本当に正しく知りましょう。聖書と新天地
この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。
また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため
「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」と仰せられた
イエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたものです。
聖書の預言と成就と私の信仰
本文:マタ7:15-27
神様は、アブラハムとの約束は、モーセの時、成し遂げられ、旧約の預言者たちとの約束は、イエス様の初臨の時、全て成し遂げられた。このように、新約聖書に約束した事も成し遂げられて(90%)いる。
モーセの時も、約束した事を成し遂げられた事があり、イエス様の初臨の時も、約束した事を成し遂げられた事があった。このように、新約でも約束した事(啓示録)を成し遂げられた事がある。
私たち聖徒が信じる事は、約束である。イエス様は、その事の起こる前に預言したのは、それが起こった時に、見て信じるためだと言われた(ヨハ14:29)。イエス様が血で約束された新しい契約(啓示録)も、成し遂げられる時、信じるためであった。この新しい契約、啓示録は、加減してはならないと言われた。これをわかりも、信じも、守りもしないならば、天国に入れず、この約束の意味と実体を他のものに変えて教えたり、間違って知っているならば、罪の中でも罪になり、これは悪魔の神の偽りの教理であり、悪魔の種を蒔く事である。だからこそ、自分自身が聞いて学んだ事について点検をしなければならない。何の心配もなく暮らしていて、地獄に行って後悔しても意味がない。
悪魔の種、偽りの言葉を教えた偽りの牧者は、聖徒が真理を知るのではないかと恐れて、真理を聞かせないように防ぐ者である。収穫の刈り手を来させないように防ぐ事は、イエス様と御使いを来させないように防ぐ事であり、啓示録を学ばせないようにする理由は、自分の偽りのあかしがばれるのではないかと思うからである。収穫する事も、収穫されて行く事もできないようにして、収穫の刈り手も来させないようにする事は、神様の御心なのか、悪魔の意志なのか?ダニエル書12章4節に、「聖徒が知識を増そうと探り回ろう。」と言われた。なぜ、防ぐのか?
時代ごとに言う、「異端、異端」という話はやめて、大衆の前で聖書を基準として公開討論及び試験をして、まことと偽りの牧者を区分するのが正しいと思う。自信があれば、公開試験の提案に応じるだろう。