フランク 永井(フランク ながい、1932年3月18日 - 2008年10月27日)は日本のムード歌謡歌手である。本名は、永井 清人(ながい きよと)。宮城県志田郡松山町(現・大崎市)出身。独特の低音で多くの人を魅了し、歌謡界に大きな軌跡を残した。
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経歴
幼少時に父を亡くしたが、母が映画館経営をしていたため、不自由なく育つ。幼少時から歌手に強い憧れがあり、昭和26年ごろに東京へ出て就職していた兄を頼り上京。進駐軍のキャンプ地でのトレーラー運転手、アルバイト生活を経て、アメリカ軍のクラブ歌手として月100ドルで契約する。さまざまな「のど自慢大会」に出場し、「のど自慢荒らし」の異名をとったが、1955年(昭和30年)に日本テレビの『素人のど自慢』の年間ベストワンに選ばれたのを機に、ビクターと契約。同年9月に『恋人よ我に帰れ』でデビューした。
ジャズを得意としたがヒットに恵まれず、先輩歌手であるディック・ミネの勧めや、作曲家・吉田正との出会いを期に歌謡曲に転向した。1957年(昭和32年)の有楽町そごう(2000年に閉店)キャンペーンソングであった『有楽町で逢いましょう』が空前のヒットとなり、さらに既に発表していた『東京午前三時』『夜霧の第二国道』も相乗ヒットとなり、一躍トップスターとなる。自ら見出した松尾和子と共に歌った1959年(昭和34年)の『東京ナイト・クラブ』は、デュエットソングの定番として2000年代においても歌い継がれている。
1961年(昭和36年)には二村定一のヒット曲『君恋し』をジャズ風にカバーし大ヒット。同年の第3回日本レコード大賞を受賞、人気を不動のものとする。吉田とのコンビでも『霧子のタンゴ』、『妻を恋うる唄』などのヒットに恵まれたが、なかでも1966年(昭和41年)に『大阪ろまん』のB面収録曲として発表された『おまえに』は、昭和歌謡史に残る名曲・名唱として人気が高く、6年後の1972年(昭和47年)にはA面として再発売され、さらに5年後の1977年(昭和52年)には、新規に再録音された。2000年代において一般的に聴かれている『おまえに』は後者の録音であることが多い。
また、『君恋し』をロカビリー風およびゴーゴー風のアレンジで再録音したり、1973年(昭和48年)にはイタリアへ飛び、トランペッターのニニ・ロッソと共演、レコーディングを行った。ニニ・ロッソとは前年の第23回NHK紅白歌合戦で『君恋し』を歌唱した際に初共演している。
コンサートにおいては、趣向を凝らし、緻密に練り上げられた構成のステージングに定評があった。約5年毎に大きなリサイタルを開いたが、そのうちのいくつかは芸術祭で賞を受けたほどの語り草になっている。永井は進駐軍のクラブ歌手をしていた経験から英語に堪能であり、ステージでスタンダード・ナンバーや、『霧子のタンゴ』の英語版なども歌うことがあった。
海外公演もこなし、台湾(ここでの公演で『霧子のタンゴ』英語版を初披露したという)や韓国などでコンサートを行っている。特に1968年の韓国公演は、戦後初めての朝鮮半島における日本の流行歌手の来日公演、と半島で話題を取った。ただし当時は日本語楽曲の披露は反日感情から規制されており、当初洋楽限定でのステージングであったが、観客からの強い要望で「有楽町で逢いましょう」ほか4曲を日本語で披露し、喝采を浴びた(当局は黙認という形を取った)。
NHKで一席を披露したこともあるほどの落語好きとしても知られ、ステージのMCは落語の間を参考にし、日常で話のネタになることは常をメモにつけ、それを練り小噺に仕立て上げ披露していた。自宅の電話の保留音はファンだった8代目三笑亭可楽の出囃子にしていた。可楽は高座でも「フランク永井って人があたしを贔屓にしてくれるんですよ」と話しており、十八番の『らくだ』の屑屋の科白に「くず~うぃ。……低音の魅力だね。こりゃあ」というくすぐりを入れていた。また牧伸二も漫談で「フランク永井は低音の魅力、牧伸二は低能の魅力」というネタを披露した。他に8代目桂文楽とも交流があり、8代目柳家小三治とはゴルフ友達の間柄であった。現在も時折、小三治の口座では噺のマクラでフランクとの交流が語られる。
