CAFE

申石山 恒烈 칼럼

유금강록(遊金剛錄)

작성자石山(申恒烈)|작성시간19.01.14|조회수331 목록 댓글 1

유금강록(遊金剛錄)

서지사항
제목유금강록(遊金剛錄)
구분금강산 유람기
저자신즙(申楫)
간행시기조선시대
자료문의경상대학교 장원철 교수 연구팀
※ [주] 위에 마우스를 대거나, 본문 아래로 가면 주석내용을 볼 수 있습니다.


遊金剛錄

申楫

本月六月二十七日壬戌. 發向金剛. 道訪鄭同知斗源, 主倅從之. 馳到憇房寺. 憇房乃楡岾僧舂糧之所, 去郡二十餘里. 又二十里許, 至百川橋. 橋廣可三十丈, 下有深潭, 亦可數丈. 上起水閣傑然, 能容駕轎之行, 今春爲野火所燒云. 有楡岾籃輿僧十餘人, 候于橋. 乃舍馬渡橋, 因逍遙巖石間, 濯足淸流, 以籃輿行. 僧徒汗沾, 一肩難獨任, 或五里而替, 或數三里而替.
越狗岾, 岾甚高. 有尼臺及上中下三臺. 岾上有靈偆井, 旣踰嶺有獐項, 頗低於狗岾. 沿谷而行, 有川南注, 是高城南大川之源也. 邐迤楊麟之境二百七十餘里, 還注高城, 南流入海云. 傍有縣橋, 斷厓路絶, 設三棧道, 以通人行, 歷歡喜岾. 不由之, 直渡三峽·丹楓·明月橋, 有刹彌滿一洞, 是楡岾也.
前爲水閣曰山暎樓, 歇行客. 其次解脫門, 門內有大聖壽報德寺. 寺內有回轉門, 門有四天王. 門內有泛鐘樓, 最內有能仁寶殿, 此四字, 中朝戶科給事中商祚筆. 殿內安五十三佛, 皆立像. 庭中有十二層塔, 藏百八金身. 左應眞堂, 藏觀音十六羅漢. 右金堂, 安金佛一軀. 應眞堂前, 有冥府殿, 繪十王像. 其南有大權堂, 有靈偆像.
泛鐘樓下, 有鐘重千斤. 光廟朝鑄成, 金守溫銘, 鄭蘭宗書. 鐘有靈異, 有時流液則有非常之變. 僧言 “壬辰汗而倭亂作, 甲寅汗而寺火, 癸亥汗而有反正之擧. 甲子汗而有賊适之亂, 去年冬, 又汗而有今春㐫奴之變, 今五月又大汗, 未知前頭有何灾戹.” 聽之, 莫不心駭, 是夜宿翠雲堂.
癸亥. 朝開牕, 有小峯遮洞口, 其形兀然, 名曰沙彌. 左右峯巒聳束雲表, 而此峯間於兩山, 名以沙彌, 有以歟. 旣飯, 以籃輿行一里許, 有浮屠三, 西山·靑蓮·普雲禪師也. 又一里許, 有曹溪庵今廢. 其上有船潭, 水可數丈. 以其潭形如船故名. 又二里至雲水庵. 自雲水至靈隱庵, 中有上中下三臺, 或廢或存.
自庵北轉, 而上約四五里, 登萬景臺, 巖石巉岌, 但見側柏蔓延而已. 臺在絶頂, 東漸滄海, 北至九井日月出諸峯. 西至彌勒白馬諸峯. 森列眼前, 于時狂風震蕩, 嵐霧晦冥, 如白馬諸峯, 望之不分明. 俯臨無地, 魂骨驚, 不可久留.
遂行東轉山腰, 竆溪陟巘幾十五里, 抵隱仙庵. 庵之東二里, 有巖陡起, 曰隱仙臺. 飈勢復作 樹木盡惡, 余忽御風而登, 左顧右眄, 與萬景臺所見, 大同小異. 其所異者, 九井之泉, 流而爲十二瀑, 下爲聲聞百川之源. 有時乎, 飛流噴風, 亂雪漫空, 甚奇壯也. 適山霏捲盡, 玉立諸峯, 不可殫記.
西有上元寺廢, 北有寂滅·柏巓等庵. 顧眄之頃, 風吹落帽, 幸爲從者所得. 又東轉越一峴, 跨一澗十餘里, 有成佛庵舊基, 榛莾荒穢, 不可尋. 其旁里許, 石厓萬仞, 乃佛頂臺也. 突出斷峯之角, 俯臨聲聞百川, 所見與隱仙臺同, 而十二瀑則已遠矣. 巖有一竇, 其深無底. 諺傳有龍女從中出, 進茶于佛頂臺, 因以爲名. 下瞰洞府, 則有松林窟, 五十羅漢從西域來者在此窟云, 誕也.
窟東纔一里, 有圓通庵. 俄而樹弟尾至, 怕危棧高懸. 乃免冠匍匐而行, 一行捧腹. 良久興盡還楡岾. 明寂庵老師法堅來謁, 同宿. 與之語, 能通經典諸子語, 言論甚宏博. 雖有伊蒲塞氣, 眞釋中之豪者.
甲子. 朝雨大作. 將行內山不果. 主倅以書至, 致海珍數味. 向晩淮陽吏來探行李 報以明發. 午雨歇, 天氣澄淸. 堅師日暮辭去, 以遏欲存心進誡. 臨別余贈詩一律.
七月一日乙丑. 平明日候開霽. 旣飯而發五六里許, 山霏成雨, 草徑全迷, 急投隱仙庵. 竢雨歇卽發. 涉澗越巘, 歷社主臺幾二十里, 披草觸霧抵水岾.
表訓·長安僧以籃輿候, 淮陽下人以茶侯. 乍憇卽行, 自此洞壑秀麗, 水淸石潔, 去去益奇, 卽萬瀑洞水源也. 行六七里, 見有淸溪瀉出于北洞, 乃毗盧峯下流也. 聞峯在北而霧暗不見. 但見西南有穴望峯, 峯主脈飛舞疊疊, 爲洞之靑龍, 妙吉祥之朱雀. 萬丈白玉, 如攢劍戟, 妙吉祥在其下, 庵廢已七八年, 半已頹毁.
行二百餘步, 得一臺, 石壁壁面, 刻佛像甚偉. 前有長明燈, 臺南有觀音峯. 又有五峯無名, 北有八峯亦無名. 其後又有二大峯, 曰月出, 曰元寂. 自臺沿溪而西, 有一洞在北 中有佛智庵. 歲癸亥, 爲積雪所壓, 今廢. 又有巨彬窟, 歲乙巳, 爲斜墮所崩, 又廢.
行一里, 至摩訶衍, 登庵前小臺, 臺乃金剛之正中. 前有曇無竭峯, 以其下有曇無竭石像, 故得名. 庵北有峯, 名曰萬灰. 數年前南漢城役起, 庵僧一空. 庵廢不守 庭中有指空草, 葉如韭, 枝有刺花色紫. 昔指空入此, 其所立地, 生此草故名. 指空者, 南天笁術士也, 麗季入來云. 階下有桂, 其大一圍, 高數十餘丈. 枝疎葉細狀如桂, 然秋深則葉落云. 其視風霜獨秀, 否者, 未知其爲桂也.
庵北有衆香城峯, 如列白玉屛, 看看不厭. 淮陽以書至, 送厨備頗煩. 招監官慰還. 並與一吏一卒三官娼而歸之. 夕宿摩訶衍.
從而直者樹也, 長安住持應浩也, 營吏李應根也, 馬頭朴天敏也善道也. 淮之知印勝千也, 官吏一羅將一, 帶行驛卒二人也.
丙寅. 朝食, 徐行未一里, 有獅子庵在獅子峯下. 南有穴望峯, 峯中有穴, ▼(穴/歉)然可見故名. 西有香爐峯, 峭截特立. 庵廢數年. 入庵見壁上, 有題曰石潨道人 乘成子攜杺·㰒輩來游, 臨瀛士人金忠愨·權偁從而遊, 時甲寅五月也. 余於其旁 抽筆題名.
僧指前峯頭立石曰, 彼曇無竭眞像也. 望之略如人傴僂狀. 西行數百餘步, 至火龍潭, 有盤石大而平, 上可坐十餘人. 潭深丈餘, 其下有船潭, 狀如船. 又其下有龜石, 狀如龜, 石底有潭, 亦曰龜潭. 潭邊白巖如削. 東望則獅子石甚分明, 南望則鷹巖隱不現. 諺傳胡宗朝入此山, 獅子當項喝之, 有龍自潭出火光以拒之. 又築城以遮截之, 宗朝不得入, 以故潭名火龍, 巖名獅子. 又有自在城, 累石如築, 在潭邊.
北行至眞珠潭, 洞水爲懸瀑, 可六七丈, 如眞珠萬斛, 散落半空, 其下成潭故名. 卽中使來遊時, 一頭目溺死之地. 潭邊盤石, 可坐數十人. 其旁縱橫之石, 斬削如屛. 遊山諸賢, 皆題姓名, 余所知者, 姜紞·趙濈·曺友仁·李芬·金世濂·金尙績·朴安孝·吳行健也.
俄而東風乍起, 飛瀑亂空, 變成雲霧, 不可久留. 遂行至普德窟. 窟在洞南絶壁上. 西面·元浩兩僧前導, 跨溪披草, 攀緣疊磴, 仰見飛甍三層, 翼然如在半空中. 有一大銅柱長可十餘丈, 鐫厓而立. 鐵 二字缺 橫帶爲板, 起樓其上. 糚其窟門, 以鐵鎖子上下纏束, 一端着巖石, 一端着柱. 又以一大鎖子着窟上石角, 從閣垂着于窟下石角, 又以一大鎖子着閣東石角, 纏其閣. 一端着于閣西石角, 使不得撓. 閣一間, 又以半間爲閣道, 以沙觀音奉之, 是普德也.
窟東累石爲曲階, 凡二十五級. 級盡又有一庵在窟後, 南漢之役, 廢不守. 遊觀者, 先由是庵, 循曲階而下級盡則入窟閣. 閣上樓板聲咿軋, 使人魂𢥠. 左右題名鐫刻者, 不可勝數. 東板有石潨先生所題, 依獅子庵例, 余亦題名. 庵邊窟上, 有塔安于甍上, 以石磨爲之小輪, 各十三片. 邊刻梵字, 大如廣楪, 小若將棊, 貫以鐵杖, 如貫珠形. 洞邊石厓嶄絶, 洞流成瀑, 正如雷霆怒吼, 人語不辨. 壯哉! 萬瀑之名, 不虛得也.
行數百餘步渡溪, 溪邊石上, 有小井如臼, 曰手巾巖. 又行四五百步, 有巖如屛, 曰金剛臺. 又行一里, 過凝碧霞, 有大溪自北洞合于萬瀑, 二水相敵, 是永郞岾下流. 爲眞佛·圓通·天德諸巖前衆流也.
潨間盤石廣平尤奇絶, 有楊蓬萊士彥草跡‘蓬萊楓嶽元化洞天’八大字, 筆法遒勁可賞. 楊斯文近世聞人, 道一其胤也. 小選肩輿, 歷五賢峯, 到表訓寺. 坐般若堂, 僧以懶翁眼光舍利示之, 乃一碧珠如小豆者也. 納琉瑠甖, 藏以金銀盒, 函封百襲, 葢貴之也,
又肩輿上正陽寺, 先觀藥師殿, 藥師者亦西來佛也. 發願在醫病活人故名. 東西四壁, 繪十王諸菩薩甚妙, 僧言吳道子畫, 誕也. 抵後堂, 有丈六金身, 乃曇無竭也. 寺廢有年. 徘徊東小樓, 望諸峯.
東南行一里, 上天逸臺. 臺在山角, 開心臺之一枝也. 通望甚便, 姑擧其表著者. 臺之西北, 有土峯豐厚而高大, 曰西水晶峯. 北有衆石峯削立如筆尖, 曰大藏·上開心等峯. 東北有石峯無數環列, 如白玉屛開者, 曰衆香城峯. 其後有鴈門峯·白雲臺. 又其後有萬景臺, 又其後有一石峯聳立雲表者, 曰毗盧峯. 視諸峯, 不知高出幾千仞.
衆香峯前, 又有石峯突兀, 間以松檜者曰大香爐峯. 峯東又有石峰差低, 曰小香爐峯. 峯南有峯如玉筍束立者, 曰曇無竭峯, 石像特立頂上, 望之儼然. 東南又有石峯秀出者, 曰穴望峯. 近南而崔崒者曰望高臺, 臺南又有筆峯, 縹緲而雙峙者, 曰白馬·國望峯. 西南有石峯六, 曰十王·天燈·彌勒·觀音·地藏·達摩其名. 西有土峯曰, 放光, 其餘四方衆峯, 不可殫記. 遂還小憇三藏庵, 歸到表訓宿.
丁卯. 上望高臺, 寺僧難之, 強而後行. 行三四里, 漸入深林, 不見天日, 頗有不遠復之意. 時樹及營吏李應根, 知印善道·孟承天, 書者金大慶, 羅將夢男, 住持僧應浩·義元, 肩輿僧靈隱·玄悟等, 凡二十三人從.
遂因衆前進行五六里, 登陟益急. 越一岾, 有古城, 石築以補絶壁, 茫不知何代功也. 邐迤而東, 陟一山頂, 有二庵曰大小松蘿. 新羅敬順王將降高麗, 王子諫不聽, 王子乃痛哭入此山, 麻衣草食以終其身. 諺傳, “松蘿卽王子所住, 而當時僚屬亦有從者, 故有大小二庵云.” 乍歇, 仍向望高臺, 藤蔓蓊鬱, 失路冥冥. 且多絶磴危棧, 自此以杖行, 至東邊山上. 側柏迷路, 又大木橫臥, 拊膺脅息. 仰見山石, 犖确綿繞, 玉峯森列如戟. 俯臨無地, 心神悚然.
至鷹巖·僧牀兩厓間, 前者履後人之頂, 後者戴前人之踵, 有鐵鎖垂下, 以爲攀緣登降之具. 歷盡四鎖, 登臺眺望, 則近而山中大小峯巒, 千態萬狀, 無不呈露. 遠而嶺西山川, 南自原州之雉嶽, 北至通川之湫池, 其間八百餘里, 羣岡疊巘, 或起或伏, 或如眉或如鬟, 或靄靄如雲, 或依依如畫. 或龍蟠而虎踞, 或鳳翥而鸞翔, 浮空積翠, 包括眼中.
自此便覺胷襟曠蕩豁然, 蘇子所謂‘浩浩乎如憑虛御風, 獨立羽化者’也. 葢所處益高則所見益下. 向之正陽·天逸, 顧居腳底, 而萬瀑所歷羣峯, 纍纍如培塿. 惟北之毗盧, 左臨滄海, 右控嶺西, 磨蒼盤鬱. 仰望而不可及. 然後始信此山之爲金剛第一峯也.
毗盧雲暗, 天氣欲雨. 遂下過松蘿飯訖, 行過故城, 南轉一二里, 越一峴至顯佛庵. 板上有許沃汝題一絶. 沿澗而下未一里, 至十王百川洞. 洞流益淸, 峯巒益奇.
洞之南, 有十王峯, 峯之南, 有天燈峯, 峯之東, 有彌勒峯. 天燈·彌勒之間, 有峯突兀臨溪, 曰觀音峯. 觀音之西, 又有一峯臨溪, 曰地藏峯. 彌勒之南, 又有土峯, 曰達摩峯. 達摩之西, 又有土山, 山之南, 金銀藏兩庵故基. 觀音·地藏之間, 卽古城門, 門前洞流激而成潭. 潭邊石平, 可坐數十人. 纔一里, 洞水與萬瀑合流, 爲長安寺前川.
到長安, 有大䧺寶殿. 新羅法興王時, 有眞表律師者入邊山, 寓不思議庵. 奉眞栍簡子, 入此山到鉢淵. 龍王獻可居之地, 於是創鉢淵庵. 又創不思議上中下三庵, 復以其簡子, 又創此寺. 立輪藏以安其簡, 律師常往來設法.
名長安者, 所以爲諸佛之都會也. 麗時爲懷正所重創, 嘉靖己亥火, 萬曆丁亥又火, 傾出內帑, 大加營繕, 越四年辛卯功訖, 殿爲二層. 有三大佛四中佛, 皆元順帝所作. 順帝時麗朝有奇氏女, 選入爲皇后無子. 后曰 “妾東人也. 東國有金剛山, 山有長安寺. 神僧所刱, 有禱必應. 必欲求嗣, 盍禱於此.” 於是遣使增修造佛 使五百僧燃無盡燈以供之, 後帝果有子. 無盡燈者, 亦順帝所作云.
戊辰雨. 將留長安, 向夕雨歇, 遂發還向摩訶衍. 行一里, 洞流爲瀑, 瀑下成潭, 潭深不測. 是金同所陷鬱淵也, 諺傳也. 經新林廢寺, 到表訓宿.

