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2020年度

09月06日 ヨハネの黙示録2:12-17 ペルガモン教会1

작성자김용민|작성시간20.09.06|조회수245 목록 댓글 0

アメリカはキリスト教の信仰を持ちやすい環境である反面、日本はキリスト教の信仰を持ちにくい環境です。 周りを見ると韓国では教会に通いましたが、あるいはキリスト教の家庭で育ったのに、日本に来て信仰生活をしない人がいると思います。 アメリカの場合はキリスト教の信仰が持てない日本の方もアメリカに行ってキリスト教の信仰を持つことが多いですね。 メッシーヤというマンガを描いた方が日本の方で、この方もアメリカでイエスに会ってクリスチャンになり、自分の才能を生かしてメッシーヤというマンガを描きました。 韓国も今は信じない人たちから悪口を言われていますがキリスト教信仰を持つ機会が多い国です。 「牧師になった僧侶」という本を書いた方は、有名なお寺の住職になるために韓国の仏教大学院に留学しましたが、クリスチャンになって牧師になりました。 このように韓国やアメリカはキリスト教の信仰を持つ可能性が高い国だと言えますが、日本はキリスト教の信仰を持つ可能性が低い国であるだけでなく、信仰を失う可能性が高い国だと言えるでしょう。 それにもかかわらず日本で神様に会い、神様の民になることは奇跡の中の奇跡であり、恵みの中の恵みです。 キリスト教の信仰が持ちづらく、持っている信仰が失われやすいところが、今日の本文の中に出てくるペルガモンです。

今日は、7つの教会の中で3番目に紹介している、ペルガモンの教会について見ていこうと思います。 使徒ヨハネはバトモスの島で閉じ込められていました。 神様が七つの教会に手紙を書かせました。 この七つはサンプリングされたものだと話しました。 黙示録を記された時代にある教会だけでなく、その後に来るすべての世代にある教会へのメッセージです。 教会一つ一つを話す時、7つの教会がそれぞれ持っている長所と問題点を指摘しながら、再び神の御言葉で立つことが出来る様に語られています。 まず最初に言及された教会がエフェソ教会です。 そして2番目に言及された教会がスミルナ教会です。 

この7つの教会があった各都市には、自分たちがメインの神として仕える神々は違っていましたが、多くの神殿がありました。 エフェソの特徴は最大の港がある都市で、貿易で経済活動が活発なところでした。 スミルナにも港があったし、小アジアで一番美しい都市でした。 スミルナというのは、豊かで人生の趣がある所だと言えるでしょう。 ペルガモンはエフェソやスミルナの経済活動とは比較できませんでしたが、文化の中心地だと言えます。 図書館がありましたが、その図書館には20万冊以上の羊皮、つまり羊革の巻物がありました。 当代で最も有名な図書館を挙げると、アレクサンドリアにある図書館です。 ペルガモンにある図書館は、アレクサンドリア図書館に次ぐ図書館でした。

ペルガモンはギリシアの生活様式とギリシアの神を崇拝しました。 特にアクレピオスを崇拝をしました。 アスクレピオスは、ペルガモンの神として知られるほどでした。 当代の人々が誓いをした時、エフェソにあるアデミの名前で、デルフィのアポロの名前で、ペルガモンのアスクレピオスの名前で誓いを立てるほどアスクレピオスは有名でした。 特にアスクレピオスは病気を治す癒しの神でした世界各地のお金持ちたちが苦痛や病気を治すために、ペルガモンに押し寄せてきました。 そのため、多くの富を蓄積することができたのです。

ペルガモンは小アジア地域の行政的な首都でした。 このことは、小アジア地方のガイサの敬拝の中心地がペルガモンであったことを示しています。 ローマが世界を征服し、世界の支配者になった時、多様な民族と文化を統一させることが最も難しかったことでしょう。 同じ民族、同じ文化でも地方ごとに差があることからして、ローマが治める世界を一つに統一させるのは並大抵のことではないでしょう。 ローマでは、ローマの精神はローマ皇帝を通じて具現化できると信じ、皇帝のための神殿を建てました。 ガイサ、ローマの皇帝の崇拝が統一の原理に基づいているので、ローマの市民なら年に一度は皇帝の神殿に行き、ガイサを神としてに拝み、「ガイサは主」と言わせる法を制定したのです。 そして、この儀式に参加した人には証明書が交付されました。 この儀式は宗教的な礼拝ではなく、政治的なもので忠誠心を表す行為でした。 そしてローマは、皇帝崇拝だけをするように強要したのではなく、「ガイサは私の主」と告白すれば、公衆秩序や品位を損なわない範囲の内で、自分の願う神に敬拝することができるようにしたのです。 クリスチャンには「ガイサは私の主」と言えませんでした。 なぜなら、クリスチャンには主という存在はイエスしかいないからです。 クリスチャンが「ガイサは私の主」と告白しなかったことをもって、クリスチャンは不忠で、革命を起こす人と見なして公民権を剥奪し、不法な人と見なしたのです。 このようなガイサの敬拝の中心地が、ペルガモンでした。 

