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「ある人の忘れ難き思い出の昔事 」

작성자Marcia|작성시간09.09.08|조회수105 목록 댓글 6

 

1945年度アタシ14才でした。

8月15日は朝鮮が日本から解放した感激的な日です。

 歳が歳だったので(幼かったので)大変でした。

ワア!逆らうと64年前の事ですね!Anyway,懐かしい !

 

 

 「옮긴 내용

「ある人の忘れ難き思い出の昔事 」

 

私は大邱近郷のある山に囲まれた、小さな農村で生まれた。

父は真面目で働き者であった為、僅かな耕地でも懸命に働いてくれたお陰で、

貧しくはあったが、平和で睦ましい家庭であった。

 

そんな平和が崩れたのは、同じ村に住んでいた、伯父の死であった。

父親を早く亡くし母の手一つで育ったお二人は、誰よりも仲が良く親のやうに

慕っていて、良い相談相手でもあった兄に死なれた、

父は生活の意欲をすっかり失い、「兄のいないこの村に住むのが嫌になった」

と言って仕事も手につかず、放浪の末家財を整理して、

移り住んだ処が釜山の水晶山麓にある、

 

上西公園横であった。そこは借家ではあったが住み心地のよい処で、

家の前は田口老人の小さな農園があって、景色の勝れた処で、春には色々な花が咲き、

秋の果物や紅葉の色ずく頃は景色が素晴らしかった。

 

田口老人はその昔鉄道工事の技師で京釜線複線工事に携わったと言うが、

今は引退して農園を営み、老夫婦二人細々と暮していた。

田口夫婦はお菓子や自から作った果物などをご馳走してくれて、

私をとても可愛がって下さったが、終戦間際になって、夫婦相次いて亡くなり、

満鉄にいた息子が葬式をすませ、遺骨を納る為故郷の鹿児島に帰ったきり、

再び戻っては来なかった。家の裏側には秋吉家があって、

奥さんが長患いで寝込んでいる為、嫁いた市子姉さんが赤子をつれて里帰りし、

家事を仕切っていた。私は秋吉家とはあまり交わりは無かったが、

市子姉さんとは親しかった。姉さんは美しい人であったが、

いつも顔には翳りをもち、寂しい影を宿していた。

 

私が話し相手になってやるのをとても悦んだり、月の明るい晩など庭に出ては、

悲しい音調の歌などをよく唄っていた。この家の次女である雪子という娘が、

大変なお転婆でいつも村の子供だちと喧嘩をしては、村を騒がしていた。

その為秋吉さんは、村の人達とは仲が悪く、終戦後は夜逃げをするやうに、

忽然と居なくなってしまった。私の家の左側には吉田家があって、

六十を越した爺さんが、息子は徴兵にとられて、北満に居り、

女学校に通う娘と二人広い屋敷にひっそりと住んでいた。

 

吉田父娘は私にはとても親切にしてくれで、家族のやうに扱い屋敷には

自由に出入りを許され、爺さんの庭いじりの手伝いや、話相手等をしていた。

この家には、広い書斎があって、三方の壁に天井まで書棚が設らえて居り、

ぎっしりと本が積まれていた。私は暇さえあればこの書斎の本を読み耽った

 

そんな時伊佐子姉さんはお菓子を出してくれたり、本を探して奨めてくれたりした。

小学校四年から終戦まで続いたその時期が私には一番楽しい時期でもあった。

そんな中戦況はますます険悪になり、サイパン島陥落、米軍の沖縄上陸、

本土空襲など、敗戦へと突き進んでいた。 

そして遂に1945年8月6日に広島、13日には長崎に原子爆弾が投下され、

15日に無条件降伏の天皇の玉音放送があった。

 

その日吉田邸で爺さんと姉さんと私は、吉田邸のラヂオでその放送を聞いた。

放送を聞き終わった爺さんは天井を見上げて吐息をついで居り、

姉さんは目に涙をいっぱい溜めで俯いていた、私はただおろおろしているばかりだった。

その日は韓国では仲秋節といって祝日でもあり、日本の圧政から解放された喜びも重なって、

町では万歳を叫びながら人たちが溢れでて、歓喜していた。

その喜びが日本人に対する憎しみに代わり暴行事件がいたる処で起きて、

町中が殺伐な雰囲気で夜などは、出歩くこともできなかった。

 