癸巳[주 24]. 早發, 歷萬瀑·普德·獅子·摩訶·妙吉祥庵, 從北洞入. 穿林壑轉山麓, 越二小岾, 至鴈門岾. 岾高於萬瀑諸峯, 固二三倍矣. 楡岾僧六七以輿候, 高城吏以饋候. 遂於盤石上, 乍憇而行. 時陰雲蔽天, 有頃雨, 沾盡一行. 歷上開心, 下至大藏洞. 以其巖石疊積, 如揷萬卷書故名. 陟九阿越二岾, 登九井峯. 峯頭有石如纍棊者, 不可枚數. 至絶頂, 石上有九井, 窪窽可怪. 僧傳楡岾之始刱也, 有九龍居其地. 爲五十三佛獻其居, 遂南徙至此峯頭, 各據一井而留, 未幾遷于九龍淵云.
時大風作, 東邊開朗, 海色呈露, 茫茫萬里, 一碧玻瓈. 須臾大霧晦冥, 咫尺不辨. 有若造物戱劇, 遮藏萬象而使不得遊目也. 遂衝雨而還, 歷九井白雲廢庵, 至寂滅庵. 有僧齊己者, 四溟之弟子也. 迎之入室, 以四溟集一卷示之, 說渠亂離從軍事甚悉.
庚子[주 25]. 發越一小峴, 登歡喜岾. 岾前有小人嶺, 路出山脊, 傾斜而險急, 眞小人情狀也. 又十餘里至鉢淵, 淵邊四面, 皆傾厓而滑, 人不敢近. 夷上殺下, 南爲广. 洞流成瀑而爲淵, 形圓如鉢. 深可四五丈, 水幽暗, 若有神物遁藏者然. 又二里至馳水巖, 巖石兩邊俱平, 可坐百餘人.
水中流爲瀑, 下爲盤渦. 釋子遊戱者, 必於瀑上, 折薪而坐, 沿流坐馳, 則巧者隨水順下, 拙者頭出頭沒. 然石滑澤, 不至傷人. 故人不厭其戱. 余使肩輿僧試之 頗慣不倒, 適有一僧橫馳而倒下, 觀者絶倒. 行三十里, 到高城海山亭.
辛未. 使相自扞[주 26]城入郡, 余將候于鑑湖, 適有鄭斗源令公來話甚穩不果, 爲使相伻邀, 遂馳赴. 使相已與祥雲察訪舟于湖, 將發棹矣. 登舟拜叙, 酌數巡, 擊空明縱所如, 玩錦鱗之游泳, 狎沙鷗之翔集, 興盡而行. 小憇懸鐘庵, 賞石舟而訪仙跡, 向夕還海山亭.
癸酉. 陪使相, 爲三日浦之遊, 通川·歙谷·祥雲從之, 主倅亦與焉. 結船三隻, 自獅子巖至四仙亭. 自四仙亭至丹書巖, 隨意所適, 遊目騁懷, 甚可樂也. 四仙亭北 越湖而望, 則有夢泉寺舊基. 寺之未廢也, 大小遊賞者, 多留宿爲郡弊, 郡人苦之火.
獅子巖者, 形如獅子也. 四仙亭者, 四仙所遊處也. 四仙者, 新羅時安祥·永郞·水郞·南石凡四人也. 丹書巖所書水郞徒南石行者此也. 厓面丹字, 至今不漫. 傍有石刻詩藏于石竇, 乃虛白亭洪公詩也. 大槩此地螺鬟環列者, 三十六峯, 奇勝爲關東八景之最也.
甲戌. 使相爲鉢淵行, 余又從之, 沃余·振伯之囑也. 午後與振伯, 泝澗行至一石. 又有楊蓬萊三大字, 曰蓬萊島. 須臾使相返, 一行皆尾之.
乙亥. 使相入山中, 余發扞城. 振伯及黃司果琢, 同之. 中火太康, 遇鄭都事于松林乍話, 小憇明波. 午後雨作, 衝冒到烈山宿.
丙子. 早食, 行至扞城界.
戊寅. 到客舍, 主倅出候久矣. 夕次祥雲之留客堂.
己卯. 曉, 盲風㬥雨, 禾穀盡偃, 人不得出. 晩乃歇, 揮鞭而南, 中火洞山, 夕宿蓮谷.
庚辰. 爲拜金獻納, 直馳江門橋, 舟于鏡浦, 小憇草堂. 聞獻納爲楊州行, 遂促棹而進, 話移日. 午後飯于船中, 馳入府. 道訪金參議·洪員外公恕, 主倅之一家也. 適來衙中, 卽來見, 主倅亦至話良久.
辛巳. 訪府使于東軒, 公恕同之. 金禮安來話.
乙酉. 晩, 謝府使, 暮宿丘山書院.
丙戌. 早發, 踰大嶺, 中火橫溪, 夕宿珍富驛.
丁亥. 中火太和驛, 雨下如注, 衝雨而發, 越梨峴涉注津, 暮投平昌郡.
己丑. 發, 馬踰草要峙, 到酒泉縣.
庚寅. 早發, 中火新林, 到椒泉. 使相已先浴, 夕與使相退, 宿一里許村舍.
辛卯. 與使相, 同進椒泉一浴, 馳入州內, 日已夕.
壬辰. 余自弱冠, 聞敎導官府君墓在原州, 兵燹之餘, 不知其所. 自到原界也, 訪問宗黨之在原者, 皆已歿, 惟外姓若干人在, 外姓中有高參奉峴年七十餘.
余廵到酒泉, 高來謁, 道門中故事甚詳. 且曰 “昔有都事金復一, 自嶺中祭外先墓而去, 時諸申皆會, 問墓所安在.” 高不知. 余意官中有老吏可問, 入州而問, 亦不知. 前參奉柳公忠戇, 以博聞名, 乃往問, 果與高說同. 而祭需辦於申應繁家云, 今應繁父子皆歿, 無可憑問.
問老吏, 申悅家舊蒼頭則庶可知云. 乃走急足訪之, 申悅亦故. 其老奴名必運者, 年八十餘. 使其子指某丘曰是也. 使樹往審之, 果有封, 卽往省之, 墓在州東三四里大荒堂洞辛向, 乃合祔也. 前竪片碣, 曰敎導官申公某墓. 蓋玆山遠自雉嶽, 震來丙作, 龍虎端正, 明堂如畫. 今香火雖廢, 亦不至蕪穢幸也.
丁未以橫城祭需行奠獻禮, 時崔上舍山輝, 以方伯之胤在營下, 金上舍烋, 亦以新恩至. 二人皆公外裔也. 咸造與祭, 備獻, 又崔君之胤如博, 墓下外裔洪世傑·元愷·元克祿·洪奉誠, 四五人同參. 嗚呼! 嶺外內外諸孫, 不爲不多, 而於今始得府君墓而拜之, 且吾三人者, 不期而會, 得伸追遠之情數也, 豈偶然哉.
辛亥. 馳到興原宿, 以西平府院君喪柩將抵山所也.
壬子. 舟行至山所, 與牧伯及平昌·寧越·洪川倅話終日. 是日往見禮葬官, 乃咸陽鄭弘緖也.
癸丑. 晩出江川邊, 候喪柩, 午後至. 大殿中使·中殿中使等護來, 入哭靈筵, 拜兩殿中使.
甲寅. 還州內.
九月三日 丙寅. 向西平山所, 爲奠西平故也.
丁卯. 入奠靈筵, 與牧伯酌中使.
戊辰. 還州內.
丙子. 牧伯以聲樂餞余.
丁丑. 洪同知·崔別坐·李利城, 皆以酒餞. 昏使相餞余于牧伯之室, 極歡而罷.
戊寅. 遞任南歸.