12節 ペルガモンにある教会の天使に、こう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる。

ペルガモン教会に向かってくださったイエスの第一声が「『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる」とおっしゃっています。 ペルガモン教会に現れたイエスの姿が鋭い両刃の剣を持っている方です。 東洋の剣は片方にだけ刃がついています。 ところが、ローマは両側に刃が研ぎ澄まされた剣を作りました。 これはとても攻撃的な面を浮き彫りにした表現です。 イエスは非常に攻撃的な姿を見せていますが、それでは誰に向かって攻撃的な姿を見せていますか? 第13節から第16節まで読みながら、その対象を見ていきましょう。

13節 「私は、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたは私の名をしっかり保ち、私の忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、私に対する信仰を棄てなかった。

13節で私たちの目を引く単語はサタンの王座です。 イエスは、ペルガモンがサタンの王座があると語られていました。 サタンの王座とは、様々な神殿のことの話しているし、特別にガイサを神として崇める神殿のことを語られています。 これを今日に限っていえば、イエスに仕える敵対な勢力だけを指すのではなく、キリストを2番目に認めよという勢力までだと言えます。 クリスチャンにとって最も恐ろしい敵は、イエスを信じるからといって一方的に迫害する人々ではありません。 世の中の原理を優先順位に従いながら、クリスチャンのように格好つけて生きろというのが一番怖い敵です。 先ほど申し上げたように、ペルカモンはローマが支配する全地域を一つに統一させるガイサ、皇帝崇拝の神殿がある場所でした。 ローマの皇帝の神殿で「ガイサは私の主」と告白しさえすれば他のどの神に仕えても問題になりませんでした。 今日キリスト教に向かって要求するのもこれです。 世の中の価値観が優先だということを認め、その上で自分で聖書通りに生きればいいということです 皆さんは何をもってイエス·キリストだけが主であることを示すことができますか。 イエス·キリストを告白し、イエス·キリストに支配されることです。 ところが、これは私たちの目にはっきりと映っていません。 私は、主日聖守と十分一の献金が私たちの具体的な人生を通じて、主が自分の主人であることを表わしていると考えています。 「自由主義神学の影響を受けた教会や牧師たちは、『主日聖守』と『十分一の献金』は根本主義的な発想だと言いながら、『必ず主日ではない別の日に礼拝をすればいいし』、『十分一の献金』は教会のお腹を肥やすことだと非難します。 この言葉が間違っているのは、教会が主日聖守をしない、十分一の献金をしないと聖徒たちを懲戒することができる社会的な措置はありません。 もちろん、聖徒たちを怖がらせなければ神様から罰を受けると言いながら聖徒たちを怖がらせながら行う場合は福音的ではありません。 律法主義的な発生です。 聖徒一人一人が神様との関係で神様が私の人生の主人であることを告白しながら主日聖守をさせて、神様が私に働けるようにして収入があったということを告白して十分一の献金を捧げる人になるようにしなければなりません。 自分自身が神様の御前で決断して行動することです。 スケズルを組む時、主日聖守をいつも念頭に置いて組まなければなりません。 私が苦労した物質を使う前に神様が私に許してくれたことを告白しながら十分一の献金を捧げるのが望ましい姿です。

ペルガモン教会のアンティパスという聖徒がありました。 しかし、アンティパスという人がどんな人だったのか、どんな仕事をしていた人だったのか記されていません。 ただし、殺されても、キリストだけを主に告白し、信仰を守った者であるという主の証言しか残っていません。 この話から推定できるのは、アンティパスがガイサを「ローマの皇帝を我が主」と告白せず、「イエス·キリストだけが我が主だ」と告白して殉教されたことがわかります。 イエスはこんなアンティパスに向かって「私の忠実な証人」とおっしゃいました。 私の人生で主が主人としておられることを表すためにアンティパスのように生きる人生になって、主から私の忠実な証人と呼ばれる人生になることを祈ります

14-1514しかし、あなたに少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、淫らなことを行わせるためであった。15同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。

