生思想の歴史」(石井康智編『現代に生きる養
生学―その歴史方法実践の手引き―』、コロナ社、2008)。
42 儒敎思想硏究 第45輯
Ⅵ. 忠孝の方向性
次の忠孝の方向性の問題であるが、この方向性とは、君と親の臣と子
に対する対し方と、臣と子が君と親に対する対し方の二つの方向のこと
であり、具体的には特に親子関係で、子の親に対する孝に対して、親の
子に対する慈愛を持ち出すのが日本的特色とされたことである。津田左
右吉は特にそのことを強調している。津田左右吉は、中国の儒教では親
の恩をあまり強調しなかったが、日本では、親の子に対する深い愛情や
「親のつとめ」という語が広く見られることを言い、実生活では日本人
が儒教思想を取り入れなかった証拠とする(『シナ思想と日本』)。
川島武宜はそれをふまえ、中国においては一方向的献身の道徳という
面が強固な孝が、日本においては孝と恩の双方向が説かれることが多い
ことを持ち出して、そこに近代の国家主義につながるイデオロギとし
ての孝の性格を見ようとした28)。しかし孝の双方向性と国家主義とを結
びつける川島の議論は無理がある。むしろそれなら親に対する一方向的
献身を説く方が国家秩序には適しているであろう。どうしても国家主義
との関係を問うと言うならば、それは忠孝一致論の方であろう。
親の子への情愛は日本のみならず他地域でも当然あるものだが、問題
はそれを儒教の教説の中に含むのか、それとも儒教はその情愛に甘えず
に子の親への献身を厳しく説くのかである。子の親への献身は、その子
が親になった時に自分の子から献身されることになるのであって、長い
時間の間には一種の平等関係になるのであるが、日本の場合は親と子の
双方向性を重視した。それは日本の儒者の言説にも影響したのであっ
て、津田左右吉は先のように日本人の実生活での感情と儒教との齟齬を
28) 川島武宜「孝について」(『日本社会の家族的構成』、学生書房、1948)。
それに対しては加地伸行氏の批判をはじめ種の議論がなされた(加地伸行
『中国思想からみた日本思想史研究』第2部第3章第1 2節、1976)。
日本儒教の異質性の再検証 43
言いながら、あわせて「シナの昔の儒者が孝を教えた場合に、親の恩と
いうことはあまり言わなかったので、日本の儒者には孝の基礎をそこに
置こうとする傾向がある」p.89とも言うのである。
また日本における忠については、その情緒性が言われることがある。
津田が日本の君臣関係について、「君臣関係」という言い方ではなく、
そのことを反映している。江戸時代はつまり、また方向性ということで
言えば、先にも触れたが、儒家神道の中には、君が不義を行おうとも、
諌言が聞きいれられるまで君に従って不義の行いをしながら仕えるとい
うことを言うものもある(吉川従道『神籬磐境之事』)。日本の君臣関
係が全般にそうであったわけではないが、このような姿勢には、臣の君
に対する忠の一方向に傾斜している傾向が見られる。
Ⅶ. 思想表現の提供と地域性の保存
江戸時代は鎖国の時代であった。もっともかなり外国から各種の情報
や文物は入ってきていたはを強調する議論が目立つそれでも自由に外国
と行き来できなかったわけであって、日本儒教も日本の中で煮詰められ
ていった。江戸の中期以後、清朝考証学をはじめ新たな儒教の知識がか
なり入ってもきたが、それは江戸時代の儒教内部の文脈で消化されて
いった。
江戸時代の儒教を考えるうえで重要なのは、漢文文献の教養の広がり
である。漢文文献の中核は経書とその注、それから歴史書や詩の類であ
るが、特に経書の教養は江戸時代の基礎教養として重要であった。漢文
は先に述べたように非日常言語であって、それを日常の指針とする際に
は、非日常と日常の距離がある分、解釈の自由度があったのである。
また儒教の場合は、中国から直接学派としての伝授が無かった。それ
も解釈の自由度を増した。日本でもいったん学派としてできてしまった
後は家元的に伝えられたにしたが、その出発時点においては、本家から
44 儒敎思想硏究 第45輯
の自由度が多かったのである。
もちろん儒教は日常の中での思想であるから、社会とか慣習の影響を
強く受けるわけであって、日本社会の特性が染みこんでいくのは当然と
も言えるが、儒教自体にもその幅を許容する要素かなりあったことが重