******************************
[ 교정주 ]
24) ‘癸巳’는 ‘己巳’의 오기인 듯하다.
25) ‘庚子’는 ‘庚午’의 오기인 듯하다.
26) ‘扞’은 ‘杆’의 오자이다.

유금강록(遊金剛錄)

신즙

▪일시 : 1627년 6월 27일–9월 15일
▪동행 : 없음
▪일정
6/27일 : 게방사-백천교-구재-유점사-취운당
6/28일 : 운수암-만경대-은선암-유점사
6/29일 : 유점사
7/1일 : 수재-마하연사
7/2일 : 사자암-화룡담-진주담-보덕굴-금강대-표훈사
7/3일 : 송라암-망고대-현불암-시왕백천동-장안사
7/4일 : 마하연사-울연-표훈사
7/5일 : 안문재-개심대-대장동-구정봉-적멸암
7/6일 : 환희재-발연-해산정
7/7일 : 감호-현종암-해산정
7/8일 : 기록 없음
7/9일 : 삼일포-사선정-단서암
7/10일 : 발연
7/11일 : 태강역-명파역-열산현
7/12일 : 간성
7/13일 : 기록 없음
7/14일 : 고성 객사- 상운역 유객당
7/15일 : 동산-연곡
7/16일 : 경포 초당- 강릉부
7/17일 : 강릉부
7/17일-20일 : 기록 없음
7/21일 : 구산서원
7/22일 : 횡계-진부역
7/23일 : 태화역-이현-주진-평창군
7/24일 : 기록 없음
7/25일 : 초요고개-주천현
7/26일 : 신림-초천 촌집
7/27일 : 초전
7/28일 : 원주 경계-주천
7/29일-8/17일 : 기록 없음
8/18일 : 흥원(1박)
8/19일-9/14일 : 흥원
9/15일 : 귀향

▪작자 소개 : 하음 신즙
신즙(申楫, 1580-1639)의 자는 여섭(汝涉), 호는 하음(河陰)이며 본관은 영해(寧海)이다. 경상도 상주 출신으로 주부(主簿) 경남(慶男)의 아들이다.
서애(西厓) 류성룡(柳成龍) 여헌(旅軒) 장현광(張顯光) 우복(愚伏) 정경세(鄭經世) 문인이다. 1604년 선조가 유생들을 위해 과제(課題)를 내어 13인을 뽑자 그 안에 들었다. 1606년 식년문과에 병과로 급제, 문한직인 전적(典籍)을 지냈다. 광해군이 즉위한 뒤 대북정권이 인목대비를 폐하고 영창대군을 죽이는 등 인륜에 어긋나는 정치를 하자 벼슬을 그만두고 명승지를 찾아 유람하였다. 1626년 형조 좌랑이 되었으며, 8월 강원 도사(江原都事)가 되었다.
강원 도사로 재임할 때 「관동록(關東錄)」을 지었는데 「관동록」은 1626년 8월부터 12월까지 강원 도사로 있을 때의 기록인 「겸장선록(兼掌選錄)」, 1627년 1월부터 4월까지 관북(關北) 등지에서 군량(軍糧)을 조달할 때의 기록인 「관향록(管餉錄)」, 1627년 5월에 겸염철사(兼鹽鐵使) 종사관(從事官)으로서 영동을 순찰할 때의 기록인 「겸염철사종사관록(兼鹽鐵使從事官錄)」, 같은 해 6월부터 9월까지 금강산을 유람한 기록인 「유금강록(遊金剛錄)」으로 구성되어 있다.
1627년 정묘호란 때는 강원 도사로 종군하였으며, 1636년 병자호란 때는 의병장이 되었고, 사복시 정(司僕寺正)에 이르렀다. 효성이 지극하고 지조가 강하였다. 성리학을 비롯하여 의약·복서(卜筮)·지리·천문 등에 통달하였다.

유금강록[주 1011]

