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さつき みどり..소개

작성자柳 덕인|작성시간12.05.01|조회수296 목록 댓글 0

さつき みどり
五月 みどり
本名 面高フサ子
生年月日 1939年10月21日(72歳)
出生地 東京都江東区
職業 歌手タレント女優
家族 小松みどり
西城正明

五月 みどり(さつき みどり、本名:面高 フサ子[1]〈旧姓:大野〉、1939年10月21日 - )は、日本の女性歌手タレント女優東京都江東区出身。東京都立深川高等学校卒業。愛称は「伊東家のお母さん」、「かまきり夫人」。

最初の夫との間に1男1女があり、プロゴルファー西川哲は長男。元歌手の水沢絵里(みずさわ えり、本名:丸山 千恵(まるやま ちえ)、1967年2月28日 - )は長女。歌手女優菊池桃子は長男の元妻。プロボウリング選手西城正明は実弟。女優の小松みどりは実妹。が4人いる。母方のはとこの娘にタレントの山本理恵(やまもと りえ、1985年1月31日 - )がいる。

目次

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略歴 [編集]

父の大野房次郎は鹿児島県出身で、江戸川区平井で大野屋精肉店を経営[2]。母は山形県舟形町出身[2]。その一方で、自ら芝居小屋を持つほど芸事が好きだった。

1956年(昭和31年)、ニッポン放送『ものまねのどじまん』で優勝。 同年5月に五月みどりの芸名で初ステージを踏む。

1958年(昭和33年)11月、「お座敷ロック」でレコードデビュー。1961年(昭和36年)5月、「おひまなら来てね」発売。それまでの歌手にはなかったチャーミングな美貌とともに、きれいな「ちりめんビブラート」を生かしたこの歌は大ヒットとなる。翌1962年(昭和37年)にはNHK紅白歌合戦第13回)に初出場。

その後も1963年(昭和38年・第14回)、1964年(昭和39年・第15回)と通算3回連続で紅白出場を果たした。ほか「一週間に十日来い」「忙しくても来てね」「明日も来てね」(来てねシリーズ)、「温泉芸者」「熱海で逢ってね」(芸者シリーズ)などのヒット曲がある。

1965年(昭和40年)に結婚して引退するも、離婚して復帰。1970年代以降はタレント、女優としての活動に重心を移す。1975年(昭和50年)には主演ポルノ映画『五月みどりのかまきり夫人の告白』が話題になった。その後、40歳を過ぎても日活ロマンポルノ作品に主演し、若々しい肉体と大胆な演技で世に衝撃を与えた。熟女ヌードのさきがけとも言える。

1976年(昭和51年)に番組がスタートした『クイズダービー』の初代2枠レギュラーとして出演。勝率は4割6分8厘(平均4勝6敗〜5勝5敗ペース)だった。レギュラー降板後も度々5枠のゲスト解答者として出演したが、出題が五月のレギュラー時より難しくなった事もあり、勝率は2割台に下がっている。又同番組最終回には、出場者(ギャンブラー席)として、初代3枠レギュラーの黒鉄ヒロシ、初代5枠レギュラーのガッツ石松とともにトリオを組んで登場した。しかし、賭け方が下手だった事もあり(大橋巨泉後任の司会者で、最終回時5枠解答者席に座った徳光和夫に何故か4回も賭けたものの、徳光の成績は8戦全敗だった)、賞金獲得額は0円となっている。

1989年(平成元年)には二科展入選。個展を開催したこともある。

近年では、ミツカン「追いがつおつゆ」のCMで、菊池桃子との共演も行っている。最近は着物のデザインやティッシュボックスの製作などでも活躍している。また、最近では日本テレビ系列で放映された『伊東家の食卓』の母親役でもお馴染みであった。2007年(平成19年)1月には、大相撲の初場所14日目に溜席で観戦しているのがテレビカメラに大きく映っていたのにもかかわらず、中継では一切触れられなかった。

結婚歴 [編集]

これまで3度結婚したが、何れも離婚している。

最初の相手は、新栄プロダクション社長(現・会長)の西川幸男。その間にプロゴルファーの西川哲を儲ける。しかし、西川の前妻との子の西川賢(歌手名:山田太郎)の存在や、価値観の違いや社長夫人という立場に耐え切れず、1971年(昭和46年)離婚した。

2番目の相手は、日本テレビディレクター(当時)だった面高昌義。面高が、五月がレギュラー出演していた『金曜10時!うわさのチャンネル!!』のディレクターだったことから恋愛に発展し、1976年(昭和51年)結婚。結婚式での馬車に乗っているシーンは、今でも面高の顔にモザイクがかかった状態でよくテレビで放送される。奇妙な夫婦として有名で、お互い浮気告白をワイドショーや雑誌で幾度か行っている。1984年(昭和59年)に離婚。離婚会見に揃って出席し、会見中5度もキスしたシーンも、今でも時折テレビで流れる。離婚の原因は面高の金銭トラブルによるもので、このために無断で五月の財産を遣い込み、アメリカにあった自宅も手放さざるを得ない状態になってしまったためという。これが無かったら別れる事は無かったと語っている。

1985年(昭和60年)に歌手の立花淳一と再々婚。3度目の結婚もさることながら、相手が20歳年下ということも手伝ってテレビや雑誌が大いに賑わった。結婚当時、女性週刊誌で『立花淳一にお風呂にいっしょに入ろうと誘われるが、恥ずかしくて裸を見せられない』と言っている。結婚会見時に「今度こそは添い遂げます」と宣言するも、2年後の1987年(昭和62年)に離婚。前回の離婚会見とは打って変わり「本当は結婚して2週間後に(立花に)女がいるってわかったんですけど、今度は3度目だし、私も後が無いと思って、何とか我慢しようと思ったんですけど…」と大号泣。その際「1年間男断ちして本業の歌手に専念する」と発言し一筆記した。この時の映像もよくテレビで流れる。ところが離婚直後に立花は五月宅から退去する引越し作業中に転倒して複雑骨折し、仕方なくその後暫く五月が彼の面倒をみていたとのことである。[3]

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