要である。
儒教での権威は経書であるが、この経書の内容は非常に幅があった。
たとえば忠と孝の相克や孝と貞の相克の場合に、それを解決するための
典拠は複数存在するのである。一例をあげれば父と夫が抗争した時、父
に従うことも、夫に従うことも経書から引き出せるのであって29)、かか
る幅が儒教を各地に広げさせていったのである30)。
ここで最後に強調しておきたいのは、儒教という枠組で思想表現がな
されることの効果である。孝にしろ忠にしろ儒教以前の日本にも存在し
た。しかしそれが儒教によって思想的表現を得た時に、それまでに無意
識的に行われていたものが明確な表現を獲得し、それが土台になって次
の思想表現が生み出されていった。その表現は、儒教を超えて国学をは
じめ他の学派にも影響していった。本居宣長らの国学は儒教言語の使用
を忌避するが、それは儒教言語のカウンタとしての思想表現とも言え
るところがある。つまり日本的なものがあったとしても、それが思想表
現化されるのに対して儒教の言説が貢献したのである。
儒教は、日本をはじめ各地の思想的情感に思想表現をあたえたので
あって、その内容に地域的特色があろうとも、儒教のもたらした効果は
儒教ならではと言いうるものである。また敢えて逆説的に言えば、儒教
の存在によって、各地の生活感情や価値観はそれぞれの特色を維持しな
がら熟しえたのである。
29) 前者の典拠は「人尽夫也。父一而已。胡可比也」(『春秋左氏伝』桓公十五
年)、後者の典拠は「故未嫁従父、旣嫁従夫、夫死従子。故父者子之天也。
夫者妻之天也」(『儀礼』喪服)。
30) 土田健次郎「儒教を問う」(土田健次郎編『21世紀に儒教を問う』、早稲田
大学出版部、2010)。
日本儒教の異質性の再検証 45
近年は国民国家論批判の動向から、日本思想史の自立性を否定する議
論が日本でも目立つ。確かに日本思想内部の内発的展開だけで日本思想
史が展開したわけではないが、それでも日本的体質というものは簡単に
否定することはできるものではない。また変容することでその土地に根
付くのはあらゆる外来思想がそうであるという議論もありうるが、日常
と非日常を使い分けるのではなく日常にのみ終始する儒教が、日常との
摩擦の中でこのような広がりを見せていくということの思想的意味は決
して小さくは無い。
津田左右吉は儒教は日本人の精神生活に直接影響を及ぼさなかったと
言った。津田があげている個の実例は、現在でも説得力を持っている
が、それは筆者に言わせれば、中国儒教との「内容の分岐」である。儒
教は、それが儒教であることを意識させる「類型」によって、日本思想
界において思想表現の手段をあたえ、またそれによって明確な表現を得
ることができた思想がさらに儒教理論を利用しつつ自己展開していった
のである。日本儒教は、中国儒教や朝鮮儒教とは異なる異質性を持って
きたが、それでも日本という場において儒教としての機能を発揮したと
いうことは、やはり否定できないと思われるのである。
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48 儒敎思想硏究 第45輯
<日文摘要>
日本儒教の異質性の再検証 / 土田健次郎
津田左右吉(1873年~1961年)は、日本における儒教は観念的なもので、知
識としては受け入れられたが、実際の日本人の精神生活とは無縁であったとし
た。しかし日本の江戸時代には多数の儒者が存在し、大量の儒書も刊行され
た。また日本でも儒者は「漢文(文言、古代漢語)」で表現行為を行うのが普
通であったが、津田は、漢文の言語的特質から、厳密な論理性が保証されづら
いとした。確かに漢文には複数の解釈を許容するところがあり、南宋の朱熹
は、口語の語録が漢文に書き変えられたために複数の解釈ができるようになっ
てしまったことを批判している。漢文は表現の簡潔、対偶性、韻律の諧調を尊
ぶために、極めて洗練された様式美を持つが、ともすれば作者の言おうとする
内容を正確かつ詳細に表しきれない。ただこのような性格は漢文の言語として
の時空を超えた普遍性と表裏のものであって、儒教の文献が日常言語と離れた
漢文で書かれていたからこそ、中国で生まれた儒教が、言葉も精神的風土も異