신즙

6월 27일(임술). 출발해 금강산으로 향했다. 도중에 동지(同知) 정두원(鄭斗源)[주 1012]을 방문했는데 고성 군수도 따랐다. 말을 달려 게방사(憇房寺)[주 1013]에 도착했다. 게방은 유점사 승려들의 양식을 찧는 곳인데 군에서 20여리 거리이다. 또 20리 남짓 가서 백천교(百川橋)[주 1014]에 이르렀다. 다리의 너비는 30길로 아래에는 깊은 못이 있는데, 역시 수 길이다. 위에 수각(水閣)이 우뚝 솟아있어 능히 가교(駕轎)[주 1015]의 통행을 용납할 만 했는데, 금년 봄 들불에 탔다고 했다. 가마 메는 유점사 승려 10여명이 다리에서 기다리고 있었다. 곧 말을 두고 다리를 건너서 바위 사이를 거닐면서 맑은 물에 발을 씻고 가마를 타고 갔다. 승려들은 땀이 줄줄 흘러 한 사람의 어깨로 혼자 맡기가 힘들어 혹 5리를 가서 바꾸고 혹은 3리를 가서 바꾸었다.
구재(狗岾)를 넘는데 고개는 매우 높았다. 이대(尼臺)와 상대(上臺)·중대(中臺)·하대(下臺) 등 3개의 대가 있다. 고개 위에 영춘정(靈偆井)이 있고, 고개를 넘자 장항(獐項)이 있는데 구재보다 조금 낮았다. 골짜기를 따라 가니 시내가 남쪽으로 흐르는데, 이것이 고성(高城) 남대천(南大川)의 원류이다. 양구와 인제의 경계 270여리를 구불구불 이어 돌아 고성에 모여서 남쪽으로 흘러 바다에 들어간다고 했다. 곁에 벼랑 사이를 연결한 다리가 있는데, 낭떠러지에 길이 끊어져 3개의 잔도를 설치해 사람들이 통행하여 환희재(歡喜岾)를 지나가도록 했다. 이를 경유하지 않고 바로 삼협(三峽)·단풍(丹楓)·명월교(明月橋)를 건너면 사찰이 한 골짜기를 가득 채우고 있는데 이것이 유점사(楡岾寺)이다.
유점사 앞 물가 누각을 산영루(山暎樓)라고 하는데 지나가는 객이 쉬는 곳이다. 그 다음에 해탈문(解脫門)이 있고, 문 안에는 ‘대성수보덕사(大聖壽報德寺)’라는 현판이 있다. 사찰 내 회전문이 있는데 문에는 사천왕(四天王)이 있다. 문안에는 범종루가 있고 가장 안쪽에는 ‘능인보전(能仁寶殿)’ 이란 현판이 있다.-이 넉자는 중국 호과급사중(戶科給事中)인 상조(商祚)의 글씨이다- 전각 안에는 53구의 불상이 안치되어 있는데, 모두 서 있는 불상이다. 뜰 가운데 12층 석탑이 있는데 1백8구의 금불상을 보관하고 있다. 왼쪽에는 응진당(應眞堂)으로 관음상과 16구의 나한상을 보관하고 있고 오른쪽은 금당(金堂)으로 금불상 1구를 안치하고 있다. 응진당 앞에는 명부전(冥府殿)이 있는데 시왕상(十王像)이 그려져 있다. 남쪽에 대권당(大權堂)이 있는데 영춘(靈偆)의 상(像)이 있다.
범종루(泛鐘樓) 아래에 종이 있는데 무게가 천근이다. 세조(世祖) 때 조성이 되었는데 김수온(金守溫)[주 1016]이 명문(銘文)을 짓고 정란종(鄭蘭宗)[주 1017]이 글을 썼다. 종이 신령스럽고 기이하여 가끔 진액이 흐르면 이상한 변고가 생겼다. 승려가 말하기를 “임진년(壬辰年, 1592)에 땀을 흘리자 왜란이 일어났고, 갑인년(甲寅年, 1604)에 땀을 흘리자 절에 화재가 났습니다. 계해년(癸亥年, 1623)에 땀을 흘리자 반정(反正)의 거사가 있었습니다. 갑자년(甲子年, 1624)에 땀을 흘리자 이괄(李适)의 난이 있었고 지난해 겨울에 또 땀을 흘렸는데 금년 봄에 흉노의 변이 있었습니다. 금년 5월에 많은 땀이 흘렀는데 무슨 재앙의 전조인지 모르겠습니다.”라고 했다. 이를 듣고 마음속으로 놀라지 않을 수 없었다. 이날 밤 취운당(翠雲堂)에서 숙박했다.
28일(계해). 아침에 창문을 열자 조그마한 봉우리가 골짜기를 가리고 있는데 그 형태가 우뚝해 사미(沙彌)라고 불렀다. 좌우 봉우리들이 우뚝 솟아 구름 표면을 묶고 있는 듯 했으며, 이 봉우리는 두 산의 사이에 있으면서 ‘사미’라고 이름을 지었으니 그럴 듯 했다. 아침을 먹고 가마를 타고 1리 남짓 가자 3기의 사리탑이 있는데 서산(西山)·청련(靑蓮)[주 1018]·보운 선사(普雲禪師)의 것이다. 또 1리 남짓 가자 조계암(曹溪庵)이 있는데 지금은 폐허가 되었다. 그 위에 선담(船潭)이 있는데, 물은 수 길이나 되었다. 못이 배 모양이기 때문에 이름이 붙여졌다. 또 2리를 가서 운수암(雲水庵)에 이르렀다. 운수암에서 영은암(靈隱庵)에 이르는 중간에 상중하 3개의 대가 있었는데 혹은 없어지고 혹은 지금도 있다.
암자로부터 북쪽으로 돌아 위로 약 4,5리가서 만경대(萬景臺)에 오르자 바위들은 가파르고 위태로웠는데 다만 측백나무가 사방으로 뻗어있는 것이 보였다. 대는 꼭대기에 있는데 시야가 동쪽으로는 푸른 바다에 미치고, 북쪽으로는 구정봉(九井峯)·일출봉(日出峯)·월출봉(月出峯)에 이르렀으며, 서쪽으로는 미륵봉(彌勒峯)·백마봉(白馬峯) 등 여러 봉우리들에 이르도록 눈앞에 봉우리들이 늘어서 있다. 이때 광풍이 휘몰아쳐 흐릿한 기운과 안개로 인해 어둡고 아득하여 백마봉 같은 여러 봉우리들을 바라보니 분명하지 않았다. 아래로 굽어보니 땅이 보이지 않아 정신과 뼈 속이 놀라서 오래 머물 수가 없었다.
드디어 동쪽으로 가서 산허리를 돌아 계곡의 끝에서 봉우리를 올라 거의 15리를 가서 은선암(隱仙庵)에 이르렀다. 은선암의 동쪽 2리에 바위가 우뚝 솟아 있는데 은선대(隱仙臺)라고 했다. 거센 바람이 다시 일어나자 나무들이 모두 싫어하는 듯했지만 나는 홀연히 바람을 타고 올라가[주 1019] 사방을 둘러보니 만경대에서 보는 것과 크게 다르지 않았다. 다른 것은 구정봉의 샘이 흘러서 12개의 폭포가 되고 아래로는 성문백천동(聲聞百川洞)의 원류가 된다는 것이다. 이때 폭포수는 날듯이 흘러내려 바람을 뿜고, 눈은 어지럽게 흩날려 허공에 뿌리니 매우 기이한 장관이다. 마침 산의 안개비가 다 걷히자 옥처럼 서있는 여러 봉우리들을 다 기억할 수가 없다.
서쪽에 상원사(上元寺) 터가 있고, 북쪽에는 적멸암(寂滅菴)과 백전암(柏巓菴) 등이 있다. 둘러보는 사이에 바람이 불어 갓을 떨어뜨렸는데 다행히 따르는 사람이 주웠다. 또 동쪽으로 돌아 고개 하나를 넘고 한 시내를 건너서 10여리를 가니 성불암(成佛庵)의 옛터가 있는데 우거진 잡초로 황무지가 되어 찾을 수가 없다. 그 옆으로 몇 리 남짓에 바위 절벽이 만 길이나 되는데 곧 불정대(佛頂臺)이다. 돌출된 깎아지른 봉우리의 모서리에서 굽어보며 백천(百川)의 소리를 들으니 은선대(隱仙臺)에서 보는 것과 같았는데 12개의 폭포는 더욱 멀었다. 바위에 구멍 하나가 있는데, 그 깊이는 바닥이 없었다. 전설에 의하면 용녀가 그 가운데서 나와 불정대에 차를 올려 이로 인하여 이름이 되었다고 했다. 아래로 경치가 뛰어난 골짜기를 굽어보니 송림굴(松林窟)이 있다. 50나한이 서역으로부터 와서 이 굴에서 있었다고 전하는데 허황된 이야기다.
동굴의 동쪽 겨우 1리에 원통암(圓通庵)이 있다. 조금 후 수(樹)의 아우 미(尾)가 와서 위태로운 잔도에 높이 매달려 두려워하면서 관을 벗고 포복으로 오니 일행이 배를 잡고 웃었다. 이윽고 흥이 다해 유점사로 돌아왔다. 명적암(明寂庵)의 노숙(老宿)한 승려 법견(法堅)이 와서 인사를 하고 함께 잤다. 이야기를 해보니 경전(經典)과 제자(諸子)에 있는 말을 능통하게 했는데, 말하고 논하는 것이 매우 해박했다. 비록 승려[伊蒲塞][주 1020] 의 품성이지만 진실로 석가를 따르는 무리 중에서는 호걸이었다.
29일(갑자). 아침에 비가 크게 내렸다. 장차 내산을 가려고 했으나 출발하지 못했다. 고을 원이 편지를 보내왔는데 바다에서 나는 맛있는 해물 몇 가지도 함께 보냈다. 해질 무렵 회양의 아전이 와서 여행 짐을 찾아 내일 아침에 떠난다고 보고를 했다. 오후에 비가 그쳐 날씨가 맑고 깨끗했다. 노승(老僧) 법견이 날이 저물자 인사를 하고 떠나면서 욕심을 막아 본연의 마음을 보존하라는 경계의 말을 했다. 나는 이별할 즈음에 율시(律詩) 한 수를 지어 주었다[주 1021].
7월 1일(을축). 동틀 무렵에 날씨가 활짝 갰다. 밥을 먹고 5,6리 남짓 가니 산속 안개비는 비가 되고, 잡초 우거진 오솔길은 앞이 보이질 않아 급히 은선암(隱仙庵)에 머물렀다. 비가 그치기를 기다렸다가 곧 출발을 했다. 시내를 건너고 봉우리를 넘어 사주대(社主臺)를 거쳐 거의 20리 길을 풀을 헤치고 안개를 맞으며 수재(水岾)에 도착했다.
표훈사와 장안사 승려들이 가마를 가지고 기다리고 있고, 회양의 하인들은 차를 끓여놓고 기다리고 있었다. 잠시 쉬었다 다시 가니 이곳으로부터 골짜기가 수려해 물은 맑고 바위는 깨끗해 가면 갈수록 더욱 기이했는데, 곧 만폭동(萬瀑洞) 물의 발원지였다. 6,7리를 가니 맑은 시내가 북쪽 골짜기에서 쏟아져 나오는 것이 보였는데 비로봉(毗盧峯)[주 1022]의 하류였다. 비로봉이 북쪽에 있다고 들었는데 구름과 안개로 어두워 볼 수가 없었다. 다만 서남쪽으로 혈망봉(穴望峯)이 있어서 볼 수 있는데 봉우리의 으뜸 줄기는 날아 춤추는 듯 겹겹이 쌓여 골짜기의 동쪽[靑龍]과 묘길상암(妙吉祥庵)의 남쪽[朱雀]이 되었다. 만장봉(萬丈峯)과 백옥봉(白玉峯)은 마치 칼과 창을 기댄 것 같다. 묘길상암(妙吉祥庵)이 그 아래에 있는데, 암자는 폐허가 된지 이미 7,8년이 지나 반 이상이 무너졌다.
2백 여보를 가니 하나의 대가 있는데, 바위 벽면에 새긴 불상이 매우 컸다. 앞에는 장명등이 있고 대 남쪽에는 관음봉(觀音峯)이 있다. 또 다섯 봉우리가 있는데 이름이 없으며, 북쪽으로 여덟 봉우리가 있는데 역시 이름이 없다. 뒤에 또 큰 두 개의 봉우리가 있는데 월출봉(月出峯)과 원적봉(元寂峯)이다. 대(臺)에서부터 계곡을 따라 서쪽으로 한 골짜기가 북쪽에 있는데 가운데 불지암(佛智庵)이 있다. 계해년(癸亥年)에 쌓인 눈에 무너져 지금은 폐허가 되었다. 또 거빈굴(巨彬窟)[주 1023]이 있는데 을사년에 사태로 붕괴돼 또한 폐허가 됐다.