日本レコード大賞では大賞を1回、歌唱賞を2回、特別賞を3回受賞している。NHK紅白歌合戦の常連出場者としても知られ、1957年(昭和32年)の第8回から1982年(昭和57年)の第33回まで連続26回出場し、現役出場時は島倉千代子と並んで最多出場者の記録を持っていた。昭和50年代以後もコンスタントにヒットを出していたが、山下達郎作詞・作曲の『Woman』が話題を呼んでいた翌年の1983年(昭和58年)に紅白落選。このことは永井にとって大きなショック[1]だったと言われた。
1985年(昭和60年)10月21日、自宅にて首吊り自殺を図る。その原因は数日後に、愛人との間の子供の認知と養育費の請求を苦によるものと報道された[2]。夫人の発見が早かったこともあり、一命は取りとめたものの脳に障害が残り、会話が不自由となったほか、記憶が乏しくなるなどの後遺症を患った。
一時はリハビリ治療によって看護師と冗談が言えるほど回復し、復帰も早期に行われる見込みだったが、次第に悪化。最晩年は幼児レベルの知能状態だったとも伝えられている。四国での転地療養などさまざまな方法[3]を試みたが好転しなかった。やがて周囲も復帰を諦めていったが、恩師の吉田だけは亡くなるまで諦めず、よく永井を見舞っていた。また、吉田と話すときの永井は常人と変わらない状態で話すことができたと関係者が明かしている。
愛妻家として知られたが夫婦の間に子どもはなく、1959年に結婚以来四半世紀以上連れ添ったシズ子夫人は永井の介護問題および財産問題での親族とのトラブルによる心労から鬱病を患い、1991年3月23日に自殺未遂騒動を起こした。1992年6月21日に夫人とは離婚し、その後は実姉の美根子が面倒を見ていたが、実姉が高齢であることや金銭的問題から自宅も売却[4]し、永井は実姉とともに高級施設へ入居し、介護されていた。
2008年(平成20年)10月27日、東京の自宅で肺炎のため逝去[5]。76歳没。一般への情報公開前に、葬儀・告別式が密葬で行われた。
戒名は「永徳院道鑑慈調清居士(えいとくいんどうかんじちょうせいこじ)」。身内だけで葬儀を行ったため、古くからフランク永井を知る芸能音楽関係者が2009年2月27日、『フランク永井を偲ぶ会』を開催した[6]。
2009年3月2日に出身地である宮城県大崎市の「特別功績者」第1号に選ばれる。特別功績賞は市の名誉市民に準じた業績のあった故人が対象で、2月に創設された。また2009年10月27日には、同市の大崎市松山ふるさと歴史館において、トロフィーやレコード、愛用品などを展示するフランク永井展示室がオープンした。
エピソード
- 永井は熱烈な東京讀賣巨人軍ファンとしても知られた。1982年にテレビ番組で『東京讀賣巨人軍が優勝しなかったら丸坊主になる』と宣言し、優勝出来なかったため、丸坊主になった司会者の徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー)に、「徳ちゃん、来年(1983年)優勝すればいいんだよ。オレだって悔しかったんだから」と言って、徳光を慰めてくれた[7]という。
- ビクターのフランク永井がヒットしたので、テイチクレコードもそれに対抗して山下清泉という人物に似たような芸名をつけて新人歌手としてデビューさせ、懸命に売り出したものの、全然芽が出ず、その新人歌手は歌手を廃業してシナリオライターに転向した。その人物はジェームス三木である。
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