本当に正しく知りましょう。聖書と新天地
この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。
また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため
「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」と仰せられた
イエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたものです。
この上なくつらく、難しいこと
イエス様が神様から与えられたように、イエス様から永遠のいのちに至る食物を与えられ、裁きを行う白い石も与えられ、諸国民を支配する鉄の杖も与えられた一人の人物がいる。ところが、この人にもつらく、難しいことがある。何がつらく、苦しいのか、そしてその理由は何なのか。
一番優しかった人、愛し、かつ信じた人が自分を裏切り、道をも誤り敵になった場合、どうすればいいのか。このようなことを処理することはつらく、難しい。しかし、当の本人は悔い改めない。
裁くよりも、できることなら生かすべきだ。しかし、神様の御心に従わなければならず、公義公道を実践し、また法を守らなければならない。罪だけに焦点を当てれば必ず裁かなければならない。しかし法の通りに処理すれば後に、周囲から冷たい暴悪な裁きだと言われるだろう。
あれほどまでに苦楽を共にし、私と共に駆け足で働いてきた。東西南北、地球村の隅々を一緒に命をかけて働いてきた。それなのにどうして、一緒に働いてきた同僚が地獄の硫黄の火の池に処され、永遠の刑罰を受ける姿を見ることができるだろうか。しかし、諸事情を理由に見逃せば、神様とイエス様から、私的に処理したという理由で責められるはずだ。
このようなことを処理することが、つらくとても難しい。そうなのだ。罪を犯した彼らが、自分の罪を反省もせず、悔い改めず、ひたすら隠そうとしている。彼らのこの不法を正すことができなければ、彼らがまたどういう蛮行を働き、神様の働きにおいてまたどんな非難の対象になるか分からない。また、この事件と彼らの行為を見逃したら、再び同じような行動をとり、犯罪が発生するかもしれない。そうなった時にはどうするというのか。
今回犯した行動は、彼らが分からずに背教したわけでも、領域と自分のおるべき所を捨て分裂したのでもない。よく知っていながら行ったのだ。だから、なおさら不届き千万である。
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