1리를 가서 마하연(摩訶衍)에 이르러 암자 앞에 있는 조그마한 대에 올랐는데 대는 곧 금강산의 정중앙(正中央)이다. 앞에는 담무갈봉(曇無竭峯)[주 1024]이 있는데 그 아래에 담무갈 석상이 있기 때문에 이름을 얻었다. 암자 북쪽에 봉우리가 있는데 만회봉(萬灰峯)이라고 했다. 수년전 남한산성 공사가 일어나서 암자의 승려가 하나도 없게 되었다. 암자는 폐허가 되고 지키는 사람이 없는데 뜰 가운데에는 지공초(指空草)가 있어, 잎은 부추 같고 가지는 가시가 있으며 꽃의 색깔은 자색이다. 옛날에 지공(指空)[주 1025]이 이곳에 들어와 살 곳을 정한 자리에 이 풀이 자라서 이름이 붙였다. 지공은 남쪽 천축국(南天笁國)의 술사로 고려 말에 들어왔다고 했다. 계단 아래에 계수나무가 있는데 그 크기가 한 아름이고 높이는 수십여 길이다. 가지는 성글고 잎은 가늘어 모양은 계수나무 같았는데, 그러나 깊은 가을에는 잎이 떨어진다고 했다. 풍상(風霜)에 홀로 빼어난 것을 비교해 보아도 아닌 것 같은데, 계수나무인지는 알지 못하겠다.
암자 북쪽에는 중향성봉(衆香城峯)이 있는데 백옥(白玉) 병풍을 벌려 세운 듯 하여 보고 또 보아도 싫증이 나지 않았다. 회양 도호부사의 편지가 왔는데 먹을 음식을 보내온 것도 매우 많았다. 감관(監官)[주 1026]을 불러 위로하고 돌려보냈다. 아울러 아전과 사졸 한 사람과 관기 3명도 돌려보냈다. 저녁에 마하연에서 묵었다.
따라와서 수직(守直)[주 1027]한 사람들은 수(樹)이며, 장안사 주지 응호(應浩)이며, 영리(營吏)[주 1028] 이응근(李應根)이며 마두(馬頭)[주 1029] 박천민(朴天敏)과 선도(善道)이며 회양의 지인(知印)[주 1030] 승천(勝千), 관리(官吏) 1명, 나장(羅將) 1명, 동행한 역졸(驛卒) 2명이다.
2일(병인). 아침을 먹고 천천히 가서 1리도 안되어 사자암(獅子庵)이 있는데 사자봉(獅子峯) 아래이다. 남쪽에는 혈망봉(穴望峯)이 있는데 바위 가운데 구멍이 뚫려있어 서로 볼 수 있어 이름을 지었다. 서쪽에는 향로봉(香爐峯)[주 1031]이 있는데 험준하게 잘라놓은 듯 서 있다. 암자는 폐허가 된지 수년이 되었다. 암자에 들어가 벽 위를 보니 글이 있는데 이르기를 “석중도인(石潨道人) 승성자(乘成子)가 심(杺)과 학(㰒)의 무리를 데리고 와서 노닐었고 임영(臨瀛)의 선비 김충각(金忠愨)과 권칭(權偁)이 따라서 유람했다. 때는 갑인 오월이다.”[주 1032] 라고 씌여 있다. 나도 그 옆에 붓을 뽑아서 이름을 기록했다.
승려가 앞 봉우리 꼭대기에 있는 선돌을 가리키며 말하기를 “저것이 담무갈의 진상(眞像)입니다.”라고 했다. 바라보니 대략 사람이 허리를 구부리고 있는 형상이다. 서쪽으로 수백 보를 가서 화룡담(火龍潭)에 이르렀는데 너럭바위가 있어 크고 평평해 위에 10여명이 앉을 만 했다. 못의 깊이는 한 길 남짓이며, 그 밑에 선담이 있는데 형상은 배 모양이다. 또 그 아래에 거북 바위가 있는데 형상이 거북 같다. 바위 밑에 못이 있는데 또 구담이라고 했다. 못 주위 흰 바위는 깎아 세운 듯 했다. 동쪽으로 바라보니 사자모양의 바위가 매우 분명했으며 남쪽으로 바라보니 응암(鷹巖)이 숨어 보이지 않았다. 민간에서 전하기를 “호종단[胡宗朝][주 1033]이 이 산에 들어오자 사자가 길목에서 위협을 하고 용이 못으로부터 나와 불빛을 뿜으며 이를 막았다. 또 성을 쌓아 이를 막으니 종단이 들어오지 못했으므로 못의 이름을 화룡이라고 하고 바위 이름을 사자라고 했다.”고 했다. 또 저절로 성처럼 된 것이 있는데 돌을 포갠 것이 마치 쌓은 것 같았으며 못 가에 있다.
북쪽으로 가서 진주담(眞珠潭)에 이르니 골짜기 물이 폭포수가 되어 6,7길이었는데 진주(眞珠) 1만 섬이 공중에서 흩어져 떨어지는 것 같았으며, 그 아래에 못이 되었기 때문에 이름을 지었다. 곧 중국 사신이 와서 유람할 때 한 우두머리가 익사한 곳이다. 못 가의 너럭바위는 수십 명이 앉을 만 했다. 그 옆의 종횡(縱橫)으로 놓인 바위들은 깎아지른 것이 병풍 같다. 산을 유람한 여러 어진 사람들이 모두 성명을 기록해 놓았는데, 내가 아는 사람은 강담(姜紞)[주 1034]·조즙(趙濈)[주 1035]·조우인(曺友仁)[주 1036]·이분(李芬)[주 1037]·김세렴(金世濂)[주 1038]·김상적(金尙績)[주 1039]·박안효(朴安孝)·오행건(吳行健)[주 1040]이다.
조금 있다가 동풍이 잠시 일어나자 나는 듯이 떨어지는 폭포수가 공중에 어지럽게 날리면서 변해 구름과 안개를 이루어 오래 머물 수가 없었다. 드디어 가서 보덕굴(普德窟)[주 1041]에 이르렀다. 보덕굴은 골짜기의 남쪽 절벽 위에 있다. 서면(西面)과 원호(元浩) 두 승려가 인도하여 계곡을 건너고 잡초를 헤치며 겹겹이 쌓인 돌 비탈길을 끌어 잡고 올라가 나는 듯한 3층 용마루를 우러러 보니 날아갈 듯이 반쯤은 공중에 있다. 10여 길 되는 하나의 긴 구리 기둥을 절벽을 파서 세웠다. 철을 -두 자가 빠짐- 가로로 걸쳐 판을 만들고 그 위에 누각을 세웠다. 보덕굴의 문을 꾸미고 쇠사슬로 위와 아래를 묶었는데 한 가닥은 바위에 붙이고 한 가닥은 기둥에 붙였다. 또 하나의 큰 쇠사슬로 굴 위의 바위 모서리에 붙이고, 누각을 따라서 늘어뜨려 굴 아래 바위 모서리에 붙였다. 또 하나의 큰 쇠사슬을 누각 동쪽 모서리에 부착하여 누각을 둘렀다. 한 가닥은 누각 서쪽 모서리에 부착해 흔들리지 않게 했다. 누각 한 칸에는 또 반 칸으로서 복도를 만들어 불가의 관음보살을 봉안했는데, 이것이 보덕(普德)[주 1042]이다.
보덕굴의 동쪽에 돌을 쌓아 굽은 층계를 만들었는데 무릇 25층계이다. 층계가 끝나는 곳에 하나의 암자가 동굴 뒤에 있는데, 남한산성 부역으로 폐허가 되어 지키는 사람이 없다. 유람하면서 관람하는 사람은 먼저 이 암자로부터 굽은 층계를 따라 내려가 층계가 끝나면 동굴의 누각에 들어갔다. 누각 위 판자는 삐걱대며 소리가 나서 사람의 넋을 놀라게 했다. 좌우에 이름을 써서 새긴 사람을 이루 다 샐 수가 없다. 동쪽 판에 석중(石潨) 선생이 새긴 것은 사자암의 예(例)에 따랐으며 나 또한 이름을 새겼다. 암자 곁의 보덕굴 위 지붕 위에 탑이 안치되어 있는데, 돌을 갈아서 조그마한 수레 바퀴모양으로 만든 것이 13층이다. 주변에 범어로 글자를 새겨놓았는데 큰 것은 너른 평상 같고 작은 것은 장기 같았으며 쇠몽둥이로 돌을 꿰어 놓은 것이 구슬을 꿴 모양 같다. 골짜기 주변에는 벼랑이 우뚝 서 있으며, 골짜기를 흐르는 물은 폭포가 되어 바로 세찬 천둥이 성이 나서 포효하는 것 같아서 사람 말을 분간할 수 없다. 웅장하도다! 만폭동의 이름이 헛되이 얻은 것은 아니었다.
수 백보 남짓 가서 시내를 건너자 시내 가 바위 위에 절구 같은 조그마한 샘이 있는데 수건암(手巾巖)이라고 불렀다. 또 4,5백보를 가니 바위가 병풍과 같았는데 금강대(金剛臺)라고 했다. 또 1리를 가서 푸른 이내가 엉킨 곳을 지나가니 큰 시내가 있는데, 북쪽 골짜기로부터 만폭동에서 합해 두 물이 서로 겨루는 듯 하니 이곳이 영랑재(永郞岾)의 하류로 진불암(眞佛巖)·원통암(圓通巖)·천덕암(天德巖) 등 여러 바위 앞의 수많은 물줄기가 되었다.
물줄기 사이의 너럭바위는 평평하고 더욱 절묘했으며 봉래(蓬萊) 양사언(楊士彥)의 초서로 된 글씨 ‘봉래풍악 원화동천(蓬萊楓嶽元化洞天)’ 8자가 있는데 필법이 굳세어 감상할만했다. 양사언은 근래 유명한 사람인데 도일(道一)이 그의 아들이다. 약간의 가마 메는 사람을 선발해 오현봉(五賢峯)을 거쳐 표훈사(表訓寺)에 도착했다. 반야당(般若堂)에 앉자 승려가 나옹선사의 안광사리(眼光舍利)를 보여주는데, 한 개의 푸른 구슬이 조그마한 콩 같았다. 유리 항아리에 담아 금과 은으로 된 그릇에 넣고 다시 상자로 봉해 여러 겹을 쌌는데, 대개 이를 귀하게 여긴 것이다.
또 어깨에 메는 가마를 타고 정양사(正陽寺)에 올라 먼저 약사전(藥師殿)[주 1043]을 관람했는데 ‘약사(藥師)’라는 것은 서방 세계에서 온 부처이다. 약사불의 발원(發願)[주 1044]이 병을 고쳐 사람을 살리는데 있기 때문에 이름 지은 것이다. 동쪽과 서쪽 벽에 시왕과 여러 보살이 그려져 있는데 매우 절묘했다. 승려의 말이 오도자(吳道子)[주 1045]의 그림이라고 했는데 허황되었다. 뒤에 있는 법당에 이르자 실물 크기의 금불상이 있는데 담무갈(曇無竭)이다. 절은 폐허가 된 지 몇 년이 지났다. 동쪽 조그마한 누각에서 배회하면서 여러 봉우리를 바라보았다.
동남쪽으로 1리를 가서 천일대(天逸臺)를 올랐다. 대는 산모퉁이에 있는데 개심대의 한 지맥이다. 멀리 바라보기에 매우 편리해 잠시 겉으로 드러난 것을 열거해 들어 보았다. 대의 서북쪽에 흙으로 된 봉우리가 있는데 두텁고 높았으며 서수정봉(西水晶峯)이라고 했다. 북쪽에는 여러 바위 봉우리들이 있는데 날카롭기가 붓끝 같았으며 대장봉(大藏峯)과 상개심봉(上開心峯) 등의 봉우리이다. 동북쪽에 바위 봉우리들이 무수히 빙 둘러있는데 흰 옥이 병풍을 펼친 듯한 것은 중향성봉(衆香城峯)이다. 그 뒤에 안문봉(鴈門峯)과 백운대(白雲臺)가 있고 또 그 뒤에 만경대(萬景臺)가 있고 또 그 뒤에 한 바위 봉우리가 구름 밖에 우뚝 솟은 것은 비로봉(毗盧峯)[주 1046]이다. 다른 봉우리와 견주어 보면 높게 솟은 것이 몇 천 길인지 알지 못하겠다.