吉田父娘は奥の間にどじ籠もり息を殺して、その日その日を送っていた。

しばらくすると、治安隊が組織され、1.日本人又は日本人が住む家の回りに近かずく者、

2.日本人の家屋や財産を買収する者は厳罰に処すとの布告を発令し、

腕に赤い腕章をつけだ人達が見張っていた。吉田の爺さんは、

「君も危ないから家の方には近よらぬがよい」と言われ、

父娘に近ずく事も許されなくなった。それから一カ月ぐらいして、

北釜山警察署の課長という人が現れて、父娘を離れの四畳半に追い出し、

屋敷を占領してしまった。その四畳半の部屋は私の家の真向かいに当たって、

遠くからでも顔を見合わせる事ができた。私は飽かずにその部屋の方を眺めたりした。

社会は右翼左翼の政治団体が競り合って、自己の主張と勢力拡張に血眼になって、

致る処で騒動が起きていた。私は左翼系の巧みな煽動に煽られ、

恰も薔薇色の夢が忽ち実現するかのやうに思い、大人の後ろについで回り

一週間も二週間も家に帰らぬ日が、珍しくなかった。そんなある日

久しぶりに家に帰ってみると、吉田家の四畳半の部屋に灯りが消えて

ひっそりとしていた。驚いて隣人に尋ねてみると引揚げ船を乗りに

埠頭にむかったのが2.3日前だという。

 

目眩がするほどがっかりしたが、どうする事も出来ず、

只御無事に帰国なされることを祈るばかりであった。彼らが一番辛いときに

力になってやり、慰めてやれなかった、自分の腑甲斐なさが、

胸を掻きむしりたい程、悔やまれてならなかった。

最近昔思いでのその村に寄ってみた事がある。昔の俤は跡形もなく、

山腹道路の下になっていて、田口家はお寺になっており、

秋吉家は壊されて新しく家が建っていた、吉田邸はそこに残っていたが、

廃屋のやうに朽ちかけでいた。それでもあの四畳半の部屋はその侭だった。

私はしばらく昔を偲んでそこに佇んでその部屋を眺めていた、

すると障子がしずかに開き、伊佐子姉さんが目に涙をいっぱい溜めて恨めしそうに、

私を睨んでいる幻覚を見て思わず呟いていた。

姉さん申し訳ありません、ゆるしで下さい」

                                                                                      

/單語,讀み方/  .

 

たたずんで,

おもかげ

朽(く)ちかけでいた

腑甲斐ふがい

巧(たく)みな

煽動せんどうに煽あおられ、

り合って

しつらえて

よろこんだり

かげりをもち

たずさわったと

むつまじい

 

     참고하세요                         

 たたずんで,우두커니서서

おもかげは/

面影/모습이나 모양

朽(く)ちかけでいた   ?

腑甲斐ふがい/

ふがいない/칠칠치 못하다.

巧(たく)み/기교,정교함,

巧む/여러가지로 궁리함

煽動せんどうに煽あおられ、선동을 부추김을 당해

り合って/(서로지지않으려고 )경쟁하다

しつらえて/=準備する、用意する

よろこんだり=喜び・/기쁨,즐거움

かげりを=かげりを/ 그늘, 얻두운 느낌

たずさわったと/지니다,휴대하다

むつまじい/ 화목하다

 

 
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댓글

댓글 리스트
  • 답댓글 작성자Marcia 작성자 본인 여부 작성자 | 작성시간 09.09.08 대감님,그간 안녕하신지요? 덕분에,,,,, 흐흐흐 많이 ,,,再见!
  • 작성자안셀모 | 작성시간 09.09.08 ある人の忘れ難き思い出。。。 ここで"ある人"がMarciaさんなら、ご自分の伝記と言えるでしょう。 年を取るでつれて、いろんな忘れ難い思い出が頭の中に蘇るんだそうです。若い時よりもっと頻繁に。。。 自分の考えた事を日本語で纏めて表現するのも日本語の勉強にもなると思います。 これからも期待します。
  • 작성자안셀모 | 작성시간 09.09.08 参考になるサイトをご紹介します。 日本の毎日新聞"女の気持ち男の気持ち"と言う欄で、男女いろんな人の感じた事や悩み事などがあるから 暇潰しに読んで見るのもいいでしょう。 https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/weblog_feeling104/
  • 답댓글 작성자Marcia 작성자 본인 여부 작성자 | 작성시간 09.09.08 안셀모さん,그렀읍니다. 아주 모르지 않는것이니 자꾸자꾸 갈고 닦아 성취감을,,,,시간도 여유롭고요,좋은 サイトご紹介してもらってとても 有難う御座います。よろしく、、、、
  • 작성자삿갓 | 작성시간 09.09.09 혹시 실화를 바탕으로 쓰신 글 같아요...인간관계라는 것이 참으로 따뜻할때도 있지요...좋은일,나쁜일 .분노할일,기억하고 싶은 추억 등등,,,과거는 잊으면 안되지만 미래도 중요하죠 선린우호라는 단어가 생각납니다...좋은글 잘 읽었습니다 일본어로 올려야하는데 삼실이라 간단히 적습니다..담에도 좋은글 기대합니다...하오 칸~~~~
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