14節で、ペルガモン教会に対する神の叱責を目の当たりにしました。 神様の咎めは バラムの教えを奉ずる者がいることです。 

イスラエル民族が出エジプトでカナンに向かっていたとき、モアブの王であるバラクはかなりの脅威を感じました。 それでバラムに人を送ってイスラエルを呪うように頼みました。 たまにはバラム預言者といいますが、聖書はバラムを預言者と言っていません。 呪術師、または神に接する者と考えてください。 バラムがバラクの頼みを受けて行くべきかどうかを知るために祈るが、神様が臨まれてバラクに行かず、イスラエルに向かって呪いもするなと言いました。 バラムはバラクからもらったすべてを返しながらバラクの提案を断りました。 バラクは、より高い臣下を送り、より多くの財物を送り、イスラエルに向けて呪いをかけてくれと言いました。 皆さんはこの時、どのようにするのが正しい選択だと思いますか? 「前回の祈りの際、バラックに行くなと言われたので、私は今回の提案も受け入れられません」と断るのが正しいですか? それとももう一度行くべきか、行くべきでないかを祈るべきですか? 提案を断るのが正しいことです。 なぜならすでに、神様がバラックに行くなと、イスラエルに向かって呪うなとおっしゃったからです。 ところでバラムはまた祈りました。 例えば、私が嫌いな人がいます。 どうすることが神様の御心でしょうか。 「私がこの人を愛しなければならないのですか? それともこの人が失敗するようにすることが主の御心ですか?」このような祈りは無意味な祈りです。 主は主の弟子なら愛しなさいと言いました。 仇も愛するので私の弟子であることを皆さんが知っているはずだとおっしゃっていました。 愛せばいいのに、「愛すべきかどうか」こんな祈りを捧げるというのは、実は愛する気持ちがないということです。 許せないということです。 許さない件を探そうとするあがきに過ぎません。 バラムが神様の御心を知っていながら「イスラエルに呪いに行くべきですか、行くべきではありませんか」と尋ねるのは行きたい気持ちがあるからだ。 なんでバラクに行きたかったんでしょうか? イスラエルを呪うためではなく、バラクが送った物質が欲しかったからです。 バラクの財物をもらっては、イスラエルを呪わなければいいことではないですか。 しかし、神様は神様の御心を知っていながらも、自分の欲を正当化させようとするお祈りを喜びませんでした。

バラムが祈る時、神様は行きなさいと言いました。 バラムはどんなに楽しかったでしょうか。 神様の御心を知っていながらも、物質が欲しいと祈ったバラムのところに行きなさいと言ったのは、yesyesではありませんでした。 翌日ロバに乗って出発しようとしたら、ロバが急に道からそれて畑に入ってしまいます。 道に乗せるために鞭を打って、道に乗せるのでロバは行かないかと身を塀に寄せます。 足がロバと塀の間に挟まっているのだから、バラムがどれほど腹が立つでしょう。 バラムは再びロバにむちを打ちました。 ロバは行がないまま、バラムの足の前にうつぶせになりました。 腹が立ったバラムは、自分が持っている杖を持ってロバを叩きます。 しかし突然ロバが言います。 「私が何を間違ってこんなに三度も私を殴るのですか?」ロバの言葉を聞いたバラムは「いやロバが言葉を言うとは何ということだ」と驚くべきです。 ところがバラムは驚かず、むしろ「お前が僕の言うことを聞かなかったから殴ったんだ。」と答えました。 そして「もし私の手に刀があったら、お前はもう死んだんだ」と答えました。 ロバはまた話します。 「私が今までこんなに無作法にやったことがありましたか」と聞いた。 二度もロバが言うと驚きそうなのにバラムは全然驚かず「なかった」と返事をしていました。 人はいくら賢い人でも、一つのことに没頭するようになれば、判断力が鈍り、理性的ではなくなります。 動物が話をするなら何か異常を感知しなければなりません。 本当にロバが私に言っているのか、それとも私が幻聴を聞いているのか。 ロバが私にこんなことを実際に言っているとしたら何か変なことだ。私が幻聴を聞いているなら、私の精神に問題があるのだ。 などと考えるべきだったのですが、バラムは全く意識していなかったのです。

このとき、神様がバラムの目を開かさせると、エホバの天使が刀を抜いて道に立っているのを見ました。 エホバの天使の言うことが「お前はどうしてロバをこんなに三回も殴ったんだ」と言いながら「私がお前の行く手を阻むためにこう出たのにロバが私を見て畑に逃げたからお前の命を救うことができた」と言いました。 バラム「私が罪を犯してしまいました。 あなたが私を止めようと道に立ったことを知らなかったです。 あなたが喜ばなければ帰ります」と答えた。 バラムはバラクのくれた財物に目がくらみ、ロバが話すことに異常を感じませんでした。 私たちは、もしかすると自分たちが知らないうちに、何かに陥って神の御心、神の御言葉に背を向けてはいませんか? 私たちはいつも祈らなければなりません。 私たちの目を照らして主の御心を分かるようにしてください。 私たちの耳を開いて神様の御言葉に従うようにしてください。 私たちの目が開かれ、私たちの耳が開かれ、神様の御心のどおりに行う人生になることを願います。