중향봉(衆香峯) 앞에 또 바위 봉우리가 우뚝 솟아 그 사이에 소나무와 회나무가 있는 것이 대향로봉(大香爐峯)이다. 봉우리 동쪽에 또 바위 봉우리가 조금 낮은 것이 있는데 소향로봉(小香爐峯)이다. 봉우리 남쪽에 옥 같은 죽순을 묶어 세워둔 것 같은 봉우리는 담무갈봉(曇無竭峯)으로 석상이 정상에 특출하게 서 있는 데 바라보니 엄숙했다. 동남쪽에 또 바위 봉우리가 빼어났는데 혈망봉(穴望峯)이라고 했다. 남쪽 가까이에 하늘 높이 솟아있는 것은 망고대(望高臺)이며, 대의 남쪽에 또 필봉(筆峯)이 있고 아득하게 쌍으로 솟은 것은 백마봉(白馬峯)과 국망봉(國望峯)이다. 서남쪽에 바위 봉우리 6개가 있었는데 시왕봉(十王峯)·천등봉(天燈峯)·미륵봉(彌勒峯)·관음봉(觀音峯)· 지장봉(地藏峯)·달마봉(達摩峯)이 그 이름이다. 서쪽에 흙으로 된 봉우리가 있는데 방광봉(放光峯)이며, 그 나머지 사방의 여러 봉우리는 다 기록할 수 없다. 드디어 돌아와 삼장암(三藏庵)에서 조금 쉬고 표훈사로 돌아와서 묵었다.
3일(정묘). 망고대(望高臺)에 오르려는데 절의 승려가 난색을 표했지만 억지로 요구한 뒤에야 가게 되었다. 3,4리를 가니 점점 깊은 숲속으로 들어가 하늘의 해도 보이지 않았다. 자못 멀리 가지 않았으니 되돌아가고 싶은 생각[주 1047]이 있었다. 이때 수와 영리(營吏) 이응근(李應根), 지인(知印) 선도(善道), 맹승천(孟承天)과 서자(書者)[주 1048] 김대경(金大慶), 나장 몽남(夢男), 주지승 응호(應浩)와 의원(義元), 가마 메는 승려 영은(靈隱)과 현오(玄悟) 등 23명이 따랐다.
드디어 일행들과 앞으로 5,6리를 가자 올라갈수록 더욱 급했다. 한 고개를 넘어가자 옛 성이 있었다. 돌을 쌓아서 절벽을 보완했는데 아득히 어느 시대에 만든 것인지 알 수가 없다. 구불구불하게 동쪽으로 가서 하나의 산 정상에 오르자 두 암자가 있는데 대송라암(大松蘿庵)과 소송라암(小松蘿庵)이다. 신라 경순왕(敬順王)이 고려에 항복하려 할 때 왕자가 간했으나 듣지 않자, 왕자가 이에 통곡을 하고 이 산에 들어와 베옷을 입고 나물을 먹으면서 생애를 마쳤다. 민간에서 전하기를 “송라암은 왕자가 머문 곳으로 당시 신하들 또한 따르는 사람이 있었으므로 대소(大小) 두 암자가 있다.”라고 했다. 잠시 쉬었다가 곧 망고대로 향했는데 등나무 넝쿨이 무성해 길을 잃어 앞이 캄캄했다. 또 가파른 비탈길과 위험한 잔도가 많아 이로부터 지팡이로써 가서 동쪽의 산 정상에 이르렀다. 측백나무가 길을 헤매게 하고 또 큰 나무들이 가로로 누워 있어 가슴을 어루만지며 숨차 했다. 우러러 보니 산의 바위들이 울퉁불퉁하게 감고 있으며, 옥 같은 봉우리들은 빽빽하게 늘어선 것이 창과 같다. 내려다보니 땅이 보이지 않아 심신이 두려웠다.
응암(鷹巖)과 승상봉(僧牀峯)의 두 벼랑 사이에 이르러 앞사람은 뒷사람의 머리를 밟고 뒷사람은 앞사람의 발꿈치를 머리에 이었고, 쇠사슬이 아래로 드리워져 있어 올라갈 때 오르고 내리는 도구로 삼았다. 4군데 쇠사슬을 다 거쳐서 대에 올라 조망을 하니 가까이는 산 속의 크고 작은 봉우리들이 천태만상으로 드러나지 않는 것이 없다. 멀리는 영서(嶺西)의 산천이 남으로 원주(原州)의 치악산(雉嶽山)으로부터, 북으로는 통천(通川)의 추지령(湫池嶺)[주 1049]에 이르도록 그 사이 800여리의 겹겹이 모여 있는 봉우리들이 혹은 일어서고 혹은 엎드리고 혹은 눈썹 같고 혹은 쪽진 머리 같다. 혹은 자욱한 구름 같고 혹은 무성한 것은 그림 같다. 혹 용이 서린 듯 호랑이가 웅크리고 앉아 있는 듯, 혹 봉황이나래치는 듯, 난새가 날아오르는 듯이 공중에 뜬 푸른 봉우리들이 눈에 가득 찼다.
이로부터 문득 가슴이 한없이 넓어져 확 트이는 것을 깨달았으니 소동파가 이른 바 ‘넓은 허공에 의지해 바람을 부려 홀로 서서 신선으로 날아오르는 듯 하네’[주 1050]라는 것과 같다. 대개 높은 곳에 있을수록 보이는 것은 더 아래에 있게 된다는 것이다. 지난번에 보았던 정양사(正陽寺)와 천일대(天逸臺)가 돌아보니 내 발밑에 있으며 만폭동의 지나온 여러 봉우리들이 겹겹이 있는 것이 작은 언덕 같다. 오직 북쪽의 비로봉[주 1051]이 왼쪽으로는 푸른 바다에 임해 있고 오른쪽으로는 영서지방을 제압하고 하늘에 닿을 듯 울창해 우러러 보아도 미칠 수가 없었다. 이러한 뒤에야 비로소 이 산이 금강 제일봉이라는 것을 믿기 시작했다.
비로봉이 구름으로 캄캄해져 날씨는 비가 올 것 같았다. 드디어 내려가 송라암을 지나서 점심을 다 먹고 가다가 옛 성을 지나 남쪽으로 1,2리를 돌아서 한 고개를 넘어 현불암(顯佛庵)에 이르렀다. 현판에는 허옥여(許沃汝)[주 1052]의 절구 1수가 적혀 있다. 계곡을 따라 아래로 1리를 못가 시왕백천동(十王百川洞)에 이르렀다. 골짜기의 물은 더욱 맑았으며 봉우리는 더욱 기이했다.
골짜기의 남쪽에 시왕봉(十王峯)이 있으며, 시왕봉의 남쪽에는 천등봉(天燈峯)이 있으며, 천등봉의 동쪽에 미륵봉(彌勒峯)이 있다. 천등봉과 미륵봉의 사이에 우뚝한 봉우리가 시내에 닿아 있는데 관음봉(觀音峯)이다. 관음봉 서쪽에 또 한 봉우리가 계곡에 닿아 있는데 지장봉(地藏峯)이다. 미륵봉의 남쪽에 또 흙으로 된 봉우리가 있는데 달마봉(達摩峯)이다. 달마봉의 서쪽에 또 흙산이 있고, 흙산의 남쪽에 금장암(金藏庵)과 은장암(銀藏庵)의 옛 터가 있다. 관음봉과 지장봉의 사이에 옛 성문이 있는데 문 앞 계곡의 물이 세차게 흘러 못을 이루었다. 못 주변 바위는 평평하여 수십 명이 앉을 만 했다. 1리도 못되어서 골짜기의 물이 만폭동의 물과 합쳐져 흘러 장안사 앞 시내가 되었다.
장안사(長安寺)[주 1053]에 도착하니 대웅보전(大䧺寶殿)이 있었다. 신라 법흥왕 때 진표율사(眞表律師)가 있었는데 변산(邊山)에 들어가 불사의암(不思議庵)에 머물렀다. 진생간자(眞栍簡子)[주 1054]를 받들어 금강산에 들어와 발연(鉢淵)에 도착했다. 용왕이 살만한 땅을 바치자 이에 발연암(鉢淵庵)을 창건했다. 또 상불사의암(上不思議庵), 중불사의암(中不思議庵), 하불사의암(下不思議庵)의 3개 암자를 창건하고 다시 그 간자로서 또 이 절을 창건했다. 윤장(輪藏)[주 1055]을 세워 간자를 안치하고, 진표율사는 항상 왕래하며 법석(法席)을 마련했다.
장안이라고 이름 붙인 것은 여러 불자(佛者)들이 모두 모이는 곳이기 때문이다. 고려 때 회정(懷正)이 중창을 했고 가정(嘉靖) 기해년(1539)에 불이 났고 만력(萬曆) 정해년(1587)에 또 불이 나서 내탕금을 내어 크게 보수를 했으며 4년이 지난 신묘년(辛卯年)에 공사를 마쳤다. 전각은 2층으로 3개의 큰 불상과 4개의 중간 불상이 있는데 모두 원 순제(順帝)가 만들어 준 것이다. 순제 때 고려 출신 기씨녀(奇氏女)[주 1056]가 있었는데 뽑혀 황후가 되었으나 자식이 없었다. 황후가 말하기를 “저는 동쪽 사람입니다. 동국에 금강산이 있는데 산에는 장안사가 있습니다. 신승(神僧)이 창건했는데 기도를 하면 반드시 효험이 있다고 합니다. 반드시 후사를 구하고자 한다면 어찌 이곳에 기도를 하지 않겠습니까.”라고 했다. 이에 사신을 보내 절을 중수하고 불상을 조성하여 500명의 승려로 하여금 무진등(無盡燈)[주 1057]을 밝혀 이를 공양하게 했는데 뒤에 과연 자식을 얻었다. 무진등 또한 순제가 만들었다고 한다.
4일(무진). 비가 내렸다. 장차 장안사(長安寺)에 머물려고 했는데 저물녘 비가 그쳐 드디어 출발하여 다시 마하연으로 향했다. 1리를 가니 골짜기의 물이 흘러 폭포가 되었으며 폭포 아래는 못이 되었는데 못의 깊이는 예측할 수가 없다. 이것이 김동(金同)이 빠졌다는 울연(鬱淵)[주 1058]이라고 민간에서 전해온다. 폐허가 된 신림사(新林寺)를 지나 표훈사(表訓寺)에 도착해 묵었다.
5일(계사). 일찍 출발해 만폭(萬瀑)·보덕(普德)·사자(獅子)·마하(摩訶)·묘길상암(妙吉祥庵)을 거쳐 북쪽 골짜기를 좇아 들어갔다. 수풀과 골짜기를 뚫고 산기슭을 돌아 2개의 작은 재를 넘어 안문재(鴈門岾)에 이르렀다. 고개는 만폭동 여러 봉우리 보다 2,3배 높다. 유점사의 승려 6,7명이 가마를 가지고 기다리고 있고, 고성의 아전은 음식을 가지고 기다리고 있었다. 드디어 너럭바위 위에서 잠시 쉬었다가 갔다. 이때 검은 구름이 하늘을 가리더니 잠시 후 비가 내려 일행을 모두 적셨다. 여러 곳을 지나 개심대(開心臺)에 올라가서 내려와 대장동(大藏洞)에 이르렀다. 그 바위가 첩첩이 쌓여 마치 만권 책을 꽂은 것 같았기 때문에 이름이 붙여진 것이다. 아홉 개의 언덕을 오르고 두 고개를 넘어서 구정봉(九井峯)에 올랐다. 봉우리 끝에는 바위가 바둑돌을 쌓아놓은 것 같아 셀 수가 없다. 꼭대기에 오르자 바위 위에 아홉 개의 우물이 있는데 우묵한 구멍은 괴이하게 여길 만했다. 승려가 전하기를 “유점사를 창건할 때 아홉 마리의 용이 이곳에 살았는데 53구의 불상이 살 곳을 헌납하자 드디어 남쪽으로 옮겨 이 봉우리 정상에 이르러 각각 한 우물에 자리를 잡고 머물렀으며 얼마 안 되어 구룡연으로 옮겼습니다.”고 했다.
이때 큰 바람이 불자 동쪽으로 탁 틔어 맑아져 바다색이 그대로 드러나 아득히 만 리가 온통 푸른 유리 빛이다. 잠깐 사이 큰 안개로 어두워지자 지척을 분별할 수 없다. 조물주의 장난으로 만물상을 가려 감추어 두고 눈으로 유람할 수 없도록 하는 것 같다. 드디어 비를 무릅쓰고 돌아와 구정암(九井庵)·백운암(白雲庵) 등 폐허가 된 암자를 두루 거쳐 적멸암(寂滅庵)에 이르렀다. 승려 제기(齊己)가 있는데 사명대사의 제자였다. 우리를 맞이해 방으로 들어가 『사명집(四溟集)』 1권을 보여주는데, 그가 난리 때 종군했던 일을 설명한 것이 매우 자세했다.
