中国のスパイ活動に揺れる英国=福永方人・ロンドン支局長
毎日新聞2026/6/21 東京朝刊有料記事2268文字
在英中国大使館の移転に抗議する人々=ロンドンで1月18日、ロイター
<Sunday Column>
広い前庭は雑草が伸び、敷地を囲む塀にはスプレーの落書きが目立つ。ロンドン中心部の観光名所「ロンドン塔」の向かいにある旧王立造幣局跡地。中国大使館が移転予定のこの場所は、英国のジレンマを象徴していると言える。
大使館移転計画を巡って英政府は、スパイ活動の拠点になりかねないとの懸念から可否の判断をたびたび延期した末、1月に承認。直後にスターマー首相は英首相として8年ぶりの訪中に踏みきり、習近平国家主席と会談した。
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国家安全保障を守りながら、経済のテコ入れのために対中関係を改善する――。スターマー政権はそんな綱渡りを強いられている。
香港民主派ら標的
英国ではロシアに加え、中国によるスパイ活動の脅威が顕在化している。
中央刑事裁判所は5月7日、英国を拠点とする香港の民主活動家を監視していたなどとして、英国と中国の国籍を持つ男2人に有罪判決を言い渡した。英国で初めて中国のスパイが有罪となった事件。警察の資料などから、2人を含むスパイグループの大胆な犯行が明らかになった。
「開けてもらえますか。水漏れを調べないといけないので」
男はそう言って集合住宅の玄関ドアをノックしながら、ペットボトルに入った水を床にまく。漏水を装い、修理作業員になりすまして住人の女性をおびき出そうとした。
これは2024年5月1日、英中部ポンテフラクトの女性宅でスパイグループ9人が逮捕される直前の場面だ。男が自らボディーカメラで撮影した動画に映っていた。グループは香港から移住したこの女性の部屋に押し入ったところで、彼らの動きを追っていた警察官に逮捕された。
有罪判決を受けたのは、9人のうちの1人で英国境警備隊の元職員、ピーター・ワイ(41)と、後に逮捕された在ロンドンの香港経済貿易代表部幹部、ビル・ユエン(66)の両被告だ。
21年ごろから、香港の要請を受けたユエン被告が、英国にいる民主活動家の監視などをワイ被告らに指示。ワイ被告は民主活動家の情報収集のために、国境警備隊職員の立場を利用して内務省のデータベースにも不正にアクセスしていた。
香港では反政府的な言動を取り締まる香港国家安全維持法(国安法)が20年6月に施行されて以降、民主活動家らが次々と拘束・起訴された。香港と中国の当局は標的を在外香港人にも広げている。
影響力拡大が目的
中国のスパイ活動は西側諸国とは異なる特徴を持つといわれる。どんな違いがあるのか。安全保障と情報活動の専門家であるバッキンガム大のアンソニー・グリーズ名誉教授に解説を求めた。「英国などの情報活動の目的は外部からの侵略や干渉から自国を守ることだが、中国の情報活動は攻撃的で、他国における影響力の拡大を目指している」
陣容にも大きな差がある。英メディアなどによると、中国には国務院(政府)の国家安全省と公安省、中央軍事委員会の連合参謀部情報局、共産党中央統一戦線工作部と四つの情報機関がある。4機関で推計約60万人を抱え、情報機関の人員は世界最多といわれる。
英国の秘密情報部(MI6)や情報局保安部(MI5)などの情報機関の職員数は24年時点で約2万3000人。米中央情報局(CIA)は、元職員のスノーデン氏が13年に暴露した文書によると約2万2000人(当時)。中国のスパイ態勢の規模はまさに桁違いだ。
また、グリーズ氏は「中国は情報活動の対象国についてあらゆることを知ろうとする」とも指摘する。英国からはサイバー技術や兵器開発能力のほか、連携するウクライナのドローン技術や戦場での人工知能(AI)活用に関する情報などを得ようとしているという。
そのために中国が利用するのは、ビジネス向けのソーシャルメディア「LinkedIn(リンクトイン)」だ。工作員が企業の採用担当者を装って政府や軍の関係者らに接触し機密情報の入手を試みているとみられ、MI5などが今月3日に改めて警告した。
大使館移転承認に警鐘
英国はキャメロン政権(10~16年)時代、経済優先で中国との関係を深め、「黄金時代」とまで言われた。だがその後、旧植民地の香港での民主派弾圧や新疆ウイグル自治区の人権問題を巡ってこじれ、「氷河期」が続いた。
英経済が低成長にあえぐ中、スターマー政権は世界第2位の経済大国を「無視できない」として再接近する。一方で中国のスパイ活動に対しては、妥協せずに厳しく対処すると強調している。
だが、中国のためにスパイ行為をしたとされる元英議会調査員ら2人の起訴が、スターマー政権が中国を国家安全保障上の脅威だと示す証拠を提出しなかったため昨年9月に取り下げられたことなどもあり、「対中融和」のリスクへの危惧は消えない。
そうした中、移転後の中国大使館は敷地面積が約2万平方メートルで欧州最大となる見込みだ。地下にはロンドンの金融街を結び、機密性が高いデータを送受信する光ファイバーケーブルが通る。
「光ファイバー通信網へのアクセスが可能な場所であることに加え、大使館が巨大化すれば情報収集のための人間関係を築く能力も大幅に向上する可能性が高い。欧州全体を対象とする情報収集活動の拠点になりうる」。グリーズ氏はそう警鐘を鳴らした上で、「移転承認は狂気の沙汰だ」と断じる。
中国は「相手の隙(すき)や脆弱(ぜいじゃく)性に水のように流れ込む」(英王立防衛安全保障研究所)ともいわれる。そんな「スパイ大国」と「スパイ王国」の攻防が本格化すれば、関係改善に暗雲が垂れこめかねない。