神様の天使はバラムに行きなさいと言いながら私がお前に言い聞かせることだけしなさいと言いました。 バラムはバラク王のところへ行くことになりました。 バラク王はイスラエルの民が見える高い山に行き、イスラエルに向かって呪いをかけるように頼みました。 バラムはイスラエルに向かって祝福を祈りました。 バラック王は別の場所に移動して、またイスラエルに呪いをかけるように頼みました。 バラムは再びイスラエルを祝福しました。 これが全部で四回もあったのに、バラムはイスラエルに向かって四回も祝福を祈りました。 バラク王はどれだけ心が痛むでしょうか。偉い人だと思い、すごいお金を払って連れてきたのに、しろという呪いはせず、祝福だけを祈っているのだから。 バラムは、バラクに自分がイスラエルに向かって呪いはできませんが、イスラエルが滅びる道を教えました。 バラムは自分なりに財物をもらった対価を払ったのでした。 それは、モアブの女性たちを送り込み、イスラエルを性的に堕落させるものでした。 モアブの女性たちが自分たちの神を祭るとき、イスラエルの民を招待して一緒に食べ、神に拝みました。 モアブの神に仕えることに参加したということは、性的な堕落があったことを私たちに伝えています。 これによって伝染病が発生し、死者は24千人になると聖書は記されています。 バラムの罪は神様の御心であることを知っていながら、物質に目がくらんで神様の御心に従わなかったのです。 二番目のバラムの罪はイスラエルに偶像崇拝に参加させ、偶像崇拝の副産物である性的堕落をさせた罪です。 

15節でのバラムのように、ペルカモン教会の中にもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいると述べています。 ニコライ派については816日の礼拝時間にお話ししました。 もう一度簡単にまとめると、ニコライ派はニコライという人物の思想を支持する人々です。 ニコライは、エルサレムの初代教会に生じた問題を解決するために選ばれた7人のうちの1人と考えています。 ニコライ派の教えは、ギリシアの哲学の一つである二元論の影響で、霊は善で肉体は悪ということです。 信仰というものは、霊的なものだけを追求すればよく、肉体はどうせ悪いものですから、肉体のやりたいようにすればいいというものです。 私たちの表現からすると信仰と生を分離させることを言います。 教会ではとても信仰的な人のようですが、教会の外に出ると信じない人と変わらない人生を送ることを言います。 ニコライ派をバラムと連結させて言っているのを見ると、ニコライ派の姿がバラムのような面があることが分かります。 神の御心であることを知りながらも自分の利益のため、自分の欲のために知らないふりをして、その欲に従うことを言っています。 また他の人で神様より他のものをもっと信頼させて神様の御前で罪を犯させて堕落した生を生きることです。 私たちはこの人がこんな人生を生きているのかどうか分かりません。 しかし、自分は知っています。 このような人生を送りながらも、自分が呵責を感じることができなければ、霊的に深刻な状態にあるのです。

16節 それゆえ、悔い改めよ。さもなければ、私は直ちにあなたのところへ行って、私の口の剣で彼らと戦おう。

私たちは12節で鋭い両刃の剣を持つイエス様を見ました。 なぜイエスが鋭い両刃の剣を持っているのですか。彼らと戦うためです。 彼らは誰ですかニコライ派の人たちですか? 違います。ニコライ派の人ではなく、ペルカモン教会にいるニコライ派の教えを奉ずる者たちです。 神様は鋭い両刃の剣、教会の中にあるニコラス派の教えに従う人々と戦うと言っています。 

私がバラムの教えに従い、ニコラス派の教えに従っているということは、神と対敵して戦うというようなことです 誰も知らないうちに付いて行ったバラムの教えですが、神様は私がどうしてバラムの教えに従ったのかご存知です。 バラムの教えに従った人々に向かって、神様の鋭い両刃の剣で撃つとおっしゃっています。 神様が神の鋭い両刃の剣を持って戦うと言っていらっしゃいます。 私たちに必要なものは何でしょうか。 神様が鋭い両刃の剣で撃つ前に悔い改めるのです。 

それゆえ、悔い改めよ。さもなければ、私は直ちにあなたのところへ行って、私の口の剣で彼らと戦おう。

私たちが注目すべき「私は直ちにあなたのところへ行って」と「彼らと戦おう」です。 「私は直ちにあなたのところへ行って」は主の裁きが差し迫っているというものです。 「彼らと戦おう」というのはニコラス派の教えを奉じる者を「彼ら」とおっしゃるので、ペルカモン教会の聖徒とは別の人物として扱っているということです。

悔い改めますので、ニコライ派の教えを捨てる人生になることを願っています。悔い改めるので、バラムの教訓を捨てる人生になってください。

13節 「私は、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたは私の名をしっかり保ち、私の忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、私に対する信仰を棄てなかった。

殺される時も主を信じる信仰を裏切らない信仰の人々になり、主から忠実な証人と認められる人生になることを祈ります。

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