7일(경오). 출발해 작은 고개 하나를 넘어 환희재(歡喜岾)에 올랐다. 고개 앞에 소인령(小人嶺)이 있는데 길은 산허리에서 나와 경사지고 험하고 가팔라 참으로 소인의 모습으로 가야만 했다. 또 10여리를 가서 발연(鉢淵)에 이르렀는데 못 주변 사방이 모두 경사진 절벽으로 미끄러워 사람이 감히 접근할 수 없다. 그 위를 평평하게 하고 아래를 줄여서 남쪽은 ‘엄(广)’자 모양이다. 골짜기 물이 흘러 폭포가 되고 연못이 되었는데 둥근 형태가 발우와 같다. 깊이는 4,5길이며 물은 그윽하고 캄캄한 것이 신물(神物)이 깊숙이 숨어 있어 그런 것 같다. 또 2리를 가서 치수암(馳水巖)에 이르자 바위의 양쪽 가는 모두 평평하여 100여인이 앉을 만 했다.
물은 가운데로 흘러 폭포가 되고 아래에서는 바위 소용돌이가 되었다. 승려들은 놀면서 반드시 폭포 위에서 땔나무를 꺾어 앉아서 흐르는 물을 따라 앉아서 달려가 기교가 있으면 물을 따라 순순히 내려오는데 서툴면 머리가 올랐다 내려갔다 했다. 그러나 바위가 미끄러워서 사람 상하는 데 까지는 이르지 않았다. 그런 까닭에 사람들이 그 놀이를 싫어하지 않았다. 내가 가마 메는 승려로 하여금 시험해 보도록 했다. 매우 익숙해 넘어지지는 않았는데, 마침 한 승려가 가로로 달려와 엎어져 내려가니 보는 사람이 포복절도를 했다. 30리를 가서 고성(高城) 해산정(海山亭)에 이르렀다.
7일(신미). 관찰사가 간성(杆城)으로부터 통천군에 들어왔다. 내가 감호(鑑湖)에서 기다리고 있었는데, 마침 정두원 영공(令公)이 와서 이야기를 매우 온화하게 나누다가 다 마치지 못하고 관찰사 심부름꾼이 연락을 해 와서 말을 달려 다다랐다. 관찰사는 이미 상운 찰방(祥雲察訪)과 호수에서 배를 타고 장차 출발하려고 했다. 배에 올라 차례대로 절을 했으며 술이 몇 잔 돌자 공명(空明)[주 1059]을 치면서 배가는 데로 놓아두고 금린어[주 1060]가 유영하는 모습을 완상하고 물가의 갈매기가 높이 날아 모이는 것을 즐기면서 흥이 다하자 떠났다. 현종암(懸鐘庵)에서 잠시 쉬고 석주(石舟)를 감상하면서 신선의 자취를 방문하고 저물녘 해산정으로 돌아왔다.
9일(계유). 관찰사를 모시고 삼일포(三日浦) 유람을 했는데 통천 군수, 흡곡[주 1061]현감, 상운 찰방이 따랐으며 고성 군수도 또한 함께 했다. 배 3척을 묶어 사자암(獅子巖)으로부터 사선정(四仙亭)에 이르렀다. 사선정으로부터 단서암(丹書巖)에 이르러 마음이 가는 곳을 따라서 자유롭게 가며 사방으로 이리 저리 바라보고 회포를 멋대로 달리니[주 1062] 매우 즐거웠다. 사선정 북쪽으로 호수를 넘어 바라보면 몽천사(夢泉寺) 옛터가 있다. 절이 폐사되지 않았을 때는 크고 작은 유람객들이 많이 머물며 숙박을 해 군의 폐단이 되어 군민들이 이를 괴롭게 여겨 불을 질렀다.
사자바위는 모습이 사자와 같았다. 사선정은 사선이 놀았던 곳이다. 사선은 신라 때 안상(安祥)·영랑(永郞)·수랑(水郞)·남석(南石) 네 사람이다. 단서암(丹書巖)에 기록된 수랑도(水郞徒)와 남석행(南石行)이 이것이다. 바위 면의 붉은 글자는 지금도 뚜렷했다. 곁에 있는 바위에 시를 새겨 바위 구멍에 감추어 놓았는데 허백정(虛白亭) 홍귀달(洪貴達)의 시였다. 대개 이곳에 머리를 묶어 올린 듯한 산봉우리들이 빙 둘러져 있는 것이 36봉인데 기이한 경치는 관동팔경 중 으뜸이라고 할 수 있다.
10일(갑술). 관찰사가 발연으로 행차를 하자 나도 또한 따랐는데 옥여(沃余)[주 1063]와 진백(振伯)의 부탁이다. 오후에 진백과 계곡을 거슬러 가서 한 바위에 이르렀다. 또 양봉래(楊蓬萊)가 쓴 큰 글자 3자가 있는데 ‘봉래도(蓬萊島)’ 였다. 잠시 후 관찰사가 돌아오자 일행이 모두 이를 따랐다.
11일(을해). 관찰사는 산중으로 들어가고 나는 간성을 출발했다. 진백과 사과(司果) 황탁(黃琢)[주 1064]이 함께 했다. 태강역(太康驛)에서 점심을 먹고 정 도사(都事)를 송림에서 만나 잠시 대화를 나누었다. 명파역(明波驛)에서 잠시 쉬었다. 오후에 비가 내렸으나 이를 무릅쓰고 열산현(烈山縣)에 이르러 묵었다.
12일(병자). 아침을 먹고 가서 간성 경계에 이르렀다.
14일(무인). 객사에 도착하자 고을 원이 나와 기다린 것이 오래 되었다. 저녁에 또 상운역의 유객당(留客堂)에 머물렀다.
15일(기묘). 새벽에 거센 바람과 폭우로 곡식이 모두 넘어지고 사람도 나갈 수 없었다. 늦게 거치자 채찍을 휘둘러 남으로 가서 동산에서 점심을 먹고 저녁에는 연곡(蓮谷)에서 숙박을 했다.
16일(경진). 김헌납(金獻納)에게 인사를 하고 곧 강문교(江門橋)로 달려가 경포에서 배를 타고 초당에서 조금 쉬었다. 헌납이 양주로 간다는 말을 듣고 노를 재촉해 나아가 오랜 시간 이야기를 했다. 오후에 배에서 밥을 먹고 말을 달려 강릉부로 갔다. 도중에 김참의(金參議)와 원외(員外) 홍공서(洪公恕)를 방문했는데, 고을 원의 일가이다. 마침 관아에서 오는 길로 곧 와서 보았는데 고을 원 또한 이르러 오랫동안 이야기를 나누었다.
17일(신사). 부사를 동원으로 방문했는데 공서도 함께 했다. 김예안(金禮安)이 와서 이야기를 나누었다.
21일(을유). 늦게 부사에게 인사를 하고 저물어 구산서원(丘山書院)[주 1065]
에서 숙박을 했다.
22일(병술). 일찍 출발해 큰 고개를 넘어 횡계(橫溪)에서 점심을 먹고 저녁에는 진부역(珍富驛)에서 묵었다.
23일(정해). 태화역(太和驛)에서 점심을 먹는데 비가 내려 쏟아 붓는 것 같았다. 비를 무릅쓰고 출발하여 이현(梨峴)을 넘어 주진(注津)을 건너 저물어 평창군(平昌郡)에 투숙했다.
25일(기축). 출발해 말로 초요고개를 넘어 주천현(酒泉縣)에 도착했다.
26일(경인). 일찍 출발하여 신림(新林)에서 점심을 먹고 초천(椒泉)에 이르렀다. 관찰사가 이미 먼저 목욕을 했으며, 저녁에 관찰사와 물러나와 1리 남짓 떨어진 촌집에서 숙박을 했다.
27일(신묘). 관찰사와 함께 초천에 나가 목욕을 하고 말을 달려 읍내로 들어가니 날이 이미 저물었다.
28일(임진). 내가 약관 때부터 교도관(敎導官) 부군(府君)의 묘소가 원주에 있는데 난리를 겪은 후 소재를 알지 못한다고 들었다. 원주의 경계에 도착해서 부터 종당(宗黨) 중에 원주에 있는 사람을 찾았으나 모두 세상을 떠났고 오직 외가 쪽 약간 명이 있는데 외가 쪽 사람 중 참봉(參奉) 고현(高峴)이 나이가 70여 세이다.
내가 순회하여 주천(酒泉)에 도착하자 고씨가 왔는데 만나 문중의 옛일에 대해 이야기하는데 매우 상세했다. 또 말하기를 “옛날에 도사 김복일(金復一)이 영중(嶺中)으로부터 외선조묘에 제사를 지내고 갔는데 이때 여러 신씨들이 모두 모여 묘소가 어디 있는지 물었습니다.”라고 했다. 고씨는 알지 못했다. 나는 관가에 있는 늙은 아전에게 물어볼 만하다고 생각하여 관아에 들어가 물어보니 역시 알지 못했다. 전 참봉 유충당(柳忠戇)이 박식하다고 이름이 나있어 가서 물어보니 과연 고씨의 말과 같았다. 제수를 신응번(申應繁)의 집에서 마련했다고 했는데, 지금 응번의 부자는 모두 세상을 떠나 물어볼 곳이 없었다.
늙은 아전에게 물어보니 신열(申悅)의 집 옛날 사내종은 거의 알 것이라고 했다. 걸음 빠른 사람을 달려가게 해서 찾으니 신열 또한 죽었다. 그의 집 늙은 노비의 이름은 필운(必運)인데 나이가 80여세이다. 그는 자식으로 하여금 어떤 언덕을 가리키게 하여 이 곳이라고 했다. 수로 하여금 가서 살펴보게 하니 과연 봉분이 있었다. 곧 가서 이를 살펴보니 묘는 원주 동쪽 3,4리 대황당동(大荒堂洞) 신좌에 있는데 부부가 합장되어 있다. 앞에 조그마한 비석을 세웠는데 ‘교도관 신공 모의 묘소(敎導官申公某墓)’라고 했다. 대개 이 산은 멀리 치악으로부터 떨쳐 와서 남쪽에서 일어나 용호(龍虎)가 단정(端正)하여 명당이 그림과 같다. 지금 제사는 비록 끊어졌지만 또한 황폐한데까지는 아직 이르지 않았으니 다행이다.
정미일(丁未日)에 횡성으로부터 제수를 마련해 전헌례(奠獻禮)를 봉행했는데, 이때 진사 최산휘(崔山輝)[주 1066]가 관찰사의 아들로서 감영에 있고, 진사 김휴(金烋)[주 1067]가 또한 문과 급제자로서 이르렀다. 두 사람은 모두 공의 외손이다. 함께 나아가 제사를 지내려고 헌작을 준비하는데, 또 최군의 아들 여박(如博)과 묘소 아래 외손인 홍세걸(洪世傑), 원개(元愷), 원극록(元克祿), 홍봉성(洪奉誠) 등 4,5명이 동참을 했다. 아! 영외내(嶺外內) 모든 자손이 많지 않는 것은 아니지만 지금에 비로소 부군의 묘소를 찾아 참배를 했고 또 우리 세 사람은 약속도 하지 않았는데 만나서 조상의 묘사(墓祀)를 봉행하는 마음을 펼쳤으니 어찌 우연이겠는가.
8월 18일(신해). 말을 달려 흥원(興原)에 도착하여 숙박을 했는데 서평부원군(西平府院君)[주 1068] 상구(喪柩)[주 1069]가 장차 산소에 이르기 때문이다.
19일(임자). 배를 타고 산소에 이르러 목사와 평창(平昌) 영월(寧越) 홍천(洪川) 고을 원과 종일토록 이야기를 했다. 이날 가서 예장관(禮葬官)을 보았는데 함양(咸陽) 정홍서(鄭弘緖)[주 1070]였다.
20일(계축). 늦게 강천(江川)가를 나와 상구를 기다렸는데 오후에 이르렀다. 대전 중사(大殿中使) 중전중사(中殿中使) 등이 호위해서 왔다. 영연(靈筵)[주 1071]에 들어가 곡을 하고 대전과 중전의 중사에게 인사를 했다.
21일(갑인). 주내로 돌아왔다.
9월 3일(병인). 서평부원군 산소로 향했는데, 서평부원군의 제사를 봉행하기 때문이다.
4일(정묘). 영연에 들어가 제사를 봉행하고 부사와 더불어 중사에게 술을 권했다.
5일(무진). 주내로 돌아왔다.
13일(병자). 부사가 음악을 들려주면서 나와 전별했다.
14일(정축). 홍동지(洪同知)·최별좌(崔別坐)·이이성(李利城)이 술로써 전별했다. 어두워지자 관찰사가 나를 부사의 방에서 전별을 했는데 지극히 즐거워하며 파했다.
15일(무인). 체직하고 남쪽으로 돌아왔다.