なる日本に流入できたのである。
また儒教と仏教とでは、教団結合の方式が異なる。それが仏教と儒教の日本
流入の様態の差になっている。日本では僧侶が多数中国に留学し、中国から法
灯を伝えたが、儒教を学ぶために中国に留学した者はほとんどいない。それ
は、儒教は仏教のように非日常的な場で教団を形成しないし、師からの伝授も
必ずしも要求しないからである。道学者(宋学の思想家)にとって、道はむし
ろ万人に公開されているものであった。それゆえ書院で道学を学んだ者は、当
人の境地が高くなくても、地方官として赴任した場所で門弟を集め道学を講ず
る。そして個の学統は絶えても、全体としては方で講学が行われるという
状態は持続したのであって、道学という学派とはそのような講学の束なのであ
る。しかし日本で儒教の学派ができると、今度はそれが「家元」化し、日本的
伝達様式を見せ始める。そもそも江戸時代初期の儒者の中では、仏教の僧侶か
ら転身した者が目立つ。そしてその仏教や儒教が日本流であっても、日本思想
の文脈の中で仏教対儒教という構図になることが重要である。つまり日本儒教
日本儒教の異質性の再検証 49
を考える一つの視点は、日本思想内部で儒教という枠組がいかに働いたかを見
ることである。
日本儒教の異質性を問題にする時に必ず出てくるのが礼である。たとえば、
時空を超えて変更してはならない「三年の喪」も、日本では一年でよいとされ
た。それでも日本では礼として意識されたのであって、問題は、礼という意識
を成立させている儒教ならではの「類型」である。
この礼の問題とともに重要なのは、日本における忠孝観念の特殊性であっ
て、特に忠孝の相互関係と、忠孝の方向性にそれが現れている。津田は、日本
では孝よりも忠が重い傾向があるとした。それは、日本における公の観念や、
家族のあり方の特殊性も関わっている。日本の家族は、家業の継承を尊び、そ
のためには養子をとることを容認する。このような家職という観念は、社会全
体の中にそれぞれの家を位置づけることになった。そこで登場してくるのが忠
孝一致論である。忠孝一致論は、中国にも無いわけではないが、日本で特に目
立つようになり、近代では忠孝一致こそが、日本儒教の精華であるという議論
もなされた。なお江戸時代は幕府と藩と皇室という複数の権力や権威が存在し
てそれらのバランスが取れていたが、忠誠の対象を一元化する儒教の正統論の
影響で、忠誠の対象の一元化が求められようになり、その結果、皇室を正統と
しそれに忠誠を尽くす考えが広まっていった。そこにまた道統論が加わって、
皇室こそが正統であり道統であるという皇統論が広がり、それが幕末の尊王攘
夷論になっていった。これは儒教の理論が思想状況を推進した重要な一例であ
る。次の忠孝の方向性の問題であるが、これは日本儒教において、子が親に孝
を尽くすとともに親の方も子を慈しむことが要求されるという双方向性を持つ
傾向のことである。また日本における忠については、その情緒性が言われるこ
とがあり、「君臣関係」というよりも「主従関係」と言った方がよいとする論
もある。また君臣関係については臣の一方的忠誠を主張する一方向的傾向も一
部では目立った。
儒教という枠組で思想表現がなされることは、日本でも効果を持った。孝に
しろ忠にしろ儒教以前の日本にも類似の価値観が存在した。しかしそれが儒教
によって思想的表現を得た時に、それまで慣習的に行われていたものが明確な
表現と理論を獲得し、それが土台になって次の思想表現が生み出されていっ
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た。その表現は、儒教を超えて国学をはじめ他の学派にも影響していった。儒
教は、日本をはじめ各地の精神状況に明確な思想表現をあたえ、また時にはそ
の精神状況に含まれた要素を拡張したのであって、その内容に地域的特色があ
ろうとも、儒教ならではの効果をもたらしたと言えるのである。敢えて逆説的
に言えば、儒教の存在によって、各地域が本来所有していた生活感情や価値観
は、それぞれの特色を維持しながら展開し成熟しえたのである。
キワド : 儒敎, 孝, 禮, 忠

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