******************************
[ 번역주 ]
1011) 이 자료의 번역은 한국문집총간 속20책에 실린 신즙의 『하음집(河陰集)』 「유금강록(遊金剛錄)」를 저본으로 삼았다. 이 저본은 성균관대학교 존경각 소장본으로 1835년 간행되었다. 「유금강록(遊金剛錄)」은 작자가 강원도사로 재임할 때 지은 「관동록(關東錄)」의 일부분으로 1627년 6월부터 9월까지 금강산을 유람하고 지은 글이다.
1012) 정두원(鄭斗源) : 1581-?. 자는 정숙(丁叔), 호는 호정(壺亭). 본관은 광주(光州)이다. 1612년 생원시에 합격, 1616년 문과에 급제하고, 벼슬은 지중추부사에 이르렀다.
1013) 게방사(憇房寺) : 유점사 53불이 월저국(月氐國)으로부터 종을 타고 바다에 떠와서 안창현 포구에 도착했을 때 고을의 수령 노춘(盧偆)이 관속을 거느리고 가보니 작은 발자국들이 진흙 위에 있는 것이 보였으며, 나뭇가지가 모두 산 서쪽으로 쓰러지고 또 종을 달고 쉰 곳이 있었다. 산 아래 와서 부처가 쉰 곳을 게방(憩房)이라고 했다. 이곳에 지은 절이 게방사이다.
1014) 백천교(百川橋) : 외금강 유점가 계곡 입구에 있는 다리이다. 조선시대에 금강산 유람객들은 대체로 장안사 만천교를 통해 내금강으로 들어와 백천교를 통해 외금강으로 나가는 여정을 많이 선택했다.
1015) 가교(駕轎) : 말 두 마리가 각각 앞뒤에서 채를 메고 가는 가마를 일컫는다.
1016) 김수온(金守溫) : 1410-1481. 자는 문량(文良), 호는 괴애(乖崖)·식우(拭疣), 본관은 영동(永同)이다. 1464년 지중추부사·공조 판서를 역임하였다. 1471년 좌리공신(佐理功臣) 4등에 책록, 영산부원군(永山府院君)에 봉해졌다. 세종 때 수양대군·안평대군이 존경하던 고승 신미(信眉)의 동생으로 불경에 통달하고 제자백가(諸子百家)·육경(六經)에 해박해 뒤에 세조의 총애를 받았다. 특히, 시문에 뛰어나 명나라에까지 알려졌다.
1017) 정란종(鄭蘭宗) : 1433-1489. 자는 국형(國馨), 호는 허백당(虛白堂). 본관은 동래(東萊)이다. 평안도병마절도사·우참찬·이조 판서·공조 판서·호조 판서를 역임하였다. 서예에도 일가를 이루어 특히 조맹부체(趙孟頫體)에 뛰어났다. 금문으로 양양의 「낙산사종명(洛山寺鐘銘)」, 고성의 「유점사종명(楡岾寺鐘銘)」 등이 있다.
1018) 청련(靑蓮) : 서산대사의 제자인 자휴(自休)의 법명이다. 화엄사 인근 청련암(靑蓮庵)에서 살았다. 서산대사가 열반하자 유정(唯政) 등과 정골(頂骨) 1편과 사리를 금강산으로 모시고 가서 서산대사가 거처했던 백화암 뒤편에 공정을 기리는 비와 함께 부도를 세워 봉안했다.
1019) 홀연히 바람을 타고 올라가 : 소식(蘇軾) 의 적벽부(赤壁賦)에 “넓은 허공에 바람을 탄 것 같아, 그 머무를 바를 몰랐고, 가벼이 떠서 속세를 떠나 홀로 서있는 듯 시선이 되어서 하늘로 오르는 것 같았다.[浩浩乎如馮虛御風, 而不知其所止, 飄飄乎如遺世獨立, 羽化而登仙]”라는 구절이 있다.
1020) 이포새(伊蒲塞) : 불교 용어로 오계(五戒)를 받은 남자 중을 말한다.
1021) 나는……주었다 : 『하음집(河陰集)』 권2에 「법견대사에게 주다(贈堅師)」라는 시가 있는데, 내용은 다음과 같다. “대사의 법문을 강단에서 들으니 60년 동안 산에서 나오지 않았네 속세의 수고로움은 다른 날 꿈같고 덧없는 인생 조금 한가한 틈 얻었네 유가와 불가 세세하게 나눠 이야기 말고 한 마음으로 서로를 허여하세 이별 후 진정으로 서로의 경전을 공부해 장차 마음에 가득 담아 인간 세상을 향했으면.[聞師講法雨花壇 六十年來不出山 塵世幾勞他日夢 浮生聊得片時閒 休論儒釋分千逕 只許心肝會一般 別後丁寧攻玉戒 擬將稛載向人間]”
1022) 비로봉(毗盧峰) : 강원도 금강군과 고성군 사이에 있는 금강산의 주봉(主峰)이다. 동쪽으로는 여러 봉우리들에 둘러싸여 있으며, 서쪽은 비교적 평탄한 면이고, 동쪽과 남쪽은 절벽을 이루고 있다. ‘비로’는 불교용어 ‘비로자나(毗盧遮那)’에서 왔으며, 산스크리트어로 태양이라는 뜻으로 석가모니를 가리키는 말이다.
1023) 거빈굴(巨彬窟) : 반야암 동쪽 1리에 있다. 암자 동쪽에 한 나무가 있는데 승려들이 계수나무라고 말한다.
1024) 담무갈봉(曇無竭峯) : 마하연 남쪽 혈망봉 아래에 있다. 봉우리와 산이 기이하고 빼어나다.
1025) 指空(지공) : ?-1363. 인도 승려이다. 1328년에 우리나라에 와서 금강산 법기도량(法起道場)에 예배를 했다. 고려에서 불법을 펴고 왕사(王師)가 되었으며, 고려의 혜근(慧勤)에게 선종(禪宗)을 전수하였다.
1026) 감관(監官) : 조선시대에 각 관청과 궁방(宮房)에서 회계를 맡아보던 사람. (조정을 대신하여 특정업무의 진행을 감독하기도 하였다. 이들은 맡은 일에 따라 호칭도 달라, 각 지방의 곡식을 서울로 운반할 때 색리(色吏)와 함께 배를 타는 감관을 영선 감관(領船監官), 곡식을 바치는 일을 관리하던 감관을 봉상 감관(捧上監官)이라고 하였다.
1027) 수직(守直) : 물건이나 건물을 맡아 지키는 사람을 말한다.
1028) 영리(營吏) : 조선 시대, 감영이나 군영, 수영 따위에 딸려 있던 아전을 말한다.
1029) 마두(馬頭) : 역마(驛馬)에 관한 일을 맡아보던 사람을 말한다.
1030) 지인(知印) : 조선 시대 지방관의 관인을 보관하고 날인의 일을 맡던 토관직을 말한다.
1031) 향로봉(香爐峰) : 크고 작은 두 개의 봉우리가 있다. 마하연 서남쪽 담무갈봉 아래에 있다. 모양이 향로와 같아 향로봉이라고 한다.
1032) 석중도인……오월이다. : 우복(愚伏) 정경세(鄭經世, 1563-1633)가 1614년(광해6) 5월 금강산을 유람하다가 사자암에 들러 남긴 글이다. 석중도인(石潨道人)과 승성자(乘成子)는 우복의 호이다. 심(杺)과 학(㰒)은 우복의 장자와 차자이다. 임영(臨瀛)은 강릉의 옛 이름이다. 김충각(金忠愨)과 권칭(權偁)은 누군지 밝혀지지 않았다.
1033) 호종단(胡宗旦) : 남당(南唐)의 멸망과 송나라 건국의 교체 시기의 사람으로 복주(福州) 출신이다. 태학(太學)에서 학문을 익히고 지역을 떠돌다 상선(商船)을 타고 고려에 들어왔다. 잡예(雜藝)에도 능하였으며, 예종이 총애하여 보문각 대제(寳文閣待制)가 되었고, 인종 때에는 기거사인(起居舍人)을 지냈다. 전역을 돌아다니며 비석이나 유명한 종 등을 파괴하고 한반도의 혈맥을 끊는 행위를 하였다. 원래는 ‘胡宗旦’인데 ‘旦’자가 조선 태조의 이름이므로 휘(諱)하여 조(朝)자를 썼다.
1034) 강담(姜紞) : 1559-1637. 자는 문경(文卿), 호는 난곡(蘭谷), 본관은 진주이다. 체찰사 서애 류성룡의 종사관을 지냈으며, 1611년 통천 군수를 지냈다.
1035) 조즙(趙濈) : 1568-?. 자는 덕화(德和), 호는 화천(花川), 본관은 풍양(豊壤)이다. 양양 부사를 지냈다.
1036) 조우인(曺友仁) : 1561-1625. 본관 창녕(昌寧). 자 여익(汝益). 호 매호(梅湖)이다. 1613년 은계도 찰방(銀溪道察訪)이 되었다.
1037) 이분(李芬) : 1566-1619. 자는 형보(馨甫), 호는 묵헌(默軒), 본관은 덕수(德水)이다. 충무공 이순신(李舜臣)의 조카이다. 1617년 강원·경상 조도사(江原慶尙調度使)의 종사관(從事官)이었다.
1038) 김세렴(金世濂) : 1593-1646. 자는 도원(道源), 호는 동명(東溟), 본관은 선산(善山)이다. 아버지 극건(克鍵)은 통천 군수를 지냈다.
1039) 김상적(金尙績) : 호는 위촌(渭村)이다. 본관은 강릉(江陵)이다. 청간공(淸簡公) 김시습(金時習)의 후손으로 1626년 은계도 찰방(銀溪道察訪)이 되었다.
1040) 오행건(吳行健) : 자는 여강(汝强), 본관은 보성(寶城), 청주 출신이다. 1612년에 식년시 문과에 급제하여 강원 도사를 지냈다. 광해군 때에는 벼슬에서 물러나 있다가 인조반정 이후 서궁 인목대비(仁穆大妃)가 병조 정랑에 제수되자 다시 벼슬길로 나갔다.
1041) 보덕굴(普德窟) : 강원도 내금강에 있는 자연굴이다. 고구려의 승려 보덕(普德)이 여기에 사찰을 열었고, 이후 고려의 승려 회정(懷正)이 증축하였다.
1042) 보덕(普德) : 고구려 때 승려로 열반종의 개조이다. 자는 지법(智法)이다. 평안도 용강현(龍岡縣) 출신이다. 보장왕이 중국으로부터 도교(道敎)를 구하여 오므로 나라가 장차 망할 줄 알고, 백제의 완산주 고대산으로 그의 방장(方丈)을 옮겨 제자를 길렀으니 명덕·무상·적멸·의융·지수·일승·수정·사대·개원·개심·보명 등이 드러났다.
1043) 약사전(藥師殿) : 고려 충숙왕 13년 왕사 조형(祖衡) 왕명을 받들어 중수를 했다.
1044) 발원(發願) : 원구(願求)하는 마음을 드러내는 것으로 신이나 부처에게 소원을 비는 것을 말한다.
1045) 오도자(吳道子) : ?-758. 성당(盛唐)시대의 민간인 화가이다. 궁정화가와 다르게 주로 그린 그림이 절의 벽화였고, 이름도 거의 알려지지 않았다. 현종 때 활약한 화가이다. 민간에서는 그의 명성이 자자해진 후에 궁정에 불려갔다 그는 궁정화가들이 그린 그림처럼 엄숙하지 않고, 자유로웠다. 오도자의 그림에서 선(線)의 생동감이 그의 특징이다. 힘과 생동감이 있는 그의 그림을 오대당풍(吳帶唐風)이라고 불렀다. 화성(畵聖)이라고 한다.
1046) 비로봉(毗盧峰) : 강원도 금강군과 고성군 사이에 있는 금강산의 주봉(主峰)이다. 동쪽으로는 여러 봉우리들에 둘러싸여 있으며, 서쪽은 비교적 평탄한 면이고, 동쪽과 남쪽은 절벽을 이루고 있다. ‘비로’는 불교용어 ‘비로자나(毗盧遮那)’에서 왔으며, 산스크리트어로 태양이라는 뜻으로 석가모니를 가리키는 말이다.
1047) 불원복(不遠復) : 멀리 가지 않고 되돌아온다는 뜻으로, 잘못을 깨닫고서 금세 바른길로 들어서는 것을 말한다. 『주역』 「복괘(復卦) 초구(初九)」에 “멀지 않아서 되돌아오니, 후회하는 일이 없을 것이요, 크게 좋을 것이다.[不遠復 无祗悔 元吉]”라는 말이 나온다.
1048) 서자(書者) : 각 역(驛)의 벼슬아치 밑에서 서기(書記) 따위의 잡일을 하던 사람.
1049) 추지령(湫池嶺) : 회양부의 동북쪽 60리에 있고 통천의 경계에 접하고 있다.
1050) 넓은 허공에……듯하다 : 소동파(蘇東坡)의 「적벽부(赤壁賦)」에 “넓고 넓어서 허공 바람을 타고, 그 멈추는 곳을 모른다. 표표히 세상을 버리고 나 홀로 서서, 날개가 돋아 신선이 되어 올라가는 듯하였다. [浩浩乎如 憑虛御風, 而不知所止, 飄飄乎如 遺世獨立, 羽化而登仙]”라는 구절이 있다.
1051) 비로봉(毗盧峰) : 강원도 금강군과 고성군 사이에 있는 금강산의 주봉(主峰)이다. 동쪽으로는 여러 봉우리들에 둘러싸여 있으며, 서쪽은 비교적 평탄한 면이고, 동쪽과 남쪽은 절벽을 이루고 있다. ‘비로’는 불교용어 ‘비로자나(毗盧遮那)’에서 왔으며, 산스크리트어로 태양이라는 뜻으로 석가모니를 가리키는 말이다.
1052) 허옥여(許沃汝) : 옥여(沃余)는 허계(許啓)의 자이다. 허계(1594-?)의 호는 성암(醒菴), 본관은 양천(陽川)이다. 1624년(인조 2) 호조 좌랑으로서 증광문과에 병과로, 1636년 중시문과에 병과로 급제, 1637년 우승지·경기도 관찰사, 1642년 동지중추부사가 되었다. 이해에 이경여(李敬輿)·이명한(李明漢)·신익성(申翊聖)·신익전(申翊全) 등과 함께 청나라의 연호를 사용하지 않은 사건, 즉 오신죄안(五臣罪案)에 연좌되어 심양(瀋陽)에 잡혀가 심문을 받고 관직을 삭탈당한 뒤 이듬해 귀국하였다. 귀국 후 도승지가 되고, 호조·병조·예조의 참판 등을 역임하였다.
1053) 장안사(長安寺) : 강원도 회양군 장연리 금강산 장경봉(長慶峯) 아래에 있는 절이다. 신라 법흥왕(514~539) 때에 창건했다는 설과 551년(양원왕7) 고구려 승려인 혜량(惠亮)이 창건했다는 설이 있다.
1054) 진생간자(眞栍簡子) : 미륵보살의 수계(受戒)를 의미하는 징표이다. 진표가 받은 간자는 미륵보살의 손가락 뼈라고 전한다.
1055) 윤장(輪藏) : 경전을 넣은 책장에 축을 달아 회전하도록 만든 책장으로 윤장대(輪藏臺)라고도 한다.
1056) 기씨녀(奇氏女) : 원나라 혜종의 황후를 가리킨다.
1057) 무진등(無盡燈) : 하나의 등불이 수없이 많은 등불을 켜는 불씨가 된다는 뜻으로, 불법이 잇달아 전파되어 다함이 없음을 비유적으로 이르는 말이다.
1058) 울연(鬱淵) : 금강산의 내금강에 위치한 연못이다. 명담(鳴潭)・명연(鳴淵) 또는 물소리가 사람의 울음소리와 비슷하다고 하여 울소라고도 하며, 김동이 빠져죽은 곳이라 하여 김동연(金同淵)이라고도 한다.
1059) 공명(空明) : 달빛이 물에 비치어 텅 비고도 밝은 모습을 형용한 것이다. 소동파(蘇東坡)의 『적벽부(赤壁賦)』에 “계수나무 노와 목란 상앗대로 공명을 치며 물결을 거슬러 오른다.[桂棹兮蘭槳 擊空明兮泝流光]” 라는 구절이 있다.
1060) 금린어(錦鱗魚) : 쏘가리 일종.
1061) 흡곡(歙谷) : 고려시대 강원도 통천군 일대에 있던 지역의 옛 이름이다.
1062) 사방으로……달리니 : 왕희지(王羲之)가 지은 난정기(蘭亭記)에 “사방으로 이리 저리 바라보고 회포를 멋대로 달려 눈과 귀의 즐거움을 지극히 할 수 있어 참으로 즐길 만하였다.[所以遊目騁懷 足以極視聽之娛 信可樂也]”라는 구절이 있다.
1063) 옥여(沃余) : 허계(許啓, 1594-?)의 자이다. 허계의 호(號)는 성우(醒愚)이다.1636년 문과중시(文科重試)에 병과(丙科)로 각각 급제, 이듬해 우승지(右承旨)가 되고, 경기도 관찰사(京畿道觀察使)로 나갔다가 1642년 동지중추부사(同知中樞府事)가 되었다. 이듬해 도승지(都承旨)에 이어 호조·병조·예조의 참판(參判)을 역임했다.
1064) 황탁(黃琢) : 문무(文武)를 구비하고 율곡(栗谷) 이이(李珥)의 문하에서 수업을 받았다. 임진왜란 때 붓을 던지고 무과에 급제하였는데, 3번이나 선전관을 제수하였으나 끝내 응하지 않았다.
1065) 구산서원(丘山書院) : 함헌(咸軒, 1508~?)이 서장관(書狀官)으로 명나라에 가서 공자상을 가지고 돌아와 고향인 강릉에 구산서원(丘山書院)을 창건했다.
1066) 최산휘(崔山輝) : 1585-1637. 자는 백옥(伯玉), 낙남(洛南), 시호는 효헌(孝憲). 본관은 전주(全州)이다. 아버지는 관찰사 현(睍)이며, 어머니는 의성김씨(義城金氏)로 창원 부사 복일(復一)의 딸이다. 청송부사로서 선정을 베풀었다.
1067) 김휴(金烋) : 1597-1638. 자는 자미(子美), 호는 경와(敬窩), 본관은 의성(義城)이다. 여헌(旅軒) 장현광(張顯光)의 문인이다. 1627년 사마시에 합격하였으나 벼슬길에 나가지 않고 오로지 성리학의 연구에만 힘썼다. 그 뒤 조경(趙絅)의 간곡한 권유와 천거로 강릉 참봉에 임명되었다.
1068) 서평부원군(西平府院君) : 한준겸(韓浚謙, 1557-1627)을 말한다. 자는 익지(益之), 호는 유천(柳川), 본관은 청주(淸州)이다. 선조로부터 영창대군(永昌大君)의 보필을 부탁받은 유교칠신(遺敎七臣)의 한 사람으로 1613년 계축옥사에 연루되어 유배를 당했다. 1623년 인조반정으로 그의 딸이 인열왕후(仁烈王后)로 책봉되자 영돈녕부사로 서평부원군(西平府院君)에 봉해졌다.
1069) 상구(喪柩) : 유골이 든 관을 말한다.
1070) 정홍서(鄭弘緖) : 1571-1648. 자는 극승(克承), 호는 송탄(松灘)이다. 일두 정여창의 현손으로 한강 정구의 문인이다. 1628년 문과 별시에 급제하여 성균관 학정에 올랐으며, 학문으로 이름이 드러났다. 함양 남계서원 별사에 제향 되었다.
1071) 영연(靈筵) : 혼백이나 신위(神位)를 모신 자리와 그에 딸린 물건들을 가리킨다.

 

다음검색


다음검색
현재 게시글 추가 기능 열기

댓글

댓글 리스트
  • 작성자石山(申恒烈) 작성자 본인 여부 작성자 | 작성시간 19.01.16 원주 교도공 연남제 묘를 찾은 기록이 있음.
댓글 전체보기
맨위로

카페 검색

카페 검색어 입력폼